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司法試験情報局(LAW-WAVE)

司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

今まで何度も書いてきたことですが、経験上、ずっと気になっていたことがありました。

 

それは、「受験生」(つまりは不合格者)である私が、試験について何ごとかを発言した際の、相手方の反応です。

これまで、身近な友人の反応は、見事に分かりやすく2つに分かれていました。

 

ひとつは、私が司法試験についての単なる個人的見解(教材の評価や勉強方法などの考え方)を述べただけで、

 

「お前は受験生だろっ!」

 

と怒りを露わにしてきた受験生です。

怒らないまでも、「不愉快な話を聞かされた」とばかりに、苦虫を噛み潰したような顔になる人です。

 

もうひとつは、そんなことでは全然怒らなかった受験生です。

そういう人は、怒らなかっただけでなく、むしろ私の話に積極的に関心を持ってくれました。

 

このように、身近な友人の反応は、はっきりとに2つに分かれていました。

①受験生の発言でも、有益と思う発言には耳を傾けるタイプ

②受験生には発言権がないと確信しているタイプ

 

この2つです。


ブログを始めてから、ネットの向こう側にも、これら2つのタイプが、やはり明確な形で分かれて存在しているんだなぁ…ということを、改めて(そして久しぶりに)意識させられました。

ブログを始めてから今まで、何度も何度も、

 

「あいつは受験生だろ」

「不合格者だろ」

 

という趣旨の、耳の痛い「ご忠告」をいただきました。

 

その言葉は、かつて②タイプの友人たちに、面と向かって言われたことと全く同じでした。

 

 

********************



今日の話は、実は、この①②の受験生が、ある程度、学歴で区別することができていたという話です。

 

ほんと、下品な話で申し訳ありません。

ただ、このブログもいい加減終盤に近づいてきたことですし、何より本当のことなので言ってしまうと、

①タイプの人は、ほとんどが東大卒の受験生でした

②タイプの人は、全員が早慶以下の2流・3流大卒の受験生でした

 

もちろん中には、3流大学出身で①タイプなんていう例外的な人もいました。

しかし、概ね学歴による区分けができていたことは間違いありません。

2流・3流大卒でかつ①タイプの人というのは、共通して、司法試験受験生には珍しい教養人であるか、端的に頭の良い人かのどちらかでした。法学以外の勉強もちゃんとやっている感じの人たちでした。

②タイプの人は、おしなべて教養もなく、頭も悪い人たちでした。

悪口で言っているのではなく、実際にそうだったのだから仕方ありません。

そこから私は、ある仮説をずっと胸にしまっていました。

その仮説とは、↓こういうものです。

 

【1】東大卒や高い知性の持ち主が①タイプになるのは、彼らが自分の能力に揺るぎない自信を持っているからに違いない。

 
⇒その揺るぎない自信が余裕となって、他人の言葉に耳を傾けられる柔軟性が生み出されるのだろう。

(また、その自信が、客観的な権威を疑うこともできる良い意味での傲慢さにも繋がっているのだろう)

 

【2】2流・3流大卒や低い知性の持ち主が②タイプになるのは、彼らが自分の能力に根本的なところで自信を持っていないからに違いない。

 
⇒その自信のなさが、他人の言葉に耳を傾けられない硬直性を生み出しているのだろう。

(また、その自信のなさが、客観的な権威を盲目的に信じる卑屈さにも繋がっているのだろう)

 

簡単にいうと、↑こんな風に考えていました。

 

普通に考えれば全くそういうことなんだろうし、この考えにそれほど付け加えることはないんだろうな…。

 

そんな風に思っていました。

 

で、先日、今まで胸にしまっていた↑この考えを、東大出の弁護士の友人に思い切って聞いてみることにしました。

 

今になって改めてこんなことを聞く気になったのは、やはり、このブログを始めてしまったことで、上記①②の区別問題が私の意識上に再燃したことが一番の原因だと思います。

 

この際なので、典型的な①タイプであり、はっきりとした物言いに定評のあるその友人に、私の見立ての検証を求めてみたわけです。

 

 

かお

 

「ねえ。あなたは東大出てて自分に自信があるから、私の言うこと素直に聞けたんだよね」

 

 

彼女の答えは、少し意外なものでした。

 

 

女の子

 

「う~ん・・・たしかにそういう部分もあると思うけど、もっと大きい理由があると思う。」

 

「東大生は全員、自分の過去の経験から、自分のやり方が正しかったと思ってる。自分のやり方が正しかったから、自分は東大生になれたんだと思ってる」

 

「それはつまり、東大生の自分ではなく、受験生だった自分が正しかったってこと」

 

「正しい方法は、成功する前から正しかったからこそ“成功”に至りついたんであって、当たり前だけど、成功という結果から遡及的に『正しかった』ってことになるわけじゃない」

 

「東大生が、正しいものは、合格する前から正しいと素直に受け入れられるのは、そういう自分自身の経験に照らして考えているからだと思う」

 

東大生にとっては、受験生だった自分と東大生である自分との間に断絶はないんだよね」

 

 

・・・とまあ、こんな感じのけっこう筋の通った意見をもらいました。

私には意外というか盲点というか、どう考えても思いつかない論理(表現)だったので、えらく感心してしまいました。

 

広い意味では「東大生は自分に自信がある」という私の最初の仮説に含みこめなくもないのですが、それ以上に具体的で、何より確かに実際に東大に行った人にしか言えない感じのリアリティのある物言いだなぁ、と思ったので紹介しました。

 

 

ちなみに、ついでに聞いてみました。

 

 

かお

 

「じゃあ、②タイプのほうはどう思う?」

「あんなに執拗にケチをつけてくるってことは、やっぱり自分に自信がないからなんじゃないかと思うんだけど」

 

女の子

 

「う~ん・・・よく分かんない。 ま、いいんじゃない。受かんないんだから」

 

ガーン 

 

「・・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

このブログの頻出概念である「潰す」という言葉の意味について、何人かの方からご質問を受けました。

これについては、以前、コメントの返信という形で以下のように書いたことがあります。


①単に頭で「覚えている」以上の、使えるレベル
②頭で理解している以上の、体で体得しているレベル

③100回解いても100回間違えないレベル
④特定の問題の処理について質問されたとき、考えて答えるのではなく、脊髄反射的に口が勝手に答え始めるところまで内在化されているレベル


要は、40度の熱で朦朧とした意識の中で寝込んでいるときでも、1秒で即答できるレベル(笑)です。

 

単に、覚えたor正解した、といったレベルで満足しないように、一通り学習を終えた更に上に、このような潰すというより高次のステージを意識していたほうがいい。これが私の意見です。

 

そういう規範を立てとかないと、受験生は次々と教材を変えていってしまいますから。

その上で、より本音をいえば、潰すという概念に本来終わりはありません

むしろ、潰せたと思ったところがその人の限界です。

「限界」とは、ある受験生が 対象から意味を汲み取れる限界量 のことです。

 

つまり、対象(ex.教材・講義etc…)から意味を読み取れなくなったところが、その人の限界です。

 

優秀な受験生は、何よりひとつの対象から汲み取れる意味の量が半端ではありません。

100回やっても、そこから100回新しい発見ができるのが優秀な受験生です。
100回やっても、100回成長できるのが優秀な受験生です。

 

対して、センスのない受験生は、せいぜい2~3回しか成長できません。

センスのない受験生にとって、ひとつの教材を4回5回と勉強するのは無駄にしか感じられません。

だから、すぐに教材を浮気してしまうのです。

つまり、センスのない受験生とは、何にでもすぐに飽きてしまう人のことです。


「過去問+数十問の事例問題をやれば論文対策は十分だよ」といくら言っても、「短答知識は肢別本で十分だよ」といくら言っても、ほとんどの受験生がそれ以外の領域に手を出します。

更に致命的にセンスのない人になると、それ以外の領域の意義まで熱く語りだしてしまいます。

それは、彼らが学習の対象から読み取ることのできるもの、その質と量が貧困だからです。

優秀な受験生は、その逆です。

優秀な受験生は、少ない教材から学び続けること、すなわち“成長”し続けることができます

そこまで学ばないと見えてこないものがある、と知っているからです。

つまり、

 


優秀な人は、

 

    ↓

 

対象から意味を汲み取り続けることができる

 

    ↓ (したがって)

 

教材を浮気しない(手を広げない)。

 

    ↓ (その結果)

 

教材を「潰す」ことができる。


この流れが、優秀な受験生の学習パターンです。

 

優秀な受験生は、「教材を浮気しない」とか、「教材を徹底的に潰す」とか、そういう規範をわざわざ自らに課すまでもなく、自然にこの流れに乗ることができる人です。


ちなみに、もうひとつ、「意味を汲み取れる」という説明とは別の角度からの説明もできます。

 

 

優秀な人は、

 

    ↓

 

目的意識が明確である(目的から目を逸らさない)。

 

    ↓ (したがって)

 

目的という観点から必要な教材にしか手を出さない。

 

    ↓ (あくまでもその結果として)

 

教材の浮気をしなくなる(手を広げなくなる)。

 

    ↓ (さらにその結果として)

 

教材を潰してしまうことになる。

 

 

↑こういう説明も可能です。

 

 

実はこちらの「目的意識」のほうが、試験勉強においてより本質的に重要な問題です。

 

しかし、今回は受験生の「対象から意味を汲み取れる量」の問題、あるいは「飽き」の問題のほうを主題にしたいと思っています。

 

本当は、どこまでも対象から意味を汲み取り続けることができたり、目的意識を明確に持つことができれば、「教材の浮気をしない」とか「潰す」といった規範をことさら意識する必要はないのです。

 

優秀な人にとって、「浮気をしない」とか「潰す」といったことは、結果の問題に過ぎません

彼らにとって、こういったことは、放っておけば結果として実現できてしまうものなのです。

一方で、普通の受験生は、放っておくだけではこの流れに自然に乗ることができません。

何度も書きますが、普通の受験生は教材の意味の読み取りが浅く、飽きっぽいからです。

 

そこで、普通の受験生には、優秀な受験生とは逆ルートを意識的に進むための規範が必要になります。

つまり、

 

 

教材を潰す(⇒そういう“規範”を自らに課す)。

 

     ↓ (そのためには)

 

教材の浮気(手を広げること)は厳禁。

 

     ↓ (そうやって)

 

なんとしてでも対象から意味を汲み取り続ける(⇒成長し続ける)。

 

     ↓ (そうすることで)

 

優秀な受験生になる。

 

 

このように、天然の優秀な受験生とは逆のルートを意識的に辿ることで、最終的に優秀な受験生と同じ能力を身に付けようというのが、「潰す」という規範の目的です。

 

基本的には、冒頭の①~④の「潰す」の意義を理解していただければOKですが、「潰す」という概念は、このような規範的な概念として理解していただいたほうがより良いと思います。

 

本当に大事なことは、ある一定の「潰す」という水準に到達することでは実はありません。

 

そういうゴールは、実はありません

 

それよりも大事なことは、本試験当日までに、でき得る限りの成長を続けることです。

「潰す」とは、果てしないゴールに向かって不断に歩みつづける動的概念でもあります。

 

不断に歩み続けるために必要なことは、ひとつの教材に習熟し続けることです。

手を広げていたらそれはできません。

人間関係に置き換えると分かりやすいです。

 

たとえ1000人の友人と薄く広く付き合ったところで、それでは人間理解は一向に進みません。

もちろん、どんなに深く&長く付き合っても、相手のことを100%理解できるわけではないでしょう。

しかし、次々と友人を取り換えたり、相手にすぐに飽きて浮気をする人の人間関係は、貧困です。

 

その人の人間関係の豊かさは、友人が何人いるかではなく、10年付き合った友人が何人いるかにかかっています(もちろん友人だけでなく、異性関係でも家族関係でも同様だと思います)。

 

友人や恋人をとっかえひっかえやっている人には、あるいは、人付き合い自体を避けている人には、なかなかこのことは理解されません。

 

こういう人は、半年くらい付き合えば、あるいはネットでも徘徊してれば、それで人を理解できた気になれるのかもしれませんが、当然ながら、人がそんなに浅いものであるはずがありません。

 

3日付き合えば3日分の、半年付き合えば半年分の、10年付き合えば10年分の、50年付き合えば50年分の相手(=対象)が見えてくるはずですし、その分だけ、自分も成長することになるはずです。

 

このように、対象(ex.教材)のひとつひとつを、人(=相手)だと思って付き合うことをおすすめします。

 

 

 

 

講師紹介は今日で最後なので、最後に友人の講師を紹介させていただきます。

以前、学校の勉強と試験勉強 で、根源的に試験に強いタイプとして紹介した人です。

 

総論的な勉強法、具体的な個々の方法論、いずれもこのブログの方針と99%同じです。

このブログの内容に共感していただいていた方には、間違いなくどの講師よりもおすすめできます。

まず、今まで何度となく同じことを書いてきましたが、もう一度だけ最後に書いておきます。

試験に限らず、およそ何か物事を成し遂げるのに必要なことは、次の2つしかありません。

①目的への正しい方向性

②目的までの距離を埋める必要最小限の努力

この2つです。


この①②が一定以上のレベルに達すれば、どんな人でも必ず目的地に到達することができます。

というか、①②が揃えば、どんなに嫌でも目的地に到達(合格)せざるを得ません。

これは物事の理です。

 

ところが、通常の予備校講座では、①はほとんど教えられず、自己責任として放置されています。

こちらの記事の中盤付近の青字部分で書いたように、彼らは①のプロではないからです。

彼らは、①については努力をしていません。①についてはただの怠け者でしかありません。

彼らは、司法試験という森に受験生を引き入れる技術には長けていますが、その後の道案内については、ほとんど素人ガイドレベルの仕事しかしていません。

たとえば某塾は、その講義の分かりやすさによってこれまで大量の合格者を誕生させてきました。

しかし同時に、その10倍以上の受験生たちを、司法試験の森の中で遭難させてきました。

①を受験生任せにすれば、ほとんどが遭難して帰って来られなくなるのは当然です。

 

この点、中村さんの講座では、①が入門段階から徹底して意識されています。

その徹底度が半端なものでないことは、当ブログの読者ならお分かりいただけると思います。

 

①の完成度および教授能力には、間違いなく司法試験受験界No.1の講師です。

受験界No.1の方法論ブログの管理人として、この点だけは保証することができます。

 

 

【アウトプット】

 

論文の方法論として、4段階アルゴリズム(4S)という処理手順を提唱しています。

処理手順の進化史 で紹介した「紛争構造型」のことです。

従来の指導では講師の感覚にほぼ全面的に委ねられていた問題分析→答案作成に至る過程を、まるで計算問題を解いていくような確定的かつ明快な処理手順に則って説明します。

一から十まで受験生の裁量を許さないような画一的な方法ではありませんが(そんなことをしたら全員が同じ答案になってしまいます)、この方法で訓練すれば、どの部分を画一的なマニュアルで処理し、どの部分を現場思考すべきなのか、その2つの思考過程をはっきりと切り分けて意識できるようになるはずです。そうなれば、論文試験の真の勘所を普段から自覚的に鍛えていくことができるでしょう。

優れたマニュアルとは、このようにマニュアル化できる部分とそうでない部分を明確に分けた上で、後者の訓練へ受験生を自然に導くことができる方法をいうのです。

 

他の予備校にも、マニュアル的な部分は一応あります。しかし、これらの予備校で教えられているのは、もっぱら「どの論点を思い出すか」や、「論点をどのような流れで表現していくか」といった論点主体の発想方法ばかりです。このような論点単位・論点基準のマニュアルは、有用性が低いだけでなく潜在的な弊害も大きいものです。十分な知識を身に付け何年もの勉強期間を費やしながら結局受からず仕舞いになってしまった永遠に受からないタイプの受験生が昔からこの世界には数多く存在しますが、彼らは例外なくこのタイプです。

4段階アルゴリズムは、
 法が法である限り共通の普遍的処理手順に従って、全科目を同じ1つの方法で処理していきます。もちろん、科目ごと、問題類型ごとの処理パターンも示しますが、それらは全てこの普遍的処理手順の具体化(一類型)に過ぎないと考えていきます。

この方法論を使えば、人権パターン、三段階審査論、Tb→Rw→S、等々のあらゆる具体的処理方法が、同じ紛争処理過程をそれぞれの仕方で説明した説明の仕方の一例に過ぎないことが分かります。法律問題の処理は、全て1つの方法に還元される、単純な問題であることが分かります。

ここまで明快な形で論文の処理手順を示されれば、さすがにどんなに論文に苦手意識がある受験生でも、独力で問題文を読み解き→答案を作成することができるようになると思います。

 

余談ですが、司法試験の論文は、論点という“知識”を答案上に置いてくる試験ではありません。

こういう論点主義的発想は既に過去のものとなりつつありますが、未だに論点発見パターンなどという、ネーミングからしてセンスの悪そうなパターンを教えている人が一部にいるようです。

司法試験は昔から変わらず、論点を発見するまでの思考過程をこそ評価の対象にしています。

過程が正しければ、結果(論点)が書けていなくても合格するのが司法試験です。

(まあ、過程が正しければ、普通は正しい結果が導かれますが・・)

一方で、どれだけ論点を書いても、思考過程に問題があれば受からないのが司法試験です。

 

① 思考過程○ 論点○ ⇒ 合格

② 思考過程○ 論点× ⇒ 合格

③ 思考過程× 論点○ ⇒ 不合格

④ 思考過程× 論点× ⇒ 不合格

↑これが司法試験の(残酷な)真実です。

③のような不合格答案を書く受験生は今も山ほど存在します。

というか、これこそが永遠に受からない受験生の典型パターンです。

 

でも、なぜ、③のような不合格者が、正しい結果(論点)を導けたのでしょうか?

それは、覚えているからです。「こんな事案では、こんな論点が問題になる」と覚えているのです。

だから、過程を飛ばして論点というエサに直接「パクっ」と食いつくことができてしまうわけです。

一方で、このような論点中心主義的な勉強法で合格した人がいるのも確かです。

彼らもまた、事案と論点をセットで記憶する「方法」で合格したわけですが、そのような「方法」で正しい論点を想起しても、実際にはほとんどの人が受かりません(今まで散々そのことは書いてきました)。

 

私が、このような「方法」を、真っ当な方法論と認められないのはそのためです

 

彼らが受かったのは、①単なる偶然か、②無意識的に正しい思考手順をとっていたからです。

①なら能力不足ですし、②なら自身の思考・判断に対する自覚が足りなすぎます

いずれにせよ、このようなタイプの合格者が受験生に方法を説くのは、本来は越権行為です

 

試験に限らず、人には、自覚的にできるようにしたことと、無自覚にできてしまったことがあります。

彼らは、自分が「できてしまった」理由を、実のところ自分自身でよく分かっていないのです。

 

受験界では、こうした合格者の経験と勘に頼り切った感覚的指導が今なお幅を利かせています。
しかし、このような感覚的指導では、できる人をできるようにすることはできても、できない人をできるようにすることはできません

これが論点発見パターンなる「方法」の内実です(悲しくなります・・)。

皆さんは、論点というエサに「パクっ」と食いつく夏祭りの金魚みたいな真似はしないでください。


再現答案 vs. 出題趣旨で述べたことですが、論文試験で本当に大事なことは1つしかありません。

最終的に全科目・全問題がその1つに収斂していくこと(そう思えるようになること)が、論文対策において受験生が目指すべき究極の境地です。

 

4段階アルゴリズムは、その「1つ」が何なのかを、これまでにないくらい具体的な形で示してくれます。


呉講師のエントリーで書きましたが、論文指導で必要なことは、次の2つしかありません。

① 問題の処理手順(方法論)を明確かつ実践的な形で示すこと

② ①の辿り方を講義で実演すること
 

一方の受験生の側に必要なのは、①正しい方法論を使って、②一定の処理訓練をすることです。

 

必要なのはこの2つだけです。

この2つが揃っていれば、どんな人でも合格答案を書くことができるようになります。

 

この①②を、誤解の余地の生じないほど具体的な形で(←ここが非常に重要です)教えているのは、全ての司法試験講師の中で、中村さんただ一人です(他に一人でもいたら教えてください)。

②で必要な訓練量を具体化するとしたら、新司過去問全問+旧司型問題数十問を潰すことでしょう。


中村さんの講座には、基礎講座(=入門講座)と論文系の講座があります。

基礎講座では、このブログで「中文問題」と呼ぶ長さの事例問題を、各科目数十問程度潰します。

必要な問題類型は全て講座の中に網羅されているので、別途問題集に手を出す必要はありません。

予備試験・ロー入試対策としては、基礎講座内で全ての問題類型をマスターすることができます。

司法試験対策としても、あとは過去問を潰すだけという状態に持っていくことができます。

(司法試験・予備試験の過去問については、別の講座で講義します)

基礎講座は、これから勉強を始める初学者の方はもちろん、いまだ論文の方法論が確立していない全てのロースクール&予備試験&司法試験受験生におすすめです。



【インプット】


インプット(基礎講座)においては、徹底した条文重視の姿勢が貫かれています。

 

憲法のような科目ですら、きっちりと要件・効果の体系に引き直して講義されます。

たとえば普通の予備校の講義では法学的に理解させられるだけの「人権相互の矛盾衝突云々・・・」という違憲審査基準への流れも、13条後段の「最大限の尊重」の反対解釈から制約の必要最小限性を導く、といった具合にあくまでもシンプルな条文解釈として教えられます。

 

このように、可能な限り条文に則して法を学ぶことは、法の論理性を身に付けることにも寄与しますし、覚える量を最小化する観点からも有効性が高いです。

 

このブログでも再三にわたって述べてきたことですが、真の意味で法を理解することは、条文の加工品としての法学テキストを、物語的に分かった感じになることとは違います。

 

司法試験の学習とは、条文を理解し、使えるようにすることに他なりません。

 

どれだけ物語的に法学を理解しても、法学テキストを法学のコトバで整理・記憶しても、条文に則して法を理解し、事案に則して条文(要件・効果)を使うことができなければ、いつまで経っても法の「理解」は進みません。論文が書けるようにはなりません。

答案の書き方についてで書いたように、論文問題を解くことは、問題文の具体的事実を抽象的法律論に置き換えることです。一言でいえば、事実を条文に変換することです。この事実→条文の変換力こそが論文力です。テキストの記述や論証のフレーズや法学の深い理解をいくら集めても、このような力は身に付きません。問題文の事実と交換ができるのは、個々の条文だけだからです。

 

中村さんの基礎講座が条文の朗読講義になっていないかと心配されている方がいますが、条文に則して法の内容を教えることは、条文を棒読みすることではありません。

中村さんの基礎講座では、①条文から派生した内容が、②条文に則してきちんと教えられています。

条文に則した講義には、通常の予備校講義とは根本的に質の異なる分かりやすさがあります。


講義スピードは超高速です。

ゼロレベルから通常の入門講座・基礎講座で講義される情報を、高速かつ網羅的に講義します。

入門講座7法の内容をこれだけの少ない回数に詰め込んだのは、他にあまり例がありません。

 

基礎マスターと商訴集中講義~入門講座再考~ で書きましたが、予備校の入門講座は、本来はその半分の時間で同じことができます。亀のように話すのが遅かったり、一時停止したかのように途中無言になったり、雑談をしたり、板書で時間を浪費したり、サブテキストや臨時プリントなど教材が多方面に取っ散らかっていったり、講義の冒頭で前回の復習を20~30分もしたり・・・こんな風に、削ろうと思えば削れる部分をわざわざ放置して、意図的に回数を増やしているのです(講師の講義技術不足ゆえに、回数を増やさざるを得ない講座もありますが)。

 

このような回数の多い入門講座のデメリットを記しておきます。

 

①時間をかけたほうが分かりやすいように思える→but、逆に、内容を忘れてしまう

②インプット学習は繰り返しが命→but、回数が多いので、繰り返し聴くのは無理

③重複箇所や雑談などが多く、繰り返し聴くと無駄が多い

④直前期に全体の記憶喚起をしようと思っても、回数が多すぎて無理

 

あえて回数の多い入門講座のメリットを言うなら、

 

★ゆっくり講義されるので、初心者でも講義を止めることなくリアルタイムで理解が可能

 

これくらいでしょうか。

 

次に、回数の少ない入門講座のメリットです。

(回数の多い入門講座のデメリットを、ちょうど逆にした感じになります)

 

①短い時間で全体を回すため、逆に内容を理解しやすく忘れにくい

②インプット学習は繰り返しが命→回数が少ないので、何度でも繰り返し聴ける

③重複箇所や雑談がほとんどなく、繰り返し聴いても無駄がない

④直前期に全体の記憶喚起ができる

 

これが回数を絞った入門講座のメリットです。

 

もちろん、回数が少ないことによるデメリットもあると思います。

回数の多い入門講座と比較した場合の決定的な違いは、

 

★スピードが速く情報量も多いので、講義を止めずに聴くのは初心者にはキツイ

 

という点にあると思います。

 

入門講座再考で書いたように、講義時間が長くても短くても、講義の分かりやすさ自体に本質的な違いはありません(短いほうが分かりやすいのは、商訴集中講義の解説で述べたとおりです)。

 

ですから、講義スピードがキツイと感じる初心者の方がいたら、通しで聴こうとはせずに、キリの良いところで音声を止めながら小分けに聴いていけば、問題なく内容を消化していくことができるでしょう。

多少時間はかかる方法ですが、私自身、商法・訴訟法はそういう形でインプットをしました。

 

このように、方法さえ間違えなければ、時間が短くても講義内容を消化することは誰にでも可能です。

むしろ、こういった密度の高い講座のほうが、何度もインプットできる点で、圧倒的に受講生の利益になると私は思っています。

ちなみに、初心者の方で、講義スピードが速すぎてキツイと感じられる方がいたら、科目毎に薄めの入門書を講義と並行して読んでいくといいでしょう。初心者の段階では、その程度の寄り道はOKです。

そもそも、インプット講義は、本来その程度の密度の高さがあって然るべきものです。

それくらいの密度があってはじめて、受講生の真の利益に適う講座になると私は考えます。

 

逆にいえば、完全な初心者が3時間一度も止まることなく講義を聴けてしまうことそれ自体が、本来はおかしなことなのです。初心者が楽に聴けるとは、情報密度が薄いことに他ならないからです。

 

このような情報密度の薄い講座は、実は、受講生の真の利益を犠牲にすることで成立しています。

情報密度が少なくなればなるほど、その分、より多くの時間と講義回数が必要になってきます。

そして、講義回数の増加で利益を得るのは、増加分の料金を受講生に転嫁する予備校だからです。

それはつまり、受講生が、金銭面・時間面で知らぬ間に不利益を負わされているということです。

反対に、情報密度の高い講座は、受講生側の利益を増加させます。

情報密度が高くなればなるほど、その分、講義に要する時間と回数は少なくて済みます。

そして、講義回数の減少で利益を得るのは、減少分の料金を払わずに済む受講生だからです。

さらに金銭面だけでなく、時間面の利益も増進されます(←本質的にはこちらのほうが重要です)。

↑上にリンクを貼った、伊藤塾の『基礎マスター』と『商訴集中講義』の話に戻ります。

基礎マスの受講には、集中講義の数倍の受講料が必要ですが、それは本当は理不尽なことです。

情報量、講義の分かりやすさ、いずれを比較しても、両者に決定的な違いはほとんどないからです。

 

誤解していただきたくないのは、私は「基礎マスに“数倍の料金を払うほどの価値”はさすがにないよね」言っているのではありません。そうではなく、「端的に集中講義のほうに価値がある」と申し上げているのです。つまり、「基礎マスが30万で、集中講義が30万でも、集中講義をとるべき」と言っているのです。集中講義の存在を知ってしまうと、基礎マスの価格がそれくらい理不尽に思えてきてしまいます。

このように、情報密度が高くなればなるほど、予備校側は損をし、受講生側は得をします

言いかえれば、情報密度の増加分だけ、予備校から受講生へ利益の移転が行われるのです。

ここに書いたことは単純なことです。
あらゆる物・サービスの取引において、コンテンツの密度(=質・量)が高ければ高いほど、消費者にとってお得なのは当然です。逆ならば損なのも当然です。

せっかく高いお菓子を買ってきたのに、中を開けたら包装ばかり過剰で肝心のお菓子が少なかったら、誰だって損をしたと思うでしょう。逆なら得をしたと思うはずです。

 

このように、商品の真の価値は、値段や外観ではなく、コンテンツの質と量で決まります。

どうか皆さんは、このあたりのカラクリを自覚されたうえで、限りある受講料を有効に使ってください。

中村さんのインプット講座は、受講生の真の利益に適った密度の高い講座になっています。

 

情報密度の高さは受験界一です。

インプット部分の受講料は(たぶん)業界最安値です。

テキストを読むだけの朗読講義ではなく、条文に基づいた講義です。

講義では、論文用のまとめノートとしても使える逐条型テキストが使用されます。

 

あまり誉めすぎるのもどうかと思うのですが、↑これだけ至れり尽くせりの講座も少ないはずです。

 

内容的にも、入門講座としてだけでなく、中級者以上の記憶喚起用の講座としても十分に使えます。

入門レベルの受験生から、合格ライン付近の受験生まで、全ての受験生におすすめできます。




【追記】

 

2013年春から、中村さんがTACのメイン講師になりました(2018年にBEXAに移籍しました)

新しく始まった基礎講座では、テキスト等はもちろん、講座内容も一新されています。
 

インプットについて

 

講義内容については上に書きました。

ここでは、インプット講義で用いられるメインテキストの特徴を記載しておきます。

①条文構造に則して内容が整理された逐条型

②文章を書き連ねた基本書型ではなく、端的にポイントがまとめられたサブノート型

③短答・論文の過去問を解くことができる程度の、必要最小限かつ十分な情報の網羅性

論文用の全論点の結論と理由(論証)を、そのまま答案に書ける表現で整理

⑤それでいて極限まで薄い

短答から論文まで、全ての場面で使えるテキストです。


※①について補足しておくと、試験に必要な全ての条文がテキストに載っていること自体、司法試験業界ではかなり画期的なことです。司法試験は条文を学び条文を使いこなす試験なのですから本来それが当たり前なのですが、他校のテキストは全然そうなってはいません。

他校の入門講義の本旨は、条文を学び条文を使えるようにさせることではなく、法学の概念を学び法学の概念を理解させるためのものになっています。彼らの使用テキストが、条文を排除して法学概念ばかりを書き連ねているのはそのためです。


短答六法として>
趣旨・要件・効果などの形式面の整理は、完択よりもはるかに行き届いています。

完択の要件効果の整理は文句なしに素晴らしいものですが、そのさらに上をいっています。

(形式面の整理が曖昧でいい加減な、辰已の条文判例本などとは比べものにもなりません)

特に、条文ごとに趣旨がきちんと記載されているところが非常に素晴らしいです。

 

<論文用のサブノートとして>
趣旨規範ハンドブックと違い、条文がきちんと載っています論証はシンプルで実践的です。

論点以外の制度(←これ大事)もきちんと解説されており、直前期の総まとめ用にも最適です。

さらに、論点に付けられた「解釈」マークによって、論点部分を視覚的に浮き立たせています。

この「解釈」マークを指針に、論点部分だけを網羅的にチェックすることも可能です。

上記の①~⑤の条件すべてを満たした教材は、現時点ではこのテキスト以外にありません


※せっかくなので注文をしておくと、このテキストの市販は必ずするべきです。

適宜、法改正や重要判例の追加に対応していけば、長く支持される決定版テキストになると思います。

アウトプットについて

 

アウトプットでは、計算問題を解くような明快な手順で論文問題を処理する方法を学びます

他校の論文指導のような、できる人しかできるようにならない方法とは違います。
これほど明快な処理手順を提示している方法論は、受験界のどこを探しても他にありません

4段階アルゴリズムが現状望みうる最良の、そしておそらく唯一の方法論です。

 

私から言えることは以上です。

ここから先はご自身の目で確認してください。

 

ご興味のある方は下記のリンク先をご覧ください。



                ダウンダウンダウン  公式サイト  ダウンダウンダウン

 

司法試験:勝利のアルゴリズム  NEW

 

中村充(Twitter) NEW

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 

処理手順の進化史 からのつづきです。

 

前回、「紛争構造型」が処理手順(思考方法)として最善の方法論であると述べました。

今回は、その思考をもとにした答案の書き方について、2つの型を提案します。

 

 

【あてはめ一貫型】

【1】あてはめ→【2】条文→【3】論点→【4】あてはめ型

 

答案の書き方といっても、ここで別段特殊なことを書くつもりはありません。

予備校の解答例のような一般的な答案の形をここで否定するつもりはありません。

ここでは新たな型を提案するのではなく、既存の型の説明の仕方を変えてみたいと思います。

 

受験界で今でも広く答案の型(=答案の形の説明の仕方)として用いられているのは、前回も紹介した「事案の問題提起→論点の問題提起→論点の結論→事案の結論」という型です。

「問題提起→結論型」と命名したこの型のどこがダメなのかは、前回のエントリーで詳しく述べました。

もっとも、「問題提起→結論型」で十分に答案が書けるという方には、今回の話はどうでもいいです。

これから説明するのは、あくまでも私個人が、「こう説明されないと納得できない」と思って考え出したパターンです。私自身は答案の形をこのようなパターンで説明している受験生・講師を見たことがないので、かなり独特な説明方法だということをご了承ください。

従来の「問題提起→結論型」、今回提案する「あてはめ一貫型」、どちらも説明の仕方が違うだけで、既存の答案の形を説明している点は同じです。答案構造の説明としてどちらが腑に落ちるか、という観点からお読みいただければ幸いです。

 

答案の形をどのように説明するか、細かく分ければそのパターンは何通りもあると思います。

私自身は、自分なりに考えた末に、以下のようなパターンに辿り着きました。



【1】あてはめ

   ↓

【2】(メイン)条文

   ↓

【3】論点(規範)

   ↓

【4】あてはめ

 

 

このようなパターンです。

あてはめが2回出てくること、しかも最初に登場するところが特徴です。

 

※ちなみに、論文問題において、その成立の当否が検討される主役の条文のこと、すなわち、原告が主張する条文のことを、当ブログではメイン条文と呼んでいます。

 

なお、この4段階のパターンには、原則形態と例外形態があります。

 

原則形態は、

【1】あてはめ

   ↓

【2】(メイン)条文


です。

 

ここで事案処理は基本的に終了です。

この原則は非常に重要なのできちんと意識しておいてください。

 

この原則形態で決着がつかない場合に限り、論点の発生という例外形態の出番になります。

 

論点が発生する場合にはじめて、

 

   ↓

【3】論点(規範)

   ↓

【4】あてはめ

 

と続いていくことになります。

 

原則は、【1】→【2】で終わりです。

この点をしっかりと意識していただいた上で、本論に入ります。

 

まず、なぜ、あてはめが最初に来るのでしょうか。

ここでまず、従来のあてはめの定義を変更したいと思います。

 

◆あてはめ = 条文の要素事実とのイコール関係(言い換え関係)を確認する作業のこと

 

↑このようにあてはめを定義し直します。

 

「条文の要素」は要件であることが多いので、ここから先は単純に要件と呼びます。

 

つまり、要件と事実を照合し、両者が同じものであることを確認するのが「あてはめ」です。

 

受験界では、あてはめとは、論点解釈によって立てられた規範と事実を照合することを言います。

つまり、規範=事実の確認作業のこととされています。

 

新司法試験はあてはめ勝負は本当かでは、このような一般的意味であてはめを定義しましたが、今回はあてはめの意味を上記のようにより広く解したいと思います。

 

そもそも、従来の意味でのあてはめにおいても、規範=事実の確認作業は途中経過でしかなく、最終的には要件=事実が確認されるところまでいかないと事案処理は完了しません。

 

言い換えの連鎖で書いたように規範の機能は、要件=事実が直ちに言えない場合に、要件と事実の間に置き石のように割って入ることで、要件と事実の間に往復可能な通路を作ることにあります。

 

つまり、規範の意義は、規範=事実をいうためではなく、要件=事実をいうためにあるのです。

したがって、要件=事実の確認作業をあてはめと呼ぶほうが、よりあてはめの本質を表しているように思われます。

 

答案で最初になされるのは、このような意味でのあてはめです。

それだけではありません。論文処理は、実は最初から最後まで一貫してあてはめです。

答案の全過程で一貫してあてはめだけをしているのが、司法試験の論文問題の処理です。


  <原則形態>

【1】 事実と要件のあてはめをして、

       ↓

 (全てのあてはめが済んだ場合は)

       ↓

【2】 条文を提示して終了。



  <例外形態>

【1】 事実と要件のあてはめをして、

       ↓

(あてはめにくい要素があった場合は)
       ↓

【2】 条文を(疑問形で)提示した上で、

       ↓

【3】 間に規範を介在させて、

       ↓

【4】 再度あてはめにチャレンジする


 

やっていることは実は↑これだけです。

この点を意識すると、従来の説明の仕方より、ずっと答案が書きやすくなると思います。

 

少し遠回りをしますが、なるべく丁寧にこの点を説明していきます。

 

条文は、想定される具体的な紛争を解決するために予め規定されたものですが、ある程度の量の紛争を一つの条文でカバーするべく、抽象的な文言を使って書かれています。つまり、具体的な紛争(事実)を束ねて抽象化しているのが個々の条文です。

 

つまり、たとえば民法典という箱の中には、日本で起こる全ての民法上の紛争が、個々の条文に整理・分類される形で、圧縮されて詰め込まれているわけです。

 

突然ですが、ここで、あなたが法律の完全なシロウトとして、友人の法律相談を受けるとします。

友人は、法的に意味のあることからないことまで様々なことを語りますが、だんだんと分かってきたのは、友人が何らかの損害を受けていて、お金を払って欲しいと望んでいることです。

そこで、あなたは「損害賠償」という文字が書かれている条文を探します。ところが、損害賠償といっても、415条や709条などなど、実に様々な条文が存在していて、それだけではどの条文を選べばいいか見当がつきません。

仕方ないので更に頑張って、その友人が脇見運転をしている車に接触して怪我を負ったことなど、具体的な事実をひとつひとつ丁寧に検討していきます。そして、その事実に似た文言を探します。

 

そうやって、最終的にどうやら709条という条文がそれっぽいなと気づくわけです。

「それっぽい」とは、その条文が当該事実に一番似ているということです。

 

この、一見シロウトのような思考の運びこそが、根源的に正しい法律家的思考です。

事案をみて、脊髄反射のように「あ、○○の論点だ」とか、「これは○○の法理を論じさせたいのかな」などと考えるのは、法的処理としては最低の思考です。

 

あくまでも愚直に、日本語の自然な感覚として、発生した事実に似た条文を探してくることが、法的処理の正当なスタートの仕方です。

たとえば、709条の要件を簡略化して処理してみます。

 

要件を、①故意・過失  ②因果関係  ③損害の発生

それに対応する事実を、(1)  (2)  (3) と考えます。

 

この場合、先ほどの原則形態による処理では、答案は次のようになります。

 

【1】 Aは、(1)自動車の運転を誤り(2)そのことによって、Bに(3)怪我を負わせたため、

        ↓

【2】 Bは、709の損害賠償を請求することができる。

 

以上

 

↑これが法律処理の原則形態です。

 

ここでなされているのは、間違いなくあてはめです。

ここでは、①=(1)、②=(2)、③=(3)が確認されています。

 

司法試験は問題文の事実を使うことに配点を設けていると考えられるので、上記のように事実を使って論述するほうが試験的にはいいのですが、本当をいえば、法律論で通しても構いません。

 

【1】 Aは、①過失によって、Bに③損害を発生させ、①と③には②因果関係が認められるので、

        ↓

【2】 Bは、709の損害賠償を請求することができる。

 

以上

 

↑これでも本当は構いません。

 

なぜ構わないかというと、要件と事実の言い換え(イコール)関係が成立しているということは、すなわち、法律論と事実のどっちを言っても構わない(どっちを言っても同じ)ということだからです。

たとえば、「富士山」と「日本で一番高い山」の言い換え関係が完全に自明な形で成立している場合(自明というのは、わざわざ間に理由を挟んで三段論法にしなくても意味が通る、ということです)、ある人が「富士山に登ってきた」と言うのと、「日本で一番高い山に登ってきた」と言うのは、表現として同じです。両者には微妙なニュアンスの差異はあるものの、どっちを言ってもお互いを言ったことになります。

 

もし一番丁寧な表現をしたいなら、

 

【1】 Aは、(1)自動車の運転を誤り(=①過失)、 (2)そのことよって(=②因果関係)

    Bに(3)怪我を負わせた(=③損害を発生させた)ため、

        ↓

【2】 Bは、709の損害賠償を請求することができる。

 

以上

 

という感じで、法律論と事実を併記するのが、書き方としては一番丁寧です。

もっとも、普通は事実のほうを記載すればOKです。

 

この【1】→【2】の原則形態の部分では、あまりにも簡単に要件=事実が確認されているために、ここでなされているのがあてはめであることに多くの受験生が気づいていません。しかし、ここでなされているのは、正真正銘、あてはめに他なりません。

司法試験の論文問題では、通常、論点が出題されることで、規範定立の後に手の込んだあてはめが待っているために、【1】→【2】の原則形態で展開される事実=要件の照合作業をあてはめと気づかない受験生が多いだけなのです。

 

話を戻します。

 

このように、法的処理は、要件と事実を結びつけ、メイン条文の成立を認定するところで基本的には完了します。

 

【1】あてはめ

    ↓

【2】(メイン)条文

 

あくまでも↑これが事案処理の原則形態です。

 

現実の実務でも、事実認定で争うことはあっても、法解釈で争うケースは非常に少ないと聞きます。

したがって、実務における基本形態もこの【1】→【2】まででしょう。

 

ところが、司法試験では、論点という例外形態が出題されることが多いです。

 

論点が出題されるということはどういうことでしょうか。

 

論点が出題されるとは、すなわち、【1】の段階で全てのあてはめが完了しないということです。

言いかえると、要件=事実が簡単に認定できない要素が事案に存在しているということです。

 

このような例外形態でのみ、一部のあてはめが後ろに回されることになります。

 

先ほどの例を使っていえば、

 

【1】 Aは、(1)自動車の運転を誤り、(2)そのことによって?、Bは(3)怪我を負ったため、

        ↓

【2】 Bは、709の損害賠償を請求することができるか?

        ↓

【3】 ②因果関係があるか問題となる。 ⇒ ②=相当因果関係(②の規範への言い換え)

        ↓

【4】 (2)=②相当因果関係の範囲内といえる。 ⇒ (2)=②因果関係ありといえる。

        ↓

【5】 全てのあてはめが済んだので、709の損害賠償請求ok。

 

以上

 

これが例外形態の答案作成のパターンです。

(最後の【5】は、成立し損ねた【2】の反復なので、無理にパターンに含める必要はないでしょう)

このように、メイン条文(709条)の前と後に、要件の割り振りを行うのが、例外形態の特徴です。

要件の割り振りとは、すなわち、あてはめの割り振りに他なりません。

 

上の例でいえば、①③が709条の前に割り振られ、が709条の後に割り振られています。

 

まず、

【1】問題のない要件(あてはめ)がメイン条文の先に出て、

【2】メイン条文を引っ張り出します。

 

そして、

【3】問題のある要件がメイン条文の後ろに回って、

【4】再度あてはめが試みられます。

このように、行われていることは一貫してあてはめなのです。

この答案スタイルは、民法だけでなく、憲法や刑法など全ての科目に妥当します。

コツは、公共の福祉論やTb→Rw→S を、メイン条文の要件論として読み込むことです

そのような読み込みは、刑法という学問の前提ですし、憲法のほうも半ばそうだといえます。

 

公共の福祉の範囲内や構成要件該当性・違法阻却事由の不存在・責任阻却事由の不存在等を、個々のメイン条文に内在する広義の要件と考える、つまり、全ての条文にそれらの要件が書き込まれていると考えるのです。

 

そう考えれば、原則・例外どちらの形態においても、メイン条文の要件の割り振りが行われているだけであることが分かります。

こうしてあてはめの意義を、事実=要件を確認する作業という意味に広く解すると、要件はメイン条文を引っ張り出すための“理由”として機能していることが分かります。

(要件-効果は、原因-結果、理由-結論の言い換えなので当然なのですが)

 

ここで、要件が「理由」として健全に機能するために必要なのは、メイン条文の要件の多くが、三段論法などのややこしい手続き抜きに、素直に、ダイレクトに、事実と結びつくことです。

 

逆にいうと、仮にメイン条文の要件の全てが、規範に言い換えられなければならないものであったり、事実を詳細に評価が必要なものだったりした場合は、私たちはメイン条文を想起すること自体が困難であるか、場合によっては不可能なはずです。

 

どういうことか、いまちょうどTVに宮崎あおいが出ているので、彼女を例に説明します。

 

ある日の夜、渋谷駅で「宮崎あおいみたいな女性」を見かけたとします。

顔は100%宮崎あおいなのですが、公式プロフィールでは163cmとなっているところ、その日見た女性の身長は170cmを優に超えているので、このままではダイレクトに「宮崎あおい」と認定できません。

しかし、事務所のHPを確認すると、その日彼女はNHK(渋谷)の生放送に出演していて、出演時間から換算して今この時間に渋谷駅にいることは不自然ではないようです。

このような場合に、「彼女は宮崎あおいか?」という問題提起が正当に成立します。
 

 

【1】○月×日の△時頃、渋谷駅で、その☆分前までNHKにいたことが確認されている宮崎あおいに似た女性を目撃した。顔は間違いなく宮崎あおいだ。

 

       ↓

 

【2】彼女は宮崎あおいか。

 

       ↓

 

【3】宮崎あおいの身長は163cmであるところ、その女性は170cm超なため問題となる。

⇒163cmの女性が170cm超になることは、ブーツを履いていればあり得る。

 

       ↓

 

【4】その女性はブーツを履いている。

⇒彼女は宮崎あおいだ。

 

以上

 

 

ここで何を申し上げたいのかというと、もしその日、宮崎あおいが横浜にいたことになっていて、目撃した人物の身長が170cm超あって、顔が宮崎あおいというよりはむしろ阿部寛に似ていた・・・という具合に、宮崎あおいに帰属する要素の何から何までが曖昧だった場合、「彼は阿部寛か?」と問題提起することはあり得ても、ここで「彼女は宮崎あおいか?」と問題提起することは絶対にあり得ないということです。

 

そのような問題提起を行う人がもしいたら、その人はかなり法的センスに問題ありです。

(仮に、本当の正解が、大掛かりに変装した宮崎あおいだったとしても、です)

 

このように、私たちがメイン条文を想起することができるのは、メイン条文の要件のうち少なくともいくつかが、解釈などの面倒な手続き抜きに、ダイレクトに要件=事実を確認できるからなのです。

 

裏返していうなら、法的問題が正当に提起されるためには、実は、問題の大半は問題であってはならないのです。

「事案の問題提起」とは、まずは検討対象を宮崎あおいに特定した上で、「あれは宮崎あおいか?」と問いかけるまでの部分(【1】→【2】の原則形態までの部分)のことです。

 

普通なら一見して「あ、宮崎あおいだ」と即認定して全て終わるのが原則です。

ところが、認定作業に一部問題が生じたために、いったん「宮崎あおい」の認定を留保することを宣言するのが「事案の問題提起」です。「事案の問題提起」は、このように認定の留保が宣言される場合にのみ必要となるもので、これを処理パターンの一部として説明するのは本来はおかしなことです。

には、法律処理の原則形態を無視した、非常にセンスの悪い説明方法だと感じられます。

 

また、上述のように、宮崎あおいの要素のほとんどが宮崎あおいにしか見えないからこそ、宮崎あおいは問題として正当に提起されます。この理屈が全然分かっていない合格者や講師も数多いです。

 

彼らは時々「論点になる要件だけではなく、全ての要件を詳細に検討(たとえば規範に言い換えたり)するほうが丁寧な答案になるよ」みたいな致命的勘違いを述べることがあります。

 

これがなぜ「致命的」と言いたくなるほど愚かな見解なのかはもう説明不要でしょう。

しかし、それにしても彼らはなぜこのような愚かな勘違いをするのでしょうか。

 

その理由は、彼らの脳内には「事案の問題提起」に代表される問題(=論点)中心主義的発想が奥の奥まで染み込んでしまっているからです。

 

彼らには、原則-例外という二元的発想がなく、全てを例外形態一本で考える習性しかありません。

したがって、彼らにとっては、全ての法的問題が例外形態(=論点的問題)に見えるのです。

彼らが、法的問題の全てを、詳細に検討されるべき問題(=論点)と見るのはそのためなのです。


原則形態から順に答案を作成していけば、答案の冒頭の処理は簡単です。

【1】 まず事案の中にある一つ一つの事実と、六法の中にある主要条文の要件とを照合し、

【2】 照合率の最も高い条文を、メイン条文として立てます

実際の答案にも、その思考過程をそのまま書いていけばいいだけです。

このとき、要件と照合される事実は、ほとんどが曖昧な姿をしていません。

お面で顔を隠していたり、男装していたり、見分けのつかない姿で歩いていることはありません。

宮崎あおいが阿部寛にしか見えない姿で歩いていたら、「あれは宮崎あおいか?」という問題提起自体が成り立ちません。そんなことをしていたら、誰にも見つけてもらえません。「あれは宮崎あおいか?」という問題提起が正当に成り立つためには、その人が宮崎あおいっぽいことが絶対条件なのですから。

 

ですから、メイン条文は、少なくとも一定の訓練を積んだ受験生には、はっきりそれっぽいと分かる形で、つまりはメイン条文に似た事実として、問題文にその姿を晒しているはずなのです。

 

私が再三にわたって条文の重要性を説いているのは、条文の一つ一つの文言を意識することは、文言に対応する事実を意識すること、そして両者を結ぶ認識能力を鍛えることに繋がるからです。

テキスト的・法学的な理解をいくらしても、こうした認識能力はほとんど鍛えられません。答案を覚えるような勉強をしていてもダメです。論証フレームが云々・・・なんて最悪です。

 

事実 と結びつくのはあくまで 条文 であって、テキストや論証のフレーズではないからです。

テキストいくら理解・記憶したところで、それで問題文の 事実 が扱えるようにはなりません。

問題文の 事実 を動かすことができるのは、条文 (の一つ一つの文言)だけだからです。

 

論文試験で要求されるのは、問題文の事実を、答案という形の法律論(条文)に変換することです。

一言でいえば、事実を条文に変換することです。この事実→条文の変換力こそが論文力です。

 

論文力は、条文の一つ一つの 文言 と 事実 との間を、その受験生が何回往復したか

言いかえれば、論文問題という市場で、その受験生が 条文 と 事実 を何回交換したか

 

この経験の質と量によって決まります。

 

日本では、商品と交換ができるのは円だけです。

アメリカでは、商品と交換ができるのはドルだけです。

 

同様に、論文問題という市場において、事実 と交換ができるのは 条文 だけです。

 

アメリカに円を持っていっても商品と交換してくれないのが当たり前であるように、論文問題という市場にシケタイのセンテンスや法学の深い理解を持ち込んでも、事実と交換してくれることは原則ありません。

いくら基本書を読んでも、シケタイにマークしても、論証を理解しても、論文が書けるようにならないと嘆く受験生が多いのは当然なのです。なにせ、そこで使えない通貨を使おうとしているわけですから。

 

論文問題という市場で商品(事実)が買いたければ、その市場に相応しい通貨(条文)が必要です。

繰り返しますが、それは条文だけです。条文を持っていかなければ、交換の訓練自体ができません。

テキスト的な理解・記憶を持ち込んでも、市場の中を漫然とほっつき歩くことになるだけです。

 

このように、条文(の文言)は、論文力を鍛えるために欠かせないアイテムなのです。

間違っても、ただなんとなく「法学だから条文は大事だよね」などという腑抜けた理由ではありません。

条文が大事なのは、なによりも、条文でしか事実を買うことができないからなのです。


まとめます。

 

【1】→【2】

事実は、必ず特定のメイン条文に似た姿で、問題文の上に置かれています。

それを見つけて、特定のメイン条文の要件と事実を結合(あてはめ)させればいいだけです。

 

【3】→【4】

ダイレクトに結合させられない事実があった場合のみ、要件をいったん規範に言い換えます。

そして、その規範を介在させて、再び要件と事実を結合(あてはめ)させれば終了です

 

以上が論文処理の全てです。

法律問題の処理とは、要は、事実と条文の言い換えっこをしている だけです。

それはすなわち、事実を条文に延々とあてはめ続けている ことに他なりません。

 

やっていることはこれだけです。

 

【1】→【2】

直接あてはめるか

 

【3】→【4】

言い換え(規範)を介在させてあてはめるか

 

これらの違いがあるだけで、はじめから終わりまで、法律問題の処理は全て一貫してあてはめです。

 

間違っても、事案を問題提起したり、フレームに沿って論点を論じたりすることではありません。

そんなことは意識する必要すらありません。

今回提案した「あてはめ一貫型」は、このような法律処理の基本構造の理解に寄与するはずです。

冒頭から問題(論点)の発見を目的とした歪なパターン(問題提起→結論型)と比べれば、ずっと使いやすいパターンなのではないかと思います。


【紛争構造そのまま型】


もっとも、「あてはめ一貫型」が答案構造として最適とは必ずしも言えません。

この型は、答案の構造としては受験界で一般的なものですが、欠点もあります。

ひとつは、新司法試験のような長文問題では、最初の【1】のあてはめ段階が長くなり過ぎ、メイン条文の登場が相当に遅れてしまう欠点です。

さしずめ、スタートから1時間くらい経ってようやく主役が出てくる映画みたいなものです。メイン条文はその答案のテーマです。そのテーマが早い段階で現れないのが、このパターンの持つひとつの欠点です。

もうひとつは、前回のエントリーでも触れたように、法の本質は対立構造であるところ、このパターンではどうしても対立構造をそのままの形で漏れなく表現することができないことです。

よく論文指導で「反対利益に配慮せよ」と言いますが、このパターンでは反対利益の書き場所が用意されていません。ですから、この「配慮」を常に怠らない強い意識が必要になります。

別の言い方をすると、裁判官的な単線(1本)のストーリーで答案を書こうとすると、その単線のストーリーの中に、本来は反対利益(2本目のストーリー)であるはずの主張を強引に組み込む必要がでてくるのです。

 

前回のエントリーでも書きましたが、本来、公共の福祉や刑法総論や94条2項の直接適用不可などは、(形式的にみれば)被告側の対抗的主張なのですが、これらを単線のストーリーに組み込もうとすると、たとえば、個々の人権規定の内部には人権の制約原理が原初的に埋め込まれているんだとか、刑法総論は各論の規定に内在されてるんだとか(←これについてはさすがにそう考えざるを得ませんが)、類推適用をする場合にはまず直接適用ができない旨の指摘から始めないといけないんだとか…、そういう法の対立構造(本来はストーリーが2本あること)を忘れた法学的な説明の仕方(2本を1本に強引に回収する説明方式)が必要になってきます。

 

一言でいえば、話が抽象的で複雑なものになってくるのです。

答案の書き方も難しくなってきます。

司法試験でも実務でも、「単なる主張ではなく、裁判所に“通る主張”をするのが優れた主張である」との考え方があります。つまり、予め相手方の反論・利益を読み込んだ上で、裁判所に認めてもらえるような主張を提示するのが優れた主張のあり方だというのです。

 

たしかに、それはそれで現実の実務においては必要な発想なのでしょうし、対立より落としどころを重視する日本的な法文化にも適合的な思想だとは思います。

 

しかし、そういった“通る主張”(=落としどころ的・利益調整的発想)を極限まで押し進めていけば、最終的には裁判所(司法制度)自体が要らないという話になってしまいます。なぜなら、「通る主張をせよ」と言うことは、当事者に対して、実質的に「裁判官の代わりを務めよ」と命じることに他ならないからです。

 

やはり、このような最初から落としどころを探るような、言いかえると、相手方の利益を組み込みまくった単線的かつ調和的な発想は、対立構造という法の基本形態のあくまでも応用版と考えるべきでしょう。


以上の2つの欠点を克服する書き方があるとすれば、それはひとつしかありません。

 

すなわち、紛争構造型をそのまま書くという選択です。

 

紛争構造型をそのまま答案に書けば、メイン条文は答案の冒頭で提示されます。

また、反対利益も自然に示されることになります。

 

また、紛争構造型をそのまま書けば、最初に提案した「あてはめ一貫型」のように、メイン条文の前後で要件(あてはめ)を割り振る必要もなくなります
 

事実=要件を認定できる場合の要件も、事実=規範=要件という形で間に規範を介在させる必要がある要件も、いずれもメイン条文から演繹的に打ち下ろされる流れに沿って処理されるだけです。

 

このパターンなら、全てがシンプルに運びます。


【1】メイン条文

   ↓

【2】要件①②③(⇒解釈が必要なら解釈をする)

   ↓

【3】あてはめ

 

 

このように、答案構造が抽象から具体へ向かって語り下ろされるシンプルな形になります。

このパターンはたいへん魅力的です。

 

ただ、このパターンを採用することの決定的な問題点は、ここまで形式的に整理された答案を書いている受験生が現時点では一人もいないことです。

 

実務家っぽい感じがする書き方で案外いいんじゃないかと思うのですが、今のところこの書き方は受験界の支持を獲得していません。

 

10年後くらいには主流になっていてもおかしくはないかなと思います。

 

 

 

 

 

今回は、論文の処理手順(方法論)がどのように進化してきたのかを辿ります。

 

ちなみに、論文の方法論には、

思考過程をパターン化したものと、

答案構造をパターン化したものがあります。

以下、いちいち指摘はしませんがご了承ください。

 

 

【方法論前史】

 

司法試験の歴史で、論文の処理手順の必要性が受験生の間に広く自覚されるようになったのは、せいぜいこの十数年くらいの話です。

 

それまでは、いわゆる「論証パターン」が幅を利かせていました。

実際の採点基準が論点中心だったかどうかはともかく、論文試験における受験生の関心は、もっぱら「論点を書けたかどうか」に矮小化されていたと想像します。

 

 

【科目ごとの書き方】

 

その中から、やがて少しずつ論文のが出現しはじめます。

 

その典型が、憲法の「人権パターン」です(違憲審査基準は、昔はLRA一辺倒でした)。

民法では、「物よこせ or 金払え」という生の主張から組み立てる発想がでてきました。

刑法はお馴染みの「Tb→Rw→S」です。

一行問題が頻発していた旧司時代、商訴では「原則-例外パターン」が重宝されていました。

 

どれも現在の受験生は皆さんご存知のものです。

 

もっとも、どれも一定のパターンにはなっていますが、科目ごとにバラバラで、一貫した答案作成パターンとして完成度が高かったのは、憲法と刑法くらいです。

 

この頃は、論文の書き方は、科目ごと・問題ごとに違うものだと考えられていました。

 

 

【問題提起→結論型】 【事実/論点仕分け型】

 

このバラバラの傾向が、次第に集約化の方向に転じます。

全科目に共通の型があることが、受験生に認識され始めたのです。

 

①事案の問題提起

    ↓

②論点の問題提起

    ↓

③論点の結論

    ↓

④事案の結論

 

このように、最初に問題提起が行われ、間に論点が挟まれ、最後にそれが事案に戻されて結論をみる、という型が提案されました。

 

問いに対する答えのように、①と④、②と③が対応します。

 

このように、事案処理の間に論点(法律論)が挟み込まれるのが論文答案だというものです。

(現在でもこの型は受験界の一定の支持を得ています)

 

伊藤塾やWセミナーがこの方法を主に推していました(現在も伊藤塾はこの型です)。

 

絶版ですが、『3時間でわかる論文の書き方』(早稲田経営出版)という本に、この「問題提起→結論型」が詳しく解説されています(Amazonで安く買えます)。

 

この方法論の最大の功績は、それまで科目ごとだと思われていた答案の型を1つに集約したことです。

更に、法律問題において、事実と法的問題を分けて論じる必要性(両者を混ぜることの危険性)を周知させた点も大きな功績でした。現在ではあまりにも当たり前すぎて逆に意識されることが少なくなりましたが、この頃の受験界では、この事実と法の峻別が盛んに強調されたようです。

 

しかしながら、正直に告白すると、私にはこの「問題提起→結論型」は全く使えませんでした。

答案の構造は言われてみばたしかにその通りなのですが、たとえば「事案の問題提起」と言われたところで、それでは何を言っているのか全然分かりません。知りたいのは、どのようにして事案から問題提起をしたらいいのかです。いくらこのパターンを凝視しても、「事案の問題提起っ!」といくら叫ばれても、具体的にどうすれば事案から問題提起ができるようになるのか、私には全く分かりませんでした。


もっとも、伝統芸能の継承のように、見よう見まねで何度も繰り返しこの型を刷り込んでいけば、こんな不親切な説明でも答案が書けるようになる人はいるようです。

 

また、この型では、条文の存在がどこにもでてこない点も致命的です。

この型からは、事案と論点の話しか読み取れず、条文をどこでどのように出すべきなのかが全く見えません。このブログでしつこく書いてきたように、司法試験の論文試験は条文を使いこなす試験です。その点で、条文をどう使うかに全く触れないこの方法論は、(そこがいかにも伊藤塾的な方法論ですが)方法論として極めて完成度の低いものだと言わざるを得ません。

 

更に、この型は、はじめから論点の存在を前提としています

そもそも「~の問題提起」という表現自体が、何らかの問題(=論点)の発生を前提としています。この型で考えると、法の原則的な処理のあり方が見えてきません。法律問題において、論点の発生はあくまで例外です。いくら司法試験で論点が出題されることが多いからといって、論点的思考を所与の前提とした型は、原則と例外を取り違えた思考パターンだと言われても仕方がないと思います。

 

 

【生の主張スタート型】

 

次に、その後の受験界を席巻する方法論が登場します。

 

この方法論は、全ての科目を一貫して生の主張を立てることからスタートさせるパターンです。

現在では受験生の間では常識とされているパターンです。もし知らない方がいたら、是非この機会に覚えておいてください。

 

私なりの整理の仕方をしてしまうと、生の主張スタート型とは、

 

①生の主張

   ↓

②法律上の主張(条文)

   ↓

③論点(解釈)

   ↓

④あてはめ

 

こんな感じです(人によって違う部分もあるかもしれませんがご容赦ください)。

 

この方法論の優れた点は、全ての法律問題が、(実際に答案に書くかどうかはともかく)思考の手順として、必ず生の主張からスタートし、次に、生の主張に適合する法律上の主張(=条文)が選び出され、それを前提に論点が論じられる・・・というプロセスを正しく指摘したことです。

 

それまで民法など特定の科目で用いられていた生の主張が、憲法や刑法など他の科目でも出発点になっていることを示した功績は大でした。

 

この方法論によって、答案の形だけでなく、思考の手順においても、法律問題に普遍的な型があることが周知されました。

 

ちなみに、事案分析の過程で、いきなり法律上の主張(②)を想起するのではなく、生の主張(①)から考え始めることが大事だとされる一番大きな理由は、生の主張(①)から考え始めずにいきなり法律上の主張(②)から考え始めてしまうと、法律上の主張が複数考えられる場合に、他の法律上の主張を想起し損ねてしまう虞があるからです。

 

この方法論の利点は、先ほどの何を書いたらいいか分からない「問題提起→結論型」のような曖昧なパターンと違い、事案分析の際に、①~④の個々の段階でそれぞれ何をするのかが明確で、処理過程を具体的にイメージしやすく、その意味で方法論としての実践性が高い点にあります。

 

「問題提起→結論型」と違い、条文の存在もきちんとでてきます(②)。

 

論点の存在も、特定の条文の主張の上で、その解釈問題として現れてくるものと位置付けられており、法的処理の原則論が踏まえられています。すなわち、①→②が法の原則的処理であり、③→④は論点という例外事態が発生したケースに過ぎないことが含意されています。

 

現在、このパターンは受験界の多数の支持を得ています。


【紛争構造型】

「生の主張スタート型」が定着して以降、受験界の処理手順の進化はストップしました。

実際、ここ数年、受験界の論文方法論に目立った変化は生じていません。

 

しかし、「生の主張スタート型」は、まだ方法論として完璧とはいえないものです。

 

「生の主張スタート型」は、旧司時代に生み出された方法論です。

旧司時代の論文答案は、いわば裁判官目線で作られた答案です。

つまり、裁判官の(紛争当事者を上から観察するような)俯瞰的・紛争調停的な視点に立って、単線のストーリーを描くように答案を書くことが求められたのが、旧司型答案の特徴でした。

 

これに対して、新司型の論文答案では、しばしば訴訟当事者目線に立った論述が求められます。

つまり、対立当事者双方の視点に立って、まずは原告・被告の2本(複線)のストーリーを描く

そしてその後に、それら2本のストーリーを、裁判官目線の単線のストーリーに回収していく

このような複線→単線へと進化していく答案を書くことが求められるのが、新司型答案の特徴です。

 

こうした新司型答案に相応しい方法論があります。

この「紛争構造型」こそが、全ての法律問題に共通の、普遍的処理手順の最終進化形だと思います。

                   

 

①当事者確定<原告>   同<被告>

 

   ↓

 

②生の主張     ⇔   同(反論)

 

   ↓

 

③法的主張     ⇔   同(反論)

 

   ↓

 

④あてはめ     ⇔   同(反論)

 

 

↑このように、「生の主張スタート型」を、当事者確定を軸に、左右に展開させたパターンです。

 

生の主張という、それだけでは“”が言っているのか分からないものから入る前に、まずは当該紛争の当事者が誰と誰なのか、それを確定させることからスタートします。

法的紛争は(多数当事者であっても)原則二当事者間の関係に引き直されますから、このように生の主張の主体を2つに分けることは、法的な紛争構造を表す図式として普遍的かつ有用な作業です。

 

原告・被告に分けられた当事者には、それぞれに生の主張があり、法的主張があり、それに対する反論があります。これらを漏らさず思考するには、「生の主張スタート型」ではスペースが足りません。

なぜなら、本当は生の主張だって2つあるからです。

というか、2つあるから紛争という名の法律問題が生じるのです。

 

こうして、対立する両当事者の主張を漏れなく炙り出すことによってはじめて、紛争の全体像が一覧的に見えてきます

 

 

路上ライブを国が規制した、という事案をこのパターンで図解してみます。

 

 

①<原告>私人         <被告>国

 

     ↓

 

②路上ライブの自由   ⇔  迷惑なことはやめなさい

 

     ↓

 

③表現の自由(21Ⅰ)  ⇔  公共の福祉(13後段)

 

     ↓

 

④21Ⅰの文言にあたる  ⇔  解釈(最小限の制約⇒審査基準)⇒あてはめ

 

 

シンプルに書くとこんな感じになります。

 

旧司型の単線のストーリーで答案を書いていると気づきにくいですが、「紛争構造型」で考えると、毎度お馴染みの13条の公共の福祉論が、形式的には国の側から提出される主張だと分かります。

たしかに、訴訟を提起している当事者(原告)にとっては、13条がどうとかそんなことは本当はどうでもいいのです。彼(彼女)が主張したいのは、とにかくライブがしたいということ。そして、その規制が21・Ⅰに反して違憲だということだけです。

 

「紛争構造型」は、テニスに喩えると、まずはコートを二分し、その後に2人のプレーヤーが主張・反論のラリーを繰り広げて勝敗を決する、というイメージです。

 

「紛争構造型」に則して考えると、いわゆる人権パターンも、何も他の科目と比較して特別なことをしているわけではないことが分かってきます。人権パターンもまた、紛争構造(二当事者の対立関係)の左右の主張のラリーを順に追って記載しているだけです。

 

この型に自覚的になると、(もう少し具体化すれば)最近流行りの三段階審査論なんかも、この紛争構造の具体的な辿り方の一例に過ぎないことが分かってきます。

 

人権パターンも三段階審査論も、「紛争構造型」というコートで繰り広げられる二当事者間のラリーの軌跡をそれぞれの仕方で説明している方法にすぎません。全ては紛争構造型の中に包摂されます。

 

このように、全科目・全分野において紛争構造を自覚しながら学習を進めることには、答案の書き方に留まらず、法律学習全般においても、想像を超える効用があります。

 

いくつか例を挙げてみます。

 

ここから先は当たり前すぎる話も多いので、中級以上の方にはつまらない部分もあるかと思います。

紛争構造の基本を初学者にも分かるようにきちんと説明したいので、その点はどうかご勘弁ください。

 

【例①】

この方法を用いると、憲法などにみられる、当事者目線の主張を書けという出題形式にフィットします

こういった問題では、多くの受験生が、私人or国どちらの側を書く場合にも、先ほど述べたような裁判官目線の(まるで紛争を解決した後のような)単線的・紛争調停的な答案を書いてしまいがちです。
しかし、上位の合格答案は、あくまでも当事者の主張は当事者の主張として、その露骨な主張を端的に提示する傾向があります。そのほうが争点が明確になりますし、最終的な落としどころ=裁判官目線による結論も見えやすくなるはずです。

 

紛争構造型は、こうした当事者の主張を明示的にあぶり出すのに適合的なパターンです。

また、論文指導でよく「反対利益への配慮が必要だ」と言われますが、紛争構造型で考えれば、別段反対利益に「配慮」などしなくても、自然に全ての反対利益を漏らさず思考することができます

 

こういった図式で普段から思考するクセをつけると、答案を書く場合に限らず、たとえば基本書を読んだり、入門講座を受けている場合でも、対立構造によって紛争を処理する思考が自然に身につきます。

法の本質は対立構造であることが、自然と意識されるようになってきます。

 

以下の②③④はその例です。

【例②】

憲法の人権では、原告はいつも私人で、被告は原則的に国だと分かってきます。

じゃあ統治って何の話なんだというと、統治は国(国家機関)vs国(国家機関)の紛争の話だと分かってきます。多くの受験生には、人権と統治は全然別の話であり、処理パターンも異なると思われているわけですが、「紛争構造型」を使うと、どちらも同じ方法で処理できることが分かります。

 

昔、旧司で政党の問題が出題されたとき、長い司法試験の歴史の中でも珍しいことが起こりました。

合格者の半分がその問題を人権の問題として人権パターンで処理し、半分は統治の問題として処理したのです(スタンダード100でもこの問題だけ答案が2通付いています)。当時の合格者はなぜこのようなことになるのかよく分からないまま、なんとなくそれぞれの「合格答案」を書いたようです。

 

なぜ2通りの解答が出てしまったのでしょうか。実は、紛争構造型で考えるとすぐに分かります。

ポイントは、①の当事者確定です。皆さん入門講座で習ったように、政党には、私的団体という側面と、実質的に国家機関の一部に位置付けられる公的な側面があります。つまり、この問題の処理において、政党を私的団体に引き寄せて考えた場合は、当該紛争は人権の問題(私vs国)に見えます。対して、政党を国家機関に引き寄せて考えた場合は、当該紛争は統治の問題(国vs国)に見えるわけです。

このように、「紛争構造型」で思考するクセをつけると、単なる入門的な知識でさえ誤魔化しのないクリアな説明が可能になってくるのです。

 

【例③】

刑法では、原告は常に検察官だと分かってきます。

さらに、(私は原告の③法的主張をメイン条文と呼んでいるのですが)刑法のメイン条文は全て各論の条文であることも分かってきます。

総論には、メイン条文の構成要件該当性を否定したり、違法性や責任を阻却したりといった被告人側からの対抗的役割しか与えられていません。総論がメイン条文という主役に絡むことができるのは、せいぜいメイン条文の修正(未遂・共犯)が必要なときくらいです。

 

このように、刑法において、総論は常に脇役にしかなれないことが分かります。

 

念のため補足しておきます。

総論(Tb→Rw→S という処理体系)は、全ての各論の条文に内在されている、いわば隠れた条文ということができます。総論体系は、各論の各規定の背後にある隠れた要件なのです。

その意味では総論も主役の一部を形成することがあるとはいえます。しかし、効果の点に着目すれば、やはり主役は各論であり、総論は補助的な役割を果たすにすぎないと言わざるをえません。

 

【例④】
民法94条2項の類推適用というお馴染みの論点があります。

「AB間には通謀も虚偽の意思表示もない以上、94条2項を直接適用することはできない。しかし、94条2項の趣旨は権利外観法理である。そこで、・・・」みたいな初学者でも知っている例の論証です。

 

こういった伊藤塾的な論証的発想(一体“”の台詞か分からないまま抽象的に論じる発想)で理解することに慣れてしまっている人には気づきにくいことですが、この「直接適用できない」というのは、そもそも一体“誰”のセリフなのでしょうか

 

裁判官目線の単線的ストーリーの形で答案や論証を作成することに慣れている人には、これはある種の抽象的原則論を論証の枕詞に掲げたものと思われるかもしれません。しかし、お気づきのように、これはあくまで被告側のセリフです。「94条2項を直接適用したい」と原告側が主張した場合に限って意味が生じる、被告側からの反論です(もちろん、実際の訴訟でこういったやり取りが行われることはほぼあり得ませんが、形式的手順として原告・被告に主張を割り振るとこうなる、ということです)。

 

ところが、初学者の中には、まるで全ての台詞が原告側から発せられたもののように考える受験生も多いはずです。裁判官的な予定調和的・紛争調停的発想、学者的な非当事者的発想、論証的な一本調子の物語的発想・・・こういった現実の紛争を忘れた発想の弊害がここには表れています。

 

「紛争構造型」を使えば、二当事者間の対立構造という法の本質を置き去りにしたまま漠然とした理解をすることがなくなると思います。

 

予備校やロースクールで、「まずは原則論の指摘から入るのが大事だ」とか「論証フレームとして~という順番で組み立てると全体の流れが良くなるよ」みたいな指導を受けることが多々あるかと思います。

こういう悪い意味での法学的な理解の仕方は全くもっておすすめできかねます。

 

このような抽象的指導を真に受けると、法の本質を見誤りかねないからです。

 

法の本質は対立構造(利益対立・紛争)です。

多くの条文が「Aは、Bの場合は、Cになる」という風に、Bという要素によって利益調整ができるよう作られています。たとえば民法478条は「(A)債権の準占有者に対してした弁済は、(B)弁済者が善意無過失のときに限り、(C)その効力を有する」と書かれています。このように条文は、必然的な制度論として「AはCになる」と言い切るのではなく、その間に「B」を挟み込むことで、原告・被告間の利益の割り振りをすることが多いのです。利益を割り振るということは、すなわち、条文の中にあえて紛争(利益調整)の余地を残すということです。このように、単なる制度的な取り決めではなく、何かしらの紛争を予定して作られているのが条文の特徴です。

 

いえ、条文が紛争を予定して作られたというより、むしろ、個々の紛争が先にあって、それらの経験から、先人たちがそれらの紛争(利益調整)を抽象化・類型化する形で条文を作り上げていったというほうが正確でしょう。

 

このように条文とは、徹頭徹尾、原告・被告間の紛争(利益調整)の形が表現された、二当事者間の紛争処理のための道具です。

条文だけではなく、具体的な法律問題の本質もやはり紛争(利益対立)です。たとえば、履行遅滞があろうとプライバシー侵害があろうと、そのような条文に該当する事実がいくらあったところで、当事者が対立していなければ、つまり相手がそれを問題にしなければ、基本的に法律問題は発生しません。

A君がBさんから借りたお金を返さなかろうが、A君がBさんのプライバシーを暴こうが、Bさんがそれを問題にしなければ法律問題(訴訟)にはならないのです。

 

つまり、法律問題は、それが法律問題である限り、必ず、二当事者間の紛争(対立関係)なのです。

 

ですから、上に挙げたような「原則論が云々~」とか「フレームがどう~」とかいう、間の抜けた抽象論を無邪気に有難がってはいけません。そうではなくて、その論証ならその論証の紛争構造が何なのかを常に突き止めようとする姿勢こそが大事です。そうでなければ、真の意味で法を理解したことにはならないからです。

 

シケタイや基本書や○○先生のお話を理解することは、法を理解することとは多くの場合違います。

法を理解・修得することは、条文を理解する場合でも、法律問題を処理する場合でも、紛争構造を理解・処理することに他なりません。この点を忘れないようにしてください。


以上です。

 

「紛争構造型」の重要性はお分かりいただけたでしょうか。

 

このように、日頃からありとあらゆる法律問題を「紛争構造型」で処理するクセをつけておくと、法律の内容の理解&論文問題の処理、いずれもが、極めて明確で自覚的なものになっていきます

 

慣れないうちは少し大変ですが、この「紛争構造型」を常に意識しながら1~2年も勉強を続ければ、その効果は他の受験生を圧倒する形で、いずれはっきりと表れてくることになるだろうと思います。

★紛争構造型を修得するには、 こちらの講座 がおすすめです。

現時点で、この「紛争構造型」が、論文の処理手順として最善の方法論です。

私自身は、これ以上の進化はもはや望めないくらい完成度の高い方法論だと思っています。

 

なぜなら、これまで述べてきたように、この方法論には法の本質が体現されているからです。

 

論文の処理だけでなく、単なるインプットにおいても、「紛争構造型」を使って勉強することが、やはり最善の方法だと思います。この方法論に則して法を学べば、法を理解するということが、本当は何を理解することなのかが明確に定まるからです。「紛争構造型」で勉強していけば、テキストの記述や論証の流れや答案のフレーズといった、曖昧な理解という名の幽霊に絡め捕られることがなくなると思います。
 


答案の書き方について  へつづく

 

 

 

 

 

 

 

【補足】

 

※これから書くことは、私からの最重要メッセージです。

(ここに書かれたことを真に理解された方は、他の記事は読まなくて結構です)

 

例④の話に戻って、少し話を膨らませてみます。

 

この「直接適用できない」という言葉を答案に書かなければならないのは、「まずは原則論の指摘から入るのが大事だよ」などという、そんな不真面目な理由では断じてありません

 

「直接適用できない」という言葉を書かなければならないのは、強制執行権を有する国家という暴力装置を敵にまわすか、それとも味方につけることができるかという、まさにのっぴきならないギリギリの状況に置かれた紛争当事者の絶対に負けられない叫び声だからです。

 

簡単にいえば、そこでその言葉を叫ばなければ勝負に負けるからです。

「原則論がどう~」とか「論証フレームがどう~」とか、そんなマヌケな理由ではありません。

問題を解くこと(=紛争を解決すること)を第一に考える姿勢さえあれば、こんなことは誰でも容易に理解できる事柄なのですが、受験界では「基本書を読んで本物の基礎力をつけましょう」なんていう不真面目極まりない物言いが幅をきかせているために、このシンプルな事柄がなかなか理解されません。

 

理解されないばかりか、まさにその一番大切な紛争解決の訓練をしている受験生の勉強を「付け焼刃」呼ばわりする人までいるようです。

しかし、本来すべき紛争解決の訓練をなおざりにして、知識や理解や基礎力といった曖昧な道具によって、紛争(=司法試験の問題)をその場しのぎで乗り切ろうと考えている基本書派・インプット派の人々の勉強法のほうこそ、本来「付け焼刃」と呼ばれるべきものです。

私が彼らを不真面目だと思うのは、そして彼らの勉強こそ「付け焼刃」だと思うのは、何よりも彼らが、本当にしなければならない仕事から逃げているからです。

司法試験受験生の仕事は、司法試験の問題を解くことです。解けるように頑張ることです。

法律家の仕事は、紛争を解決することです。解決できるようにどこまでも頑張ることです。

どちらも紛争解決です。紛争解決こそが、法曹および法曹予備軍に共通の仕事なのです。

それなのに、「紛争解決よりも本を読め」だなんて、一体どれだけ逃げれば気が済むのですか

カウンセリングの訓練から逃げて、心理学のテキストばかり読んできた人見知りのカウンセラーに、自分の悩みを相談したくなる人がいるでしょうか。紛争解決の訓練をなおざりにして、法律のテキストばかり読んできました(キリッ)とか言ってる弁護士に、紛争解決を委ねたい人がいるでしょうか。

問題が解けるようになりたいなら、問題を解くことから逃げてはいけません

紛争を解決したいなら、紛争を解決することから逃げてはいけません

人の悩みを解決したいなら、人の悩みに向き合うことから逃げてはいけません

真面目に考えれば、誰もがそういう結論にならざるをえないはずです。

そうならずに、「まずは基本書だ」なんて台詞を安易に吐く人は、思考回路そのものが不真面目です。

 

ちゃんと考えてみてください。紛争を解決したことのない人に、紛争に真剣に取り組んだことのない人に、どうして「基本書読みが紛争解決能力の養成に最適の手段である」と分かるのでしょうか

 

その人は、いったい(←ほんとに何!)を手掛かりに、そのような解を導いたのでしょうか。

言うまでもなく、導けるはずがありません。

 

あなたが超能力者でもない限り、現実の紛争に立ち向かうプロセスを省略したまま、それでいてどうしたら紛争解決に必要な能力が身につくのか、その手段だけは都合よく分かってしまうなんていう調子のいい話は、原理的にあるはずがないのです。

 

「紛争地帯に赴くことなく紛争請負人になれます」なんて都合のいい話は原理的にないのです。

紛争地帯という現場(問題)で仕事をせずに、現場から遠く離れた会議室(基本書)で読書に耽りながら紛争請負人の資格を得ようとする受験生たちこそ、真の「付け焼刃」受験生と呼ばれるべきです。

 

それから、「司法試験に受かりたいなら基本書を読め」と、まだ紛争に立ち向かったこともない受験生に助言するローの教授や合格者たちも、他人に助言をするという観点に限っていえば、(仮にその人がそれで合格したのだとしても)アドバイザーとしての資格を100%持ち合わせていない人たちだと言わざるを得ません。

こんな「詐欺師」の語る、無責任な伝聞情報に惑わされる
のはやめにしましょう。

 

紛争という名のドブ板を自力で這いずり回る労力をスキップして、他人からキレイな答えだけを教えてもらおうなんて、それはいくらなんでも虫がよすぎます。こんな詐欺話に心を動かされたとしたら、あなたもまた相当に不真面目です。それを自覚してください。

ドブ板を這いずり回る労力を惜しむ不真面目な人間が、司法試験などやってはいけません。


あるいは、極端な例をだしたほうが分かりやすいかもしれません。

 

たとえば、私があなたに、1週間後に仕事をしてもらうから準備しといてと依頼したとしましょう。

 

さて、そう依頼されたあなたは、これから1週間、いったい何」をすべきなのでしょうか。

誤魔化さずに、きちんと真面目に考えてみてください。

まさか、基本書を読むのでしょうか? (笑

揺るぎない基礎力をつけるために? (笑

…ここは笑うところではありませんでした。

 

あなたにとって司法試験は、この「仕事」と同じくらい本当は訳の分からないものなのです

 

あなたがそれを訳が分かっていると愚かにも勘違いしてしまっているのは、怪しげな新興宗教の信者のように、「○○教祖」(←あなたの好きな教授・講師・合格者の名前を入れてください)の言うことは間違いなく真実に決まっていると、思考停止状態で信じているからに過ぎません。

このケースでは、『"仕事"ってだけじゃ何をしたらいいか分からない』が唯一の正解です。

ここで何か」をし始めてしまう人は、典型的なダメ受験生です。


さらにダメ押しで、もう一つだけたとえ話を挙げておきます。

 

もし、あなたが子どもからクリケットが上手になる方法をおしえてと聞かれたらどう答えるでしょうか。

 

言うまでもなく、ここで「たしかクリケットって野球みたいなのじゃなかったっけ」とか適当に考えて、バッティングセンターに子どもを連れて行くとしたら、あなたはバカ親認定です。

あるいは、「まずは揺るぎない基礎体力を付けるために・・」とか言って、子どもにジム通いをさせるなら、あなたはアホ親確定です。

 

当然ですが、クリケットがどんなスポーツなのかを徹底的に調べてみなければ、そして、クリケットそのものをあなた自身が経験してみなければ、さらに、子ども自身にも経験させてみなければ、正しい助言などできるはずがありません。このアホ親たちは、そんな簡単なことにさえ気づいていないのです。



・・・もうこの辺で十分でしょうか。

 

このように、「何」をするのかが分からない状態で、「何か」をし始める人間は愚かです

同様に、司法試験を十分に知ることなく、いきなり基本書を読み始める受験生も愚かです。

仮に、クリケットと野球がすごく似ていて、「私は野球の練習をすることでクリケットが上手くなった」と称する(←多くの場合ただの勘違い)人間が現れたとしても、それが他ならぬあなたにとってまでそうであるとは限りません。

 

・「野球とクリケットが似ていた」というある人にとっての実感が、

・「野球をすることでクリケットが上手くなった」というある人にとっての結果論が、

他ならぬあなたにまで妥当するかは、保証の限りではないのです。

 

そんなことは誰にも分かりません。

 

なぜなら、そのある人は、あなたではないからです。

それが分かるのはあなただけです。

 

この宇宙に唯一無二の存在である「あなた」が、「クリケットをする」ことでしか、その答えを見つけることはできません。その過程を別の誰かに預けてしまうことはできないのです。

ここで、「クリケットより野球をせよ」と助言する浅はかな人間が、典型的なダメ合格者です。

(他人任せで合格した人間は、他人に対してもまた、他人任せな助言しかできません)


そして、このダメ合格者の妄言を真に受けるダメ人間こそが、典型的なダメ受験生なのです。

(ダメ受験生の一部は、他人任せなダメ合格者になり、次のダメ受験生を再生産していきます)

ちなみに、究極のダメ受験生とは、(私がここまで懇切丁寧に言ってあげているにもかかわらず)それでもなおこの記事をプリントアウトして、あるいはスマホを示して、あるいはどこぞのコメント欄に書き込んだりして、「ここに書いてあることってどう思います?」とか、結局やっぱり誰か(他人)に聞いてしまうような人です。

安心してくださいあなたのような人は永遠に受かりません
 
ダメ受験生とは、このように何も考えず、すべてを他人任せにする人です。

このようなタイプの人は、すぐに詐欺に引っかかるし、新興宗教の格好の餌食にもなります。

 

ひょっとしてあなたは、今までこういうタイプの人たちを、どこかで馬鹿にしていたのではないですか。

 

しかし、紛争地帯で独り戦う労力を惜しんで、他人の語る伝聞情報に一喜一憂し、他人から提供されたバイブル(基本書)に縋り付いているとすれば、あなたも新興宗教のバカ信者と何ら変わりありません。



もしあなたが、詐欺師を信じるのではなく、ただ成功を望んでいるのなら、その方法はいたって簡単です。


つべこべ言わずに、あなた自身が紛争地帯に突入すればいい のです。

現場で1~2年も揉まれれば、あなたの答えは完全に見つかります。

それで死ぬこともありません。

 

何より、そうすればあなたは100%合格できます。

こんなに都合が良くて気楽な戦いは、そうそうありません。

 

それでもそうしないのは、きっと、自分自身の目で現場を見ること、自分自身の頭を使って考えることが、面倒くさくて仕方がないからでしょう。

私が彼らを(そしてあなたを)不真面目だというのはそういう理由です。