仕事が一段落した時、無性に包丁を研ぎたくなることがある。忙しさにまぎれて鈍っていた包丁の切れ味が手の中で戻ってくるのは、新鮮な五感がよみがえるようで不思議にすがすがしい。研がれているのは包丁だが、研いでいる自分自身が回復していくような感覚がある。
いざ研ぐとなると料理のように音楽を聴きながらとはいかない。刃物を扱うというだけでいつになく緊張もある。夕食の支度や後片付けでひとしきり賑わった後の台所に立ち、砥石に水を含ませ、ゆっくり研ぎはじめる。規則正しく前後に刃を動かし、砥石をこするザラッとした感触を指先に感じながら黙って研ぐ。そのうち知らず知らず没頭している。草をむしっていると「草をむしっているだけになっていく」と書いたのは八木重吉だったが、刃物を研いでいる時も、いつのまにか自分が消え、研ぐという行為だけになっている。それがなんとも心地よい。
ところで、刃物を研ぐ姿といえば月岡芳年の無惨絵『奥州安達がはらひとつ家の図』を思い出す方も多いにちがいない。梁から逆さに吊られた半裸体の妊婦の傍らで、あばら骨の浮き出た老婆が腹を裂かんと刃物を研ぐ。その姿は後に起こるはずの惨劇そのものよりも、むしろ惨劇をもたらす人の狂気のありようを直截に描いて強烈な印象を残す。当時は特異な画題ゆえに『血まみれ芳年』と揶揄された月岡芳年だったが、血の一滴も描かずして観る者を震撼させるこの一作には画家としての慧眼が歴然とあらわれている。
安達ヶ原の狂女はさておいても、考えてみれば狂気とは我を失った果ての境地だ。となると、刃物を研ぐという無心の行為も、すがすがしい心地よさの裏側に思わぬ一面を持っているように思えてくる。刃物を研ぐ時のあの没入や忘我は案外そのまま狂気へと至る道になるやもしれず、何かの拍子でふと精神の天秤が負の方へと傾けば、「我」が空っぽになったところにするすると「魔」が忍び込まぬとも限らない。なにせモノは刃物だ。あながち芳年の毒にあてられての妄想ともいえない気がする。一日の終わりに訪れる夕暮れの一刻を逢魔が時と呼ぶように、魔の入り口は意外に刃物研ぎのごとき日常と地続きのところにあるのかもしれない。