南京大虐殺犠牲者数3 | リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

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当時中国軍36師長だった宋希漣の手記
 下関と浦口の間にはもともと2艘の渡し船があった。一回に7~800人を乗せることができ、一往復するのに約40~50分かかる。当時午後5時には暗くなり、朝は7時になると明るくなった。したがって夜間のちょうど14時間航行できた。(なぜなら昼間は敵機の活動が頻繁で、あえて航行しなかった)。もし防衛司令長官部の運輸機関がこの2艘の船を確実に掌握していたなら少なくとも3万人は輸送して河を渡らせることができた。しかし彼らは、この2艘の船で漢口に出航してしまったのであった。下関の河辺に残っているのは、数艘の蒸気船(最大のものでも100馬力しかない)と、約2~300の民船だけだった。

『南京事件資料集』 中国関係資料編P247~248


当時中国軍36師長だった宋希漣の手記 
 私が率いている師団司令部の人員と直属部隊は晩の12時に和記公司付近に到着し、小蒸気船2艘、民船15隻を捜して渡河を開始した。一回目の渡河の後、船を南側に護送させ、つぎつぎと運送させた。しかし下関に集まってきた部隊はみな和記公司付近に殺到し、36師団の部隊はかき乱され、いくつかの船も彼らに奪い取られた。13日の朝8時までに本師団で渡河し浦口に着けたのは約3000人で、まだ渡れないものが半数以上をしめた。

『南京事件資料集』 中国関係資料編P248


『徐永昌日記』 (関連部分のみ抜粋)
11月20日
 朝、○○から下関(揚子江を渡るときの、南京の波止場)を通る。江岸は人の山で、すべて船を待つ民衆である。9時蒋介石を訪ね改めて陳述する。

12月3日
 水道故障。この数日下関(長江対岸に渡る船着場)には渡河を待つ者、常に三万五万、難民、退却軍であふれており、空襲でもあれば、その惨状は想像を絶する。

12月7日
昨日、敵機浦口を空襲、死傷者三百余ときく。下関碼頭一帯、渡河を待つ者、海、山の如く、待つこと三日、まだ渡れぬ者ありという。




鈴木氏の資料解説
≪当時の南京・国民党の軍最高司令長官ともいうべき立場にいた徐永昌の日記を見るのが適当であると思う。これこそは「回顧」でもなく、「活字化」によって原文が整理されたものでもなく、文字通り「原資料そのまま」だからである。≫

『新・南京大虐殺のまぼろし』P216 




『ニューヨークタイムズ』 一九三七年十二月十八日
F・ティルマン・ダーディン


 捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性を捜し出した。

 安全区の中のある建物からは、四〇〇人の男性が逮捕された。彼らは五〇人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。

 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。

 この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P418)



『シカゴ・デイリー・ニュース』一九三七年十二月十五日

A・T・ステイール


<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>


 南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。

 首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。

 それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。


(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P465-P466)


ロイター通信・スミス記者の講演 

 一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。その後、英国軍艦が同じ航路をとることになった。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。

 出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。

 その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。他の中国人がどうなったのかはわからない。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P49)


証言による『南京戦史』」(10)より
▼住谷盤根氏の回想

(第三艦隊従軍画家、安宅乗組)
―南京陥落後の捕虜殺害―                (雑誌『東郷』58年12月号)

 その時「陸軍からの問い合わせの電報があって、捕虜の処分はどうなっているか?」と第三艦隊司令部から、問い合わせがかかってきた。福岡参謀は「未だ判りません。すぐ調べて報告します」と返電して部屋の外へ出て行かれた。私は直ちに福岡参謀の後に従って、士官室に戻った。

 士官室ではこの問題を知っていて、若い中尉(名前は忘れた)が、家宝の銘刀を軍刀に仕込んだのを握って「今晩一つ試してみたいのです。未だ一度も使っていないから」と力んで士官室を出て行かれた。夕食がすんで大分たってからである。

 私も中尉に従って士官室を出て校門を降り、下関埠頭を左の方に行って、紅岸の鉄の垣根(手すりの低い棚)のところへ行った。道路の右側に捕虜が五人ずつ縛られて、ずっと遠くまで並んでいたようだが、夜の暗がりでよく見極められない。

 陸軍の兵士が、その五人を鉄の垣根のところへ連れ出し、江へ面して手すりに向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともに見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。私が懐中電灯で照らすので「その電灯は離れないと返り血を浴びる」と陸軍に言われたので、これを潮時に中尉と二人で安宅に帰った。

 夕方暗いなかを陸軍兵に連れられてきた中国人捕虜の数は約千人足らずと見た。他にも捕虜があったのではないかと考えたが、ともかく何万という捕虜は、南京に関する限り、あるはずがないことは確実である。

(「偕行」1985年1月号 P32)


吉田庚氏「軍馬の想い出 一輜重兵の手記」より

南京滞在.

 昭和12年12月28-31日

前略
 
 さて、南京で正月を迎えるかそれとも一日も早く渡河して原隊に帰るか、明日いずれかを選ばん。原隊を離れる事は戦地では禁物である。日用品の官給を受領す。霙が雪となりて白き薄化粧。滞泊す。

 疎外せし同行の戦友橋爪、小林の二名は外出して小生は留守居をする。天麩羅せしも失敗す。北村武夫、ミヤに葉書出す。晩歩兵砲隊兵来り、チャン酒を飲みながら世間話に興じて軍歌、民謡を唱いご機嫌で帰る。飲み過ぎて腹痛あり。

 本日原隊へ連絡に行きし上等兵二名の一日も早く帰らんことを希う。捕虜惨殺の実験談を聴く。連日実施されつつありと。

 午前中、中島部隊野戦支庫に行き馬糧及び麦粉の支給を受く。住民殆どいなく廃墟の街で想像通り皇軍兵馬往還である。たまに支那服を着た人々に出会うが、軍許可証を腕章に巻く通訳、または治安維持会幹部などの軍協力者である。

 宿舎近くに火事あり一時避難準備するも無事である。晩に至りまたまた再燃し火勢猛裂となりしため、装具を歩兵砲隊宿舎に運び仮眠する。延焼を免れて戻る。二、三日中に原隊へ連絡に行きし上等兵の帰着を待って南京を出発することとす。

 準備も完了している気安さから噂に開く下関埠頭の捕虜銃殺現場を検分する。街側堤防脚部に監視兵に取囲まれた多数の捕虜うごめき、二十名堤上に整列させ半数は揚子江に面して半数は裏向きとして前向き十名は桟橋に駆足行進濁流に投身せしむるのである。強行溺死の処置であるが、生還せんとするものまたは逃げんとせし者は数名の歩兵が膝撃の構えで射殺する。終ると残る裏向き十名が前向けに替り、終れば堤脚部から二十名整列、これを繰返すのである。鮮血河流を紅とす。

 鳴呼惨たる哉、已むを得ざる処置なる哉、江上に浮上する我が駆逐艦上より二、三発飛弾水面につき刺す。流弾的をはずれば友軍に危害を招く恐れあり。桟橋上と堤上の歩兵が怒号して中止せよと叫ぶ。漸く止みたり。海軍の面白半分の行動である。

 上流に向かって堤防を行く川面側の堤下には、到る処正規兵の死体と銃器、弾帯、鉄兜散乱し逃げかねて濁流に流されしものも多数あらん。小型小銃を見付け点検せしに我が軍の騎銃のごとく、口径は一回り大きく弾も廿数発拾得して試射せしところ異常なし、よって今後の戦争に役立てんとして持ち帰る。

(P68~P69)

*吉田氏は、第十三師団歩兵五十八連隊所属。