演芸画報 大正10年6月号 大道具と衣装特集 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は再び演芸画報を紹介したいと思います。

 

演芸画報 大正10年6月号

 

先ずグラビアページですがご承知の通り歌舞伎座、帝国劇場、市村座については既に個別ページで紹介しましたのでここでは割愛させていただきます。

 

歌舞伎座の筋書はこちら


帝国劇場の筋書はこちら

 

市村座の筋書はこちら

 

ここでは東京の主要劇場で唯一紹介していない明治座を紹介したいと思います。

5月の明治座は例によって左團次一座が陣取りそこにそれまで客演していた雀右衛門に代わり我童、壽三郎、多見蔵の豪華上方勢が加わり

 

忠義

御所桜堀川夜討

五条橋

尾上伊太八

増補朝顔日記

 

を上演しました。

 

左團次のクラノと松蔦の山桜

 
その為、我童の朝顔日記、多見蔵と三升の御所桜堀川夜討、猿之助と壽美蔵の五条橋とめいめいの出し物があった事もあり、左團次の出し物は一番目の忠義と二番目の尾上伊太八のみといつもに比べると随分控え目な形になりましたが、その分普段の左團次一座には不足しがちな古典物の要素を上方勢で補う事で上手く差別化を図っているのが分かります。
この後左團次一座は6月は横浜劇場に移り、7月は巡業、8月は恒例の歌舞伎座出演と例によって休みを取る事無く大正10年の夏を過ごしていく事になります。

対して関西では2ヶ月に渡る上京公演を終えて帰阪した鴈治郎一座が陣取り

 

小野道風青柳硯

和歌の浦

お夏清十郎

勢獅子

 

を上演しました。

 

鴈治郎の小野道風と手代清十郎

 
 
こちらは再演となったお夏清十郎の好評と久しぶりの上演となった小野道風青柳硯の珍しさもあり入りも良かったそうです。
余談ですがこの小野道風青柳硯はこの後は大正14年に本郷座で吉右衛門が上演したのを除いて殆ど上演される事が無くなり特に写真にある東寺門口の後に上演された道風館の場はこの公演を最後にかれこれ100年以上も上演が途絶えており、松也辺りの意欲的な若手が復活上演してくれないかと願って止みません。
また上方のもう1人の雄である實川延若は神戸中央劇場に場所を移し實川八百蔵、片岡愛之助等を従えて出演し得意の裏表先代萩の通し上演をして気炎を吐いてました。

 

實川延若の仁木弾正

 

さて、グラビアページの紹介はここまでとして文字ページに移ると市村座での尾上丑之助初舞台に因んでか「私の初舞台」と称したミニ特集があり三代目坂東秀調と二代目河原崎権十郎が寄稿してそれぞれの初舞台を振り返っています。

 

私の初舞台のページ

 
因みにこの2人、苗字こそ坂東と河原崎ですが2人共元は成田屋一門であり、しかも共通点として中年(今でいう40代ではなく10代半ばの意味)から役者になったという共通点があります。
そして知られざる話として秀調は元々囃子方として嘱望されたにも関わらず役者になった事と
 
先から女形の積りであったと云ふのは、中二階(女形の事)は役者の数が少ないから擢んでるのが早いと考へて中二階に這ったのです。
 
と名女形で有名な二代目坂東秀調の娘婿になったから女形になった訳ではなく、立役は團十郎以下ゴロゴロいる市川一門の中で女寅ぐらいにしか目ぼしい女形がいない女形不足に託けてこれなら中年からの自分でも良い役に恵まれそうという強かな(?)計算があって自ら女形になったと告白しています。
そして師匠の元では端役しか宛がわれず、仕方なしに東京座や市村座で相応の役を演じている時に先代秀調に見込まれて娘婿に収まり女形としての道が開けた事を記しています。
対して権十郎はもっと悲惨で歌舞伎座の芝居茶屋武田家の息子に生まれ母親の再婚で河原崎家の一員になった事もあり、子役時代こそ團門の端くれとして舞台に出れたものの成長するにつれ使ってくれなくなった事から
 
仙台に山崎一徳といふ河原崎から出た役者があって、彼地では人気もの、兄から手紙を付けて貰って奥州に下り(中略)すぐに一座に加はって、松島座で「忠臣蔵」の早野勘平といふ大役が初舞台とは我ながら大胆不敵な役者。
 
と当人は新富座での初舞台はカウントに入っておらず19歳の年にドサ廻りに落ちてからがの勘平が初舞台と記しています。
その後脳出血で倒れて静養中だった五代目尾上菊五郎に実盛を教わる等、團門とは思えない辛酸や苦労を重ねて北陸の嵐冠十郎に養子に迎えられて北陸に行き、そこで偶然巡業に来た七代目市川團蔵に目を掛けられて今度は大阪に行き田村成義や実家の紹介状もあって十一代目片岡仁左衛門に出会った事を赤裸々に記していて一見すると九代目の身内として何ら苦労する事無く河原崎権十郎の大名跡を継いだ様に見える彼ですが実は血も滲む様な努力の末に大歌舞伎の役者にまでなったシンデレラストーリーがあったのが分かります。
紙幅の都合からかこの2名しか特集に寄稿していませんが戦後の歌舞伎の本に書かれないこうした珠玉のエピソードが盛り沢山であるのが演芸画報のかかけがえの無い魅力と言えます。

 

大道具と衣装特集

 
そしてもう1つの特集が大道具と衣装についてです。
こちらはこの頃の歌舞伎座の舞台装置一切を手掛けていた画家の久保田米斎が寄稿しています。
言うまでもなくこの企画は当時ライバル誌であった新演芸の強みである研究面部分を模倣した物であり、商売っ気の匂いを感じる部分はありますが、彼自身の見た明治初期頃の舞台装置の様子(上方では下座が上手にあった事や下手の柱に場の名称を記した板が掲げられていた事)やこの頃の歌舞伎座では両方の柱に掲げられていた事を記しており今と異なる舞台外の様子を証言している他、主題となる舞台装置の変遷が何時から始まったについて米斎は
 
江戸時代より近世式の大道具に転換したのは、時勢の推移に伴った大勢であるのは勿論であるけれども、歴史劇における九代目團十郎、世話狂言における五代目菊五郎の二人の功績を閑却する事が出来ない。(中略)更にそれに加ふるに先代市川左團次が、従来鎖国主義の芝居道の関門を開いて、新人を迎へ入れたので、又ここに一紀元を画する事になったのである。
 
と明治時代の歌舞伎を支えた團菊左の3人、特に左團次が明治座での公演に於てフランスで絵を学んだ山本芳翠氏を招いて背景絵を依頼した事により樹木や舞台セットの絵に工夫を加える様になった功績が大きかったと触れています。
その上で背景絵などから始まった改革を発端として従来無関心であった他の装置にも変化があったとして
 
背景の張物の寸法は、以前に比較すると高くなっている
 
小道具と衣装であるがこの方面は全く昔と相違して、今は大に進歩してゐる。(中略)昔の如く法令で禁ぜられる事が無いから、如何なる品にても自由に使用し得られる上に、史劇に世話物にも、その時代時代に適応したものを拵へるのが一要素となってきたのであるが、この踊を作ったのは、矢張り九代目團十郎であった。従来史劇を演じてゐても、大概素襖ですませて居たものが、九代目の中年以後から、漸く直垂を用ひ、直衣、束帯をも使ふことになった。
 
と史実に即した描写を禁ずる江戸時代から明治時代に代わったタイミングと有識故実に拘る九代目團十郎の影響もあってそれまで無頓着だった衣装関係の変革が急激に行われたとして九代目のあまり評価されない功績の1つだとしています。
これだけだとあたかも役者のみの主導で変わっていったという印象も抱かれると思いますが米斎は決して役者だけの功績ではないとして小道具制作の藤浪(藤浪小道具)の功績についても触れ
 
小道具の藤浪は現代の主人は三代目になるのであるが、初代及び二代目の人々は何れも熱心で、鋭意に改善を図ったので、これは急速に発達をとげ、僅かに十数年の以前に較べてさへ大なる違ひがある、殊に武器の類に至っては、比較にならぬ程精巧を極めるやうになった。これは現代の藤浪の主人が、特にそれを趣味を有ってゐるので、単に故実を斯道の人に質すばかりで無く、自ら甲冑を制作するのであるから、今にては油脂余ある古式の大鎧、胴丸、腹巻等の摸造が、常に舞台に現はれるやうになって、時々国宝の陳列会を見るが如き観がある。
 
と役者達があまり無関心であった刀剣、鎧類の改善を藤浪小道具の三代目主人が熱心に工夫・改良を重ねて質の担保を担っていたとしています。
今でこそ刀を題材にした刀剣乱舞の歌舞伎が一世を風靡するなどしていますが、戦後以降の歌舞伎しか知らない多くの人にとっては今の歌舞伎が400年も前から変わらず続いて来たと勘違いする人が残念ながら多くいますがただただ「伝統芸能」の看板に胡坐を掻いていた訳のでは決してなく様々な制約があったが故に粗末で荒唐無稽な演劇に過ぎなかった江戸時代の歌舞伎から急激に脱皮して様々な矛盾を内包しつつも常に進化を続けて来た歴史があってこそ実現が可能になったものがある事を知っていただけると嬉しく思います。
 
既に歌舞伎座、帝国劇場、市村座の紹介をしてしまった後の紹介の為に少々内容が貧弱になってしまいましたが、演芸画報にはこの様な面白い企画なども数々記されていますので古書店などで立ち寄って見つけた際には「戦前だから興味ない」と思わずに手に取って見て頂けると面白い発見があるかと思います。