俳句の入口 5 俳句のネタ 1 | ロジカル現代文

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■俳句のネタ 1

 

 俳句を作るために必要なことの第一は、「俳句のネタ」です。俳句に詠む対象となる物事をここでは俳句のネタと言います。わたし自身はこういう言葉を使ったことがなかったのですが、ある方がこういう表現をされていて、なるほど「ネタ」だなと思いましたのでわたしもこの端的な言葉を使わせていただきます。自然でも人事でもよいので日常生活の中で見聞きしたことの中から「これは面白い」「これは美しい」「これは詩的だ」「ドラマがある」「心に刺さる」などと感じ俳句にしてみたいと思う物事、あるいはフレーズを見つける、発見することが必要です。

 これが最低限必要なことであり、そしてまた最も重要なことでもあります。ただこれがなかなかむつかしいことで、俳句のネタ探しには苦労します。これには作者の詩的な感性が必要になってきますし、作者の人生経験といった内面的なものが伴ってくるところでもあります。

 

 芭蕉が旅を愛したように、旅は俳句のネタを探す近道です。日常とは違った風景、異なる人々に出合うことで発見できることもあり、また作者自身の目が非日常的な感覚で新しくなるということもあります。「雉」の会員で、毎週土日には青春18切符で一人遠くまで出かけ俳句を作っている方がいます。俳句だけが目的なのかどうかはちょっと分かりませんが、これはたしかにいい方法でしょう。

 

 しまなみ海道島また島や天高し    山田流水

 今日泊まる街の西日に着きにけり   吉屋信子

 涼しさやほの三日月の羽黒山     松尾芭蕉

 

 「俳句のネタ」は作者の生活環境によって限られてくることがあるものです。たとえば海辺に住んでいる人の場合はどうしても海の句が多くなり、山間に住んでいれば山の句が多くなります。句会ではその句に詠まれている俳句のネタ、素材によってこの句は誰の句かある程度分かってしまうこともあります。都会に住んでいるか、田舎に住んでいるかによっても異なりますし、作者の近くにどんな景勝地があるかによっても違ってきます。大きな神社があったりすれば、そこに行って句を作る機会も多くなるでしょう。近くに港があるとか、ダムがあるとかすれば、そういうものを詠む機会の増えることはたしかです。作者の生活環境によって俳句のネタにはその人のテリトリーのようなものができてしまうものです。つぎに揚げる初めの句の「居酒屋」は田島主宰の縄張りのような場所ですし、後の句の「被爆ドーム」は広島在住の鈴木副主宰のものです。

 

  居酒屋の代替はりせし若竹煮     田島和生

  花吹雪被爆ドームをかくしけり    鈴木厚子

 

 また「俳句のネタ」は作者が何に興味関心をもっているかによっても違ってきます。山登りが好きな人ならやはり山が俳句のネタになるでしょうし、スポーツが好きならそのスポーツがネタになるでしょう。ただしわたしはテニスが好きで30年以上やっていますが、テニスの句を作りたいと思っていても今までほとんど作れた試しがありません。どうしてなのかよく分かりませんが、たぶんあまりにも日常になってしまっているからではないかと思っています。職業上のこともなかなか句にはできないもので、これも日常すぎるからではないかと思います。わたしには作れないテニスの句に句会でお目にかかり、感心しました。

 

  スコートをひらりと返し日焼け脚    安藤えいじ

  熊笹の剣山頂青嵐           松岡和子

 

 わたしの知り合いの俳人で、昆虫の句をよく作る方がいらっしゃいました。年配の女性でしたが昆虫愛がすごくとてもユニークでした。一般的に花や蝶を愛でる女性は多いでしょうが、虫を愛でる女性は変わっています。「虫愛づる姫君」という平安時代の説話がありますが、まさにそれを地でいく方です。その物語の姫君は皆が愛でる蝶よりも蝶になる前の毛虫を愛でる姫でした。田島主宰は子どもの頃には蛙を飼っていられたというくらい蛙好きで会員には知られています。

 

 手にとまる止まらせておく秋の蠅    青山妙子

 青蛙水甕の世はまどかなり       田島和生

 

 自然よりも人間に興味があるという人も当然いるでしょう。やはり身近な人間である家族は俳句のネタにしばしば登場します。祖父母、父母、夫、妻、とくに子どもは俳句のネタになるものです。幼い子どもや孫たちというのは可愛いので俳句になりやすいでしょう。ただし、「雉」の主宰は「孫」という言葉を俳句で使わないように言われています。理由は孫と言ってしまうと俳句の世界がとても狭いものになりがちだからです。たしかに狭くなるというのは分かります。共感を呼びにくくなるということではないかと思います。その他、様々な職業の人たちも俳句に登場します。

 

 ちちははのしきりに恋し雉の声      松尾芭蕉

 夏山や子を生してより父恋へり      小島 健

 春日傘まはすてふこと妻になほ      加倉井秋を

 白寿なる積み木職人風薫る        松岡和子

 園児らは昼寝の夢をにぎりしめ      青木陽子

 紫陽花や女子高生のたむろして      一村葵生

 鴨川の澄める流れや藍浴衣        山田流水