俳句の文法 11 境涯的な喩 | ロジカル現代文

ロジカル現代文

このブログは「現代文」をロジカルに教えるため、または学ぶための画期的な方法を提案しています。その鍵は「三要素」にあります。
このロジカルな三要素によって、現代文の学習や授業が論理的になり、確かな自信をもつことができます。ぜひマスターしてください。

◆境涯的な喩

 

 俳句に見られる様々な比喩表現について考えていますが、今回は第三の「境涯的な喩」の位相について。これは俳句の作者や読者を含め特定の誰かの置かれている境涯というコンテクスト(文脈)と、一句全体との間で成り立つ比喩関係です。これが俳句の寓意性です。

 

 第四の「季題的な喩」も同じく俳句の作者あるいは読者というコンテクストにおいて成り立つものですが、こちらは一般的な作者あるいは読者のコンテクストと、一句の中の季語との間で成り立つという違いがあります。

 

 すでに、拙稿「俳句の文語文法」の第五回「俳句の寓意性」で、作者の境涯によって一句が寓意を帯びる場合について、芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句などを例にしました。ここでは他の例をみてみましょう。

 

  海に出て木枯帰るところなし      誓子

 

 この句が作られたのは戦争末期の昭和十九年十一月十九日。この一月足らず前の十月二十五日には最初の神風特別攻撃隊が出撃し、その戦果が報じられていたはずで、作者の耳にも届いていたのではないでしょうか。この句で作者は神風特攻隊を意識していたかどうかは分かりませんが、読者の中には「木枯」を神風としてその寓意を読む人もいたことでしょう。

 

 「俳句文学館」の二○二二年七月五日号の「試練に磨かれた詩魂」で井上弘美氏がつぎのように書かれていました。「桂信子が晩年に詠んだ〈青空や花は咲くことのみ思ひ〉は、花が一途に命を全うする姿を詠んでいるが、それは桂信子の俳句人生そのものである。」たしかに読者としてはそのような寓意の読みを誘われる句です。

 

  風車風が吹くまで一休み

 

 これは名前は忘れましたが、ある政治家の作でした。この場合は明らかに作者自身が己の政治姿勢を風車に寓意しています。

 

  秋風に吹つくさせて帰花       蕪村

 

 この句について高橋治氏はつぎのような鑑賞をしています。「蕪村の客観描写と思える句に、ともすれば私は人の姿を感じとる。この句も冷たさのいや増す風が、ひと息ついた後にと受けとるべきだろうから、逆風、悲運にさらされる人を連想してしまう。帰り花とは、わが胸に宿るささやかな理か秘めた願望か。いずれにせよ単なる叙景の句ではない。」(『蕪村春秋』朝日文庫 二○○一)

 

 ところで、山本健吉著『俳句私見』(文藝春秋 一九八三)に所収の「純粋俳句」の末尾にはつぎのように書かれています。「俳句の本質は象徴詩でなく寓意詩であるというのが、私の結論であります。(中略)私はもっと多くの例証を挙げて説明すべきだったと思われますが、その暇がありません。」

 

 ここに「もっと多くの例証を挙げて」とありましたのでどういう句があるのかと読み返してみたところ、十四の例句のうち寓意性に関わる句としては芭蕉の例の「行く春」の句であるとか「古池」の句が見受けられましたが、しかしこれとてもどこがどう寓意的なのかの説明はありません。つまり根拠が何一つ具体的に明示されないまま「俳句の本質」が結論づけられているわけで、お粗末というしかない議論でした。

 

 俳句は寓意詩であると主張するなら、すべての俳句を寓意的に解釈してみせる必要がありますが、それはそもそも不可能であって、これは部分を全体であると言い張る暴論にすぎないことがすぐに分かります。挙げ句の果て「(今は)その暇がありません」と逃げているのですから、開いた口が塞がらないとはこのことです。