大正8年5月 歌舞伎座 六代目中村傳九郎襲名披露と宗十郎の9年ぶりの出演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は4月に続き5月の歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正8年5月 歌舞伎座 六代目中村傳九郎襲名披露

 

演目:

一、承久軍絵巻

二、丹前朝比奈

三、絵本太功記

四、勧善懲悪孝子誉

五、積恋雪関扉

 

今回はタイトルにも書いた様に2ヶ月連続での襲名披露となり、初代中村芝鶴が中村勘三郎家に伝わる名跡である六代目中村傳九郎を、彼の実子である三代目中村歌之助が二代目中村芝鶴をそれぞれ襲名しました。

傳九郎については下記のリンク先でほんの少し触れましたが改めて紹介したいと思います。

 

傳九郎が新富座を松竹に売却した経緯についてはこちらをご覧ください。

 

彼は元々江戸末期から明治時代初期に活躍した上方の名優である尾上松録(緑ではありません)の養子に当たります。

しかしながら、経緯は不明なものの役者としては小芝居の女形の役者であった市川鯉之丞の弟子となり市川由丸の名前で明治元年に初舞台を踏みました。その後明治5年頃から養父が名乗った名跡である尾上梅鶴を名乗り大阪の道頓堀に出演するも翌年に養父が死去してしまい、同じ道頓堀の役者であった三代目中村翫雀(初代鴈治郎の実父)の弟子となり明治9年に初代中村芝鶴を名乗りました。

その後明治18年ごろまで道頓堀に出演し実悪などを得意として活動していました。その後活動の拠点を東京に移し、主として春木座(後の本郷座)を中心に活動を行っていました。この春木座というのが中々目の付け所が良く、当時は小芝居の劇場ながらも延若(当時は延二郎)、斎入(当時は右團次)など上方役者が上京して定期公演を打つ劇場として知られていました。ここで経験を積んだ彼は横浜や何度かの大阪への短期的な出戻りを経て明治30年代には伝説の宮戸座へと移り明治31年1月には團十郎がいないとはいえ歌舞伎座の舞台に初めて出演するなど小芝居を活動拠点としつつもそれだけには収まらない幅広い活動をしていました。

規模に違いはあるものの、大芝居と小芝居を自由気儘に行き来した澤村源之助にも何処か似た立場にあり、五代目尾上菊五郎も彼について

 

「(初代)中村芝鶴は、どうにかすれば大歌舞伎に出られる芸を持っている

 

と彼に一目を置いていました。そして團菊の死後の明治37年5月に新富座を手に入れて座主になると慣れない経営に苦心しつつも役者としては各地を放浪して腕を磨き明治43年に松竹に新富座を売却後は明治44年11月の五代目中村歌右衛門襲名公演に成駒屋の弟子にしていた実子の歌之助襲名に合わせて13年ぶりに出演し、その後松竹の買収に伴い大正3年まで宮戸座と掛け持ちで出演しつつちゃっかり大芝居の役者となり、門之助の後釜として花車役などを主に務め続けて今回の襲名へと至りました。

因みにこの傳九郎という名跡は上述の通り、成駒屋の名跡ではなく、中村勘三郎家に伝わる重い名跡です。しかし、当時の中村家当主の五代目中村明石は既に隠居状態であり、交渉の末にこの名跡を名乗る許可を得て襲名しました。

 

明石が特別に出演した帝国劇場の筋書はこちら 

 

 

主な配役一覧

 
そして今回親の名跡を襲名した二代目中村芝鶴ですが、彼は親とは正反対に女形役者の道を進み、この後しばらくは親の威光もあって歌舞伎座で若女形の役を務めましたが、大正12年の父親の死後は不遇になり左團次一門に身を寄せるも昭和3年10月に一大決心をして私淑する六代目尾上梅幸のいる帝国劇場へと移籍しました。
しかし、その帝国劇場は翌年に松竹に買収されてしまい僅か1年で出戻りとなった芝鶴は再び飼い殺し状態に陥るも左團次の取りなしもあって彼の一座に復帰し、左團次の死後は猿之助の一座に入り八代目八百蔵と行動を共にする機会が多くなり戦後揃って吉右衛門劇団の準構成員の様なポジションに落ち着き、そのまま劇壇の幹部の1人である八代目幸四郎の誘いもあって東宝へと移籍し晩年は東宝の映画に出演しつつ女優達に演技を教える指導係の立場に収まり波乱万丈の役者生活を送る事になります。
 

承久軍絵巻

 
一番目の承久軍絵巻は岡本綺堂が書いた新歌舞伎の演目で明治43年1月の明治座で初演されました。
初演時は丁度若手の人気役者であった七代目松本幸四郎(当時は八代目市川高麗蔵)が歌舞伎座を脱退して明治座に電撃移籍した時であり、この演目はその記念すべき共演演目として注目を集めました。
内容としては鎌倉時代前期の承久3年に起こった承久の乱を題材に取り北条義時の義兄であり後鳥羽上皇の幕府追討の院宣に応じず攻められて自害した伊賀光季とその息子壽王の最期を鎌倉幕府追討に反対するも力及ばず事の成り行きを諦観するしかない中納言光親や壽王に恋する侍女小夏の悲恋を絡めて壮大に描かれています。
今回は伊賀光季を左團次、少納言忠信を羽左衛門、佐々木高重を中車、壽王冠者光綱を福助、卯の花を亀蔵、侍女小夏を松蔦、権大納言有雅を傳九郎、中務少輔師安を権十郎、早苗の前を秀調、中納言光親を歌右衛門がそれぞれ務めています。
 
さて、左團次お得意の新歌舞伎の評価ですが、流石に2度目となる左團次は慣れた物とあって
 
左團次は持役の伊賀判官で、新作に対する技量は相変わらず認められていました。
 
と安定した演技力を評価されました。
 
左團次の伊賀光季
 
対して初演は幸四郎が演じた中納言光親を演じた歌右衛門はどうかと言うと
 
歌右衛門の中納言光親が皇室の為に気焔を吐くところ中納言どころか中山大納言の俤あり、御時節柄とやら香ばしさを伝えて大いに趣あり
 
といつもの気品と貫禄を余すことなく使い公家らしさを出せた様ですが、過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったもので
 
歌右衛門の光親卿が羽左衛門の少納言忠信卿の来訪を「オオ、少納言が参ったか」と安く取扱ふのは位官に就ても憚りあるべし。これでは自分が大納言の許を訪れたとき「オオ、中納言わせられたか」といはれでは快かるまし、公家衆はもっと丁寧に応接せられたし、(中略)総てこの中納言気位高く京都守護職たる伊賀判官に対しても下直に応対し過ぎる様なり。
 
とあまりの貫禄ゆえにとても中納言の公家とは思えない態度に見えたのと台詞廻しに難が見受けられたらしく不評でした。
そしてその不評は佐々木高重を演じた中車も同様で
 
中車の佐々木高重が公家方の存意をいふはよしとして娘と乳母が恋の為の百日参りは大げさなり
 
「(大詰)門外の場になり中車の高重手の者すぐって攻め寄せ、真先になって門内に進み入ると、壽王が射返した矢文が中ってダア(死ぬ)となる、亀蔵の卯の花が我が矢の返し矢に父に当たっては親殺しも同じだとその矢を抜き取って自害する、一つ矢で父娘の落命は面白い運命だが、かよはき娘の半弓の矢を壽王が射返すと佐々木左衛門尉高重といふ京方の勇士にあたって死んで仕舞うとは一本の矢も甘く働いたものなり
 
とこちらも鎌倉時代とは思えない価値観の発言や安直過ぎる最期の部分を指摘されました。 
 
中車の佐々木高重と亀蔵の卯の花
 
更に若手の壽王冠者光綱を演じる福助と侍女小夏を演じる松蔦の恋模様も
 
福助の壽王と松蔦の小夏との色模様は取様なり付けた様なり
 
と蛇足気味でこちらも不評でした。
 
松蔦の侍女小夏と福助の壽王冠者光綱
 
この様に前月の修善寺物語の成功とは一転して左團次以外の総崩れもあって
 
失敗の方でありました
 
と書かれてしまう程の失敗作となってしまいました。
 

丹前朝比奈

 
続く丹前朝比奈は上述の様に六代目中村傳九郎と二代目中村芝鶴の襲名披露狂言で川尻清潭が傳九郎襲名に因んで初代傳九郎である四代目中村勘三郎を主人公として描いた新作物となります。
四代目中村勘三郎は江戸時代中期の役者兼座元であり、中々役者としては才能に恵まれる人が少なかった代々の中村勘三郎の中では珍しく役者としても秀でた人物で朝比奈の役を得意役として度々演じました。
内容としてはそんな傳九郎が中村座の初日を前にして殿様の御不興を買いこのままでは死ぬしかない覚悟していた彼が周囲から励まされて気を持ち直して中村座へ赴き得意の朝日奈役で大喝采を浴びるという話を劇中口上を含めて描いています。
前月の権十郎襲名では仁左衛門しか付き合いませんでしたが今回は猿若傳九郎を傳九郎、古之蔵を芝鶴、新城相模を歌右衛門、家老浅岡重右衛門を鶴蔵、明石清三郎を壽美蔵、中老呉羽を秀調とそれぞれ務め、襲名狂言に相応しい豪華な配役となりました。
劇評では演目自体が襲名向けに作られたとあってか
 
新傳九郎の口上を盛込み、最も都合の宜いやうに書かれてありました。
 
と内容自体は評価されていませんが晴れて重い名跡を継いだ傳九郎に対しては
 
理屈を抜いて、先づ目出たき新作であった
 
と襲名を祝されていました。
 
二代目中村芝鶴の古之蔵と六代目中村傳九郎の猿若傳九郎
 

絵本太功記

 
中幕の絵本太功記は最早説明不要のお馴染み時代物の名作演目です。
 
中車と鴈治郎が名古屋で上演した時の筋書はこちら

 

そしてこの演目では傳九郎襲名と並ぶ今公演のもう1つの注目の的である9年ぶりの歌舞伎座へ出演を果たした七代目澤村宗十郎が初菊を務める事で注目を集めました。

 

宗十郎が9年前に出演した歌舞伎座の筋書はこちら

 

大正5年の梅幸と松助、大正7年に幸四郎がそれぞれ出演を果たしましたが、宗十郎は何故か遅れ幸四郎に遅れる事1年を経て大幹部の中では最後に出演しました。(残る幹部の内、勘彌は市村座時代に出演済み、宗之助と長十郎は死ぬまで歌舞伎座には未出演)
そんな宗十郎に花を持たせる為か明智光秀を中車、操を歌右衛門、明智光義を羽左衛門、皐月を傳九郎とオールスターとも言える面々との共演となりました。
 
さて、劇評ではこの豪華オールスター共演というべきこの芝居に対してどうだったかというとまず鉄板役の光秀を演じた中車は
 
中車の光秀も殺気ありてよし
 
中車の光秀が第一の出来
 
と演技自体は流石は鉄板役とあって評価されていますが額の信長の折檻を受けて出来た傷がかなり大きく化粧されていたのに対しては
 
眉間の傷が大きすぎます。あんな大きな疵では定めし(時今也桔梗旗揚の)饗応の場では打たれた時は気絶していたでせう
 
全治三週間
 
とても(本能寺の変まで)退院は出来ますまい
 
と岡鬼太郎等によってボロクソなまでに酷評されてしまいました。
 
中車の明智光秀
確かに額の傷は大きい(笑)
 
 対して以前演芸画報で巡業で演じた時の様子を紹介しましたが、気品ある武家女房役には定評のある歌右衛門の操はというと
 
さすが委員長の貫目あり
 
と一番目同様品位に於いては文句なしの出来栄えだったものの、惜しい事に
 
歌右衛門の操は活歴腹で、台詞に丸本気分を失ひ
  
と古典を代表する様な演目なのにも関わらず演技の方向自体があろうことか活歴寄りに行ってしまっていた事を痛烈に批判されており満点とは行きませんでした。
 
巡業で演じた時を紹介した演芸画報の記事はこちら

 

歌右衛門の操
 
そして中車と並び十次郎役者として定評があった光義を演じた羽左衛門と初菊を演じた宗十郎は
 
羽左衛門だけは光っていました
 
宗十郎の初菊は神妙過ぎて色気に乏しく
 
と出来において差があり明暗が分かれました。
 
羽左衛門の明智光義と宗十郎の初菊
 
そしてこれら手慣れた役者にたいして初役で真柴久吉を演じた左團次は
 
歌舞伎味が足らず
 
左團次の久吉は「いかさま湯の難儀は水とやら」のあたり説過ぎて石川五右衛門の容態なり
 
とその雄大過ぎる芸質が災いしてかとても久吉には見えなかったとこちらも不評でした。
 
左團次の真柴久吉
 
この様にネームバリューありきのオールスター共演としたまでは良かったものの、歌右衛門や左團次の様に役者の芸質と合わない配役も見受けられ満点とは言い難い出来でしたが、中車、羽左衛門、宗十郎といった主要キャストは欠点はそれぞれあれど及第点は達していた事や宗十郎の久しぶりの出演という御祝儀的な意味合いも大きかった事もあり、一般受けはかなり良くそう言った意味では当たり演目となったと言えます。
 

勧善懲悪孝子誉

 
二番目の勧善懲悪孝子誉は河竹黙阿弥が明治10年6月に書き下ろし新富座で上演されたざんぎり物の演目となります。ざんぎり物とある様に五代目菊五郎に当てて書かれており、零落した商人である福住甚兵衛が孫の服を与えてあげたい余りに盗みを働き、それが露見するもして息子の福住善吉が代わりに罪を引き受けて逮捕され囚人として横浜の海岸工事して父親の罪を償う事になりそこで出会った乱暴な囚人である北向虎蔵に出会い散々に酷い目に会うも彼を追いかけてやって来た卯之助とのやり取りの末に虎蔵も今までの非を詫び、その様子を見ていた上役の計らいもあって罪を許され自由の身となるという話になっています。
元々この演目はまだ写真が珍しかった時代に描かれた事もあり、日本の写真師の草分け的存在である北庭筑波が実名で登場し、大きな役割を果たすのですが既に写真が当たり前の様に普及した大正中期では写真師の存在がかえって時代遅れになってしまった事や後述の理由もあり筑波が出てくる部分はまるっとカットされてしまっています。
 
北庭筑波についてはこちらをご覧下さい。

 

 

 

 

 
今回は初演で初代左團次が演じた北向虎蔵を息子の二代目左團次が演じた他、福住善吉を宗十郎、浅蟲重右衛門を羽左衛門、北向巳之吉を壽美蔵、福住甚兵衛を中車、蘭辰五郎を権十郎、巳之吉女房おむらを秀調、朝日山女房おうらを歌右衛門がそれぞれ務めています。
さて、黙阿弥物の中でも異色な演目ですが今回の上演に当たり囚人に港湾の開発を負わせるという時事ネタの部分が警察の検閲に抵触してかなり規制が入ってしまい、囚人の設定は出稼ぎ人夫に、場所は横浜の港湾が北海道の開拓に変更となってしまい、横浜だからこそ東京にいる倅の卯之助が来れたのに子供1人で北海道まで父親に会いに来るという荒唐無稽な描写になってしまった事も相まって劇評の評価は低く
 
この程度の物が最も時代遅れになってゐたので、況して今度はその筋の干渉が厳しい為に、横浜海岸の場を蝦夷海岸にしたり、懲役人を出稼ぎ人夫に変えた事がいよいよ面白味を殺いでしまったやう
 
と低評価でした。
 
左團次の北向虎蔵、宗十郎の福住善吉、千代麿の卯之助
 
そんな中でも親も演じた北向虎蔵を務めた左團次だけは
 
役としては左團次の虎蔵の太々しい處が大出来であった
 
と評価されていますが他は全くお話にならなかったらしく、こちらは失敗作となりました。
現在ざんぎり物が筆屋幸兵衛以外は殆ど演じられませんが既に大正時代の時点で過去の遺物扱いをされていたのが分かります。
 

積恋雪関扉

 
大切の積恋雪関扉は今でもよく掛かる舞踊の演目となります。

参考までに市村座で演じた時の筋書 

 

今回は大友黒主を羽左衛門、墨染桜の精を宗十郎、小野小町姫を福助がそれぞれ務めています。
舞踊においては一端の腕を持つ宗十郎、段四郎に代わり舞踊枠を演じる様になっていた福助、踊れはするものの滅多に踊らない羽左衛門というかなり珍しい組み合わせとなった今回の演目ですが劇評では下馬評に反して羽左衛門の出来が一番良かったらしく
 
羽左衛門の関兵衛は小ぢんまりとして宜し
 
と持ち前のカリスマ性だけで魅了出来る自信がある故か変に当てに行かず正統な演技をして評価されています。
 
羽左衛門の大友黒主
 
続いて良かったのが墨染を演じた宗十郎で
 
宗十郎の墨染は人柄にある役
 
とこちらも若女形で名を挙げた人だけにやる事に変なものが無く評価されています。
 
宗十郎の墨染桜の精
 
そして小野小町を演じた福助が一番評価が低く
 
福助の小町、鏡獅子の割に行かず、桜の下にも鱠は居ぬにゃ
 
と羽左衛門、宗十郎と比べて経験値の差がモロに出てしまった様です。
 
この様に絵本太功記と丹前朝比奈を除くとどの演目も出来は今一つでしたが宗十郎の9年ぶりの出演と2ヶ月連続での襲名の宣伝効果は大きく大入りにはならなかったもののそこそこの入りにはなりました。
 
この後歌舞伎座は宗十郎出演の見返りに羽左衛門を帝国劇場に貸し出したものの続く6月公演にも秘かにサプライズを仕掛けていました。