大正5年8月 歌右衛門と八百蔵の北海道、東北巡業 二の替り | 栢莚の徒然なるままに

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今回は暑い8月と言う事で少し時間を遡ってこの前手に入れた珍しい番付を紹介したいと思います。

 

※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。

 

大正5年8月 地方巡業

 

演目:

一、吉例曽我の階段

二、都歌舞伎

三、傾城阿波の鳴門

四、絵本太功記

五、清水一角

 

以前紹介した演芸画報にも書きましたがこの時は

 

・小樽
・札幌
・苫小牧(全日程貸切)
・室蘭
・函館
・青森
・仙台
 
の計7ヶ所での公演となり、歌右衛門にとっては明治41年8月以来8年ぶりとなる北海道巡業となりました。
因みに苫小牧公演は明治43年に進出した王子製紙が5日間の公演を丸々4,500円(現在価格で約1,500万円)で買取り、工場で働く従業員の慰労で無料で観劇させたのが道内の話題を攫いました。普段滅多に巡業には出ず、しかも遠距離移動を嫌がる歌右衛門が遠路はるばる北海道までやってきた理由の1つはこの苫小牧の貸切公演が背景にあったそうです。
それだけに歌右衛門もかなり張り切っていたらしく、御目見得公演で出した春日局の裲襠は本公演でも用いた三越衣装部に作らせた西陣織の特注品で150円(現在価格で約50万円)もした衣装を使うなど地方巡業とはいえ、決して手を抜かないかなり本格的な公演になったそうです。
さて、話を元に戻すと今回の番付は日時や場所の明記は無く、役者名の印や配られたであろう関係先の印も無い事から何らかの理由で未使用であった物と推察されます。
 
以前に紹介した演芸画報 

 

今回改めて説明するとこの巡業はどうしても歌右衛門の存在が大きく目立ちますが他の顔触れをよくよく見ると

 

・市川八百蔵

 

・片岡市蔵

 

・坂東秀調

 

に歌右衛門父子と嵐吉三郎が加わったという形であり、上記の3人は八百蔵を座頭に巡業に出る時のレギュラーメンバーであり、北海道という場所も明治36年に初めて来道して各地で大当たりをとって以降、毎年8月に八百蔵が好んで巡業に出ていたお馴染みの土地である事からいつもの巡業一座+特別ゲスト:歌右衛門という図式であった事が分かります。

因みに同じ時期、北海道では市川左團次一座も巡業していて

 

小樽

左團次:7月14〜21日

歌右衛門&八百蔵:21〜27日

 

札幌

歌右衛門&八百蔵:7月29日〜8月4日

左團次:8月7日〜14日

 

と完全にバッティングしていて北の大地で激しい競争を繰り広げていました。

 

札幌公演の会場となった大黒座

 
今回は別件でたまたま北海道の調査をしていた時に彼らの公演の劇評や情報を見つけたので札幌と小樽での公演をベースに紹介したいと思います。
タイトルにも書いた様に今回の番付は「二の替り」に当たり、小樽と札幌では御目見得狂言として
 
・だんまり
・春日局
・鈴ヶ森
・鎌倉三代記
・左小刀
 
が上演されています。
 
吉例曽我の階段
都歌舞伎
 
まず序幕の吉例曽我の階段は前に1回だけ市村座で紹介した曽我の石段物の1つである曽我物の演目となります。
 
壽念仏曽我を紹介した市村座の筋書 

 

内容としては工藤方の八幡三郎と曽我兄弟側の近江小藤太が密書を巡って石段で大立廻りをするというだけの物でお家騒動物を曽我物に仮託して描かれたりします。ただ、今回は巡業とあって続く都歌舞伎とは全く関係性が無く、どちらかと言えば江戸時代に名題下が演じた序開きの様な扱いになっていて事実、出ている役者も門蔵、吉三郎、かつみと何れも名題下若しくは御曹司である事からも裏付けられます。
因みにこちらは内容が内容なのと中々二の替りの劇評は残りにくい状況もあって劇評にも全く触れられておらずどんな感じだったかは不明です。
 
続いて一番目の都歌舞伎は以前紹介した通り榎本虎彦が書き下ろした新歌舞伎の演目となります。
 
内容などについてはこちらをご覧ください 

 

今回は朝日姫、伝内女房おさよ、豊臣秀吉を歌右衛門、都伝内と佐治日向守を八百蔵、島田主計と名古屋小山三を福助、梅ヶ枝をかつみ、大政所を吉三郎、乳母おとらを秀調、結城秀康を市蔵がそれぞれ務めています。

 

こちらは目玉演目とあって詳細が残っており

 

多少筋に無理はあるが観た目には如何にも面白い狂言である

 

と歌舞伎座の時にも指摘した通り時代考証が余りに滅茶苦茶なのはここでも指摘を受けていますが、目が肥えてる東京と違い歌右衛門が来る自体珍しい北海道では多少大目に見られているのが分かります。

その上で一幕目を見落としたと言う謝罪の後に歌右衛門について触れ

 

歌右衛門の妻おさよが偽千代姫になって大政所の邸に行かうと決心するまでに非常にいい所を見せたが三幕目高台寺御殿の対面は余りにカドカドし過ぎはせまいかと思はれる箇があった、併し四条河原から聞えて来る芝居の囃子で夫や我子の上に想を寄せるあたり得も云われぬ情味を示した

 

と初演では唯一評価された三幕目が今ひとつだ評価された以外は概ね好評でした。

因みにこの劇評は小樽公演の時の物ですが札幌公演では連日の暑さでかなり体力を消耗してしまい、事前取材も中途で打ち切り、本番中も楽屋に帰るや否や衣装を脱ぎ捨ててぐったりしてた様子が書かれていて三役も演じるこの演目は歌右衛門にとっては出血大サービスの演技だったそうです。

 
歌右衛門の秀吉、福助の島田主計、八百蔵の佐治日向守
 
そして歌右衛門以外については八百蔵と福助について触れていて
 
福助の小山三が演ずる深草少将はゆっとりとした立派な型を見せ従者八百蔵の伝内が登場してから偽千代姫の歌右衛門と寸分弛みのない呼吸は観客を緊張させるに充分であった。
 
と初演でも演じた役だけに共に歌右衛門の演技に見劣りしない出来だと評価されました。
歌舞伎座での本公演では内容の稚拙さを酷評されて全く評価されなかったこの演目ですが、観劇する機会が東京に比べて少ない北海道とはいえ今回はそれなりに評価されていて大都市と地方での演劇への接し方、感じ方の差異を感じる物があります。
 
傾城阿波の鳴門
絵本太功記
 
続いて中幕の傾城阿波の鳴門と絵本太功記はブログでも紹介した事がある時代物の演目です。
 
新富座で上演された時の筋書 

 

鴈治郎の巡業で上演した時の筋書はこちら 

 

歌舞伎座で再演した時の筋書 

 

今回は傾城阿波の鳴門でお弓を秀調 、おつるを小百々、絵本太功記で武智光秀を八百蔵、操を歌右衛門、十次郎を市蔵、真柴久吉を新十郎、初菊を福助、皐月を吉三郎がそれぞれ務めています。
 
一番目が歌右衛門の出し物だったのに対して中幕は秀調と八百蔵の出し物となりました。
まず、時代物の女形役を得意とするなど似たニンを持つが故に歌右衛門という巨大な存在に押されてしまい東京では不遇がちだった秀調が主演を務めた傾城阿波の鳴門については
 
秀調のお弓水際立った出来栄え、殊に最後の「未だたいさきのある子をばー」と悲嘆にかき暮れるあたりが何とも云へぬところがあった
 
と我が子と知りながら名乗りが出来ぬ母親の悲哀を巧みに演じたと評価されています。
 
秀調のおゆみと小百々おつる
 
因みにこの演目は養父である二代目秀調も最後の舞台となった明治34年4月の御園座でも最後に演じるなど得意役としていたお家芸にも等しい役だけに秀調もこの役だけは他者に負けられない物があったのではないかと思います。
秀調については上述の通り八百蔵の夏巡業のレギュラーメンバーであり、今回の様に歌右衛門が加入しなければ中車が得意とする絵本太功記では操、菅原伝授手習鑑では千代、極付番隨長兵衛では長兵衛女房お時といった具合にいつも大役が振られている事から見ても他の女形役者に引けを取らない実力を持っていました。
それだけに歌右衛門と重ならければ、あるいはもう少し寿命があれば時代にも世話にも長じたベテラン女形として菊吉、あるいは左團次辺りの相手役を務める可能性は十分にあっただけにその実力がきちんと発揮できないまま亡くなったのは歌舞伎界にとって大きな損失だったと言えます。
 
そんな好評な秀調に対して八百蔵の出し物兼十八番と言える絵本太功記は
 
役が揃ひ、大舞台を観せてくれた
 
と評価した上で八百蔵、歌右衛門、福助、市蔵について触れそれぞれ
 
殊に光秀は大きく立派
 
八百蔵の光秀
 
みさおの愁嘆もよかった
 
歌右衛門の操
 
初菊は美しくいじらしく
 
福助の初菊
 
と3人は流石に得意役なだけに一言ずつながらも評価されましたが、十次郎の市蔵だけは
 
十次郎だけは柄に欠点があったが軍語りはよかった
 
と恵まれすぎた体躯が災いし十次郎には見えなかったと言われているものの、台詞廻しの良さに関しては評価されています。
彼に関しては次に紹介する清水一角の写真を見れば分かりますが確かに若武者の十次郎には見えず下手すれば光秀を演じてもおかしくない柄だけにこればかりは大顔合わせという名目だけで市蔵を選んだ配役に問題があると言えます。
これに関して言えば本来なら福助辺りが演じれば適任なのですが彼は初菊を演じる手前、それは無理な相談なので皐月に廻っている吉三郎辺りに演じさせて市蔵は久吉にでも廻れば皐月を誰にするかという問題はあるとは言えまだ役のニンでは無理が無かったのではないかと言えます。
来年辺りから紹介する事が増える地方巡業ではこうした本公演では良くも悪くもまずあり得ない配役があるのも巡業の醍醐味と言えば醍醐味であります。
結果として、市蔵以外の主だった役は良かった事からこちらも評判としては上々だったそうです。
 
清水一角
 
大切の清水一角は以前に歌舞伎座での顔見世公演で忠臣蔵オムニバス物をやった時にちらっと出ていた清水一角を主人公に書かれた裏表忠臣蔵の1つに当たり姉おせいの諫言を無視して酒を呑んだ事で赤穂浪士に討ち入りを許すも孤軍奮闘する様を描いています。
 
こちらは片岡市蔵の出し物に当たり清水一角を市蔵、おせいを吉三郎、牧山丈左衛門をかつみがそれぞれ務めています。
普段東京の舞台では自分の出し物を出す機会に中々恵まれない彼ですが、八百蔵との巡業ではこうして出し物が出せる位のポジションにいたのが分かります。
そんな四代目の出し物が立廻りを主とする清水一角というのは意外な気がしますが、考えてみると市蔵襲名時の披露狂言も松嶋屋のお家芸である馬切りであった事から案外この手の物が得意だったのかも知れません。
しかし、劇評の評価はというと
 
大切の清水一角は観ずに帰る
 
と見てすら貰えずどんな様子だったのかは残念ながら分かりませんでした。ただ、写真は残っており、それを見る限り豊かな体躯も相まって剣客の風格は様になっているのが窺えます。
 
市蔵の清水一角

 
この様に都歌舞伎、絵本太功記と阿波の鳴門と各々の得意役ばかり揃えた演目がズラリと並んだ二の替りでしたが、見物の反応はどうだっかと言うと札幌公演の楽屋でヘトヘトになりながらもインタビューを受けた歌右衛門によれば
 
小樽では御目見得狂言より二の替りの方が反応が良かった
 
と述べていて客足が鈍りやすいなど条件面では不利がちな二の替りにも関わらず小樽では評判は良かったそうです。
余談ですがこの時の北海道の暑さが余程体に堪えたらしく、歌右衛門はこの後8月は死ぬまで舞台には出ず伊香保に避暑する事に没頭し、旅巡業その物も関東大震災による劇場の焼失により出る場所が無くなってしまった為に止む無く大正13年9月に青森、秋田といった北東北を吉右衛門と一緒に廻った以外は頑として断り続けた程でした。
残念ながら歌右衛門と八百蔵の巡業の資料はこれしか持っておらずまた紹介する事は出来ませんが、もう暫くすると巡業の筋書を持っている時期に入りますのでその時に改めて紹介したいと思います。