大正10年2月 帝国劇場 ニの替り 女優劇その8 猿之助と勘彌の共演 後編 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は予告通り帝国劇場の女優公演の筋書を紹介したいと思います。

 

大正10年2月 帝国劇場 ニの替り

 

演目:

 

一、走馬燈

二、宇津村正

三、我が家

四、能祇と泥棒

 

前回書いた通り2月15日からニの替り公演となります。

 

1日から14日までの公演の筋書はこちら

 

 

それまでの女優劇公演では必ず前回の公演の当たり演目なりセットに金の掛かった演目なりを必ず1つ残していましたが今回は全演目差替えという中々にリスキーな試みを行いました。

その為なのか上演時間もかなり変則的になり

 

・初日15日のみ通常16時開演

 

・16〜20日は繰り上げて13時開演

 

・21日から28日は17時開演

 

となりました。

 

 

 

走馬燈

 
一番目の走馬燈は小説家の吉井勇が書き下ろした現代物の新作となります。
内容としては源氏節の一座の楽屋を舞台に繰り広げられる男女の恋愛を描いた物で平たく言うと猿之助と勘彌の火花散る競演の影に隠れる形になってしまった専属女優達みんなの出し物になります。
今回は金次郎を勘彌、岡本美津満女を小春、岡本美津代を波子、岡本美津吉を房子、岡本美代松を美彌子、木戸番亀吉を猿之助がそれぞれ務めています。
さて、如何にも帝劇の女優劇らしさ全開の芝居ですがこの手の女優を沢山出して役者層の厚さを全面に出す芝居のやり方も10年も経つと見飽きられてしまったらしく
 
情景のスケッチ式手法が勝って、男女の心理の底に触れてゐる處が浅過る、全体の影が薄い、勘彌の金次郎も、浪子の美津代も矢張り影の薄い人物にしか映らない
 
と仏作って魂入れずではないですが情景描写に力を入れ過ぎて心理的な側面が描けておらず気の抜けた演目だと厳しい批判を受けています。
そして唯1人自分の色が出ていたという猿之助についても
 
それも作全体としてはしっくりしない處がある。
 
と違和感が拭えないとこちらも芳しくありませんでした。
なまじ月の前半でこれまでの本公演とは違う斬新で且つ濃い演技で観客を唸らせていただけに急に旧来の女優芝居を見せられたのでは物足りなさを感じさせてしまっただけになってしまったらしく、こちらは失敗だった様です。
 

宇津村正

 
中幕の宇津村正は猿之助の出し物で岡本綺堂の弟子に当たる中嶋俊雄の処女作である時代物系の新作演目です。
内容としては偽物刀造りを生業にしていた刀鍛冶の信種が改心して修行に励み立派な刀鍛冶になりかけた所で恋の誘惑に負けてまた偽物刀を造ってしまい、それを嘲笑された事で心の均衡が崩れてしまい友や許嫁を次々殺めて最後に恋人の前で思いの丈を告げて自害して果てるという中々にハードな物語となっています。
今回は宇津信種を猿之助、おきぬを嘉久子、早瀬数江を律子、松本角之進を介十郎、早瀬小十郎と佐次友定を勘彌がそれぞれ務めています。
真面目な人間が身を滅ぼす程熱い恋故に道を踏み誤るというストーリーラインは何処か師匠の書いた鳥辺山心中や箕輪の心中を彷彿させる所が感じられますがそれは当時の劇評も同じく感じたらしく
 
作者は岡本綺堂氏の薫陶を受けた人ださうで、大分綺堂式な処が見えます。舞台面を主とした事件の運びにも、処女作とは思はれぬ程、達者な処があります。
 
と一定の評価しています。
しかし、
 
も少し大胆に肩を破る意気が欲しい
 
この信種を贋物ばかりの名人でなく、本統(当)の刀を打たせても、立派な腕がある事を、明らかにして置いたら、一層利くだらうと思ひます
 
信種が腹を切ッてから、数江と兄の小十郎やが、めいめい自分の立場や弁疏(いいわけ)やら、理屈めいた事をいふ間が長過ぎるので、肝心の場面がダレ気味になります
 
と神に誓って贋刀作りを止めた信種が修行の末に刀鍛冶として通用する腕を身に付けた描写があった方が贋刀作りを再開した事でケチが付きやがて彼の全てが崩壊していく悲劇性がより高まったのではないか等の細部では詰めが甘い点が目立ったらしく幾つか注文が付いています。
その上で役者についてはと言うと主役である宇津信種を演じた猿之助は
 
いつもの急込み調子を慎み、余程持味を加へて見せました
 
と才気煥発で能動的な面は勘彌との立廻りのみにして後は抑えた演技に終始した事で上手く役の肚を掴んだ演技になったらしく前半に続けて非常に高評価となっています。
対して恋人であると同時に信種の破滅の原因を作る早瀬数江を演じた律子も
 
律子の数江は兄の放埒に、家宝の亡失を惜しんで、贋物を注文するといふのですが、その行為は兎も角も、さうした男勝りの、気丈な武家の娘といふ趣は見えてゐました
 
とこの月は勘彌と猿之助に押されて栄えない女優陣の中では気焔を吐いたらしくこちらも評価されました。
しかし、早瀬小十郎と佐次友定を演じた勘彌については
 
勘彌の小十郎は人柄はそれらしいが、性格は不徹底になりました
 
と猿之助との立廻りは良かったものの、役としては今ひとつ役に入り込めていなかった点を指摘されました。
この様に原作の物足りなさは見受けられましたが、処女作としては十分及第点に達していた事や、まだこの時は綺堂物の経験が少なかったにも関わらず猿之助の繊細な演技が上手く功を奏したらしく、勘彌との立廻りもあって見物の受けも良かったそうです。
 

我が家

 
二幕目の我が家は今度は勘彌の出し物で中嶋俊雄の師匠である岡本綺堂が書き下ろした現代物の演目です。
宇津村正が道を踏み外してしまった男の物語なのに対して綺堂の方は家族との再会だけを希望に長年服役生活に耐えてきた石井藤兵衛が出所後に家族に会いに行くと妻であるお仙と娘たちが別の男と幸せそうな生活を送っていたのを知り、自分は最早邪魔物なのだと絶望して名乗りもせずに立ち去るというまるで幸福の黄色いハンカチをバットエンドにしたみたいなビターな作品となっています。
今回は鳥山源太郎を勘彌、石井藤兵衛を猿之助、藤兵衛妻お仙を嘉久子、娘お染を日出子、下の娘お花を兼子、中村進を玉三郎がそれぞれ務めています。
弟子に続いて師匠のこれまたベクトルこそ違えど中々に重たい内容の演目ですが劇評は主役である鳥山源太郎を演じた勘彌について
 
勘彌の源太郎自分の心を裏切られた悲哀を忍ぶ切なさが哀れであった
 
と実直真面目な人間が家族に裏切られて絶望する様をまるで日本のジャン・バルジャンの様な今回の演目にピッタリだと大絶賛されています。
続いて劇評は生活の為にアッサリ夫を捨てて男に走り享楽を甘受するお仙、お染、お花を演じた女優達についても
 
嘉久子の藤兵衛妻お仙、旦那相手に袢天を前からたらしたダラしない後姿がいかにも倫落の女らしく、日出子のお染、兼子の末娘お花は、負けず劣らず蓮葉娘を賑やかに見せ
 
と如何にも不道徳の極みみたいな女性になりきれているとそれぞれ高く評価しています。
そして、前幕の熱演の直後にも関わらずここでは唯一の良心とも言える石井藤兵衛を演じた猿之助も
 
猿之助の石井藤兵衛白髪頭とその言葉と動作とに聊か不似合の矛盾に見ゆれお花に探りを入れて、噺引出す調子は旨く而も太腹な酸いも甘いも噛み分けた、世渡りの苦労人になっていたのはいい。
 
とこれまた普段歌舞伎座では普段父親の段四郎が演じているような珍しい苦労人の老け役を見た目は似合わないと言われてしまいましたが中身は難なく演じていてその引き出しの多さを褒めています。
また、劇評では豊富な予算を持つ帝国劇場ならではの強みとして舞台装置にも言及し
 
(半)の櫻屋は場末らしい銘酒屋気分が窺はれ、人物の出入は流石に巧みで、作者の老巧振りが認められた
 
と作者の意を汲んだ大道具を僅か半月公演でも手を抜かずに作る劇場側も評価しています。
この様に原作、役者、舞台装置と三拍子揃って素晴らしいという理想の舞台となり、宇津村正と並ぶ当たり演目となりました。
 

能祇と泥棒

 

大切の能祇と泥棒は劇作家の田島淳が書いた喜劇物の演目です。

内容としては能祇の家に盗みに入り込んだ間の抜けた泥棒が能祇との不思議な交流を経て自身の行いを悔い改める喜劇テイストの勧善懲悪物となっています。

 

今回は能祇を勘彌、名主を柳蔵、村の娘を延子、泥棒を猿之助がそれぞれ務めています。

恐らく二幕目の我が家が余りに救いの無い話であった事から口直しの意味も含めての演目であったかと思いますが劇評はこの演目について

 

主人公の脱俗した俳人気分を中心として、忌味のない技巧で引締めてあるのを一番秀れてゐると思った

 

と簡潔に述べた上で

 

勘彌の能祇の演技も苦心の痕を見せないでそこに隙の無い巧さが現れてゐた、(中略)猿之助の泥棒は、畳を上げて入って来る辺りは善いが、恐れたり、怒ったり、喜んだりする表情、動作には喜劇気分が稍勝ち過ぎてゐた、柳蔵の名主は相当の出来で延子の村の娘は一つの彩りである
 
と猿之助がやや喜劇テイストになりすぎていたのを軽く窘められている以外は勘彌の洒脱な俳人を始め各人シンプルながらも皆卒なくこなせていたと評価されました。
 

さて、大胆にも全演目を現代劇を含む新作に入れ替えてリスクを恐れずに臨んだこの公演の入りはというと序幕の走馬燈の出来こそイマイチでしたがそれ以外は前半にも劣らない佳作が並んだ事もあり前半と同じく勢いに乗って客入りも良かったそうです。

この後勘彌は古巣である市村座の問題で揺れる劇界を他所に今回の返礼代わりに3月は左團次と猿之助の明治座に加入して共演し新劇好きの見物を大いに喜ばせる事となります。