元日本代表・相馬直樹選手の引退会見でのコトバ。
「サッカーに教えてもらったのは、目標を持って、それに対してエネルギーを費やすこと。」
いいコトバですね。
今日発売のエルゴラッソでは、彼の引退特集記事が組まれていましたが、読んでいたら「日本代表における左サイドという存在は、やっぱり特別なんだよなぁ」としみじみ思いました(武藤 さんが寄稿された記事も、とてもよかったです)。
そこで!
ふと思いついたので、日本代表の左サイドバックの歴史を振り返ってみることにする。
94年ワールドカップアメリカ大会のアジア最終予選。
いわゆる「ドーハの悲劇」を生んだ最終予選である。このときの日本が最後の最後で出場権を逃した理由を、もし一つだけ挙げろと言われれば、僕はやはりオフトジャパンにおける不動の左サイドバック・都並敏史の負傷離脱を挙げるだろう。「狂気の左サイドバック」といわれ、オフトジャパンの生命線であった彼の不在を埋めることができなかったのが、最後の最後まで響いてしまったのだから。
最初、最終予選でこのポジションを埋めたのは、直前のコートジボワールとの親善試合で抜擢された三浦泰年(当時:清水エスパルス)だった。ただし、このヤス抜擢には、最終予選直前に、未知の選手を発掘してテスト、さらにそこからコンビネーションを磨く・・・などという時間的な余裕がなかったため、ラモスやカズ、柱谷哲二ら代表の主力が元読売クラブ所属である彼をオフト監督に強く要請した結果の選出だった、との背景があったとの噂を聞いたことがある。
もちろん、苦肉の策ではあったのだが、この抜擢が壮行試合であるアフリカチャンピオン・コートジボワールとの試合で、ズバリ機能!日本の左サイドの不安は、ヤスの奮闘により解消された・・・かに思えた。しかし、そこはやはり急造。最終予選の2戦目となったイラン戦では、そこを徹底的に日本のウィークポイントとして突かれ、そしてえぐられ、日本は痛恨の黒星を喫してしまうこととなる。
日本の弱点が左サイドにあると見抜かれた以上、ヤスを使い続けるのは自殺行為に等しい。この事態にオフト監督が、ヤスの代わりに左サイドバックとして起用したのは、鋼鉄の筋肉を持つストッパー・勝矢寿延(当時・横浜マリノス)だった。典型的なストッパーである彼は、いきなりサイドバックをできるような器用な選手ではない。もちろん、試合中、「機を見て左サイドを颯爽と駆け上がる」などという芸当はできなかった。しかし、不慣れなポジションにもかかわらず、彼は内に秘めた闘志と、その鍛え上げられた肉体で左サイドをついてくる相手の攻撃を必死に跳ね返し続けるその姿は、鬼気迫るものがあった。
ときにサッカーのプレーは、どんなコトバよりも雄弁にものごとを語る。
「大切なのは、技術ではなく気持ち」
あのときの勝矢のプレーは、まるでそう物語っていたようだった。
特に、防戦一方となったイラク戦。GK松永成立までドリブルでかわされ、誰もが「やられた!」と思った瞬間、そのシュートに全身を投げ出して頭から飛び込んでいった彼の姿は忘れないだろう。あれは彼が全速力でダイブしなければ、完全に一点ものだった(結果的にそのシュートは、サイドネットになる)。
しかし。
後に「ドーハの悲劇」と語られるあのCKは、皮肉にも日本の左サイドから生まれてしまう。
オフトジャパンの生命線であった左サイド。その場所が、最後の最後にもたらしたのは、なんとも残酷な運命であったのだ。
そして、ここから日本サッカーと左サイドの奇妙な関係が始まっていく。
(本当はこのドーハ編を軽く書いて、相馬のことをツラツラと書こうと思ったのに、予想以上に長文になってしまったので、続きの「相馬編」は明日ということで・・・)