「火の鳥 鳳凰編」

 

言わずと知れた漫画の神様こと手塚治虫の伝説的な作品であり、何となく読んだことはあったが、読みやすそうな未来編や宇宙編などを選んで読んでいたため、この鳳凰編は未読であった。歴史的だったり時代物が舞台のものは何か取っ付きにくい印象があったのかもしれない。

だが、今回またあるきっかけで読んでみようと思ったのです。しかし、手元に漫画はなく、頼みの綱の図書館も利用出来る状況ではなかったので、まずは小説版を2冊読んでみました。(大林憲司著と山崎晴哉著)

 

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 少年は隻腕隻眼(片腕片目)であった。 裏切りを食み憎しみを吐いて育ち、若くして盗賊の首領となる。その名を我王という。残虐非道な男であった。が、あるとき掌上のテントウ虫に慈悲を与え(命を助け)、これが少女速魚との出会いとなった(人の姿に形を変えて我王の妻となる)

 さて、我王に仏師の命たる右腕を切られた(襲撃にあった)のが茜丸である。彼は我王を呪いつつも天皇の命により伝説の鳳凰を探し求め、ブチと遭い仏に仕える事を知ってゆく。やがて波乱の時が巡り幾多の死が過ぎ、我王は仏師となり、この世を問う。こうして二人のは数奇な因果の調べを奏でるのである。

 

 

主人公の一人である我王。彼は生まれた時から苦難を背負って生きていました。出生後すぐに事故で父親を亡くし、その事故によって自分も片腕と片目を失った。それにより幼い頃からイジメのようなものにもあっていました。生きていくために、我王は人を殺め、悪事に染まっていってしまい、とんでもない悪党になってしまいます。

でもそんな我王も色んな出会いによって善の心が蘇ってきます。ある時、手下に騙され自分の妻である速魚を殺してしまう。どんな残虐な殺しもやってきた我王でしたが、速魚を失ったことに激しく後悔して、母を亡くした時以来の涙を流します。そこから我王の中で、善と悪の心が揺れるように変化していきます。

悪の中の、善。我王はとんでもない悪党ではありましたが、もともと悪のまま生まれてくる人はいません。人間の心ですから、善も悪もどちらも持って生まれてくるという方が正しいのかもしれない。不良が良い行いをすると、とても良い人に見える。その逆に、普段良い印象だった人が悪い行いをすると、とんでもなく悪い人に見える。そんな状況があります。悪さというのはそれだけ人間の印象を変えてしまうものです。

少し話がずれてしまいましたが、悪党に見える我王にも、善の部分はある。我王の葛藤から、人間の持つ善と悪について深く考えさせられました。

 

もう一人の主人公である茜丸。彼は仏師を志す、熱意ある青年でした。何の恨みもない我王から理不尽に傷つけられ、仏師の命でもある利き腕を失いかけた茜丸は夢を諦めかけますが、彼の持つ純粋な心や彫刻に対する熱意で有名な仏師にまでなります。

襲撃以来、我王と茜丸は再会を果たします。そこで我王は、自分がやったように茜丸に自分を殺せと言います。ですが、茜丸は「そんなことをしたら心が汚れる…」と、我王に復讐することを拒みます。復讐することよりも、自分がやるべきことや夢の大事さを重要だと考えたのです。この時、純粋な心を持つ茜丸は、我王とは真逆に見えました。

 

 

我王と茜丸にはそれぞれ愛する人がいました。速魚とブチです。

我王は、速魚というとても美しく優しい女性と惹かれあい、愛するようになります。

茜丸は、ブチという盗みを働いて処刑されようとされていた少女を助け、愛されるようになります。ブチは野荒らしで煮ても焼いても食えないあばずれでしたが、茜丸を愛していました。

人は自分にないものを求めあうと言いますが。自分と対極のような存在の女性と愛し合うようになったことを、面白いなと感じました。

そして彼らが愛する女性と惹かれあったように、真逆に思えるような我王と茜丸2人も、磁石のS極とN極のように惹かれあう運命だったのかもしれません。

 

 

我王が仏師になるきっかけは、自分の苦しみが人を救うと知ったことにあります。

自分が彫った仏像が人々の心の救いになったのを目の当たりにし、自分が今まで感じてきた苦しみが人の心を救うんだと、師匠である僧侶・良弁に教えられるのです。

苦しみが人の心を救う。何かを表現する人の表現力や創作の源になることは想像できますが、それだけじゃないこともあると僕は思います。苦しみが人の心を救う、苦しみを知っていることで相手の苦しみも分かってあげられることが人の心を救うことに繋がるんじゃないかなと思うんです。

 

ですが、我王は自分の苦しみだけじゃなく、相手や他の人間の苦しみ、さらには怒りや悲しみまでを感じ、それが消えないことにも悩み出します。

なぜ、人間は怒り苦しまねばならないのか。しかも永遠に。宇宙にとってみれば、人生など無いに等しい。いっさい無なのにもかかわらず。

怒り、苦しみ、悲しまなければいけないのか、永遠に。

それに良弁は「無のなかに永遠があり、永遠のなかに無がある……」と言います。無と永遠は表裏一体であり、人間の怒りも苦しみも悲しみも、ちっぽけなものであるが、それも人生という宇宙の中では永遠になくならないものだと。消えないんです。ちっぽけなもので、それに悩んでばかりはいられない。だけど、ないものとして扱ってもいけない。それとともに生きていかなくてはいけないのかなと、思わされました。

 

復讐は愚かなのか。

「人の一生が無ならば、復讐など無の無の無だ」と我王は言いました。

物語の終盤、茜丸は我王への復讐をしてしまう。自分の身を守るために、我王の過去の悪行を暴露し、ついには右腕を切り落とすという罰まで与えてしまうことになります。はじめに我王と再会した時、茜丸は復讐などせず純粋な心で、それを拒みました。しかし、自分が才能を買われ有名になり地位も得ていく中で、茜丸の心は変わっていってしまったのかもしれません。「変わったよ、兄ちゃん。」ブチにもそう言われてしまいます。

茜丸のしたことは復讐です。復讐は愚かなのか。我王の罪が事実だったことには変わりありません。茜丸も自分の身を守るため、そうせざるを得ない状況だったのかもしれません。もちろん、罪は背負っていかなければならないと思います。しかし、やられたらやり返すような復讐は正しいのか。どうしても考えてしまいました。

「純粋な人間の魂ほど染まりやすいのよ」

この言葉も、茜丸の変わってしまった心を思うと、とても印象深く記憶に残りました。

 

 

我王の師匠である良弁は、即身仏になるという道を選び自ら命を落としてしまいます。

最後に我王に教えたのは仏の心についてでした。

「仏の心は、いったい何なんですか」と問われ、良弁は「慈悲」と答えます。

慈悲とは何か。子に対する親の愛情を言う。それ以外の愛は、裏切られれば、たちまち憎しみに変わるのが常だが、子への親の愛は、子に裏切られても、やはりその子がいとしい。この慈悲の心が仏教の本質だと、良弁は教えました。

 

慈悲の心。それは仏教の本質でもあり、それこそが愛そのものなのかもしれない。

と最後に、僕も思わされました。

 

 

 

この物語のテーマは数多く存在します。

生と死、輪廻転生、善と悪、愛。

 

その中でも最も強く感じ取ったのは、我王の生き抜く姿勢でした。

どんなことがあろうと、何としてでも生き抜いていこうとする我王の生きる力。

強く、生きる。

 

 

 

 

大きすぎる作品に考えさせられることが多すぎて、全くまとまりませんでした。。。

もっと時間をかけて、自分の身にできていけたらなと思っています。

 

 

こりゃ全巻ちゃんと読まなきゃだなー。

「火の鳥」、将来ちゃんと買って集めていこうと思いました。

(あとスラムダンクも実はそのつもり笑)

 

 

あぁ、手塚治虫大先生、改めて天才すぎまじた。