大正5年5月 本郷座 訥子と源之助の共演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は本郷座の筋書を紹介したいと思います。

 
大正5年5月 本郷座
 
演目:
二、堀川
 
タイトルにも書いたように今回は四代目澤村源之助と七代目澤村訥子が共演するという豪華な(?)座組となっています。以前に「小芝居の思い出」でも触れたようにこの2人は小芝居界では大物扱いされていて、それぞれ1人いれば小芝居の劇場では公演が打てるほどでした。
そんな2人は源之助が宮戸座に出演する様になった明治30年代から度々共演し、年によっては毎月共演するなど浅草の歌舞伎好きを熱狂させていました。しかし、明治38年を境に訥子が宮戸座を退座し市村座や明治座に出演する様になり、一方の源之助も大正3年に歌舞伎座に復帰した事もあり両者の共演は大正2年7月の宮戸座を最後に長らく絶えていました。それだけにこの2人が3年ぶりに共演するとあって2月の新富座での鴈治郎、歌右衛門ほどではないものの、小芝居好きの間ではちょっとした話題になった様です。
 
参考までに両者について触れた記事
 
源之助
訥子
今回は共演とあってかそれぞれの代表作といって良い得意役を演じています。
 
赤格子血染船越

 
一番目の赤格子血染船越は正式な外題を赤格子血汐船越といい以前にも紹介した事がある三代目河竹新七の書いた作品です。
この作品は並木宗輔が女郎が酔って兄を刺殺した実在の事件を参考に書いた「八重霞浪花浜萩」という作品を下敷きに河竹新七が当時明治座で初代左團次の相手役をしていた源之助の為に書き下ろした物で、妖刀村正を巡り様々な人物が巻き込まれる話になっています。
初演時に赤格子九郎右衛門を初代左團次、船越重右衛門を二代目権十郎が演じましたが今回は訥子と初代又五郎がそれぞれ務めています。
 
劇評ではまずこの作品に関して
 
種々の点でこの作者の優れた才能が覗かれる
 
理屈離れしたこの狂言の面白さにしんみりと酔わされた
 
と明からさまに活歴に拘り過ぎて面白みに欠ける福地桜痴や榎本虎彦の作品を揶揄するような批判を含みつつ評価されています。
 
そして元々初代左團次の芸風の一部を極端化させた所がある訥子と当時二代目左團次一門にいた又五郎とあって
 
訥子の赤格子九郎右衛門は毛剃九右衛門、又五郎の船越重右衛門は小町屋惣七といふものだが賊が船底を抉り抜いて船を沈めて脱れるといふだけは面白し
 
大詰十三村仕返しの場又五郎の十右衛門と訥子の九郎右衛門も烈しくてよし
 
と演目自体が博多小女郎波枕のパロディだとチクりと皮肉を入れつつも元作品に無い展開の部分や訥子お得意の大立廻りについては評価しています。
 
一方源之助は初演時同様に騒動に巻き込まれ妖刀で兄を殺してしまい死罪となって殺されてしまう哀れな芸者かしくを務めていて
 
源之助のかしくが願酒の誓いを破って段々酒乱になり青江下坂を抜いて兄文蔵を手にかけるこの酒乱の内は久しぶりで源之助の本領を発揮したり
 
すっかり感入った(中略)こうした役所の上手さ加減に多少水気がないにしても全く感嘆の他ない
 
とまるで魚屋宗五郎のパロディの様な一幕ですが、いつもの悪婆物ではなく、若かりし頃に五代目菊五郎と共演していた時の世話物を彷彿させる出来栄えを高評価されています。
 
源之助のかしく

 
菊五郎の死後に源之助は小芝居でよく菊五郎が得意とした世話物の大役を立役で数多く演じていましたし、歌舞伎座に呼び戻されたのも偏に歌右衛門が苦手とした世話物の女房役の腕を買われての事でした。歴史に「If」は禁物ですが、もし源之助が小芝居に落ちずに大芝居に残っていれば世話物の女房役のトップとして歌右衛門と対を張れた存在になれたのではないかと思ってしまいます。
 
堀川

 
中幕の堀川は正式な外題を近頃河原の達引といい、為川宗輔らよる合作で天明五年に書かれた世話物の演目です。カテゴリーとしては心中物に属するのですが、他の心中物と違ってこの演目では古くから下段の堀川与次郎内の場のみが上演される見取り演目となっていて主役は心中する2人ではなく、心中する遊女お俊の兄である与次郎となっています。
内容としては盲目の母に親孝行な与次郎が妹の心中を知られない様に猿廻しを躍りながら母をうまくはぐらかすというどこか物悲しい演目となっています。戦前では東京の六代目尾上菊五郎、大阪の十一代目片岡仁左衛門がそれぞれの持ち味を活かしながら与次郎像を作り上げて得意役として演じ、特に仁左衛門は自らの当たり役を集めた片岡十二集に入れる気に入っていました。
しかし、今回は仁左衛門以上に役の性根を変な解釈をして演技する悪癖がある訥子が与次郎を務めるとあって、劇評にも
 
訥子の与次郎大元気、猿を廻すどころか虎をも打殺しかねぬ勢い、鳥羽絵式の可笑し味もあって大向(こう)(け)大いによし
 
台詞廻しに難があったようです
 
小芝居の代物揃いの感がある
 
と情緒もへったくれもないいつもの訥子ぶりで役としては滅茶苦茶だったものの、その有り余る熱演が大向こうには受けは良かったようです。
一方でいつも超辛口の劇評家で知られる岡鬼太郎は訥子について
 
この優としては稀有の出来(中略)歌舞伎座(で上演された堀川)よりずっと上等
 
と何故か大絶賛しています。考えてみれば岡は訥子が帝国劇場に出演した際にも他の劇評家の酷評に反して訥子を褒めちぎっていて、訥子の大仰すぎるながらも写実の影にすっかり隠れてしまい大劇場では見れなくなった大時代な芸をどうやら好意的に評価していたようです。
 
訥子の猿廻し与次郎
 
 そして脇に関しては粂三郎のお俊、又五郎の伝兵衛、市十郎の老母おつきをそれぞれ務めていて、又五郎と市十郎は左團次一門で粂三郎も一時期市村座に籍を置いていただけあっていずれも芸達者な面子な事だけあって脇の本分を守って評価されています。
 
 
仇情恋路柵

 
二番目の仇情恋路柵は言わずもがな源之助の十八番と言える「切られお富」…ではなく、河竹黙阿弥が書いた「散切りお富」を改題したもので無論主役はお富の源之助となります。今回は付き合いもあって訥子は坊主与三で客演しています。
散切りお富は正式な外題を月宴升毬栗(つきのえんますのいがぐり)といって、処女翫浮名横櫛の「散切物版」といってもいい内容で河竹黙阿弥が名女形と謳われた八代目岩井半四郎の為に与話情浮世横櫛の人物を借りて設定を明治時代に変えて書き下ろした演目です。
黙阿弥の書いた散切物の中では極初期に当たる作品で、坊主与三を菊五郎ではなく珍しく團十郎が初演しているのが注目すべき点でもあります。
 
そんな珍しい演目ですが切られお富での経験が役立ったとあってか、
 
源之助のお富、筒もたせ(美人局)から強請場、蝙蝠安の殺しまであってこれも大当たり、当人が啖呵を切れば贔屓は溜飲を下げるといふもの
 
生世話物随一(中略)如何にもこうした狂言に相応しい技芸と如何にもこういふ狂言の内容に一致した心持でやっていた
 
と劇評も高評価しています。しかし、演目の演出に関しては
 
お富と清七の色合いのところを離座敷から見て『畜生』といふ幕切りは如何なものか、これは犬が出るのでお富がアレーと清七に縋る、そのトタンに障子を開けて見合わすなれば、これは畜生めとめを云わねば二重の意味にならぬなり、書下ろしは中二階なのを離座敷では気が通らず、これらはどうせ源之助ものだからと投げているものか
 
と初演時とは異なる改変をした事で台詞に込められた二重の意味を失っている事について厳しく批判されています。
 
源之助の散切りお富

 
と厳しい意見はあるものの、源之助の十八番である悪婆物である上に訥子と源之助が同じ舞台の上で顔を合わせる事もあってか見物には大受けした様です。
 
復讐談高田馬場
 
大切の復讐談高田馬場はこちらも言わずもがな今度は訥子の十八番である高田馬場です。
こちらの演目は元々は仮名出本忠臣蔵の外伝に当たる作品で赤穂浪士四十七士の1人、堀部安兵衛こと堀部武庸が討ち入りの8年前に参加した決闘の助太刀を元にした演目で歌舞伎あるあるで大分誇張された内容となっていて、訥子の中山安兵衛が大人数を相手に大立廻りをするのが唯一最大の見所となっています。
 
訥子の中山安兵衛

 
 
劇評でも訥子については
 
訥子の中山安兵衛、八丁堀の浪宅にて叔父菅野の横死を知り、刀を取るまま飛び出して高田馬場まで韋駄天走り、いかにも宙を飛ぶともいふべき勢いありて爽快なり
 
至る所で売り物になるだけに無闇に賑やかで威勢がよくって馬鹿に面白い(中略)花道の引っ込み等と来ては豪壮無比やっというかけ声と諸共ツケ際で極った格好から長い花道を三足半で駆け込む形まで天下独歩。満場割れるばかりの大喝采は無理もない事だ
 
と好評で得意役に活き活きしている様子が伺えます。
大物2人の共演に出し物も双方の得意役を並べた甲斐があったのか大入りを記録しました。
 
たまたま歌舞伎座が新派公演とあって源之助の身体が空いていたからこそ実現した夢の公演でしたが、その後源之助は歌舞伎座に戻る傍らで小芝居の劇場にもちらほら顔を出し大正8年以降に歌舞伎座の顔触れが充実してくると再び小芝居に戻り何度か訥子とも顔を合わせています。
一方で訥子は前にも触れたように散発的に大芝居にでるものの基本的に小芝居に身を置き、大正15年に亡くなるまで活動を続けました。そんな両者の全盛期に実現した今回の共演は2月の新富座、3月の横浜座の公演、あるいは10月の歌舞伎座の公演の影に隠れ一般にはあまり知られてはいないものの、それらに決してひけをとらない歴史的な公演だったと言えます。