大正10年5月 帝国劇場 女優劇公演その9 宗十郎の鈴木主水 | 栢莚の徒然なるままに

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今回はお馴染み女優劇公演が行われた帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。

大正10年5月 帝国劇場


演目:
一、箙の梅
二、煤煙
三、若葉の青山
四、舞台に立つ妻

前回紹介した通り梅幸一門と勘彌が市村座に、幸四郎が次回紹介する予定の歌舞伎座にそれぞれ出演した結果、今回の女優劇公演は宗十郎、宗之助、松助、長十郎の4名が残留しての公演となりました。
因みにこの4名、宗十郎と松助、あるいは宗之助と長十郎、宗之助と松助という組み合わせはそれぞれ過去にあったものの4名揃ってでの補導は明治44年9月に長十郎から加入して以降11年以上経つのにも関わらず、実現したのは1年前の大正9年5月のみで今回が2度目というかなり珍しい組み合わせでありました。

 

余談ですが筋書の所有者は丁度中日の11日に観劇したそうです

 


箙の梅


一番目の箙の梅は岡本綺堂が大正3年に書き下ろした時代物系統の新歌舞伎の演目です。
外題の箙の梅は寿永3年、源平の戦いの一つである神戸の生田の森の戦いで梶原景季が梅の枝を箙に差して戦った故事に因んだ物で戦の中においても風流さを忘れない景季の性格を表す逸話であり、歌舞伎においてもこのネタは景季が主人公として登場するひらかな盛衰記で恋人千鳥が神崎遊郭で遊女になった際に名乗った源氏名である梅ヶ枝に反映されています。
それはさておき、今回の箙の梅ですが岡本綺堂と来ればこれまでの作品の数々が示す通り、故事を元に景季が差した梅の枝を転移入れた経緯として農民の甚五兵衛と梅ヶ枝の父娘を登場させて景季との出会いと彼が梅の枝を所望して戦場に出るのを一目ぼれして追いかけてしまい流れ矢に当たって負傷し遂には梅ヶ枝が亡くなるまでを描いた悲劇的な内容になっています。
今回は景季を宗之助、梅ヶ枝を律子、甚五兵衛を松助、菊池高国を長十郎、梶原景時を介十郎、梶原景高を田之助、後藤盛長を高助、平重衡を宗十郎がそれぞれ務めています。
綺堂らしい市井の人の描写と戦争に巻き込まれる悲劇と時代背景こそ違えど奇しくも同じ月に市村座で上演されていた長恨歌と瓜二つな内容となりましたが
こちらの評価はというと

かつて一二度小芝居では上演された事のある、極さらりとしたもの

と変に中国を意識した長恨歌に比べると日本の源平物とあってさしたる破綻も無い代わりに見せ場もこれと言ってないという普通の評価となっています。
因みに一二度小芝居で~とあるのは半分間違っていて正確には

・大正7年3月 吾妻座

・大正9年3~4月 中座

で上演した事を指しています。

中座での上演の様子についてはこちらをご覧ください

 

また役者についても唯一戦の場で

城外の奮戦で宗十郎の重衡が優にやさしき心を見せる處が一寸絵のやうだった

と宗十郎の重衡が景季を見逃す所に情味があると評価されたのみでした。

松助の甚五兵衛と律子の梅が枝、宗之助の梶原景季
 

上記の評価を見ても何となく分かりますが、登場人物も少ない割に万遍なく役者が出せて且つ一幕物なので重宝ではあるものの、彼の代表作に比べるとダイナミックスさに欠ける部分があるとして長恨歌と似たり寄ったりの評価となりました。

煤煙

 

続いて中幕の煤煙はこれまた帝国劇場ではお馴染みである佐藤紅緑が書き下ろした現代物の新作となります。

一家族を上演した時の筋書 

 

佐藤紅緑と言えば「あゝ、玉杯に花受けて」など底抜けに明るい少年小説を得意とする作風が知られていますが、前回の一家族の様に芝居の演目になると一転して人間の業などをシリアスに描く暗い作風になる二面性のある人であり、今回も工場の煤煙に苦しむ技師一家がお金が無いのにも関わらず唯一の稼ぎ手である内海彦弥の月給を当てに散財を繰り返す家族の浅ましさを「虚礼を重んじる世間の罪にして、慣れれば毒とも思わぬ煤煙の如きものなり」と煤煙を比喩に用いて批判しており未曽有の大戦景気に沸き返り、金に溺れる日本人の醜さを暗に示唆する物にもなっているのが特徴です。
今回は内海彦弥を宗之助、お今を菊江、喜平を介十郎、お幸を房子、お園を延子と日出子(1日替わり)、お梅を福子と兼子(1日替わり)、艶子を美弥子と小春(1日替わり)、山田藤吉を其答、お玉を錦吾がそれぞれ務めています。

専属女優を余すことなく出す為とはいえ1日替わりも含めて多くの役者が出るこの演目ですが評価の方はと言うと

 

狙ひ處が独歩の「酒中日記」に似てゐるが

 

と自堕落な家族が唯一の稼ぎ手のカネを目当てに醜悪さを曝け出す部分の描写は国木田独歩の作品との類似点を指摘していますが続けて

 

今度の出し物中では矢張り呼び物であらう

 

現代人の日常生活の裏面を、其儘暴露した處に、見物の胸へ深い何物かを与へてゐる

 

と公害問題を絡めて一家崩壊の有り様をシニカルに描いている点で単なるパロディーの域を脱して別の作品になっていると高く評価しています。

そして役者の中では一番評価されているのが自堕落な夫の家族に翻弄されるお今を演じた菊江で

 

房子の母と介十郎の父の無智な行動と、其間に挟まった菊江の嫁のいぢらしいのが、同情を買って、一般の見物には判りよい劇だけに受けてゐたやうだった。

 

と紅緑が得意とする艱難辛苦に見舞われながらもその良心だけは失わない潔癖な人物像を上手く再現して客もの同情を買っていると評価しています。


宗之助の内海彦弥、菊江のお今、福子のお梅

 

最後に余談ですが、劇評では国木田独歩の酒中日記との類似点を指摘していますが実はこの煤煙に登場する破滅的な一家のモデルは他ならぬ紅緑の家族その物ではないかと推察されます。

というのも、この当時紅緑は自身の不倫により正力一太郎の妹であるはると離婚し20歳以上年下の女優である三笠万里子と同棲しており子供が誕生した事もあり翌年の大正11年に正式に籍を入れていました。
しかし、紅緑には前妻はるとの間に5人の子供をおり、2人ほど夭折したものの成長した3人の息子である八郎、節、弥は家庭を棄てた父親への当てつけとばかりに金の無心は元よりあちらこちらで父親の名前を使って借金をこさえては父親へ尻拭いをさせる日々を続けており父の紅緑も万里子との家庭を壊されたくない為か息子を後始末を常に金で片付けており常に家計は火の車状態でした。
その状態は後に紅緑が少年小説の大家になり八郎がサトウハチローとして売れっ子詩人になった後も主として節が全く変わる事無く続きその節が偶然居合わせた広島で原爆死し、弥が出征先のフィリピンで戦死した1945年まで終わる事はありませんでした。
今回の演目の登場人物がやけにリアルで生々しいのもそんな紅緑の私生活の状態がそのまま反映されていたのではないかという一面があります。

若葉の青山


二番目の若葉の青山は外題だけ見ると新作演目の様に見えますが元の外題を隅田川対高賀紋といい、通称鈴木主水と呼ばれているれっきとした世話物の演目です。
こちらは外題に高賀と入っている事からお気づきの方もいるかと思いますが嘉永5年3月に市村座で初演したのが五代目澤村長十郎(五代目澤村宗十郎)であった事や紀伊国屋の役者によって再演された事もあり七代目澤村宗十郎が紀伊国屋の当たり芸を纏めた高賀十種の1つとして入れるなど紀伊国屋のお家芸の1つでした。
内容としては主家の家宝である刀を探す身にも関わらず刀は一向に見つからず期限も明日に迫っていて家計が火の車状態でもある武士の鈴木主水を主人公に妻であるお安や家来の市助の諫言を無視して遊女白絲に現を抜かしている様を嘆きお安は自害してしまい、お安の兄である山田文吾には刀を取り上げられた挙句、折檻され、更には刀の秘密を知った白絲に偽りの愛想尽かしを受け下端を奪った張本人である筑波根三平にも暴行を受け自暴自棄になりかけるも刀の秘密を記した密書を奪った市助や三平が盗んだ張本人であると知らせた白絲の尽力もあって立ち直り、遂には筑波根三平を討ち取り刀を取り返すという主水の辛抱立役と最後の仇討の豪快さが売りの演目になっています。

今回は鈴木主水を宗十郎、市助を松助、筑波根三平を長十郎、お安を嘉久子、山田文吾を宗之助、白絲を浪子がそれぞれ務めています。

さて、女優劇公演とは言え久々にお家芸を演じる機会に恵まれた宗十郎ですが出来の方はどうだったかと言うと

 

宗十郎の主水は今の役々中で一番柄に嵌った役で内から愛想尽かし仇討までしっくり整った技芸である

 

と流石はお家芸とあって外す訳もなくニンにぴったしの嵌まり役と高評価されました。

一方若徒というには流石に無理があるにも関わらずダメダメな主人をよく助け仇討にも参加する市助を演じた松助も

 

松助の市助は些と老年過ぎたが、老巧なので割合に楽々としてゐる

 

と流石に年齢の不一致ぶりは隠しようがなかったものの、それ以外については大ベテランだけあって卒なくこなしていると評価されました。

宗十郎の鈴木主水と松助の若徒市助

 
一方で女優たちはというと白絲を演じた浪子とお安を演じた嘉久子について
 
嘉久子の女房おやすもこの女優中では矢張り嵌り役である。
 
近頃全然(すっかり)遊女役者になった浪子の白糸も、すっきりとして柄に嵌まったが、常磐津の松尾一派の出語りに乗った口説きはどうもしんみりとした味が出なかった
 
と浪子が常磐津の語りに合わせられていない欠点こそありましたがそれさえ除けば特に足を引っ張る様な所もなく演じたと評価しています。
 

長十郎の筑波根三平と浪子の白絲

 

残念な事に宗之助、長十郎兄弟への言及はなく2人の出来栄えは不明ですが、帝国劇場では中々披露できないお家芸を演じられた宗十郎の良さは無論の事、無理があると思われた松助や女優連の意外な健闘もあり、二幕目の煤煙にこそ話題性で負けた部分はありましたが、内容としては決して劣る物では無かったそうです。


舞台に立つ妻

 

大切の舞台に立つ妻は菊池寛が書き下ろした現代物の新作です。

内容としては一幕物の短編で外題が示す通り舞台女優として活躍する富井雪枝が主人公でこれからは女性も舞台に出て活躍すべきだという新進的な考えの彼女に対して女性はあくまで妻の務めが本文であり女優活動など今すぐにでも辞めるべきだという守旧的な考えの夫の雄一郎の衝突の末にカッとなって暴力を振い妻の髪を切った雄一郎に愛想を尽かし離婚する所で話は終わります。

今回は富井雪枝を律子、富井雄一郎を宗之助、女中を兼子とふく子(1日替わり)がそれぞれ務めています。

言うまでもなく日本初の専属舞台女優を謳う帝国劇場お誂えの内容であるこの演目ですが流石に劇評も菊池寛でなくとも書ける様なおべっか丸出しの内容に興味が無かったのか

 

見残した

 

と安定の観劇放棄を行った為にどんな様子だったのかは不明となっています。

この様に一番目と大切の出来はそこまで良くなかったものの、中幕と二番目の出来は良かったそうです。そして入りに関しては具体的な良い悪いの言及はありませんが流石に猿之助と勘彌が共演して大入りとなった2月公演に比べると悪くいつもの女優劇公演とトントンだった模様です。

そしてこの月は珍しく二の替りを開く事は無く、その代わり20日間公演として21日からはオペラ公演を開いたそうです。

更に珍しいと言えばこの月はお家芸を出した宗十郎ですが吉右衛門が抜けた影響からなのか普段なら巡業に出かける8月に帝国劇場に残留して菊五郎と10年ぶりの共演を果たしており、その筋書も所有していますのでまた後程紹介したいと思います。