南京大虐殺犠牲者数9 | リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

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シャルフェンベルク(ドイツ大使館南京分室事務局長)の記録 38年1月13日
【南京の状況 一九三八年一月一三日】
 当地南京では、電話、電報、郵便、バス、タクシー、力車、全て機能が停止している。水道は止まっており、電気は大使館の中だけ。しかも一階しか使えない。イギリス大使館にはまだ電気が通 じていない。
 なぜ交通が麻痺しているかといえば、城壁の外側は中国人に、市内はその大部分が日本軍によって、焼き払われてしまったからだ。そこはいま誰も住んでいない。およそ二十万人の難民はかつての住宅地である安全区に収容されている。家や庭の藁小屋に寄り集まって、人々はかつがつその日をおくっている。多い所には六百人もの難民が収容されており、彼らはここから出ていくことはできない。

『南京の真実』 P185



添付書類
駐華ドイツ大使館(漢口)一九三八年二月一日付報告第六七号に添付
作成者----シャルフェンベルク(駐華ドイツ大使館事務長、南京)
文書番号二七二二/一六一二/三七
一九三八年一月一三日の南京情勢

 南京では、電報、郵便、電話がいずれも不通で、バス、タクシー、人力車も走っていない。水道は止まっており、電気は大使館の建物に通じてはいるが、階上から光が漏れることは許されない。英国大使館にはまだ電気も通じていない。
 交通は途絶えている。なぜなら市の城外地区がすべて中国軍によって、また城内の大部分が日本軍の手で焼き払われてしまったためである。城内にはもはや誰一人住んでいないが、残りの約二〇万の市民は安全区(旧住宅街)に収容され、家や庭でその日暮らしの生活をしている。筵で覆われた大テントに、一張当たり六百人近くが暮らしており、安全区外に出ることも許されない。安全区は保証によって封鎖されている。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P83



東京裁判 マギー証言(1)

○ブルックス弁護人 日本軍が十二月三十日に、南京に人った時の南京の人口は大体どの位でありましたか、二百万位でありましたか。
〔小野寺モニター 一寸訂正致します。十二月十三日に二十万位でありましたか〕
○マギー証人 それは一寸幾ら居ったかと云ふことは申上兼ねるのでありますが、我々の委員会の「メンバー」の委員の推定に依りますと、安全地帯には約二十万、或は三十万を超したかも知れませぬ。城外の安全地帯にはモットモット沢山居りましたが、何れにしても推定は不可能であります。



東京裁判 ウィルソン証言

 日本軍の南京占領以前、南京の人口は百万ありました。併し占領後市民の大部分は市を去りまして、人口の総計は五十万以下となったのであります。

『日中戦争史資料8』 P21



金陵大学病院からの手紙
ロバート・O・ウィルソン医師

十二月九日 木曜日
国際委員会は、その五人のメンバーがこの家に留まっていて、素晴らしい事業をしているのだが、しかし、成果の程ははかばかしくない。日本軍は国際委員会を認めないときっぱり言っている。安全区の中の私たちの周囲にある、利用できるすべての建物に、約数十万人の人々が群がり住んでいる。彼らに何が起こるかは、ただ推量するほかはない。・・・・・・


十二月十四日
 南京に残留している一五万から二〇万人は、以前に難民区と私が書いた安全区に群がった。国際委員会は彼らに対して膨大な仕事をなしつつあり、今や彼らの努力によって、大勢の命を救っていることは疑いない。・・・・・・

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P276-278



外交資料(私的報告)
一九三八年一月一三日付
作成者----クレーガー(南京)
文書番号なし
南京の運命の日々 一九三七年一二月一二日~一九三八年一月一三日


 日本軍は難民区を承認しなかったが、戦闘中にはこれを尊重したからだ。難民区に加えられた砲撃はごくわずかで、戦闘の犠牲者も非常に少なかった。事実、南京に残った全住民、つまり約二〇万から二五万の人々が難民区に逃げ込んだ。大きな難民収容所に人々を受け入れるための十分な準備がなされた。二か月分の米が運び込まれ、潤沢な資金も自由に使用できた。

『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P52



南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告----一九三八年冬季
一九三八年二月十八日 ベイツ(もしくはベイツとミルズ)

 南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにもかかわらず、二五万人が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まってさらに悲惨なめにあうことになった。・・・・・・

 二五万人の人々の大部分は、密集した、異様な環境のなかで生活しています。なぜならば、安全区は市の城内区域のわずか八分の一ほどの面積しかないからです。これらの家族の多くはその一員を殺されて失っています。多くの場合、彼らの家に静かにしていた人々が、理由もなく殺害されたのです。・・・・・・

 いくつかのセンターの記録を参照にしてM・S・ベイツとW・P・ミルズが準備した。
一九三八年二月十八日

『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P182,183,185



アメリカのキリスト者へのベイツの回状
ロイド・トリエスティノ 聖「コンテ・ベルデ」(Lloyd Triestino SS."Conte Verde")
香港近くのマドラスへの道沿いにて
一九三八年十一月二十九日

 しかし、私は大部分の日々、複数の仕事をやっているので、救済以外の仕事もやりました。昨年の十二月、国際委員会は、二五万人の民衆に(相対的に高い安全性を備えた)避難所を提供し、うち七万人を二五の難民キャンプに収容いたしました。後者の難民の多くには食べ物を提供する必要がありました。それは、部分的に秩序が回復して難民の数が漸次減少したとはいえ、五月まで必要でした。これまでに中国通貨で三四万五〇〇〇元が主として食糧に出費されました(春までは一アメリカ・ドルが三・四〇元でしたが、現在は一ドルは六元以上)。・・・・・・




 現在、南京の人口は事実上四〇万人におよんでいます(難民区の時期は二五万人、戦争直前には一〇〇万人いた)。最近の増加は、大きくは田舎からの難民によっています。彼らのある部分は、南京市からそこへ安全を求めて行ったのですが、今はゲリラとそれに対する報復襲撃で危険にさらされる後背地となり、そこで彼らは有り金全部(ときには衣服も)を使い果たしてしまったか、あるいは奪われてしまったのです。・・・・・・



『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P340-341





南京における救済問題に関するメモ
一九三八年二月二十二日



 しかしながら、南京の秩序は以前よりずっとよくなり、およそ五分の二の人たちが前の安全区外の自宅に戻りつつあり、市はやや平常の様相を呈しつつあると言うことができる。しかし、自分の家に帰りつつあるのは、ほとんどが老人と幼児だけだ。



(「ジョージ・フィッチの公演メモと思われる」編訳者注)



『南京事件資料集 アメリカ関係資料』 P189



ヒトラーへの上申書(公演の草稿)(ラーベ)



 私が七月に発ったときには、南京の人口はおよそ百三十五万人でした。その後、八月なかばの爆撃の後に、何十万もの市民が避難しました。けれども各国の大使館員やドイツ人軍事顧問はまだ全員残っていました。

『南京の真実』 P296



ヒトラーへの上申書(公演の草稿)(ラーベ)

 このように、安全区は何日にもわたってすこしずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとはてごろな宿が見つからなかったのです。私たちはすべての通りに難民誘導係員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと二十五万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。なかでも一番貧しい人たち、食べる物さえない六万五千人を、二十五の収容所に収容しましたが、この人たちには、一日米千六百袋、つまり生米で一人カップ一杯しか与えてやれませんでした。