■俳句のネタ 2
自然を詠んだ句を「叙景句」、人事を詠んだ句を「叙事句」と言いますが、叙景句が好きな人もいれば叙事句の方が好みの人もいるでしょう。わたしの好きな句、記憶に残る句は多くが叙事句となっています。やはり人間を詠んだ句の方が興味深いのではないでしょうか。しかし俳句に興味を持ち始めたのは日本の四季の移り行きの美しさに気づいたからで、その頃は叙景句の方に惹かれていたと思います。
露の世は露の世ながらさりながら 小林一茶
片思いの弟無口鎌鼬 新本孝子
牡丹散つてうち重なりぬ二三片 与謝蕪村
つばくろは眩しき鳥となりにけり 石田波郷
また時代の状況によって辛い現実を詠まざるをえなかった俳人もいらっしゃいます。敗戦後一年余りという長い時間を要して満州から引き揚げてこられた女性の極限状況の俳句を読んだことがありますが、思わず胸衝かれる句もありました。(井筒紀久枝著『大陸の花嫁』岩波現代文庫 2004)初めの句は敗戦の日八月十五日の句として忘れがたい作品です。満州に置き去りにされた格好で、どれほど一般庶民は心細い思いをしたことでしょうか。
帝国が唯のにほんに暑き日に 井筒紀久枝
つのる吹雪子の息ときどき確かむる 井筒紀久枝
子を焼いてしまへばほっと冬の星 井筒紀久枝
行かねばならず枯野の墓へ乳そそぎ 井筒紀久枝
「俳句のネタ」は一般的に言って、ちょっと変わった物・事であった方が面白いものです。「当たり前のことでは面白くない」と田島主宰はよく言われています。そういうちょっと変わった物・事を発見するためには、作者自身がちょっと変わった人、ちょっと変わった目線をもった人であった方が発見しやすいとも言えるでしょう。変人とまでは言いませんが、ちょっと変わった人の方が文学芸術に親和性があるのはたしかです。わたし自身は興味関心のあり方が違いすぎて人とは話が通じないという孤独はけっこう味わってきました。
御仏の鼻の先にて屁ひり虫 小林一茶
裏がへる亀思ふべし鳴けるなり 石川桂郎
あ・あ・あ・とレコードとまる啄木忌 高柳重信
晋子の忌硯に酒を注ぎけり 織田烏不関
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 三橋鷹女
独房の小さき机やきりぎりす 角川春樹
最近読んだ村山由佳さんの小説『放蕩記』にこんなことが書かれていました。彼女の小説が新人賞を獲ったときの授賞式で、ある大御所作家からこう言われたそうです。「おめでたい日に嫌なことを言うようだがね、すでに作家として名をなしている女性が結婚して主婦になるのと違って、主婦である女性がこれから作家になってやっていくというのは、いろんな意味で難しいことなんだ。夫のある身でどれだけ深くて不埒な作品が書けるか、というのもその一つだけど、それ以前に、これまでは平穏にいっていた夫婦の間がたいていはうまくいかなくなる。」たしかに『放蕩記』にもかなり不埒な内容があり、これを人に読まれてもよいという覚悟がなければ作家にはなれないなと思われます。赤裸々な気持ちの表現というのはかえって簡単なことではありません。つぎに挙げる句は、こんな不埒な思いも句にできるんだなと驚いた句です。
稲を刈る夜はしらたまの女体にて 平畑静塔
中年や遠く実れる夜の桃 西東三鬼
くらがりに女美し親鸞忌 大峯あきら
翁かの桃の遊びをせむと言ふ 中村苑子
火事赤し義妹と二人のみの夜に 右城暮石
そしてなによりもまずもっとも身近な存在である自分自身を観察すること。作者自身が究極の俳句ネタであるのは間違いないことです。古来の名句には作者自身の姿が印象深く詠まれています。石田波郷は「俳句は珠玉のやうな私小説」という言葉を残しています。
旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる 松尾芭蕉
糸瓜咲いて痰の詰まりし仏かな 正岡子規
後ろ姿の時雨れてゆくか 種田山頭火
羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
女来と帯巻き出づる百日紅 石田波郷