五月並みという陽気の毎日が続き、東京の桜は早くも終わりを迎えている。しばらく前、満開の桜を見上げていた時、眺める花には常に終わりの予感がつきまとっていたが、その予感の切ないような苦しいような気分だけをこちらの身の内に残して、桜はあっけないほどの明るさで初夏の姿へと変わっていく。木々は若々しい緑の葉を茂らせはじめ、たくましく健やかだ。辺りの風景も昨日までのおぼろでなまめかしい空気を払拭し、くっきりと日常の輪郭を取り戻していく。
だから、というべきだろうか。若やいだ美しい新緑の桜の下を通り過ぎる時も、脳裏にあるのは眼前のつややかな緑ではなく、もはや失われた季節の、あっというまに消え去っていった白い桜の面影だ。それはたとえば、柔らかな午後の光に花のこぼれるような大樹であったり、あるいは春の夜の暗く冷たい大気に包まれ、総身を白く発光させる桜木であったり。 桜は、ついに想念の桜となって残る。
鬼も花もまさ眼に見えねばめつむりて眼の奥の闇しかと見つむる 河野裕子
昨年まだ六十四歳で惜しくも亡くなられた歌人・河野裕子さんの歌で、歌集『桜森』に収められている。「まさめ」は正目と記し、辞書には「じかに正しく見る目、眼前の意」とある。まのあたりにある実体をとらえる目と解せばよいだろうか。とすれば、この一首は実景として現前する桜を詠んだものというより、桜花を鬼に重ね、視覚をこえてその奥深く想念に棲みつくこの世ならぬ「モノ」ととらえた趣き。歌人ならではの幻視に、ひとかたではない凄味がある。歌集『桜森』にはこの歌を含めて、憑かれたように桜を詠んだ連作がある。
わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪ゐる見ゆ
抱かれし刹那かすめし一房は流灯のごときさくらなりにき
しんしんと頭の底にも陽は差してそこも桜の無惨の白さ
歌の中で、桜はあるとき「我」であり、「男」であり、「鬼」である。河野さんは依り代のごとく桜や男や鬼と交感し、現身のからだを生きながら、なおこの世とあの世のあわいを往き来して歌を詠んでいるかのようだ。