ご縁でしか出会えないもの
最近、人とのご縁の大切さを感じることが多い。
今日も一つの素晴らしいご縁に出会うことが出来た。実は私は今日まで友人の招待で山中湖にいた。その帰り道、友人が、私を一軒の農家に誘ってくれた。そこは、トウモロコシを中心として約10種類程度の作物が植えつけられていた。
友人の父親が私を農家の方に紹介してくださると、お土産に数本のトウモロコシを下さった。そのトウモロコシは非常に糖度が高く、一般向けにはあまり流通していない物なのだという。友人の父親もこのトウモロコシを毎年、暑中見舞いとして送っているという。
早速、家に帰り、そのトウモロコシを家族で食べてみた。前評判どおり、その糖度には驚かされ、今まで食べてきたトウモロコシは一体何だったのだろうと思ってしまうくらいであった。一方で、こんなにおいしいトウモロコシが一般に流通しないことはもったいないとも感じた。
今回、私は友人のご縁あって、このトウモロコシに出会うことが出来た。これは、このトウモロコシに限った話ではないようにも思う。
例えば、格闘技のロイヤルリングサイド席やメジャーリーグの最前列席には著名人の姿をよく見る。きっとそれらのチケットを買おうとすれば、事前予約をした上に十数万円というチケット代を払わなければいけないだろう。しかし、私には彼らがチケットを買っているようには思えないのである。おそらく、彼らはご縁あって、それらの席に招待をされているのではないか。
結局、世の中にはきっと、お金以外の部分で動いていることが沢山あるように思う。一生懸命稼いだお金で高いシートに座るのも、ご縁あってそのシートに座るのも、人それぞれの自由。しかし、ご縁あるシートの方が先々につながるような気もするし、その世界で生きる方が幸せに生きることができるような気がしてならないのである。
ご縁の旅
今年の夏、私はある試みに挑戦している。
それは、「ご縁の旅」。ご縁の旅とは、今まで私の人生においてお世話になった方々にエールとお礼を伝えにいく旅。そして、この旅の大きな特徴は宿泊費が0円だということ。図々しくも、お世話になった方のご厚意に甘えさせていただく。
今回、私が訪問するのは広島、品川、伊豆高原、熱海、山中湖、沖縄、ポートランドの7ヵ所。他人様の家に泊めていただいていることには、恐縮している。しかし、自分に会うために、遠路はるばる旅してきた者に対して、人は想像以上に温かい。むしろ、「わざわざ有難う」と申し訳なさそうな顔をされてしまう。中には、自分のために温泉旅館まで手配してくださった方もいらっしゃる。振り返ると、こういった方々とご縁で結ばれたことに、改めて感謝である。
しかし、こういったご縁が出来たのも、決して偶然ではないと考える。というのも、今回、私が訪問する方々には幾つかの共通点があるからである。
まず一つ目は、私がその人を尊敬しており関心があるということ。
そして、二つ目は、一緒に何かを成し遂げた(真剣に向き合った)経験があるということ。
今思えば、これらの2点はご縁を築く上で、非常に大きな意味を持っていたと考える。一緒に何かを成し遂げた経験が縁を深めるというのは、皆様も経験上、お分かりいただけると思う。
しかし、最初に挙げた、「相手を尊敬し、関心を持つ」ということ。実はこれ誰に対しても出来るが忘れがちのことであるように思う。人は誰しも、キラリ輝く宝石のような魅力を持っている。当然、人間同士であるがゆえ、好き嫌いの関係で、その魅力が見えにくいこともある。しかし、一度、その魅力にフォーカスを向けることが出来れば、自然とその人への尊敬の念が湧いてくる。尊敬は自然と相手にも伝わる。敬意を感じながら接してくるあなたに対し、その人は決して不躾な態度はとらないだろう。こうして、ご縁は築かれていく。
そう思えは、人と接すること自体がご縁作りのチャンスなのである。いつの時代も若者の間で「出会いがない」という言葉を聞くことが多い。皆、「運命的な出会い」や「私欲を満たすための出会い」ばかりを期待し、「出会いがない」と繰り返すのだと思う。しかし、実は目の前にいる人の魅力にしっかりとフォーカスを向けることが出来なければ、次の出会いには繋がりにくい。地味ではあるが、それを繰り返していくことによって、少しずつではあるが、お金ではなくご縁ででっかく生きる道が開かれていくように思う。
今回の旅、新たにご縁を広める旅にもなればと思う。
リーダー
本日、日本創造教育研究所という研修機関が主催する「可能思考セミナー」を受講した。以前より、知人の方々から参加を勧めて頂いた機関のセミナーだっただけに、本当に楽しみであった。この研修は3日間の研修で、本日はその初日であった。
セミナーの内容も大いに勉強になるのだが、私が最も衝撃を受けたのが、受講生のリーダーに対する貪欲な意識であった。参加者106人の中から、総リーダー1名、総サブリーダー4名が選び出される。参加者を何とか引っ張ってチームを最高の状態に持っていこうというツワモノが立候補する。それも、一人や二人の話ではない、8~9割の人間がリーダー立候補に手を上げる。私は、まずその光景に度肝を抜かれた。今の私の職場では考えられない光景であった。老若男女が張り裂けそうな声を上げながら、立候補の挙手をしている。
結果だけ言うと、私は何とか情熱だけで総リーダーのお役を頂戴することが出来た。しかし、ホッとしたのも、つかの間、チーム形式のゲームが始まった瞬間、そのゲームのリーダー役を、やすやすと他人に任せてしまった。私個人の意識では、他の人にもリーダーシップを勉強するチャンスを与えているつもりであった。
しかし、それをみた講師は大激怒、「稼業というレールに乗っているだけのウスボケ、そんな簡単にリーダーまかせちまうなら、お前は辞めろ」といった感じのことを延々と言われた。確かに、そうである。プロフィールにあるように、私は後継者である。正直申し上げて、普通職員の方よりも楽をして経営に携わるようになった。従って、地位という問題について、あまり深く考えたことがない。さらに、リーダーシップを発揮しなくても、地位に安住出来てしまっていたということも事実である。「名ばかりリーダー」と言われても仕方がない状態である。講師はまさにその部分を見抜いていたのである。
では、そんな私が明日から何が出来るかということであるが、答えは簡単である。リーダーシップを発揮することである。リーダーシップに関しては、本も読んだ、長期の研修にも参加した、しかし、実際に現場に立たされてしまうと、筋の通った行動が出来ない。
残り二日間、頭でっかちなリーダーではなく、思う存分リーダーシップを実践できる人間を目指して頑張りたいと思う。
先駆者とコメンテーター
最近、自身が何かに挑戦する中で頻繁に思うことがある。
「何かを自分で立ち上げた経験のある人は強い」ということである。
例えば、私が園の運営をする中で、何か新しい企画に挑戦すると、必ず出るのがクレームや批判である。これは、私個人的には半分仕方がないことで、むしろ有り難いことと捉えている。最初からパーフェクトな企画を組めるかどうかが不安で、全く動く事が出来ないよりかは、これらのコメンテーターともいえる方々からアドバイスを頂いて、前進する方が、自分に合っていると考えるためである。
人が何かを自分で立ち上げようと思えば、自分のビジョンだけを頼りに、人、物、お金を動かしながら、理想の形を作っていく。どんなシンプルな企画であっても、ビジョンを実現することは結構な作業である。おまけに、良かれと思ってした行動に対し、強烈なバッシングを浴びることもある。そんなバッシングに耐えてでも、実現したいビジョンを持てた人は、それだけで素晴らしいと感じる。
したがって、先駆者とその他の人では、それだけで、天と地ほどの差があるのである。
しかし、残念なことに、世の中を見てみると、こういったコメントのみを得意とする方は非常に多いように思う。中には切れ味鋭いコメントを残すキレ者と言われる人たちもいる。実際、私がサラリーマンだった時代も、そんなキレ者を格好良いと思ったこともあった。
しかし、自分が運営側に回ってみると、本当に素晴らしいのは「何かを立ち上げることのできる人間」であることが分かってきた。世の中に対し自分がどう貢献したいかを明確にし、プロアクティブに活動できる人間であることがいかに大切なことであるかを日々感じている。
あなたは、日々のルーチンに追われ、仕事で何かに挑戦したいという気持ちを失ってはいないだろうか?人に批判を受けてでも、実現したい夢やアイディアはお持ちだろうか?そして、何より、それに挑戦する勇気はお持ちだろうか?
私自身もそれを考え直す日々である。
「何のために?」を思い出せ
本日、当園ではひまわり保育という企画を実施した。
ひまわり保育とは、夏休みの期間(7/28~8/1の5日間限定)、保護者の方が忙しい園児を、9時~14時の間、有料で預かるというものである。さらに、このひまわり保育は内容がかなり充実しており、「実体験を通した保育」がテーマとなっている。
しかし、このひまわり保育、職員数や内容を考慮し、人数が限定となっている。以前のブログでも申し上げたが、これがかなり「不平等」ということで波紋を呼んでしまった。しかし、世間には様々な家庭の形があるためこの平等という概念の実現が非常に難しいのである。昨今では、平等ということが頻繁に叫ばれ、幼稚園に限らず多くの教育機関が新しいことに挑戦するのに臆病になってしまっているように思う。結果、なにも改善しないことが一番楽になってしまうため、教育界は閉鎖的な道を歩んでいるように思う。従って、経験のある人ほど挑戦をしないのが教育界である(悲)。
例えば、本日挑戦した「トウモロコシ刈り」も、私の本音としては園児全員に挑戦させてあげたい。しかし、トウモロコシは農作物。なかなか人間が思うように育ってくれない。また、数か月前に予約をしたとしても、収穫当日にちょうど良いサイズに育ってくれているとは限らない。実は今回の挑戦も、農園の方に無理を言い、トウモロコシを複数回に分けて植えてもらった。日照りが続いたり、大雨に見舞われたりと、様々なパターンに備え、色々なパターンを用意していただいた。仮に当園の園児190人が全員トウモロコシ刈りに行こうと思えば、3パターンに分けて植えてもらったとして(1人2本×190人×3パターン)1140本のトウモロコシを植えてもらう必要がある。さすがにそこまで農園の人に無理は言えない。
そこで、私はあらためて今回の企画を「何のために」挑戦したのかを改めて考えてみた。実は今回の企画「普段の保育の中でも実体験を通した保育の充実させる」ということに狙いがある。私は商社での勤務経験を経て、自園に帰って来て、強く思うことがあった。この子たちにもっともっと本物を体験させてあげたい。「ごっこ遊び」はもう十分だ。職員たちも手間を惜しまずに、もっともっと園児や本物に接することに積極的になって欲しい。今回の企画は、それを実現するための挑戦の場であった。
例えば、今回の挑戦で良い結果が出た企画については、普段の保育に取り入れられるものは取り入れればよい。結果、当園に通う全園児が充実した保育を受けることが出来れば最高である。しかし、その為には今回のようにどうしても試験的な機会が必要なのである。ただ、保育には必ずポイントという物が存在すると考える。それをしっかりと伝えられるだけの準備が必要なのである。従って、今回のような機会はどうしても必要だった。
では、どうしたらよいのかということになるが、今回の挑戦の結果、良い結果が出たものは、「普段の保育に組み込む」「制限人数を増加する」などの調整をする。逆に、出来の悪かった企画に関しては改善を試みることが必要だ。そして、何より今後も今回のような挑戦の場は積極的に設ける、ということになる。
批判を受けるのは当然だ。しかし、それに耐え、挑戦した結果、それが将来的に園児全体の笑顔につながるのであれば、それは本望である。そう思えば、今回は園児の笑顔を考えての判断が出来たと思う。