あの頃、千円札の顔は、夏目漱石だった。。。

 

 

ということで今回、読んだのはこの一冊、夏目漱石の「こころ」です。

学生時代に教科書で読んだ記憶はあるものの、なーんとなく友人と三角関係になった?みたいな話だっけ?という記憶しか残ってなくて、ちゃんとした内容は覚えていませんでした。

 

そして時は経ち、2016年の夏に何故か読書がしたくなり(夏休みに1冊本を読む的なノリ)、本屋さんで文庫本を購入。後になって気付きましたが、各出版社から出てるんですね。版権的なものが自由だからなのかな?中条あやみさんが表紙にデーンと載った集英社版を買いました。出版社ごとに文庫本の感じや文字や紙など違っていて好みが分かれるのが文庫本の面白いところですよね。まあ、でも初版とかにはあまり興味もないことですし、現代的に分かる注釈や、年表なども載っていてとても助かりました。

なんて言ってますが、当時は数十頁で断念してしまい、さらに時が流れること4年近く!あるきっかけがありまして、また読んでみようと思い、やっとこさ読破できたという流れです。

 

 

 

~恋と罪悪~

「恋は罪悪ですよ」作中に登場する先生の有名な台詞です。

三角関係の物語として知られているように、先生とその友人Kは同じ女性を好きになってしまいます。

しかし三角関係というものは、偶然どちらも好きになったという場合だけでなく、誰かが好きになっている人を自分も好きになってしまう、そんなこともあるような気がします。先生と友人Kの間にもそういう感情があったのかもしれません。友人Kの感情や、Kとお嬢さんの2人にどのような恋模様があったのかは語られておらず、そこは闇の中です。

んー、にしても「恋は罪悪」と言ってしまう迄になってしまった先生が可哀想でもありますね。この事件や問題は、恋自体が悪いわけじゃないようにも思うのです。ウゥム。

 

 

~人間と不信~

罪悪とまで言ってしまうほど先生に暗い影を落としてしまった事象がありました。

先生は若くして両親を亡くし、相続した財産を叔父に管理してもらいますが、その叔父にお金を騙し取られてしまいます。

そしてさらにKを裏切ってしまった後悔もあったのでしょう。先生は私にこう言います。

「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺かれた報復に、残酷な復讐をするようになるものだから」

「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです」

人を信じられなくなるばかりか、自分を信じようとする人までも拒絶してしまうほどになってしまうのです。なんと悲しいことか。

人を信じるということは、その人にだったら裏切られても良いと感じた時に全てを委ねることなのかなとも個人的には思います。

 

 

~愛と人類~

そんな人間不信の先生も、愛だけは信じていました。

「私は金に対して人類を疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです」

「もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです」

そう先生は言いました。他人を疑うことでしか自分を守れなかった先生も、愛だけは信じていたのかもしれません。

最後まで奥さんに友人Kの真実を語ろうとしなかったことも、先生なりの愛だったことが物語の後半で分かります。

 

 

~私と僕~

この物語の視点は私という大学生の視点で描かれています。大学生といえども、もう100年前の大学生ですから現代の学生たちとは全くかけ離れた人物だと思っていましたが、すごく親近感の湧く部分がありました。

卒業を控えた私は、締切の数カ月前になっても忙しそうに執筆する他の生徒と違って、まだ何も手をつけずにいた。

「私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして忽ち動けなくなった。今まで大きな問題を空に描いて、骨組みだけはほぼでき上がっているくらいに考えていた私は、頭を抑えて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的に纏める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加えることにした」

いや100年前の大学生も僕らの頃と変わんねーな!分かる、分かるよ、その気持ち。ほぼコピペとまではいかずとも、論文なんてやったことない僕らからしたらそんな書き方になるもんね。ここで一気に共感キャラになった私くんだった。

また、個人的にこの作品を読んでいる時期に僕の父の病気も見つかって、同じく父の病気で実家へ帰り見舞いをすることになる私にシンパシーを感じた部分もありました。

 

 

~漱石と比喩~

さぁ、この作品、もう100年以上前の作品(厳密には106年前!)なのですが、ちゃんと読んでみると時代背景などは古いですが書いてあることはそんなに古く感じないからアラ不思議。さすが大文豪・夏目漱石であります。その大きな理由が夏目漱石の書く比喩表現にあるように思いました。

 

ころりと自然に死ぬ人に対して、自殺や他殺で死ぬ人は「不自然な暴力を使う」。

父の見舞いで実家に帰った私が、蝉の声を聞いて「油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻のうちに、そろそろ動いているように思われた」。

先生の秘密を知ろうとする私に「あなたが~私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です」

Kからお嬢さんへの恋心を告白された先生が、「私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。私もKを振い落とす気で歩き廻る訳ではなかったのです。むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼しながらうろついていたのです」

そしてKに向かって話をしようとした先生は、「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、全て私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の目の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした」

Kの秘密をありのまま奥さんに話し、罪を許してもらおうとした事もあった先生は、最後までそれをあえてしなかった理由をこう話します。「私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい」

Kの死後、先生は勉強によって心を落ち着けようとしますが、「書物の中に自分を生埋めにする事のできなかった私は、酒に魂を浸して、己れを忘れようと試みた時期もあります」

 

夏目漱石の作品をちゃんと読んだのはこれが初めてですが、この一冊で夏目漱石の表現技術やセンスを見せ付けられた気がしました。100年以上前の作品から心に刺さる表現を読めるとは思ってもいませんでした。

 

 

 

~解説と鑑賞~

「こころ」は日本の小説の中で、総売上トップ1らしいです。(厳密には太宰治の「人間失格」といつも首位を争っているらしい)

この作品が日本で一番売れているということです。

ネットの感想などでは、友人Kはとんでもないメンヘラだ。なんで自殺する?みたいに言われてたり、先生もめっちゃ寂しがり屋のかまってちゃんや!みたいに言われているようですが。太宰の「人間失格」と共に、日本で一番売れている2冊が2冊とも病んでいる主人公だというのは日本人らしいっちゃあ日本人らしいですね。あんま良くないですけど。100年も前にもそういう人たちはいたんだなって知れたのは大きいです。

外国では先生と私のBL作品だとして知られているなんて話もありました。そうか、先生の愛は奥さんだけじゃなくて私にも注がれていたのか。確かにそうかもしれぬ。。

 

巻末に収録された吉永みち子さんによる鑑賞も面白かった。

“先生は、結局、自分だけしか愛せない人なのだろう。人間なんて金によっても恋愛によっても、瞬時にエゴイスティックに早替わりしてしまうものなのだが、先生は自分を愛するあまり、エゴイストの自分が認められない”

先生は自分のことを「淋しい人間です」と言ったが、結局はエゴだったのかという解釈だ。そして、その先生のそばで黙って耐えている奥さんの姿によほど心の凄味を感じると書かれていた。

なるほど、面白いなあと最後に思った。

 

 

 

ということで、まあまあ長かった夏目漱石「こころ」およそ300頁を読破した。

「こころ」は当時の朝日新聞に連載されていた新聞小説だ。前半が長いのは、その次に書く予定の作家が書けなくなったから、紙面に穴を開けないように長く伸ばしていたなんて話もあるそうだ。連載にはそんな裏事情もあるのかと面白かった。

 

教科書以来、初めて触れた夏目漱石。その表現のセンスに痺れ、また別の作品も読みたいなと思った。

次は何か読みやすいのがいいです。何かオススメありますか??