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geezenstacの森

音楽に映画たまに美術、そして読書三昧のブログです

レコード芸術 

1970年7月号 5

 

 この7月号はあらゆるところで3つのオーケストラの特集を展開していました。中綴じの後もカラーグラビアでオーケストラの団員ともども取り上げています。

 

 

 

 ベートーヴェン・チクルスは大阪のみで開催されています。前回紹介したように、カラヤンの今回の来日は半分ビジネスでした。本来ならNHKがライブ中継するのですが、カラヤンがそれを許可しなかったんですな。だからこの年のライブ映像は残っていません。下の写真は来日時のスナップですが、右端にソニーの大賀典雄氏が写っています。この年、大賀はCBSソニーの社長になっていますから、グラモフォンを差し置いてのアプローチと言っていいでしょう。これも、ビジネス優先の姿勢の表れでしょう。

 

 

 このレオン・シュピーラーは第1コンサートマスターではありましたが、

 

 レコゲーのスタッフは、リハーサル風景からも、潜り込んでベルリンフィルのメンバーたちをせっせと写真に収めていたようです。

 

 カラヤンの次はジョージセールです。こちらは京都での散策を楽しむスナップを掲載しています。写真に写っているのは、常時セルトピアニストとして胎動したゲーリーグラフマンです。見切れていますが、右端にセルの奥さんが写っています。セルは大阪公演の後、京都に観光旅行に向かっていますが、有名な京都市街の神社仏閣ではなく、宇治の平等院を訪れています。

 

 

 

 左のブーレーズとの写真は、前回の対談の後ブーレーズを呼び出して一緒に撮ったもののようです。

 

 

この写真では、セルは指揮棒を使わずに演奏している様がショットで残されています。

 

 

 一方、ピエール・ブーレーズの方の休暇は、シェルよりも演奏会の数が少なかったこともあり、ゆっくり京都散策したようです。ただし、こちらも京都市内ではなく、京都の北部、比叡山方面にある神宮寺を訪れています。定番を外すとは、なかなかの景色ガンがあるのではないでしょうか。

 

 

 そして、下のナップはいろいろ集められていますが、中でも自作の日本初演にはかなり興味があったようで、かなり、綿密にリハーサルには立ち会って細かく指示を出したようです。

 

 

 

 

 今回は、はじめての来日ということで、クリーヴランド管弦楽団のおもだったメンバーとも対談しています。この中で、アメリカのオーケストラとしては、オーマンディ/フィラデルフィアについて、長い結びつきのあるセルクリーブランドの特徴は、いかにして築かれたかを聞きだしています。

 

 さらに、副指揮者のルイス・レーンにも、インタビューを試みています。この中でルイス・レーンはベルリンフィルのリハーサルを見学したようで、その時の印象を語っていますが、オーケストラと指揮者の方向性がバラバラであったと言うことを述べています。まぁこの事は実際のコンサートでも感じられたようで、カラヤンが指揮を振り間違えたこともあったようです。それでも、コンサートマスターのミッシェル・シュワルベが、必死に立て直して、きっちりとした音楽に仕上げていたのはさすがでしょう。

 

 

 ほとんど記事としては取り上げられていないパリ管弦楽団ですが、そこは常任指揮者のセルジュボドに対して対談を試みていました。我々の認識では、カラヤンが音楽顧問ということで、トップに立っていろいろ切り回しをしていたような印象がありますが、それはEMIのレコーディングに対する立付けのようなもので、実際の演奏会は、このセルジュ・ボドやジョルジュ・プレートルが取仕切っていたと考えられます。また、この新しくできたオーケストラは、パリ音楽院管弦楽団の団員を少なからず引き継いでいましたから、その伝統と新しいメンバーによる再生とのバランスが指揮者にとって重要なポイントだったようです。昨日紹介したミシェル・デボストも旧パリ音楽院管弦楽団からの引き続きの採用でした。今回の改組では、菅のフランスに対して弦を重視する振るいがかけられたような気がします。ボトもそれを意識して、インターナショナルのオーケストラへの脱皮を印象づける話を対談の中で述べていました。

 

ミシェル・デボストの

ヴィヴァルディ

 

曲目/ヴィヴァルディ

協奏曲集Op,10

1.フルート協奏曲第1番 ヘ長調 「海の嵐」 
2.フルート協奏曲第2番 ト短調 「夜」 
3.フルート協奏曲第3番 ニ長調 「ごしきひわ」 
4.フルート協奏曲第4番 ト長調 
5.フルート協奏曲第5番 ヘ長調 
6.フルート協奏曲第6番 ト長調 

 

フルート/ミシェル・デボスト
指揮/ルイ・オーリアコンブ

演奏/トゥールーズ室内管弦楽団 

 

録音/1967/09

米SERAPHIM/S-60128

 

 

 今回のコンサートで自然をイメージした曲ということではこの作品10のヴィヴァルディのフルート協奏曲集も自分の中では候補に上げていました。ただ、今一つ残念だったのがジャケットのデザインで、全く海とか自然を連想させるものではなかったことです。手元にあるレコードは再発されたもので、EMIの廉価レーベルのセラフィムで発売されたものです。

 

 面白いもので、このヴィバルディの作品10のフルート協奏曲集はこれといった決定盤がありません。手元にあるのはランパルとガッゼローニそしてこのデボストの3枚ですが、どれも決定的名言と言われるものとは程遠いようです。そして面白いのは組み合わせがそれぞれ定番と言われるものではないような気がするのです。例えば、ランパルは通常ならパイヤールが演奏しそうなものですが、そういう録音は残っていなくて、バックはい・ソリスティ・ヴェネティですし、ガッゼローニはイ・ムジチ合奏団、そしてこのデボストはトゥールーズ室内管弦楽団と言う具合です。レコード芸術の「名曲名盤300選」などで、取り上げられているのは、フランス・ブルッヘンの演奏がいつでもトップです。ただ、この録音は、リコーダーとフラウト・トラベルソを使っての演奏ということで、どちらかと言うと、古楽演奏の模範のようなものです。

 

 ですから、華やかな本来のフルートの響きで、この曲を聞きたいと思えば、ランパルやニコレ、そして新しいところではゴールウェイと言うところになるのでしょうか。どれも小生の中では決定版と言うイメージはありません。ということで、無難なところで選ぶのが、このミシェル・デボストのフルートによるEMIの録音です。

 

 どちらかと言うと、デボストのフルートは、華やかさよりも優雅さ、気品のある演奏という意味で、1番よく効く機械のあるレコードになっています。それが実感できるのが第1局の海の嵐です。まぁ聴いてみてください。

 

 

 2曲目の「夜」もしっとりとした雰囲気で夜の帷が天空を覆い、夜のしじまが覆っている雰囲気がよく表現されています。その中を一台の馬車がランプの灯りを照らして、シックしている様が浮かびます。

 

 

このミシェル・デボスト(Michel Debost, 1934年1月20日 - )は、フランス出身のフルート奏者です。18歳でパリ音楽院に入学しガストン・クリュネルに師事、1954年(20歳)1等賞で卒業した。この年に勃発したアルジェリア戦争のため2年2か月間兵役につきましたが、その後演奏活動に復帰しました。1961年にパリ音楽院管弦楽団に第2奏者として入団し、翌年首席奏者となります。同楽団を解散して1967年に設立されたパリ管弦楽団でも首席奏者となりました。日本とも縁が深く1964年に初来日。以来、演奏活動や神戸国際フルートコンクールなどの審査員として何度も日本を訪れています。

 

 そして、指揮者のルイ・オーリアコンブはトゥールーズの放送局のオーケストラの団員となるとともに、1951年にイーゴリ・マルケヴィチに弟子入りし、1957年から1967年までマルケヴィチの助手を務めていました。そして、1953年にはトゥールーズ室内管弦楽団を創設して、自ら首席指揮者を務めましたた。ただ、これからという時に1971年脳卒中で倒れ、昏睡状態に陥り1982年12月そのまま亡くなっています。ですからこの60年代末期というのが活動の中心になっています。もちろん仏パテには「四季」も録音していますが、それは流石に幾多の演奏の中にうもれてしまっていますが、この一枚はデボストという独奏者を得て輝いています。

 

 この作品10は最初の3曲が表題付きとなっていてヴィヴァルディの数ある作品の中でも人気があります。その「ごしきひわ」は日本では知られていませんがヨーロッパでは雀並みに一般的な鳥のようです。英名は「European Goldfinch」で、姿かたちは確かに5色の彩りの奇麗な鳥です。

 

 

 

 後半の3曲も同様な演奏が続きます。第4番はこの曲集の中では一番新しい曲で出版に際して作曲されているようです。そして、5万は自作のオペラのアリアからの旋律を使用して書かれ、第6番も旧作を転用して使っている作品です。

 

 

 

 

 

 

レコード芸術 

1970年7月号 4

 

 ようやく月評ページが終わりました。この頃のレコ芸はページ数が500ページ以上ありました。ここまでで220ページ、ようやく特集になります。特集「オーケストラ音楽の精髄したパリ、管弦楽団、クリーブランド管弦楽ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」の来日3オーケストラをめぐる記事でした。

 

 

 ところが、最初のカラヤンの記事では、これが音楽とはまるっと関係のないビジネスの話になっていました。この頃ようやくビデオカセットが形になり、これは商売になると言うことでカラヤンは乗り気でした。そんなことでソニーと話し合い、ソニーのβ方式によるビデオカセット導入すると言うことで話し合いがついたと言う会見がこの時行われています。全くカラヤンは音楽以外でも相当なビジネスマンでもあったわけです。

 

 

 この時は、ソニーの副社長の森田氏とカラヤンが一緒に記者会見を開いています。ただ、この後の歴史の中でβ方式はVHSに敗れ姿を消していきます。β奉仕までカラヤンの演奏ビデオが発売されたという記憶はありません。LDでは発売され今でもその映像は手元にあります。ソニーとの関係はそのごもつづきますが、CDの技術力に魅せられて方向性を見誤った時代でした。

 

 

 カラヤンは、レコードの発展も、これからもあると言う前提のもとで、映像としての音楽もビジネスとして成り立つと力説しています。方向性は合っているんですがねぇ。第2のストコフスキーにはなれなかったようです。

 

 

 

 これに対して、クリーヴランド管弦楽団のほうは、最初にピエール・ブーレーズが取り上げられています。記事を書いたのは、西村弘治氏で、今回の演奏会で、彼はプールズを70年代を担う新しい指揮者ということで取り上げています。クリーブランドと言う同じオーケストラを指揮しながらセルと言う完成された様式とそこから発展する現代音楽に基づいた視線から音楽を分析する。ピエール・ブーレーズの音楽性の新しさを彼の中に見出したのでしょう。実際クリーブランドの演奏会はセルがメインで、ブーレーズはサブと言う位置づけでした。ですからブーレーズは指揮をしない日も結構あったわけです。その時ブーレーズはどういう行動をとっていたかと言うと、ちょうどその期間で、彼の新作が日本人演奏家によって録音されていると言う話を聞いて、その現場に出かけていました。また日本の美を楽しむということで、京都旅行にも出かけていました。ブーレーズの指揮はこの来日公演では3公演しか組まれていませんでした。

 

 

 ブーレーズは東京で開催された彼の代表作の1つ、「マルト・サン・メートル」の日本初演に立ち会っていました。指揮は若杉弘でしたが、そのリハーサルから関わり、初演の成功を見届けたのでした。

 

 

 この当時、ブーレーズは、ドゴール政権下のマルロー文化省の文化政策に異を唱えてフランスを離れ、このクリーブランドで指揮をしていたわけです。それはセルの後継として意図したものとは多少方向性は違ったのでしょうが、クリーブランドと言うオーケストラにとっては非常なプラスになったののではないでしょうか。

 

 

 この記事に引き続きブーレーズに関しては、彼の録音の姿勢についてもインタビューが行われています。こちらは当時の録音エンジニアとして活躍していた相沢正八郎氏が記事を書いています。ここではブーレーズは生とレコードとの違いは、明確に認識した上で反復鑑賞されることを前提としたレコードでは、音楽性と同じ位に技術的な完璧さが重要であることを力説しています。

 

 

 この当時、ブーレーズはクリーブランドとともにレコード会社の要望に従い、近代音楽を録音していました。そこにはブーレーズが信頼を置くトマス・シェパードやポール・マイヤーズと言うCBSの有能なプロデューサーが存在したことも大きく影響しているのでしょう。

 

 

 次の記事でようやくセルが登場します。ただ、ここはレコード芸術の単独インタビューではなく、FM東京がセッティングした丹羽正明氏によるインタビューに同席して、この記事が書かれています。以前の記事で、セルは音楽に大切な要素は、1にリズム、2にリズム、3にリズム、4に様式に忠実なアーティキュレーション、5にバランスと答えています。と書いていますが、この記事によるとそれは、アソシエイト・コンダクターのルイス・レーンの発言と書かれています。いえばセルのイズムがアソシエイト・コンダクターにまで浸透しているということでしょう。

 

 さて、セル/クリーヴランド管弦楽団は1970年5月15日大阪・フェスティバルホールの公演を皮切りに、翌16日大阪、そして京都で20日に、翌日名古屋へ出向き、22、23日と東京で、そして25日には札幌へ、翌日には東京へとんぼ帰りして最終公演を行っています。12日間で全11公演のハードスケジュールのうち、セルは8公演を指揮していました。同じく5月にやって来たカラヤン/ベルリン・フィルが前日の14日まで大阪で6公演行ったのですが、それよりも人気が高く、極めて高い評価を受けて多くの聴衆に感銘を与えたものです。そして帰国後、2か月わずかで突然信じられない悲報が入って来て、「セル、急逝する」の知らせであったのでした。

 

 

 下の写真ではアシスタント・コンダクターのルイス・レーンも同席しています。当時のセルの弟子には、他にマイケル・チャーリー、ジェームズ・レヴァインといった人たちがいて、結局この中ではレヴァインが抜きん出て有名となりましたが、セル自らはレーンを最も可愛がったそうです。

 

 

下は関連の記事です。

 

 

 

 

 

 

レコード芸術 

1970年7月号 3

 

 

 この年当時の松下電器と日本ビクターとが、合弁で「日本ホフォノグラム社」を設立しています。その合弁比率は、松下とビクターが60%フィリップスが40%で日本側に主導権があるものになっていました。6月中旬から独立して歩み始めています。

 

 

 この頃は、まだチェリストとしては、推しも押されぬ存在であったロストロポービッチですが、そろそろ指揮にも触手を伸ばし始めていました。

 

 

 このパカラヤンに風貌が似ているのは、ドイツグラモフォンのレコーディングプロデューサーとして活躍していたオットー・ゲルデスです。まぁ、カラヤンの板ドイツグラも本ですから、指揮者としてはほんの数枚のアルバムを出しただけで消えていってしまいました。もし彼がRCAにいたら、それこそひょっとすると、トップ指揮者の仲間入りをできたかもしれません。まぁ、自分としては、この当時RCAにチャールズ・ゲルハルトがいてくれてよかったんですけどね。

 

  ドイツグラモフォンは1970円年のベートーベンの生誕200年祭に合わせて、こんな豪華なトリオのベートーベンのピアノ三重奏曲を録音していました。まぁ、これだけでも1つの目玉的存在ではあります。ただ、このトリオがそんなに活躍した記憶はありません。

 

 

 CBSソニーはこの号はバーンスタイン一本で広告を打っています。そしてよく見ると、各ページの頭にはバーンスタイン公演に全国1000名様ご招待と言う文字が小さく記載されています。とにかくこの年の万博の8月から9月にかけての最終大物登場ということで、バーンスタインニューヨークフィルの公演は目玉でもありました。その機会を最大限利用しようと、ソニーは、こういう広告の打ち出しをしたのです。この公演の招待は東京、大阪、そして福岡の三カ所だけで名古屋は蚊帳の外でした。

 

 

 まぁ、新譜といっても再発売が結構含まれています。まさに日本的なレコードの販促です。

 

 

 

 1970年の公演で演奏した曲目はマーラーの交響曲第9番、ベルリオーズの幻想交響曲、そして、ベートーベンの交響曲でした。

 

 

 

  この当時の交響曲部門の執筆は、まだ村田武雄氏でした。これら大量に発売されたバーンスタインの交響曲作品ですが、推薦盤となったのは最も得意としているマーラーとショスタコーヴィッチの作品だけでした。カラヤンに比べてバーンスタインはまだそれほど売れる指揮者ではなかったんですなぁ。他はすべて推薦から外れています。当時は、こういう評価を基準にしていましたから、一読者としてはバーンスタインのレコードはほとんど注目の対象外でした。

 

 

 さて、グラモフォンが打ち出したのは当然ながらカラヤン/ベルリンフィルです。ただ、この号での打ち出しはカラヤンのブラームスでした。まあ、ADFディスク対象を受賞したというのもありますが、新譜ではありません。新譜は全く関係ないハイドンのオラトリオ「天地創造」でした。

 

 

 

 ほっといても売れるカラヤンに対してグラモフォンはリヒテルの来日記念盤を10点発売しています。ピアニスト界においてはグラモフォンはケンプをひたすら押していました。ただ、抜きん出る存在ではなくやや地味な存在でした。そこで急遽力を入れたのがこのリヒテルでした。ただ、RCAがリヒテルと表記しているのになぜかグラモフォンは「リフテル」と表記しています。なにか戦略でもあったのでしょうか。よく見ると、モーツァルトのピアノ協奏曲のところでは「リヒテル」と表記していて意思が統一されていません。しかも、レコ芸自体は「リヒテル」で統一しているのでこの広告は浮いています。

 

 

 クララモフォンのこの月の広告はこれだけです。大物は全て全集です。まさにボーナスセールに的を絞っています。別立ての広告では全国の特約店のリストを掲載していて、全集はそちらで購入してくださいねと告知しています。当時、毎月のように特約店のリストを広告で告知していたのはこのグラモフォンだけでした。個人的には当時アンチカラヤンでしたからこのベームのモーツァルトの交響曲全集は羨望したものです。22,000円なんて大金はありませんから、個人輸入でイギリスから輸入しました。多分10,000円ほどで購入していたはずです。

 

つづきます。

レコード芸術

1970年7月号 2

 

 

 7月号の裏表紙はメータ/ロスフィルの「家庭交響曲」でした。これはベストセラーとなった「ツァラトゥストラはかく語りき」、゜英雄の生涯」につづくもので、早くもこの号で取り上げられ新譜では唯一交響曲部門で村田武雄氏は推薦を打っています。

 

 

 メータのキングのコーナーの中での広告です。R.シュトラウスの紹介とともに生涯の付き合いともなるイスラエル・フィルのチャイコフスキーも紹介されています。

 

 

 1970年はベートーヴェンの生誕200年の年でもあり、各社がこぞって全集を打ち出してきています。その中でこの一セル主テット/ウィーンフィルは新録ながら最安の10,000円で攻勢をかけています。さらにベートーヴェンのあまり知られていない曲を収録したLPをボーナスで付けるというセールスまで展開していました。8,000部限定とは強気のセールスです。これだけで8,000万の売り上げを目論んだということになります。

 

 

 こちらは3枚組で6,000円です。ただ、名演という意味ではこちらの方が価値があったのではないでしょうか。Siriあげてはいませんがピアノ・ソナタ全集も同時発売しています。残念ながらバックハウスは「ハンマークラヴーア」だけはステレオで録音を残していませんが、広告では初のステレオでの全集と告知しています。大間違いですね。10枚組で15,000円とは強気で5,000部限定と謳っています。

 

 

 まだまだアンセルメは商売になるとラストレコーディングの「火の鳥」を再打ち出ししています。この中では小生はショルティの「神々のたそがれ」に注目しますがねぇ。豪華見開きジャケット入りです。

 

 

 この当時はウェストミンスターはキングが発売していました。モノラルの名盤が1,200円で発売されています。数年後に東芝EMIに発売権が移るとこれが1,500円に値上がりしました。

 

 下のイエルク・デムスのシューマンのピアノ曲大全集はこの頃発売されていたんですなぁ。全6巻、LP20枚の大作でした。日本ではセブンシーズレーベルで発売されましたが、諸外国ではインターコード(独)、Musical Heritage Society(米)から、CD時代になって1989年にNuova Era(伊)から全集となって発売されました。録音は1960年代ですが、原盤不詳の不思議なレコードです。今ではこの音源、menbranが買い取ったようで小生はこの音源で全集を所有しています。ベート全ドルファーの渋い音色でシューマンの曲が一つ一つ胸に染み込むいい演奏です。

 

 
 
 

 

 さて、この号の話題のカラヤン/ベルリンフィルとセル、ブーレーズ/クリーヴランドのグラビアです。ページ数からしてもクリーヴランドに注目が集まっていたのが如実にわかります。

 

 

 1966年の来日と同じようにベートーヴェンチクルスをメインに据えたプログラムでしたが珍しいオネゲルの第3番や幻想交響曲゜ダフニスとクロエ」なども演奏しています。そして、3つのオーケストラがこのダフニスで競演したり、シューマンの交響曲第4番もベルリンフィルとクリーヴランドの演奏会で取り上げられていたということで比較を楽しむことができたというのです。

 

 

 晩年のセルはかなり恣意的な演奏をしていることも確かで、今回の講演でベートーヴェンの「エロイカ」でかなり作為的な表情づけをしていたようです。その辺りは次回の座談会の記事で確認してください。

 

 

 ブーレーズの指揮はこの時初めて知った人がほとんどでしょうが、同じクリーヴランド管弦楽団を振っても指揮棒を使わないというという特徴がありました。10本の指を自在に操るスタイルは当時はストコフスキーを彷彿とさせたものです。そこから繰り出される音楽は作曲家目線の緻密で的確な指揮に導かれた音楽で、聴くものにある種のカルチャーショックを与えたようです。

 

 続きます。