オンエアのお知らせです。
11月2日(水)21時より
『相棒 Season10』 テレビ朝日系
第3話「晩夏」の脚本を担当しました。
三田佳子さんが美貌の女流歌人を演じて下さっています。
是非、ご覧下さい。
余談のツボ。
右京さんと枝豆。
10月2日、ボクシングの聖地ラスベガスのMGMグランドで、現在6連続防衛中のWBC世界スーパー・バンタム級チャンピオン西岡利晃選手(帝拳)が7度目の防衛戦を行った。挑戦者は、あの元2階級制覇チャンピオンのラファエル・マルケス選手(ファン・マヌエル・マルケス選手の弟!)だ。日本ボクシング史上初めて、あのボクシングの聖地・ラスベガスのMGMグランド、マイク・タイソンも戦ったあのリングに初めて日本人のボクサーが立ったのだ。しかもメインイベントの防衛チャンピオンとして。
二十年あまりボクシングを見てきて、こんな日が来るとは……。本当に待ちに待った夢のような一戦。
告知があって以来、数ヶ月、カレンダーに丸をつけて待ちに待っていた試合だ。
この完全アウェーのタイトルマッチは、西岡選手にとって聖地ラスベガスでのデビュー戦でもあった。
当然、アメリカでは挑戦者メキシカンのラファエル・マルケス選手の方が知名度が高い。
しのごのいわずに結果を言おう。
この試合で、西岡選手はなんと3対0審査員全員一致の判定でタイトルを防衛した。
MCのジミー・レノンが「Still!」(「New」なら挑戦者の勝利)とコールした瞬間の歓喜は日本中のボクシングファンが待ちに待っていたものだと思う。
興奮さめやらず……。
祝・西岡選手勝利!
仕事が一段落した時、無性に包丁を研ぎたくなることがある。忙しさにまぎれて鈍っていた包丁の切れ味が手の中で戻ってくるのは、新鮮な五感がよみがえるようで不思議にすがすがしい。研がれているのは包丁だが、研いでいる自分自身が回復していくような感覚がある。
いざ研ぐとなると料理のように音楽を聴きながらとはいかない。刃物を扱うというだけでいつになく緊張もある。夕食の支度や後片付けでひとしきり賑わった後の台所に立ち、砥石に水を含ませ、ゆっくり研ぎはじめる。規則正しく前後に刃を動かし、砥石をこするザラッとした感触を指先に感じながら黙って研ぐ。そのうち知らず知らず没頭している。草をむしっていると「草をむしっているだけになっていく」と書いたのは八木重吉だったが、刃物を研いでいる時も、いつのまにか自分が消え、研ぐという行為だけになっている。それがなんとも心地よい。
ところで、刃物を研ぐ姿といえば月岡芳年の無惨絵『奥州安達がはらひとつ家の図』を思い出す方も多いにちがいない。梁から逆さに吊られた半裸体の妊婦の傍らで、あばら骨の浮き出た老婆が腹を裂かんと刃物を研ぐ。その姿は後に起こるはずの惨劇そのものよりも、むしろ惨劇をもたらす人の狂気のありようを直截に描いて強烈な印象を残す。当時は特異な画題ゆえに『血まみれ芳年』と揶揄された月岡芳年だったが、血の一滴も描かずして観る者を震撼させるこの一作には画家としての慧眼が歴然とあらわれている。
安達ヶ原の狂女はさておいても、考えてみれば狂気とは我を失った果ての境地だ。となると、刃物を研ぐという無心の行為も、すがすがしい心地よさの裏側に思わぬ一面を持っているように思えてくる。刃物を研ぐ時のあの没入や忘我は案外そのまま狂気へと至る道になるやもしれず、何かの拍子でふと精神の天秤が負の方へと傾けば、「我」が空っぽになったところにするすると「魔」が忍び込まぬとも限らない。なにせモノは刃物だ。あながち芳年の毒にあてられての妄想ともいえない気がする。一日の終わりに訪れる夕暮れの一刻を逢魔が時と呼ぶように、魔の入り口は意外に刃物研ぎのごとき日常と地続きのところにあるのかもしれない。
テレビに話しかけても無駄である。
そんなことは知っていた。
しかし、テレビに向かって叫ぶ、のけぞる、垂直跳びする。
最後のPK戦では、家人に「落ち着け!」と言われるも、テレビの前を右へ左へ。
とても座ってなんか見ていられない。
あの圧倒的な体格差の中、なんと粘り強い戦い。
おめでとう!
祝!なでしこジャパン!
しばらく前の雨上がりの宵、郊外の小さな川べりでホタルを見た。
足もとを照らすわずかな灯りだけを目印に薄闇の小径を歩くと、水辺の草むらや低木の葉叢の中に淡い緑の光が明滅している。雨を含んだひんやりした大気につつまれ、しばし見入る。やわらかな光は浮遊し、上昇し、ひっそりと消え去り、やがてまた幻のように光を放ちはじめる。
数十年ぶりに目の前に見るホタルの光のうすい緑のはかなさはあまりに思いがけなかった。掌をすりぬけそうなほどに幽かで不確かで捕らえどころがなく、まるで消えるためにだけ生まれてきたように淡い。遠い記憶の中にある、幼い頃見たホタルの光はどれほど健やかに捏造されていたのかと驚かされる。
昏ければ揺り炎えたたす螢籠 橋本多佳子
先日、ピーター・フォーク氏の訃報が届いた。
なんといっても『刑事コロンボ』というかけがえのない存在を残してくれた。
ホームズやポアロは多くの人が演じ、この先も多くの人が演じるだろうが、コロンボは永遠にこの人以外の誰でもありえない。幼い頃にテレビの前に釘付けになった『刑事コロンボ』は自分にとってのミステリの原点となり、ヒーロー像の原点となった。
後年、何度も見直し、どれほど豪華な俳優陣に囲まれ、どれほど傑出したスタッフワークによって成り立っていたかを知っても、悪戯っぽい知性とイノセントで繊細な表情にあふれたピーター・フォーク氏がシリーズの何よりの魅力だった。『二枚のドガの絵』、『溶ける糸』、『ロンドンの傘』、『美食の報酬』、『黄金のバックル』、『秒読みの殺人』、『別れのワイン』、『殺しの序曲』、『黒のエチュード』、『権力の墓穴』など好きな作品ばかりであげればきりがない。
盟友・カサヴェテス監督の『こわれゆく女』、アルドリッチ監督の遺作『カリフォルニア・ドールズ』の中のピーター・フォーク氏も素晴らしかった。若い頃、『ポケット一杯の幸福』で演じたチンピラギャングも瑞々しかった。
ヴェンダース監督の『ベルリン天使の詩』では、「テレビで刑事コロンボを演じている俳優で、実は地上に降りてきた天使」という役柄を演じ、ヴェンダースはこのピーター・フォークを撮りたいがために映画を作ったのではと思わせるほどに天使そのものとしてフィルムの中に存在していた。
チャーミングという形容がこれほどふさわしい俳優もめったにいないだろうと思う。
心からご冥福をお祈りいたします。
五月並みという陽気の毎日が続き、東京の桜は早くも終わりを迎えている。しばらく前、満開の桜を見上げていた時、眺める花には常に終わりの予感がつきまとっていたが、その予感の切ないような苦しいような気分だけをこちらの身の内に残して、桜はあっけないほどの明るさで初夏の姿へと変わっていく。木々は若々しい緑の葉を茂らせはじめ、たくましく健やかだ。辺りの風景も昨日までのおぼろでなまめかしい空気を払拭し、くっきりと日常の輪郭を取り戻していく。
だから、というべきだろうか。若やいだ美しい新緑の桜の下を通り過ぎる時も、脳裏にあるのは眼前のつややかな緑ではなく、もはや失われた季節の、あっというまに消え去っていった白い桜の面影だ。それはたとえば、柔らかな午後の光に花のこぼれるような大樹であったり、あるいは春の夜の暗く冷たい大気に包まれ、総身を白く発光させる桜木であったり。 桜は、ついに想念の桜となって残る。
鬼も花もまさ眼に見えねばめつむりて眼の奥の闇しかと見つむる 河野裕子
昨年まだ六十四歳で惜しくも亡くなられた歌人・河野裕子さんの歌で、歌集『桜森』に収められている。「まさめ」は正目と記し、辞書には「じかに正しく見る目、眼前の意」とある。まのあたりにある実体をとらえる目と解せばよいだろうか。とすれば、この一首は実景として現前する桜を詠んだものというより、桜花を鬼に重ね、視覚をこえてその奥深く想念に棲みつくこの世ならぬ「モノ」ととらえた趣き。歌人ならではの幻視に、ひとかたではない凄味がある。歌集『桜森』にはこの歌を含めて、憑かれたように桜を詠んだ連作がある。
わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪ゐる見ゆ
抱かれし刹那かすめし一房は流灯のごときさくらなりにき
しんしんと頭の底にも陽は差してそこも桜の無惨の白さ
歌の中で、桜はあるとき「我」であり、「男」であり、「鬼」である。河野さんは依り代のごとく桜や男や鬼と交感し、現身のからだを生きながら、なおこの世とあの世のあわいを往き来して歌を詠んでいるかのようだ。
連日報道されている被災地の状況に言葉もない。
亡くなられた方々に心からの哀悼を。
被災され、大きな悲しみの中で不自由な避難生活をされている方々が、
どうか一日も早く穏やかな生活に戻れますように。
多くの人が少しでも力になりたいと動き出している。
誰もがそれぞれの場所で、出来ることがある。
大上段に構えなくとも、節電をして買いだめを控える、それだけでも十分に役に立つ。
被災地の外の人間がパニックを起こせば、そのしわ寄せは被災地にいくからだ。
そう解っていても、放射能の影響が野菜、原乳から水へと広がれば、私もそうだが
専門家でもなければ仙人でもない人間は不安を感じる。
ことに幼いお子さんのいる家庭ではいっそう不安が大きいと思う。
正しい知識と情報があれば、少しは日々の不安を軽減できるのではないかと思う。
いくつか記事を見つけたので、参考になれば。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1710889.html
八代嘉美医学博士の記事。
放射線と人体に関して基礎的な事をとても解りやすく説明してくれている。
ニュースで『ただちに影響のないレベル』というお題目が繰り返される理由がよく解る。
同じく八代博士の前稿のマスコミ報道に対する論評も大変、示唆に富んでいる。(記事内にリンク有)
http://twitter.com/team_nakagawa
東大病院放射線治療チームのツィッターアカウント。
こちらはフォロワーが14万を超え、すでに多くの方がご存知かと思う。
北海道東北地方の都道府県別放射線量(福島を除く)のグラフ(3月15日~22日)
関東地方の都道府県別放射線量のグラフ(3月15日~22日)
先日、野田地図の公演『南へ』を観た。
舞台は「無事山(ブジサン)」と呼ばれる火山の火口近くにある観測所。そこに二人の人物が現れ、物語が始まる。一人は火口に身投げしようとした虚言癖の若い女・あまね(蒼井優さん)、もう一人は新しく赴任してきた「南のり平」と名乗る青年(妻夫木聡さん)である。二人の登場とともに一帯で噴火の予兆のような地震が頻発。折も折、この火山に天皇の行幸ありとの噂が流れ、その先触れらしき人物も登場し……。
野田さんらしい複雑な構成の芝居で、現代の火山観測所を中心に、富士の噴火した三百年前、第二次大戦下と複数の時間を行き来する。しかも物語には幾多のモチーフが詰め込まれ、混沌としている。歴史と記憶、情報とメディア、天皇制と共同体、嘘と祈り、朝鮮半島と日本、死者と生者……。現実と虚構が重層化する濃密な時間の中で、とてつもない場所に連れて行かれる。
印象に残ったのは、妻夫木さん演じる青年の「名前」をめぐる展開だ。劇の冒頭「南のり平」として現れた彼は、やがてそれが自分の本当の名ではないことに気づくのだが、それでは自分はいったい何者なのか、それが彼にはとんとわからない。自分はどこから来て、どこへ行くのか。何ひとつ思い出せないまま、彼はついに自分を「日本人」と名乗ることになる。主人公が個の証しである「名前」と、自分の過去=記憶を失った果てに、「日本人」と呼ばれる者でしかなくなっていく、という作劇が妙にザワッとした感触で胸に残った。
『南へ』という劇の世界は、「南のり平」の名前と記憶の喪失を、蒼井さん演じるあまねという女が嘘で埋めようとすることで大きく転回する。あまねは「日本人」の空白の記憶を埋めるべく次から次に嘘を重ねる。メディアに求められれば、そのたびに嘘を嘘で塗りかえ、虚言を語り=騙り続ける。あまねの壮大な虚言の中に、次第に「日本人」の記憶の深層があらわになり、忘れられつつある過去、目をそらしてきた歴史が立ち上がってくる時、舞台はクライマックスを迎える。
観終わった後、以前に観た別役実さんの『山猫理髪店』の舞台を思い出した。朝鮮半島から強制連行され、北海道の炭鉱で働かされた人物が暴動を起こして脱走、その後、日本の敗戦を知らぬまま十数年かけて南下し、海峡を望む町で発見されたという事実をもとに、別役さんが書かれた戯曲だ。
劇中、電柱の高い所にあるスピーカーから突如、「声」が流れてくる場面があった。半島の男のものと思しき「声」は、戦争のあった「あの過去」を忘れかけた私たちに無表情に呼びかける。「おい、ニッポンジン。おい、ニッポンジン」 歴史をのがれて存在できない以上、私たちはまず「日本人」として認識されるのだという事実を生々しく突きつけられ、慄然としたのを覚えている。
劇場からの帰り道、10年以上を隔てて演じられた二つの舞台の「日本人」という呼び名と「南へ」という言葉が重なり、いろいろなことを考える。そしてもうひとつ。『山猫理髪店』は、初演時に理髪店の親方を演じた「三木のり平」さんに当てて書かれたものだったことを思い出す。いくつもの符合に、描く世界も手ざわりも全く異なる二つの舞台がまだ頭の中で響き合っている。
しばらく前のこと。『クーザ』を観に行った。シルク・ドゥ・ソレイユの新しいサーカス作品が観られるのは貴重な体験だ。薄曇りの夕方、原宿駅から歩いて不思議なテントが見えてくると、もう心が躍る。
『クーザ』のステージは、一人の少年のもとに大きな箱が届けられる場面から始まる。箱の中からは不思議な男が登場。男が魔法の杖をひと振りするや、たちまち辺りは異世界へと変貌し、異人たちが現れ、パフォーマンスが始まるという趣向だ。これまでのシルク作品に比べれば、素朴なオープニングだが、実際の見せ方は考え抜かれており、舞台装置として何層にもしつらえられたカーテンがひとつ、またひとつと開いていくうち、知らず知らず観客が異界に引き込まれるよう演出されている。シンプルだが丁寧、さすがの導入だ。
サーカスの原点回帰をめざしたという『クーザ』は、奇をてらわないアクロバットと道化役クラウン達のコミカルなアクトを中心にしたストレートなサーカスだ。自転車の綱渡りや椅子を組み上げての曲芸など、細部にシルクらしい演出をほどこしながらも、かつてのサーカス芸を彷彿させる演目が多かった。もちろん贅を尽くした衣装や照明はかつてのサーカスより遙かに豪華だが、それでもどこかに「一座のサーカス」のような懐かしい匂いが感じられる。巧みに日本語を操るクラウンたちの大活躍もそれに大いに貢献しており、冬の夕暮れにふさわしい温かいプログラムだった。
終わってテントの外に出ると、久しぶりの雨。急ぎ足になりながら振り返ると、夜空の下、冬木立の向こうにクーザのテントにはまだ灯が点っていた。