斉藤忠二郎氏 『知られて居ない南京戦史』より
あくる日、伊藤衛生軍曹を長とする掃蕩隊に加わった。この時は別方向で、京滬街道の左側を行った。周囲一〇〇メートル位の台地とまではいかない高見の所に民家があった。点検すると、老婆が出て来て、一方の口か。我等の登って来た方向に逃げた。「それっ、射てっ」と言うので撃った。倒れて、もがきがなくなる迄、撃った。伊藤軍曹が一番弾丸をつかった。
ちらばっていた兵が、全部で六人の中国人を捕まえて来た。皆市民服だが、その中で一人屈強な大人の体格はしているが、まだあどけない少年がいた。この六人を、すり鉢池のふちに連れて来た。少年だけは助けようとの論もあったが、結局全部池のふちから射って、すり鉢池に落した。
(同書 P43-P44)
*著者は、第十六師団第十六輜重兵連隊所属。上記の事件は、南京陥落直後、南京周辺の敗残兵掃蕩での出来事です。
「南京」へ向う途上の事例
梶谷健郎日記
◇十二月九日 晴
午前七時起床、七、八名の避難民を捕へ火をたきてあたる。兵、吉澄随聖クリークに落ち服をぬぎ温む。霜降りて寒し。
八時出発横山橋に至り、村医の家にて顔を洗ひ朝食をとる。珍らしき鰻頭等多数持ち来る。珍らしくも金を使用して物品を買ひおれり。缶入五十本のタバコを呉れる。厚く礼を述べ良民保護の日本旗及腕章等を書き、鈴木部隊梶谷大尉として判を押し、裕々と引上げる。
正午ころ東口村附近にて道を尋ねんとせしが、皆逃走して誰も居らず。折から水田中、膝まで没して逃走中の支那女を発見。トンヤンピン口口口口ニーライライと呼べど振り反りつつも尚逃走せるにより、距離三百メートルにして一発射てばヨロヨロと水中に倒れ、そのまま再び起たず遂に死せり。
皇軍の作戦上亦止むなしとするも、哀れと言ふも愚なり。
(『南京戦史資料集Ⅱ』P434)