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リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

腎臓病と不安神経症で生活保護者。社会やニュース、その他、様々なこと、思ったこと、感じたこと色々なことをブログ記事にしていきたいと思っています。

川辺川、八ツ場ダムの建設中止=首相、国交相が明言
 鳩山由紀夫首相は17日夜、首相官邸で記者団に対し、川辺川ダム(熊本県相良村)と八ツ場ダム(群馬県長野原町)の建設を中止する考えを表明した。民主党は衆院選マニフェスト(政権公約)で両ダムの建設中止を掲げている。首相は「決めたことはきちっとやり抜くという姿勢を貫くことは非常に大事だ」と強調した。
 これに先立ち、前原誠司国土交通相は同日の記者会見で、川辺川ダムに関し「(利水、発電、治水という)当初の3つの大きな目的のうち(利水、発電の)2つがなくなった。事業を見直すのが当たり前」と述べた。同相は同日未明、八ツ場ダムについても建設中止を表明していた。
 川辺川ダム建設をめぐっては、熊本県の蒲島郁夫知事が昨年9月に反対の意向を表明。建設予定地の相良村や流域の人吉市など一部地元首長も白紙撤回を求めており、国や県、流域自治体が共同で「ダムによらない治水を検討する場」を設け、ダムに代わる治水策について協議を進めている。 
 川辺川ダムは、1966年に計画が浮上した国直轄のダム。当初は多目的ダムとして計画されていたが、利水事業と発電事業の撤退が決まっている。本体工事には着手していない。(2009/09/17)

八ツ場ダムは最後まで建設すべきだ。


一説によると八ツ場ダムの建設費は4600億円。そのうち3000億円をもう使っているという。


もし、ダム建設を中止したら、石原都知事や森田千葉知事は、「当然一都5県分担で自分たちが払った金額は返してもらう」と言っている。


その額は一都5県合計約1600億円だと言う。即ち残りの完成の金額とほぼ同じだ。


そして、ダム地から移住した住民に対してまた帰るための多額の金額を払うことになる。


と言うことは完成した金額より今から中止した額の方が高くついてしまうことになる。


民主党は、「無駄な公共事業だから」と言っているが、その無駄な公共事業より高く掛かってしまう中止公約は「無駄」以上に税金がかかるではないか!


何でもかんでも調査もせずに「中止、中止」ではどうしようもないぞ民主党よ!


大体、今の地球は異常気象。これからは「梅雨には必ず雨が降り、雨が降らなければ台風が来てなんとかしてくれる」と言うのはもはや信用できない。


その証拠に台風時期には、四国は、「台風銀座」と呼ばれるくらい台風接近の多い地域だったが、今は
台風が来なくなり、早明浦ダム(さめうら)などは近年、毎年のように渇水に見舞われている。


八ツ場ダムの東京も、川辺川ダムの熊本もいつ渇水に見舞われるか分からない。


例えばダムを造ることにより、自然が大きく破壊され、絶滅危惧種の貴重な動植物がいなくなる、等のことでもあれば僕もダム建設中止に賛成だ。



又、巨大な「海水淡水化装置」があってアラブ中東のように海水から真水に変えることが出来るならダムはなくてもいいだろう。


しかし、海水淡水化装置を設置する気がないのなら、この異常気象の地球の状態を考えると、ダムはあった方がいいと思う☆
ん~、こんなに自民党が議席を減らすとは!しかもどんな選挙でも議席を減らさなかった公明党がやられたのも驚いた!


トレンドが変わった!こんなに大きな風が吹くとは!明日は実際に東京に台風が近づく!


国民はぶれていなかった。4年前の小泉総理の「郵政民営化」選挙でも、国民は、小泉首相が主張する、「郵政民営化起これば国が変わる」と言うことを信じて小泉を支持し続けた。


しかし、小泉総理は何も変えられなかった。彼のパフォーマンスは人気を博したが、日本は何も変わらなかった


そして「郵政民営化」が実現しても何も日本国は変わらなかった。


だから国民は嘘をついた自民党を見放した。


そして国民はどこを支持すれば日本が変わるのか探して動いた。民主党へ。


だから国民はぶれてはいない。国民は日本を大きく変えたいのだ。


そして誰を、どこを支持すれば日本が変わるのかを常に探しているのだ。そして変わるのなら、自民党でも民主党でもどこでもいいのだ。



だから民主党はマニフェストどおり日本を変えなければならない。


もしこの4年間で、小泉のように何も変えなければ4年後、今回の自民党のように大敗北するだろう。


だから政権をとってもうゴールしてしまったような政治を執るならば民主党の政権も短命で終わる。


国民は変化を望んでいる。それも、革命の近いような大きな変化を。


それに向かって官僚との戦いを挑み続けるか、権力を取ったことで満足してしまうのか、そこに民主党政権が続くのか、すぐ下野するのか、全てがかかっている。
南京の状況----一九三七年十一月二十七日
海軍無線 DJ EB
特殊グレイ文(暗号文)ならびに平文電報
発信:南京
受信:一九三七年十一月二十七日
ワシントン国務長官、漢口・北平米大統領、上海米総領事館宛
第九六三号 十一月二十七日午後二時
三、市民の脱出は続いているが、市長の話では三〇万から四〇万の市民がまだ南京に残っているとのこと。


アチソン

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P90



南京アメリカ大使館通信----エスピー報告
報告書作成 一月一五--二十四日
郵 送   一九三八年二月二日



Ⅰ、十二月十日後の主な報告
 南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。・・・・・・



 南京の政治および経済状況
 南京には政治・経済の実体は存在していないといってもよいかと思う。事実、南京は日本軍の野営地にほかならない。市の人口、およそ一〇〇万人のうち、現在二〇万-二五万人が残留し、そのほとんどが貧民階級の人たちである。大多数が「安全区」内の建物や臨時に設けた野営地にすし詰めとなっている。夜間は夜露の凌げる場所にかたまり、日中は安全区内の通りに群れをなして溢れでてくる。例えば上海路などは、日中、一マイルにわたりぎっしり埋まる。人々は食べ物や燃料を求めて出てきたり、なにをするでもなくただ立ち尽くしている。・・・・・・



『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P239,247


イギリス領事の南京虐殺に関する報告
JS グレイ暗号電報
発信:上海、海軍無線局経由
受信:一九三八年二月三日午後八時三〇分


ワシントン国務長官宛


 中国人のうち、ほとんどが貧しい階級の人たちが安全区に集中している。人数は約二〇万人である。・・・・・・

 二五万人の中国民間人の難民の問題は、二月四日までに解消されなければならない。彼らのほとんどは行く所もないし、生活を維持する手段をもたない。日本軍当局の早急なやり方は、騒動とさらなる虐殺をひきおこすだろう。・・・・・・


ガウス



『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P313



『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月7日
「敵の侵攻を遅らすべく中国軍抗戦中」
F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電
十二月七日、火曜日、南京発。



 湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。少年たちは年齢一〇から一二歳、軍服姿の正規兵で、伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。
 南京東方の村落はどこも無人の巷と化していた。住民は守備隊に代わられ、公路上には難民があふれている。



『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P388




『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月8日
「南京郊外で中国軍抗戦中、一週間は堅持するか」



F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電
十二月八日、水曜日、南京発。



 南京防衛軍の司令長官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し、すべての非戦闘員は国際管理下の安全区に集結しなければならない、と布告した。市内他地区での非戦闘員の移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可所有者を除いて、禁じられる。
~略~
 中国軍による防衛戦内の障害物の焼却が続けられていた。中山陵園の中国高官の広壮な邸宅も昨夕燃やされたところに含まれる。
 南京は深い煙の層によって囲まれた。昨日、中国軍の半径一〇マイル以内の町の建物や障害物を焼き払い続けたからだ。
 本記者は車で前線に行く途中、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを見た。中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村は、一面煙る廃墟と化し、事前に避難しなかった住民は、その僅かばかりの哀れな持ち物を背に南京に向かって道にあふれ、ときおり立ち止まっては、もといた家のほうを悲しげに見やるのであった。
~略~
 南京には数万人の難民が雪崩れ込んでおり、安全区委員会は本日、正式に安全区の成立とその完全な非武装化を宣言する予定になっていた。
 本日、高射砲中隊一と多数の軍事機関が安全区から退去した。同地区非軍事化の約束を実行しようという、中国軍の意志をいっそうはっきりと示すものであろう。
 難民はとりわけアメリカとイタリアの大使館周辺地区に群がり、付近の道路は混雑していた。安全区委員会は食糧調達の方面で大きな成果をあげ、いまや二万五千人の貧民に一週間食べさせるのに十分な米を持っている。
 昨日、旗と印で地区の境界標示を取り付けることから、安全区はスタートした。司法行政部、陸軍大学その他の学校など公共の建物は貧民に開放されつつあり、必要とあれば無人の邸宅も接収されるであろう。


『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P390-391



『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月9日
「日本軍の放つ火に囲まれ、山頂で中国兵三〇〇虐殺さる」



F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電
十二月九日、木曜日、南京発。



 南京での中国軍の防衛作業の特徴は、相変わらず建物の全面的焼却である。南門近くの人口密集地区全体から住民が追い立てられて、市の安全区に送り込まれ、この小都市一つくらいの規模の地区が燃やされていた。同様に、下関駅近くのモデル新村一つが焼却された。


『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P394



『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月12日
「南京城の重防御に攻略軍阻まれる」



F・ティルマン・ダーディン
≪ニューヨーク・タイムズ≫特電。
十二月十二日、日曜日、南京発。



 広間と中庭が連なる迷宮「朝天宮」は、ほぼ十年にわたって兵工廠または軍の集結中枢の役を果たしてきており、最近は周囲の近代的兵舎とともに重要な駐屯軍の中枢、武器庫になっていた。寺院のある丘は市内でも最も人口稠密な地区の中心にあたるが、その一般住民の多くはまた安全区に避難していない。太平路が商業中心である。
~略~
 南京の住民は金曜日に比べて緊張も解けパニック状態もなくなっている。日本軍の城内進入撃退によって、中国軍が攻撃軍に十分持ちこたえているということを立証したからだ。現在の気持ちは一種の諦めであって、何千という人々がまだ安全区に避難しているが、彼等の恐怖心を表わさず、いかなる戦禍をも耐え忍ぶ用意があるかに見える。
 下関門(悒江門)は朝方再び明けられ、一日中、自由通行が許された。門は夕方早くにはまた閉じられた。



『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』 P401-402
シャルフェンベルク(ドイツ大使館南京分室事務局長)の記録 38年1月13日
【南京の状況 一九三八年一月一三日】
 当地南京では、電話、電報、郵便、バス、タクシー、力車、全て機能が停止している。水道は止まっており、電気は大使館の中だけ。しかも一階しか使えない。イギリス大使館にはまだ電気が通 じていない。
 なぜ交通が麻痺しているかといえば、城壁の外側は中国人に、市内はその大部分が日本軍によって、焼き払われてしまったからだ。そこはいま誰も住んでいない。およそ二十万人の難民はかつての住宅地である安全区に収容されている。家や庭の藁小屋に寄り集まって、人々はかつがつその日をおくっている。多い所には六百人もの難民が収容されており、彼らはここから出ていくことはできない。

『南京の真実』 P185



添付書類
駐華ドイツ大使館(漢口)一九三八年二月一日付報告第六七号に添付
作成者----シャルフェンベルク(駐華ドイツ大使館事務長、南京)
文書番号二七二二/一六一二/三七
一九三八年一月一三日の南京情勢

 南京では、電報、郵便、電話がいずれも不通で、バス、タクシー、人力車も走っていない。水道は止まっており、電気は大使館の建物に通じてはいるが、階上から光が漏れることは許されない。英国大使館にはまだ電気も通じていない。
 交通は途絶えている。なぜなら市の城外地区がすべて中国軍によって、また城内の大部分が日本軍の手で焼き払われてしまったためである。城内にはもはや誰一人住んでいないが、残りの約二〇万の市民は安全区(旧住宅街)に収容され、家や庭でその日暮らしの生活をしている。筵で覆われた大テントに、一張当たり六百人近くが暮らしており、安全区外に出ることも許されない。安全区は保証によって封鎖されている。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P83



東京裁判 マギー証言(1)

○ブルックス弁護人 日本軍が十二月三十日に、南京に人った時の南京の人口は大体どの位でありましたか、二百万位でありましたか。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。十二月十三日に二十万位でありましたか〕
○マギー証人 それは一寸幾ら居ったかと云ふことは申上兼ねるのでありますが、我々の委員会の「メンバー」の委員の推定に依りますと、安全地帯には約二十万、或は三十万を超したかも知れませぬ。城外の安全地帯にはモットモット沢山居りましたが、何れにしても推定は不可能であります。



東京裁判 ウィルソン証言

 日本軍の南京占領以前、南京の人口は百万ありました。併し占領後市民の大部分は市を去りまして、人口の総計は五十万以下となったのであります。

『日中戦争史資料8』 P21



金陵大学病院からの手紙
ロバート・O・ウィルソン医師

十二月九日 木曜日
国際委員会は、その五人のメンバーがこの家に留まっていて、素晴らしい事業をしているのだが、しかし、成果の程ははかばかしくない。日本軍は国際委員会を認めないときっぱり言っている。安全区の中の私たちの周囲にある、利用できるすべての建物に、約数十万人の人々が群がり住んでいる。彼らに何が起こるかは、ただ推量するほかはない。・・・・・・


十二月十四日
 南京に残留している一五万から二〇万人は、以前に難民区と私が書いた安全区に群がった。国際委員会は彼らに対して膨大な仕事をなしつつあり、今や彼らの努力によって、大勢の命を救っていることは疑いない。・・・・・・

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P276-278



外交資料(私的報告)
一九三八年一月一三日付
作成者----クレーガー(南京)
文書番号なし
南京の運命の日々 一九三七年一二月一二日~一九三八年一月一三日


 日本軍は難民区を承認しなかったが、戦闘中にはこれを尊重したからだ。難民区に加えられた砲撃はごくわずかで、戦闘の犠牲者も非常に少なかった。事実、南京に残った全住民、つまり約二〇万から二五万の人々が難民区に逃げ込んだ。大きな難民収容所に人々を受け入れるための十分な準備がなされた。二か月分の米が運び込まれ、潤沢な資金も自由に使用できた。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P52



南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告----一九三八年冬季
一九三八年二月十八日 ベイツ(もしくはベイツとミルズ)

 南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにもかかわらず、二五万人が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まってさらに悲惨なめにあうことになった。・・・・・・

 二五万人の人々の大部分は、密集した、異様な環境のなかで生活しています。なぜならば、安全区は市の城内区域のわずか八分の一ほどの面積しかないからです。これらの家族の多くはその一員を殺されて失っています。多くの場合、彼らの家に静かにしていた人々が、理由もなく殺害されたのです。・・・・・・

 いくつかのセンターの記録を参照にしてM・S・ベイツとW・P・ミルズが準備した。
一九三八年二月十八日

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P182,183,185



アメリカのキリスト者へのベイツの回状
ロイド・トリエスティノ 聖「コンテ・ベルデ」(Lloyd Triestino SS."Conte Verde")
香港近くのマドラスへの道沿いにて
一九三八年十一月二十九日

 しかし、私は大部分の日々、複数の仕事をやっているので、救済以外の仕事もやりました。昨年の十二月、国際委員会は、二五万人の民衆に(相対的に高い安全性を備えた)避難所を提供し、うち七万人を二五の難民キャンプに収容いたしました。後者の難民の多くには食べ物を提供する必要がありました。それは、部分的に秩序が回復して難民の数が漸次減少したとはいえ、五月まで必要でした。これまでに中国通貨で三四万五〇〇〇元が主として食糧に出費されました(春までは一アメリカ・ドルが三・四〇元でしたが、現在は一ドルは六元以上)。・・・・・・




 現在、南京の人口は事実上四〇万人におよんでいます(難民区の時期は二五万人、戦争直前には一〇〇万人いた)。最近の増加は、大きくは田舎からの難民によっています。彼らのある部分は、南京市からそこへ安全を求めて行ったのですが、今はゲリラとそれに対する報復襲撃で危険にさらされる後背地となり、そこで彼らは有り金全部(ときには衣服も)を使い果たしてしまったか、あるいは奪われてしまったのです。・・・・・・



『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P340-341





南京における救済問題に関するメモ
一九三八年二月二十二日



 しかしながら、南京の秩序は以前よりずっとよくなり、およそ五分の二の人たちが前の安全区外の自宅に戻りつつあり、市はやや平常の様相を呈しつつあると言うことができる。しかし、自分の家に帰りつつあるのは、ほとんどが老人と幼児だけだ。



(「ジョージ・フィッチの公演メモと思われる」編訳者注)



『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P189



ヒトラーへの上申書(公演の草稿)(ラーベ)



 私が七月に発ったときには、南京の人口はおよそ百三十五万人でした。その後、八月なかばの爆撃の後に、何十万もの市民が避難しました。けれども各国の大使館員やドイツ人軍事顧問はまだ全員残っていました。

『南京の真実』 P296



ヒトラーへの上申書(公演の草稿)(ラーベ)

 このように、安全区は何日にもわたってすこしずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとはてごろな宿が見つからなかったのです。私たちはすべての通りに難民誘導係員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと二十五万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。なかでも一番貧しい人たち、食べる物さえない六万五千人を、二十五の収容所に収容しましたが、この人たちには、一日米千六百袋、つまり生米で一人カップ一杯しか与えてやれませんでした。
第十九号文書(Z 35)


南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三八年一月十四日
 

南京日本帝国大使館 福田篤泰殿 

(略)

 私たちは、貴下や自治委員会と喜んで協力し、現在、経済的に生計を立てる基盤のない難民を保護するものです。その証拠には、一月十日に自治委員会のもとめに応じて当方は米販売店を閉店したし、同日、自治委員会に割当てられた米を運ぷ手伝いもしました。ところが、この米から、当方の無料食堂用と収容所用は、ただの一袋も受取りませんでした。

 貴下が登記した市民は一六万人と思いますが、それには十歳以下の子供は含まれていないし、いくつかの地区では、年とった婦人も含まれていません。ですから、当市の総人口は多分二五万から三〇万だと思います。

 これだけの人口を普通並みの米の量で養うとすれば、一日に二〇〇〇担の米(あるいは一日に一六〇〇袋)が必要となるでしょう。このことから、貴下が提案した三日ごとに一〇〇〇袋というのは、必要な量の三分の一にも足らないことが明らかです。今までは住民は各自手持ちの貯蔵米にかなり大幅に依存してきましたが、それも急速に使い果たされており、米を購入したいという要求が、一月一日以来、急に高まってきました。住民が毎日少くとも一〇〇〇袋の米を購入できるように即刻取計らうべきです。そして、できるだけ早く一日につき一六〇〇袋に増量すべきです。

 米の外に、多量の小麦粉と、一、二カ月の配給分として石炭二〇〇〇トン、およびその他の燃料も購入できるようにしなければなりません。この寒空に難民がひどい苦しみをなめないようにするには、行届いた、効果的な計画が必要です。

 ですから、事態は実際にはどうなのか、そして、すでに結んだ協定がなぜ取り消されたのかをおたずねするために、手紙を書いているのです。

 難民は食べなければ生きていけませんし、米を奪われ、米を料理するのに使う燃料を奪われたならば、実際ひどい状態に陥るでしょう。貴下が直ちに軍当局に話して、この件を正して頂き、米と燃料を常時、安心して難民に供給していけるようにして下さるよう、お願いいたします。米や燃料が、当委員会をつうじて手に入ろうが、自治委員会をつうじて手に入ろうが、当方にとってそんなことは大した違いはありません。当委員会の希望することは、これらの生活必需品が市民に充分供給されることです。これはできる限り商業ベースで処理するのがよいでしょう。

 最後に一言。当委員会の仕事の改善について御提案があれば喜んでうかがいたく思います。

 日頃の御援助に感謝致します。

南京安全区国際委員会委員長
(署名)  委員長 ジョン・H・D・ラーベ

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P143~P144)




 

ジョン・ラーベ「南京の真実」


一月十七日

 ローゼンと話し合いをしたとき、すでに岡崎総領事は先日のいさかいの調停に乗り出していた。ベルリンや東京が何もいってこなければ、一件落着となる。そうなれば大変ありがたい。とにかく日本人と折り合っていかなければならないのだから。

 昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通 り、イルミネーションなら上海の南京路に引けをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。行けども行けども廃墟が広がるだけ。大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、また瓦礫だ!いったいだれが元通 りにするというんだ!

 帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したといってよいだろう。

 日本軍は安全区から出るようにとくりかえしていっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物まで混じっている。難民の数は今や二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからない。

(P215~P216)
 



第二十六号文書

南京安全区国際委員会
寧海路五号
一九三八年一月二十八日

南京イギリス大使館 H・プリドー=ブリュン殿
(略)
 南京の二五万難民のうちほとんどが、南京市内と近郊で起きた広域にわたる放火のために家を失いました。そして一家の働き手が連行されたり殺されたりして、赤貧に陥っている家族が幾千と言わないまでも、幾百とあります。
(略)
 当委員会が救援のためにもっている資金は当然のことながら非常に不十分であります。南京市内に当方の手持ち分として一〇万ドルあり、さらに上海に五万七〇〇〇ドルあります。しかし、この一五万七〇〇〇ドルという金額をもってしても、現在市内にいる二五万人の難民を救うのには焼け石に水であります。
(略)
委員長 ジョン・H・D・ラーベ

『日中戦争史資料9』 P149




南京日本大使館宛書簡----十二月十六日

金陵大学、南京
一九三七年十二月十六日

 昨晩、本学の農業経済系の建物(小桃園)に何度も多人数で侵入した兵士によって三〇人の婦人が強姦された。私たちは、貴軍が軍事的優越性を示したからには道徳的にも優越性を示すだろうと信ずるものです。これら何万という平和的市民の生命および身体の安全が早急に必要となっているのです。



書簡
南京日本大使館福田篤泰宛、発信者ラーベ
(南京安全区国際委員会委員長、寧海路五番地、南京)
一九三八年一月一四日付
文書番号二七二二
<同一資料>

 私たちは、貴方が一六万人の住民を、一〇歳以下の子どもと、いくつかの地区では年配の女性を含めずに登録したことを承知しています。したがって、市内にはおそらく二五万から三〇万人の市民がいるでしょう。この人口を通常の米の量で養うためには、一日二〇〇〇担〔約一〇〇トン〕の米(一日一六〇〇袋の米)が必要になります。三日に一〇〇〇袋というご提案は、本来必要な米の量の三分の一にも満たないことが明らかです。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P100
スマイス報告 農業調査

南京地区における戦争被害  1937年12月―1938年3月 都市および農村調査
二、農業調査

 農業調査では、南京周辺に集合して一つの自然的・伝統的単位をなしている六つの県を網羅しようとした。二つの県すなわち江浦県と六合県は揚子江の北側にあり、その南側には江寧県(南京はその中に位置している)・句容県・溧水県・高淳県がある。附録で調査の組織とその方法にかんして説明しておいた事情のために、三月中に高淳県と六合県の半分は調査することができなかった。

 この調査に含まれている四・五県にはそのとき、最高一〇八万人の農民がいたが、戦前にはおそらく一二〇万から一三五万はいたであろう。このなかには市場町もいくつか入っているが、それ以前の人口はおよそ二七万五〇〇〇人であった(1)。

 以前には南京市は一〇〇万の人口を擁していたが、三月にはおよそ二五万にまで減少していた。このように四・五県の全人口は三月現在ほぼ一五〇万であった(しかし、市場町の住民はこの調査の範囲外である)。


南京市の常態としての人口と陥落前の人口には大きな違いがあるようである。常態100万人については肯定派、否定派とも見解が相違している訳ではない。「1927年に国民政府が南京を首都に定めて以降、南京市政府は、市内の常住人口について、ほぼ完全な統計資料をずっと保存している。1935年ではじめて百万人の大台を突破し、1937年の前半に至るまで、南京市の常住人口はずっと百万人以上を保ち続けてきた」。

 南京特務機関「南京市政概況」というのがあるようであり、これに南京城区の人口・戸数の変化が次のように記されている。南京攻略戦前後で南京城区の人口・戸数が大きく変化していることが判明する。但し、この減少は、移動と虐殺との両面から考察される必要がある。

1937年3月 101万9667人 20万810戸 (首都警察庁調べ)
1937年12月 南京攻略戦
1938年2月末 20万人 (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
1938年10月末 32万9488人 8万2195戸 (南京市自治委員会調べ)
1939年10月末 55万2228人 13万2403戸 (南京特別市政府調べ)
1941年3月末 61万9406人 14万439戸 (南京市政府調べ)

 「南京特別市は、南京城壁内とその周辺地域からなる南京城区(中国の都市は西欧の都市と同じように周囲に城壁をはりめぐらした中にあるので、城あるいは城市とも言う)と、行政区として南京特別市に属する近郊県城(中国の県は県都にあたる小都市も城壁に囲まれていたので県城という。六合県、江浦県、江寧県、りつ水県、高淳県、、句容市が該当する)と村を合わせた近郊区からなる」とあるので、上記の人口数字がどの辺りまでの地域のそれか知りたいところであるが分からない。

 南京事件(笠原十九司)には、「南京の金陵大学の社会学教授ルイス・S・C・スマイス(36歳)の当時の調査によれば、<中略>近郊6県全部を合わせれば人口は150万人を超えていたと思われる」とある。

 「文藝春秋 第十六巻 第十九號」〈1938年(昭和十三年)11月特別號〉の「従軍通信 上海より廬州まで 瀧井孝作 P193」に、次のような貴重な記述がある。「九月二十三日。晴。南京にて。午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり」(渡辺さんより提供)。

 つまり、「八・一三」事変(第二次上海事変)以後、日本軍は絶えず飛行機を飛ばして南京を爆撃し、約20万人の比較的裕福な南京の商人や市民が戦火を逃れて南京市の外に避難して逃げた。10月に国民政府が重慶に遷都を決定するや、次々と政府機関員たちは疎開した。11月20日、国民政府は遷都の声明を発表した。見積もりによると、この政府の西への移転につき従った軍民は約20万人である。また、この他に南京で仕事をしていた出稼ぎの人たちがおり、戦乱を避けるために出身地に帰った人たちが約数万人いた。南京市の人口は激減したが、しかし多くの人たちは生活に追われ南京を離れることができなかった。

 この点について、日本の上海駐在の岡本領事が1937.10.27日に広田外相に宛てた秘密の手紙の中で次のように書いている。「南京市内の公務員と軍人の家族はすでにみな避難し、人口は激減している。警察庁の調査によると、現在の人口は53万人余りであり、それらはすべて、各機関の公務員、財産を移転することができないものや現地の商売人等、とことんまで南京に居続けなければならない人たちである」。

 以上の資料と、南京市政府が1937.11.23日、国民政府の業務部に宛てた公文書で「本市の現在の人口を調べたところ約50余万人」であるとしていることを踏まえれば、12.13日の南京の陥落に至るまでずっと、南京在住の戸籍上の人口は依然として50余万人であったということになる。




 ●ラーベの日記
37年11月25日

 今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ二十万人をこす非戦闘員がいると言うけれども。ここらでもういい加減に安全区が作れるといいが。ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。

『南京の真実』 P63


37年11月28日

 寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。家の庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。  二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通 りの答えが返ってきた。「出来るだけ長く」  つまり、ずらかるということだな!

『南京の真実』 P69


37年12月6日

  黄上校との話し合いは忘れることが出来ない。黄は安全区には大反対だ。そんな物を作ったら、軍紀が乱れるというのだ。
 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。良いですか、あなた方が安全区を設けさえしなかったら、今そこに逃げ込もうとしている連中を我が兵士たちの役に立てることが出来たのですぞ!」  これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句が告げない!しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官と来ている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようと言うのか!なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄を付けても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ? (中略)  なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬ よりほか何も役に立たないというわけか!

『南京の真実』 P85-86


37年12月7日

 城門近くでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。安全区は、ひそかに人の認めることになっていたのだ。たった今、クレーガーが中華門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。こじ開けられ、ところどころ荒らされたという。現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。
 十八時、記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発ったのだろう。
 門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われると言う噂がひろまり、中華門の近くに住む人達はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くてはもう泊まることころが見つからない。凍え、泣きながら、女の人や子供たちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。今日、二千百十七袋、米を取ってきた。明日もまた門を通 れるかどうかは判らない。

『南京の真実』 P88


37年12月8日

 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人達が街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き上げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人達がつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬ けに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が上がらないからだ。

『南京の真実』 P89


37年12月10日

それはそうと日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待っている。何しろ、この街の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。 

『南京の真実』 P94


37年12月25日

 難民は一人残らず登録し「良民証」を受け取らなければならないということだった。しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。
 早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たちが大勢よりわけられたのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別 された。兵隊用の大がかりな売春宿を作ろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分など吹き飛んでしまう。

『南京の真実』 P143-144


37年12月26日

安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。米はあと一週間しか持たないだろうとスマイスは言っているが、私はそれほど悲観的には見ていない。

『南京の真実』 P148
斉藤忠二郎氏 『知られて居ない南京戦史』より

あくる日、伊藤衛生軍曹を長とする掃蕩隊に加わった。この時は別方向で、京滬街道の左側を行った。周囲一〇〇メートル位の台地とまではいかない高見の所に民家があった。点検すると、老婆が出て来て、一方の口か。我等の登って来た方向に逃げた。「それっ、射てっ」と言うので撃った。倒れて、もがきがなくなる迄、撃った。伊藤軍曹が一番弾丸をつかった。

ちらばっていた兵が、全部で六人の中国人を捕まえて来た。皆市民服だが、その中で一人屈強な大人の体格はしているが、まだあどけない少年がいた。この六人を、すり鉢池のふちに連れて来た。少年だけは助けようとの論もあったが、結局全部池のふちから射って、すり鉢池に落した。

(同書 P43-P44)

*著者は、第十六師団第十六輜重兵連隊所属。上記の事件は、南京陥落直後、南京周辺の敗残兵掃蕩での出来事です。


「南京」へ向う途上の事例

梶谷健郎日記

◇十二月九日 晴

 午前七時起床、七、八名の避難民を捕へ火をたきてあたる。兵、吉澄随聖クリークに落ち服をぬぎ温む。霜降りて寒し。

 八時出発横山橋に至り、村医の家にて顔を洗ひ朝食をとる。珍らしき鰻頭等多数持ち来る。珍らしくも金を使用して物品を買ひおれり。缶入五十本のタバコを呉れる。厚く礼を述べ良民保護の日本旗及腕章等を書き、鈴木部隊梶谷大尉として判を押し、裕々と引上げる。

 正午ころ東口村附近にて道を尋ねんとせしが、皆逃走して誰も居らず。折から水田中、膝まで没して逃走中の支那女を発見。トンヤンピン口口口口ニーライライと呼べど振り反りつつも尚逃走せるにより、距離三百メートルにして一発射てばヨロヨロと水中に倒れ、そのまま再び起たず遂に死せり。

 皇軍の作戦上亦止むなしとするも、哀れと言ふも愚なり。

(『南京戦史資料集Ⅱ』P434)
大井満氏『仕組まれた"南京大虐殺"』より

 捕虜の不法処断

 このように、ここまでにいわゆる不法殺害なるものは見られないが、しかし純然たる不法行為にあたるものが、まったくなかったかというと、残念ながらそうは言いえない。

 それは雨花門外において、百十四師団所属の六十六聯隊第一大隊が、千二百四十の捕虜を、家屋に収容してから少しずつ連れだしては処断しているのだが、この場合は明らかに不法な行為と言わざるをえない。


 高松半市氏 第一大隊第四中隊

 数はそれほど多くはない。その半数くらいであったと思う。私の中隊で処分したのは百名くらいと思う。当時中隊で満足に行動できる兵は七、八十名で、捕虜監視に多くの兵力を割くことは不可能であった。
(『南京戦史』)

 食糧もなかったためと記録にはあるが、これは便衣兵ではない。いかに激戦の最中とはいえ、不法な捕虜殺害であることは明らかだ。

 ただ数となると、第一大隊のみの行為とあるから、四ケ中隊であることからして、千二百は誇大戦果と見られ、高松氏の言うように、実数は半分の六百程度ではないかと思われる。

(同書 P199~P200)

*「ゆう」注 一応原文通り紹介しましたが、加害者側は「人数」を過少申告する傾向がありますので、実際の人数は半分くらい、というのは必ずしも信頼できないものであると考えられます。上の通り、部隊のいわば「公認戦史」である「野洲兵団奮戦記」ですら「1500人余」の数字を挙げています。


歩兵第三十三聯隊『南京附近戦闘詳報』 第三号附表
昭和十二年十二月十四日  南京城内戦闘詳報鹵獲表 

 
俘虜
区分 将校 准士官下士官
員数 一四 三,〇八二

備考

一、俘虜は処断す

二、兵器は集積せしも運搬し得す

三、敵の遺棄死体 

区分   十二月十日 十一日 十二日 十三日 以上四日計
死体(概数) 二二〇 三七〇 七四〇 五,五〇〇 六,八三〇

備考 十二月十三日の分は処決せし敗残兵を含む

(「南京戦史資料集1」P499、または「南京戦史資料集」旧版P605)



佐々木元勝『野戦郵便旗』より

入 城 式


 十二月十七日

 一同トラックで中山陵に出かける。ここは中山門を出て、右手の松林丘陵のドライブ道路を走るとすぐである。陵の巾の広い階段を私たちが上がりかけた時、一組の兵隊がガソリン罐を徴発してもどってくる。一人新しい青竜刀を持っている。

 敗残兵が一人後手を縛られ綱で曳かれてきたので私は驚いた。ガソリン罐は陵墓の階段途中にある附属建物にあったものらしい。敗残兵は近くの松林か、どこかからひょろひょろと現われたのである。背が高く痩せ、眼がぎょろつき軍鶏みたいである。

 負傷しているらしく、飢え疲れているのであろう、階段横の芝地から道路へ下る時のめる。まったく情ないくらい、胸を道路に打ちつけて、二、三度のめる。連れて行かれるのが嫌らしくもある。中山陵の前、松林の中の枯れた芝生でこの敗残兵の青年は白刃一閃、頸を打ち斬られてしまう。亡国の悲哀がひしひしと私の胸に迫る。

(『野戦郵便旗』(上) P219) 

常識で考えても殺すことが必要な状況であるとも思われず、これは明らかに「虐殺」と判断できると思います。

*念のためですが、ネットではよく「投降兵はその場の判断で殺してしまって構わない」という誤解を見かけます。実際にはハーグ陸戦条約第二十三条で「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」は明文で禁止されており、上の二例は明らかな国際法違反の事例です。もし殺害が許されるケースがありうるとしても、それは極めて限定的なものです。
 

『「浅羽町史」 資料編三 近現代』 より

300 戦場からの手紙(3) 南京虐殺 昭13.1

浅羽町教育委員会所蔵

 (略)

 其の町に南京政府、敵様が居たる兵営も有り、海軍部も有って支那軍も相当常に軍事教練をして居た事が思われるよ。自分等の居る所は此の城外で有る。城外でも揚子江の沿岸で中国銀行、家は五階で有るが三階までは焼けて居る。

 自分等の居る隊は乙兵站部で、隊長は青木少佐で有って良い人です。兵站部は食糧等の分配をして各部隊にやる所で有る。揚子江を船で来る全部の荷物が自分等の所に来るのです。沢山な荷物を五十人足の兵で歩哨に立つので中々苦労は多いよ。

 去年の三十一日まで支那兵の捕えたのを毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に手をしばって落して置いて上から銃で撃ったり、刀で首を切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるでにわ鳥でも殺す様な気がするよ。

 十二月二十七日の夜は兵站部に食糧を盗みに来たので七人捕えて銃剣で突殺したが面白い物だったよ。全く内地にては見られない惨状だよ。

(以下略)

(P456)

* 静岡県浅羽町が編んだ、同町の町史からの引用です。原文は、「を」が「お」になっていたり、送り仮名が省略していたりするなど読みにくくなっておりますので、適宜修正しました。原文を確認されたい方は、直接原典を当っていただくようお願いします。


井出純二氏「私が目撃した南京の惨劇」より

ヨロヨロと引き立てられる捕虜

 私の南京入りは十三日の首都陥落から二週間以上遅れた十二月二十九日だから、それ以前のごとは全く知らない。いわゆる”南京虐殺事件”は、十七日の入城式と翌十八日の慰霊祭を前に、治安の確立を焦った日本軍が、市民の間に逃げこんだ便衣兵を、大量に狩り立てて殺したのが主体ではないかと推測する。中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における訓示の中で、特に軍の暴行にふれて批難、叱責したのも、今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。

 にもかかわらず、それから十数日経った後、南京埠頭で私が見た光景は、なんと解すべきか。軍司令官の威令、日本の軍規は、なぜにそこまで堕落していたのか。ましてや私が見た限りでは、大量、組織的、軍命令による白昼堂々の”公的処刑″としか見えなかったのは、いったいどうしたことなのか。私は、松井大将の声涙くだる異例の訓示と、この現実との相関について、いまだにその解釈に
苦しんでいる。

(*「ゆう」注 この「松井大将の涙の訓示」は、実際には2月7日のことだった、との議論もあります。)

 さて、現場は、歩哨も憲兵もいなくて立入り自由、写真撮影さえ可能で、いま考えると、なんとも不思議な話で、残虐シーンを次々にカメラに収めたが、数枚を除いてほとんど紛失してしまったのは残念である。

 南京北部の中山北路が挹江門から揚子江岸に至る東側に、下関(シャーカンと呼んでいた)駅があり、そこから引き込み線と鉄橋が江岸まで延びていて、対岸の浦ロへの貨物を鉄路から直接連絡船に移送できるようになっている。だから江岸は少し凹んでいて、ここで処刑すれば、ひとりでに河中に落ちるが、一部は流れて行っても、多くの死体はそのまま岸に累積、停留するわけだ。

 当時私は部隊の炊事を担当していたので、毎日一、二回、下関駅近くの糧秣廠へ、食糧その他の受領にトラックで出かけていた。営舎からの外出は自由であり、はっきりした記録はないが、二十九日以降、明けて正月五日ごろまでの間に、少なくも三、四回は現場へ出かけたと思う。好奇心-といってしまえばそれまでだが、航空隊の地上勤務では、ナマの戦争体験はなかなか機会が少ないので、こうした気持ちの処理もあったように思う。

 私は”血の桟橋”と名づけた。鉄橋の手前で、収容所から運ばれてきたらしい二十人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、江岸へ連行されて行く。釈放するからと偽って連れてきたのか、みんな大きなフロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を着ていた。軍服姿は見当らなかったが、二十、三十歳代の男が主で、坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた。

 江岸まで二〇〇メートルもあったろうか、道路のカーブを曲ると、江岸の斜面から水際にかけて処刑された死体がゾロゾロと重なっている。追い立てられてよろよろと歩いてきた捕虜たちは気づいて動揺したようだが、ここまで来ると、もう逃げ道はない。

 私は彼らが屠所へ引かれる羊のようにおとなしく追い立てられるのが、ふしぎでならなかった。腹が減って抵抗する気力もないのか、と想像したが、今でも解けない謎だ。

 もっとも、その前に北支戦線でやはり捕虜を日本刀で処刑する現場を見たことがあるが、このときも観念しておとなしく斬られていた。あきらめのよいのは中国人の民族性なのだろうか。


ダンベラと機関銃の処刑

 さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、水面にけり落しているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。

 一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数だが、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落していた。

 傍まで行くと、四十歳前後のヒゲの応召兵が「戦友○○のカタキ討ちだ。思い知れ」と大声で怒鳴りながらダンベラをふるっている。

 私に気がつくと、
「航空隊の人よ。少し手伝って下さいよ。手首も腕も疲れた。頼みますよ」
と言われたが、三十分近く見物しで胸が悪くなっていた私は、日夜連続、命がけの苦戦を重ね、多くの戦友を失った人にしてはじめて許される憎しみ、非人間性、野獣化だろうと、むしろ老兵に同情する気持だった。顧みて航空隊の地上勤務者は”軍隊の中でのドラ息子”、”苦労を知らない傍観者”みたいに思われており、手を振って早々にその場を離れ去ったことを憶い出す。

 その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に江岸で数人の兵が指さしながら見物しているので、「何ですか」と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた舟を揚子江の中流まで漕ぎ出して捕虜を突き落し、舟の上から機銃で射ち殺しているところだった。

 その前後、江岸にたまった死体を工兵隊らしい連中が、舟の上からサオとカギを使って流しているのを目撃して、カメラに収めた。                      
 
北支でもそうだったが、こうした処刑場面を第三者の目から隠そうという気持が、当事者にはまったくなかったようだ。

 将校か指揮官でもいたら事情を聞いてみたはずだが、姿はなかった。末端の兵隊に掃除させているような感覚だったのだろう。

 私は隊に帰ると、見聞きた情景を誰彼となく話したのだが、将校連中の意見では、①作戦の失敗、②衣食住の不足が原因だということであった。

 市民に聞くと、「蒋総統、唐生智防衛司令官の脱出も全く知らされなかった。政府からは”大丈夫、大丈夫”″と強調され安心していた。いざ陥落、逃げようとしたときは既に舟はなし、役人と一部の金持しか舟が手に入らなかった」とこぼしていた。一般市民だけでなく、敗残兵も逃げ場を失い、良民の間に紛れこんだので、その区別がつかず、勢い捕虜はふえるばかりで、当時実数一万人とも聞いた。

 またそのころ市内の電柱に、日本軍の名で「兵器修理工場をつくる。少しでも兵器取扱いの経験者は来れ、優遇する」といった求人広告が貼ってあるのを見た。中国で兵器取扱いの経験者といえば、旧軍人とみてまず間違いなしというわけで、これも苦しまぎれの敗残兵狩出しの奇策だったようだ。

(「増刊歴史と人物 秘史・太平洋戦争」=1984年12月発行、P273~P275)

*井出氏は、当時陸軍航空兵軍曹・飛行第八大隊付。


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 なお、この時期の「捕虜殺害」については、佐々木手記にも記述が登場します。

佐々木到一「ある軍人の自伝」より
 十二月二十六日、宣撫工作委員長命ぜらる。城内の粛清は土民にまじる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するにあるとともに我軍の軍紀風紀を粛清し民心を安んじすみやかに秩序と安寧を回復するにあった。予は峻烈なる統制と監察警防とによって概ね二十日間に所期の目的を達することができたのである。

 一月二日、敵機五機大校飛行場を空襲。損害なし。

 一月五日、査問会打切り。この日までに城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容。外に宣教師の手中にありし支那傷病兵を俘虜として収容。

 城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛。下関において処分せらるもの数千に達す。

 南京攻略戦における敵の損害は推定約七万にして、落城当日までに守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せられる。

 一月二十二日、警備司令官の任を第十一師団の天谷少将と交代。その後ふたたび北支へ転進す。

(「ある軍人の自伝 増補版」 P334~P335)

*「ゆう」注 第十六師団第三十旅団長であった佐々木少将の手記の紹介です。このあたりの文章はあちこちで引用される有名なものですが、勁草書房の「増補版」にしか出てこないもので、 「増補版」ではない、普通社の「中国新書」版にはこのあたりは収録されていません。お買い求めになる方、ご注意ください。




 
(2004.11.23記。 2006.3.19 『井家叉一日記』追加)




当時中国軍36師長だった宋希漣の手記
 下関と浦口の間にはもともと2艘の渡し船があった。一回に7~800人を乗せることができ、一往復するのに約40~50分かかる。当時午後5時には暗くなり、朝は7時になると明るくなった。したがって夜間のちょうど14時間航行できた。(なぜなら昼間は敵機の活動が頻繁で、あえて航行しなかった)。もし防衛司令長官部の運輸機関がこの2艘の船を確実に掌握していたなら少なくとも3万人は輸送して河を渡らせることができた。しかし彼らは、この2艘の船で漢口に出航してしまったのであった。下関の河辺に残っているのは、数艘の蒸気船(最大のものでも100馬力しかない)と、約2~300の民船だけだった。

『南京事件資料集』 中国関係資料編P247~248


当時中国軍36師長だった宋希漣の手記 
 私が率いている師団司令部の人員と直属部隊は晩の12時に和記公司付近に到着し、小蒸気船2艘、民船15隻を捜して渡河を開始した。一回目の渡河の後、船を南側に護送させ、つぎつぎと運送させた。しかし下関に集まってきた部隊はみな和記公司付近に殺到し、36師団の部隊はかき乱され、いくつかの船も彼らに奪い取られた。13日の朝8時までに本師団で渡河し浦口に着けたのは約3000人で、まだ渡れないものが半数以上をしめた。

『南京事件資料集』 中国関係資料編P248


『徐永昌日記』 (関連部分のみ抜粋)
11月20日
 朝、○○から下関(揚子江を渡るときの、南京の波止場)を通る。江岸は人の山で、すべて船を待つ民衆である。9時蒋介石を訪ね改めて陳述する。

12月3日
 水道故障。この数日下関(長江対岸に渡る船着場)には渡河を待つ者、常に三万五万、難民、退却軍であふれており、空襲でもあれば、その惨状は想像を絶する。

12月7日
昨日、敵機浦口を空襲、死傷者三百余ときく。下関碼頭一帯、渡河を待つ者、海、山の如く、待つこと三日、まだ渡れぬ者ありという。




鈴木氏の資料解説
≪当時の南京・国民党の軍最高司令長官ともいうべき立場にいた徐永昌の日記を見るのが適当であると思う。これこそは「回顧」でもなく、「活字化」によって原文が整理されたものでもなく、文字通り「原資料そのまま」だからである。≫

『新・南京大虐殺のまぼろし』P216 




『ニューヨークタイムズ』 一九三七年十二月十八日
F・ティルマン・ダーディン


 捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性を捜し出した。

 安全区の中のある建物からは、四〇〇人の男性が逮捕された。彼らは五〇人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。

 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。

 この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P418)



『シカゴ・デイリー・ニュース』一九三七年十二月十五日

A・T・ステイール


<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>


 南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。

 首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。

 それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。


(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P465-P466)


ロイター通信・スミス記者の講演 

 一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。その後、英国軍艦が同じ航路をとることになった。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。

 出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。

 その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。他の中国人がどうなったのかはわからない。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P49)


証言による『南京戦史』」(10)より
▼住谷盤根氏の回想

(第三艦隊従軍画家、安宅乗組)
―南京陥落後の捕虜殺害―                (雑誌『東郷』58年12月号)

 その時「陸軍からの問い合わせの電報があって、捕虜の処分はどうなっているか?」と第三艦隊司令部から、問い合わせがかかってきた。福岡参謀は「未だ判りません。すぐ調べて報告します」と返電して部屋の外へ出て行かれた。私は直ちに福岡参謀の後に従って、士官室に戻った。

 士官室ではこの問題を知っていて、若い中尉(名前は忘れた)が、家宝の銘刀を軍刀に仕込んだのを握って「今晩一つ試してみたいのです。未だ一度も使っていないから」と力んで士官室を出て行かれた。夕食がすんで大分たってからである。

 私も中尉に従って士官室を出て校門を降り、下関埠頭を左の方に行って、紅岸の鉄の垣根(手すりの低い棚)のところへ行った。道路の右側に捕虜が五人ずつ縛られて、ずっと遠くまで並んでいたようだが、夜の暗がりでよく見極められない。

 陸軍の兵士が、その五人を鉄の垣根のところへ連れ出し、江へ面して手すりに向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともに見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。私が懐中電灯で照らすので「その電灯は離れないと返り血を浴びる」と陸軍に言われたので、これを潮時に中尉と二人で安宅に帰った。

 夕方暗いなかを陸軍兵に連れられてきた中国人捕虜の数は約千人足らずと見た。他にも捕虜があったのではないかと考えたが、ともかく何万という捕虜は、南京に関する限り、あるはずがないことは確実である。

(「偕行」1985年1月号 P32)


吉田庚氏「軍馬の想い出 一輜重兵の手記」より

南京滞在.

 昭和12年12月28-31日

前略
 
 さて、南京で正月を迎えるかそれとも一日も早く渡河して原隊に帰るか、明日いずれかを選ばん。原隊を離れる事は戦地では禁物である。日用品の官給を受領す。霙が雪となりて白き薄化粧。滞泊す。

 疎外せし同行の戦友橋爪、小林の二名は外出して小生は留守居をする。天麩羅せしも失敗す。北村武夫、ミヤに葉書出す。晩歩兵砲隊兵来り、チャン酒を飲みながら世間話に興じて軍歌、民謡を唱いご機嫌で帰る。飲み過ぎて腹痛あり。

 本日原隊へ連絡に行きし上等兵二名の一日も早く帰らんことを希う。捕虜惨殺の実験談を聴く。連日実施されつつありと。

 午前中、中島部隊野戦支庫に行き馬糧及び麦粉の支給を受く。住民殆どいなく廃墟の街で想像通り皇軍兵馬往還である。たまに支那服を着た人々に出会うが、軍許可証を腕章に巻く通訳、または治安維持会幹部などの軍協力者である。

 宿舎近くに火事あり一時避難準備するも無事である。晩に至りまたまた再燃し火勢猛裂となりしため、装具を歩兵砲隊宿舎に運び仮眠する。延焼を免れて戻る。二、三日中に原隊へ連絡に行きし上等兵の帰着を待って南京を出発することとす。

 準備も完了している気安さから噂に開く下関埠頭の捕虜銃殺現場を検分する。街側堤防脚部に監視兵に取囲まれた多数の捕虜うごめき、二十名堤上に整列させ半数は揚子江に面して半数は裏向きとして前向き十名は桟橋に駆足行進濁流に投身せしむるのである。強行溺死の処置であるが、生還せんとするものまたは逃げんとせし者は数名の歩兵が膝撃の構えで射殺する。終ると残る裏向き十名が前向けに替り、終れば堤脚部から二十名整列、これを繰返すのである。鮮血河流を紅とす。

 鳴呼惨たる哉、已むを得ざる処置なる哉、江上に浮上する我が駆逐艦上より二、三発飛弾水面につき刺す。流弾的をはずれば友軍に危害を招く恐れあり。桟橋上と堤上の歩兵が怒号して中止せよと叫ぶ。漸く止みたり。海軍の面白半分の行動である。

 上流に向かって堤防を行く川面側の堤下には、到る処正規兵の死体と銃器、弾帯、鉄兜散乱し逃げかねて濁流に流されしものも多数あらん。小型小銃を見付け点検せしに我が軍の騎銃のごとく、口径は一回り大きく弾も廿数発拾得して試射せしところ異常なし、よって今後の戦争に役立てんとして持ち帰る。

(P68~P69)

*吉田氏は、第十三師団歩兵五十八連隊所属。