演芸画報 大正10年3月号 小芝居特集 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は毎度お馴染み演芸画報の記事を紹介したいと思います。
 
演芸画報 大正10年3月号

 
市村座や帝国劇場の回でも述べましたが閑散月の2月とあって帝国劇場は女優劇公演となり幹部役者はそれぞれ四散し
 
梅幸一門:歌舞伎座に出演
 
幸四郎、宗十郎:神戸聚楽館を始め地方巡業
 
宗之助:市村座に出演
 
とそれぞれ活動に勤しんでいました。
 

 
まず梅幸は12月公演以来最短となる僅か2ヶ月のブランクで再び中車と仁左衛門が抜けた歌舞伎座に出演し夫婦役者である羽左衛門と帝国劇場で共演した時に出した江戸育お祭佐七で共演し、歌右衛門もかつて歌舞伎座に復帰した時に出した南都炎上を出す等
 
・南都炎上
・船弁慶
・鎌倉三代記
・江戸育お祭佐七
 
かなり攻めていた12月公演とは打って変わって守りに入った演目が上演されました。
 
南都炎上を上演した時の歌舞伎座の筋書

 

 
江戸育お祭佐七を上演した時の帝国劇場の筋書 

 

 
歌右衛門の苅藻と左團次の水覚法師
 
羽左衛門のお祭佐七と梅幸の小糸
 
梅幸の舟弁慶
 
因みに入りの方は累や切られ与三郎を出したにも関わらずイマイチな入りだった12月公演に比べて今回は三代目尾上多見蔵の東京での襲名披露も兼ねていた事もあってか満員大入りとまでは行かなかったものの、そこその入りにはなったそうです。
 
一方で1月の明治座の番付で触れましたが左團次一座と上方勢は2月は横浜座に場所を移して公演を行いました。
 
吉三郎の山本勘助と壽三郎の直江山城守
 
左團次の原田伊太八と秀調のおさよ
 
雀右衛門の八重垣姫
 
こちらは1月と同じく左團次が歌舞伎座との掛け持ち出演となった事で左團次は二番目の尾上伊太八のみの出演となり、猿之助が帝国劇場に出演していた関係もあって雀右衛門、吉三郎、壽三郎と上方勢による本朝廿四孝の通しが目玉演目になりました。
こちらはかつて南座の襲名披露公演で演じて喝采を浴びた雀右衛門の八重垣姫が評判を呼んだそうで左團次が半分以上居ない事を踏まえれば評判は中々良かったそうです。
そして京阪神方面に目を向けるとまず道頓堀では鴈治郎が2月も大阪に留まり東京から来阪した中車と延若を加えた三枚看板で中座で公演を行い
 
・有職鎌倉山
・三人片輪
・鈴ヶ森
・蘆屋道満大内鑑 
 
を上演しました。
因みに中車と延若の共演は以前に紹介した大正5年1月の歌舞伎座公演以来、実に5年ぶりの共演となりました。
 
中車と延若が共演した歌舞伎座の筋書 

 

鴈治郎の佐野源左衛門と延若の三浦義澄
 
中車は4演目の内、三人片輪を除く3演目に出演する車輪ぶりで自身の出し物である鈴ヶ森では鴈治郎の白井権八相手に師匠譲りの幡随院長兵衛を演じて貫禄振りを示しました。
 
中車の幡随院長兵衛
 
鴈治郎の白井権八
 
一方、京都の南座では冷遇組と言える右團次、我童を看板役者に鴈治郎一座にいる腕利きの卯三郎と莚女が加入した一座で公演し画像にある様に右團次の鱶七、我童のお三輪という珍しい組み合わせの妹背山婦女庭訓の御殿や卯三郎をお坊吉三に三人吉三を演じるなどかなり通好みな演目を掛けていました。
 
右團次の鱶七と我童のお三輪
 
グラビアページの紹介はここまでにして文字パートに移ると今回はページの殆どを割いて「大衆と演劇」というテーマで特集が大々的に組まれています。
特に歌舞伎好きにとって注目すべき所は当時演芸画報がある時期から意図的に取り上げず無視していた小芝居の劇場毎の特色について触れている所です。
特集が取り上げられたのは以下の8劇場となります。
 
・公園劇場
・大国座
・麻布末広座
・壽座
・本郷座
・宮戸座
・神田劇場
・辰巳劇場
 
これだけでは今一つピンと来ない方も多いと思うので加えてこの大正10年時点での各劇場の出演者を書くと以下の様になります。
 
・公園劇場…六代目坂東彦三郎、二代目市川團右衛門、三代目澤村百之助、松本高麗三郎
・大国座…中村竹三郎、松本高麗之助
・麻布末広座…市川幡谷、松本高麗造
・壽座…森三之助(座主兼業)、尾上松鶴
・本郷座…四代目澤村源之助、七代目澤村訥子、四代目市川九蔵、四代目尾上紋三郎、中村歌門
・宮戸座…澤村傅次郎、松本錦吾、澤村淀五郎
・神田劇場…五代目市川新之助、六代目市川團之助、四代目浅尾工左衛門、五代目市川鬼丸、實川正朝
・辰巳劇場…四代目澤村源之助、七代目澤村訥子(2人とも掛け持ち)、中村福圓、五代目関三十郎、二代目市川團九郎
 
私のブログでも度々紹介してきた彦三郎や源之助や訥子といった大劇場でも馴染みが深い名前もいれば、余程戦前の歌舞伎、しかも小芝居に興味がないと名前も分からない幡谷や松鶴、更に言うと70代以上の方は生で舞台を見た経験があるであろう傅次郎(訥子)、九蔵(團蔵)や團之助、鬼丸(多賀之丞)といった若手の面々まで多種多様な役者が覇を競っていたのが大正後期の小芝居でした。
 
参考までに明治末期から大正時代の小芝居の様子について紹介した真砂座の記事はこちら

 

小芝居全般についてはこちらもご覧ください

 

御國座についてはこちらをご覧ください

 

この記事は戦後に歌舞伎の歴史から切り捨てられて忘れ去られてしまった彼らの生の様子が分かる点で非常に貴重な資料と言えます。この8劇場について順を追って紹介したいと思います。
 
公園劇場と大国座(大黒座は誤字)
 
まずトップバッターは当時浅草の小芝居の中でも最も勢いのあった公園劇場から始まります。以前の演芸画報で紹介した通り根岸興行部が大正6年に初代中村又五郎ら松竹の中堅所を引き抜いてスタートさせたこの劇場ですがご承知の通り生え抜き最後の生き残りであった又五郎が大正9年に亡くなったのを最後に世代交代に入り赤坂の演技座で暴れていた元市村座の彦三郎と團右衛門を引き抜いて新たな看板役者に仕立てました。この彦三郎ですが市村座在籍中は兄の菊五郎に押さえつけられていましたが自身も五代目尾上菊五郎の血を引く者としての矜持があったのか、脱退後は天竺徳兵衛や魚屋宗五郎などの親譲りの世話物狂言を数多く掛けて
その為か文中では

あの人の人となりの立派さ、大まかでぼんやりとしているやうで、実は万事に気がついて、下々のものでも相当に立ててやるところ、自分は偉がらないで、自然に他人に偉く思はれるところ事、どんな座でも下廻りは必ず座頭となってゐる人の悪口を云ふものですが、あの人に限っては、どんな悪口屋の下廻りでも、決して決して悪く云はうとしない事、打切棒(ぶっきらぼう)でゐて思ひやりのある事など、万事につけて大親方の貫禄を備へて居ります。

と市村座時代の悪戯三昧や吉右衛門への執拗な苛めをしていた人と同一人物とは思えない座頭ぶりを発揮していたらしく大層評価されています。
因みにこのまま公園劇場でお山の大将を続けると思われた彦三郎ですが、兄のいる古巣市村座の窮状を見かねてか兄と和解して大正11年に公園劇場を離脱して市村座に復帰する事となりこの大正10年は言わば彼に取って小芝居での最後の年となりました。
次に四谷にあった大国座についてですがこちらは上記の通り中村竹三郎が座頭となっていました。
しかし、文中では竹三郎を差し置いてこの大国座の最大の特徴は
 
座主の吉原さん、とでも置きませうかい
 
と座元の吉原一郎であったとしています。
彼は元は芝居関係出身ではなく陸軍関係の土木工事を請負っていた吉原組の社長でした。
そんな彼が何故芝居の世界に入ったかと言うと大正8年に焼失した大国座の再建に吉原組として関わった事がきっかけでした。
所謂芝居道以外の人間が劇場経営に関わる事は歌舞伎座を建てた千葉勝五郎の様に珍しくはありませんが大抵は名義と所有権のみで実際の経営は守田勘彌や田村成義といった他人に任せるのが常ですが吉原一郎の場合は自分自らが経営までこなした点でした。
その事について文中では
 
大国座などを自分の手で経営するとは悪い了見だと知合仲間では多少意見をした人があったさうです。それにも拘らず強情に引受けてやりかけたのですが、始めから何事が起っても、俺のところは素人だからの一点張りでおし切ったのが、今では結句仕合せになってゐます。
 
と変に気張らず、理想にも走らず番付素人ならではの思い切りの良さで順調に経営を行っていた様子が紹介されています。
因みにこの後大国座は大正12年に関東大震災とは無関係の火事で再び焼失し建物の基礎が出来上がった段階で被災した事もあり、実質震災を無傷で潜り抜けて大正13年に再建し、仕事がなく困っていた帝国劇場の幹部役者を招いて華々しく杮落しを行い一儲けするなど吉原氏の巧みな経営手腕でしぶとく生き残り松竹に買収され映画館となる昭和7年まで足掛け14年に渡り経営を続けた稀有な結果を残しました。
 
末広座と壽座について
 
続いて麻生末広座と壽座ですが片や麻生、片や両国と正反対の場所に位置している2つがまとめて取り上げられているかと言うと出ている市川幡谷と森三之助の存在が歌舞伎の一般的な愛好家にとってあまりに無名過ぎて分からないが故に紹介されているきらいが無きにしもあらずといった部分があります。
上の画像でも触れられていますが麻布末広座の市川幡谷は團蔵一門にいた経験があるとは言え生粋の小芝居役者でありながら本名の有田松太郎名義で大衆演劇にも出演している二足草鞋の役者で、幡谷と末広座の関係は大正9年の杮落しから始まりそのままずるずる1年近く公演を行っていました。対して壽座の森三之助は新派役者ながら明治末期に映画俳優としてデビューした変わり者でその後映画俳優を引退した後、源之助との醜聞で有名な花井お梅を従えて全国津々浦々の巡業に明け暮れていましたがその経験が却って経営者として役立って座主兼業というこちらもかなり変った毛並の役者でした。
これだけでもかなり濃い役者が揃っていますが、文中では更に末広座にいる更に変な役者として幾つかの役者を紹介しており、少し拾ってみると
 
「(市川)百十郎と言ふのは、狂言の百や二百は鵜呑みにしてゐたと言ひ、(市川)玉太郎は立廻りが大好きで、よい役でもおとなしい役では不満で、立廻りなら二十分でも三十分でもへっちゃらだと言ふ強者、更に(中村)吉三郎は「火達磨」の大川友右衛門を得意にしたが、これが火事場から出て来ると体一面火をつけて燃えてゐるといふ物凄い演出で、勿論火傷は覚悟の上、しかも顔にまで火をつけて出たと言ひ、幕が下ると芋を擦ったのを顔や手や体中に塗ってすませ、痛いとも痒いとも言わなかったと伝えられる。
 
とサーカス(?)とすら思えてくるような変人奇人ばかりが揃っている化け物屋敷状態だったと記されています。
そしてそんな彼らが稽古無し、書き抜き無し、口での打ち合わせだけで演目を成立させて演じている様を紹介しており我々が想像する「歌舞伎」とはかけ離れた別の世界が末広座には広がっていた事が書かれています。
 
因みに2人のその後はどうなったかというとまず幡谷はこの翌年の大正11年に何と映画デビューを果たし戦前の黄金期の日本映画に数多く出演を果たし昭和6年頃まで活躍しましたがその後引退し行方知れずとなり、森三之助の方は大正14年までは定期的に壽座に出演していたものの、大正15年を以て役者を引退しその後どういう経緯か不明ですが帝国水難救済会という水難事故を救うボランティア団体を統括する社団法人の宣伝部主事に就任しました。そしてそこでの功績を認められ昭和4年に紺綬褒章を受章し、7月の壽座に「紺綬褒章受章記念特別出演」として1回限りの舞台復帰を果たす等全く違う人生を歩み昭和15年に死去しました。
2人の全く異なるその後もまたドラマチックですが劇場の方もまた数奇な運命を辿っており、麻布末広座はその立地もあってか東京の劇場が全滅状態になった関東大震災により同じ麻布にある南座と共に生き残った劇場となり松竹に借りられて「麻布明治座(仮)」と改称して一時的とは言え左團次や歌右衛門の出演が行われるなど3年前まで化け物屋敷だったとは思えない大出世を遂げ、末広座に戻った後も訥子の出演があるなど座格がグレードアップし昭和4年に映画館に転換するまで生き残った劇場となりました。
そして壽座の方も震災後の世界恐慌により小芝居が衰退するとポツンと孤立していた両国という立地が功を奏したのか残存者利益で各劇場にいた小芝居の役者達が集まる様になり昭和12年の宮戸座の廃座以降は唯一の小芝居の劇場として栄え、昭和19年に空襲で焼失するまで規制でマンネリ化した大歌舞伎に飽きた好劇家たちの飢えを満たす様に古き良き小芝居の演目を上演し続ける事に成ります。
壽座と麻布末広座については少し後にはなりますが筋書を所有していますのでまた改めて紹介したいと思います。
 
本郷座と宮戸座について
 
そして3番目は名前を聞いた方も多いであろう本郷座と宮戸座になります。本郷座って小芝居?と訝る方もいるかと思いますがこの時本郷座はそれまで根城にしていた新派が明治座での公演が増えた事と松竹が浅草に持っていた2つの劇場である吾妻座と御国座が相次いで火事で焼失していた関係で御国座に出ていた訥子、源之助、九蔵、紋三郎が間借りする形で出演していた関係で小芝居の方にカウントされた模様です。それはさておき、2つも劇場が無くなった事で本来なら2つ芝居が打てる面子が本郷座に一挙に揃った事が気せずして大歌舞伎らしい座組となったらしく、特集というよりかは観劇レポになっていて
 
成程前に記した通りの土間も二階もぎっしりの満員
 
「(鈴ヶ森で)供養塔に逃げ上がった雲助を肩先から切り下げた處へ、花道から訥子の長兵衛の乗った駕が来て、例の通り駕屋が逃げて入る、チンチンチンの合方で刃こぼれを見る件から、長兵衛の「お若えのお待ちなせえ」になる。ぎょっとして「待てとお止めされしば」になると、見物の熱狂は殆ど極度に達して「紀伊国屋」の呼び声が一度に起る。但し両方とも同じ屋号だから、何方にいったのか判らない
 
と御国座で沸かせていた訥子と源之助が久しぶりに山手の内で観れるとあって観劇した5日目も満員で鈴ヶ森で2人が舞台に出揃う場面の興奮ぶりがうかがえます。
そして文章では5年前にも本郷座で演じて岡鬼太郎が激賞した近頃河原の達引での訥子の演技について
 
猿廻しは訥子の与次郎が外の優では見られない演出法である。(中略)滑稽にして滑稽にならず、悪戯けのやうでそれにならず、何処かに洒脱な味があって見物を笑はせる處、この優一流の演り方だ
 
と只の立廻りだけが取り柄ではない芸幅の広さを評価される程でした。
因みにこの2月公演は16日から二の替りとなり、浅草以外で演じるのは久々となる源之助の十八番である切られお富を掛けた事もあり集客に苦しむ歌舞伎座を他所に前半を上回る大入りを記録したそうです。
 
前に紹介した2人が共演した本郷座の筋書 

 

御國座での共演時の筋書はこちら

 

しかし、本郷座の沸きっぷりはあくまで訥子、源之助の力による所が大きく、丁度この公演から1年後の大正11年1月公演を以て源之助と訥子の出演は終了すると今度は今度は歌舞伎座が火事で焼失した事により溢れた幹部役者の臨時の行き場所となり、今度は中車、我童、雀右衛門らが出演するなど良く言えば避難所、悪く言えば掃溜めの様な扱いを受けながら関東大震災による焼失を迎える事となります。
 
対してかつて明治時代に訥子と源之助が観衆を沸かせた浅草の宮戸座は代替わりして訥子の娘婿に当たる澤村傅次郎が義父譲りの立廻りで沸かしていていた他、帝国劇場から脱退した松本錦吾が二枚目で活躍していていましたがその宮戸座の雰囲気について文中では
 
公園裏の宮戸座はがらりと気分が変る、いや本郷ばかりでない、手近い六区の劇場とも恰で変ってゐる。
 
と小芝居の劇場の中でも一種の別格の様なブランドがあると述べていて、続いて役者については
 
役者といへば傅二(次)郎、その傳二郎一人で、永い間人気を占めてゐる處が既に不思議で、吾妻座御国座が焼失しなくても、ここばかりは公園と敢へて競争せずに、別種の固定した見物を呼んでゐる處が、潜在力の豪さを思はせる。
 
と傳次郎のみの無人芝居ながらも義父訥子の得意役をやらせたかと思えば、二枚目の顔を活かして羽左衛門ばりに切られ与三や弁天小僧、十六夜清心を演じさせたりするなど柔軟に演目を使い分けており、そこら辺が成功の秘訣だったと思われます。
こちらの宮戸座は壽座の所でも述べましたが震災による焼失にもめげずに再建し役者を入れ替えながらも世界恐慌が吹き荒れる昭和初期においても小芝居の灯火を守り続けましたが昭和12年に遂に力尽きる事となります。
 
神田劇場と辰巳劇場
 
そして最後に紹介する神田劇場と辰巳劇場です。まず神田劇場についてですがこちらはかつて澤村源之助が杮落し公演に出た事で大歌舞伎追放の原因となった三崎座を前身としていて座元である青江俊蔵氏が有名でした。彼には養女が2人いていずれも歌舞伎役者となり姉が中村歌扇、妹が中村歌江と名乗って活動しており姉の歌扇は「最後の女役者」の異名を取る程の傑出した才能を持っていました。この当時妹の歌江は亡くなり、姉の歌扇はこの時期舞台を離れて稼いだ給金で建てた箱根の旅館の経営に集中であり神田劇場名物であった姉妹が不在の状態でした。
小芝居では名物の看板役者がいなくなると急激に劇場の客足が遠退いたり、最悪廃れる事はよくありましたが姉妹の父親である俊蔵は娘の人気にあやかりながらもリスクヘッジは決して怠らず、文中でも彼の経営手腕について
 
かくてこのニ女に依って築かれたる神田劇場は、妹は死し、姉は暫く隠棲の間を、目下新之助鬼丸等に依って、開演されてゐる、神田劇場に既に客が付いてゐる殊に新之助の優婉と鬼丸の濃艶とが、舞台の上に、技能を披露するに於いては、開場毎に大繁昌は、真に当然の事なのである。
 
とこの時分はこのブログでも何度も紹介した五代目市川新之助を座頭に六代目市川團之助、四代目浅尾工左衛門、五代目市川鬼丸といった人気者から実力者、大ベテランまで満遍なく揃えて公演を続けて手堅い売上を上げており大国座の吉原一郎にも劣らぬ非凡な才覚を評価されています。
ただ、文中では欠点についても触れており
 
大道具が如何にも粗悪である、最も此頃は大分綺麗になったものの、何時の頃であったか、川庄(河庄)の格子が、寺子屋の格子の如く、真黒であった等は余りに疎漏と不注意だと思った。
 
と大道具が劣悪な出来だったとしています。
小芝居の想い出でも書きましたが基本的に10日間×3回で1ヶ月の公演を回していた事もあって大道具の類が大歌舞伎とは比較にならない程ちゃちいのは仕方ないとは言え、大国座の方はかなり凝っていたのと比べると色まで違うなど流石にお粗末さが目に余る程だったそうです。
余談ですがこの内、市川鬼丸は宮戸座時代の源之助に師事した事もあってか幅広い芸風と時代物、世話物と万遍なく慣れている事を買われてこの頃彼を秘かに評価していた六代目尾上菊五郎夫人の推薦もあって六代目の女房役者の後継者として迎え入れられる事となります。
因みにこの後の神田劇場についてですが神田という一等地にあった立地が仇となり関東大震災で敢なく焼失してしまい、熱意を失った青江俊蔵は已む無く松竹に経営権を譲渡して松竹傘下に入って再建されました。
この点で吉原一郎とは明暗を分ける形となりましたが青江自身昭和3年に亡くなっており、小芝居が衰退し資産価値が無くなる前に身辺整理を出来た点ではやはり非凡だったと言えます。
 
次に辰巳劇場についてですが名前から何となくピンと来る方もいるかと思いますが深川(現在の江東区門前仲町)にあった劇場となります。以前に五代目市川壽美蔵の紹介の時にチラリと書きましたが江戸時代の両国には幾つかの非公認の芝居小屋があり、盛り場として隣接する深川で江戸時代さながらの小芝居の劇場として明治時代中期に出来た新盛座という劇場が元になっており新派や大歌舞伎の名題下を中心に公演を重ねる様な劇場でした。
しかし、地理的に同じ両国あった壽座よりも更に東にあった劇場という事もあって集客には苦戦したらしく大正中期には明治座を手に入れようとしていた小林喜三郎が所有していた関係で連鎖劇も手掛ける等しましたが振るわずこの少し前に松竹が買収し折しも火災で焼失した吾妻座と御國座のスペアとして主に澤村訥子の劇場として使っていました。 
文中ではこの当時の様子について
 
「(本郷座に出てる)訥子に代って、中村福圓を据え、例の咳三十郎を座頭格に、日毎に大入を占めてゐる
 
と訥子がいなくても繁盛を続けているとした上で
 
辰巳劇場が松竹の手に移った当時は、大分にくされかかって居たので、松竹の期待した程見物が来なかった
 
と小林喜三郎の頃から不振を極めていた劇場経営は経験豊富な松竹を以てしても集客に苦しんだらしく、試行錯誤の末に吾妻座が焼失して劇場に困って居た訥子を持って来る事で漸く好転したらしくその要因として
 
この座の見物の多くは筋力労働者が多い、漁師の一家族とか、工場会社の職工連が大多数であるから、不景気(第一次世界大戦の反動不況)の影響は直ちにこれらの人々を脅威して、蟇口のバチンを大分に引締めたのであった。それが漸次財界の不況も回復さるると同時に、松竹は浅草公園の御國座を、焼失するに至って、訥子をこの座に出勤せしめた、これが先づ少なからぬ人気を博した原因なのである。
 
と見物が荒々しい立廻りが売りの訥子を支持したからと説明しています。
今でこそ都心と言われる東京23区の中に入っている江東区ですが大正の当時は工場や第一次産業(漁業)が主要産業であったれっきとしたブルーカラーの地域でした。 
それだけに客層も山手内の歌舞伎座、帝国劇場は言わずもがな、市村座や浅草、他の劇場とも異なっていたが為に大歌舞伎では忌み嫌われた訥子の芸風がここでは好まれていたのが分かります。
小説家の池波正太郎が「戦前の下町の雰囲気は震災と空襲で跡形もなく無くなった」と書いていますが、まさにこの頃の深川は江戸から続く下町文化が色濃く残っていた最後の時期であり、その雰囲気が文中に記された訥子への熱い声援などからほんのりと感じ取る事が出来ます。
因みに三十郎とあるのは以前紹介した五代目關三十郎でこの時分は所有していた蓬莱座を手放しここを本拠地にしていたのが窺えます。
因みにこの辰巳劇場はその後どうなったかと言うと大正12年3月までは訥子を中心に時たま源之助も加わる等して公演を続けたものの4月からは御国座が再建した事で訥子がそちらに移動した事から一転して歌舞伎以外の演目を掛ける様になりそれから程なくして9月1日に起こった関東大震災に伴う火災で劇場を焼失し、再建後は松竹の方針転換もあって映画館として再オープンし、深川から常設の劇場は姿を消す事となりました。
関東大震災の火災による焼失が仮に無かったとしても訥子の劇場としての用途を終えたこの劇場の価値は既に無かったのに等しくそういう意味ではどちらにせよ映画館への転向は既定路線であったと言えます。
 
この様に8つの劇場それぞれがギラギラする個性を発揮して鎬を削っている様子が窺え、100年前は今の歌舞伎とは全く違う世界がそこに広がっていたのが感じ取れます。
因みにこの特集では他にも落語や講談、浪花節、更には萬歳など歌舞伎以外の大衆芸能についても取り上げていますがブログの文字制限に引っかかりそうなのでここでは紹介できないのが残念です。
もし戦前の芸能に興味のある方は近くの県立図書館や国会図書館等でご覧頂ければと思います。
そして生憎次の4月、5月号は所有していない関係で紹介できませんが6月号は所有しているのでまた間をおいて紹介したいと思います。