レコード芸術 1970年7月号 4 | geezenstacの森

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レコード芸術 

1970年7月号 4

 

 ようやく月評ページが終わりました。この頃のレコ芸はページ数が500ページ以上ありました。ここまでで220ページ、ようやく特集になります。特集「オーケストラ音楽の精髄したパリ、管弦楽団、クリーブランド管弦楽ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」の来日3オーケストラをめぐる記事でした。

 

 

 ところが、最初のカラヤンの記事では、これが音楽とはまるっと関係のないビジネスの話になっていました。この頃ようやくビデオカセットが形になり、これは商売になると言うことでカラヤンは乗り気でした。そんなことでソニーと話し合い、ソニーのβ方式によるビデオカセット導入すると言うことで話し合いがついたと言う会見がこの時行われています。全くカラヤンは音楽以外でも相当なビジネスマンでもあったわけです。

 

 

 この時は、ソニーの副社長の森田氏とカラヤンが一緒に記者会見を開いています。ただ、この後の歴史の中でβ方式はVHSに敗れ姿を消していきます。β奉仕までカラヤンの演奏ビデオが発売されたという記憶はありません。LDでは発売され今でもその映像は手元にあります。ソニーとの関係はそのごもつづきますが、CDの技術力に魅せられて方向性を見誤った時代でした。

 

 

 カラヤンは、レコードの発展も、これからもあると言う前提のもとで、映像としての音楽もビジネスとして成り立つと力説しています。方向性は合っているんですがねぇ。第2のストコフスキーにはなれなかったようです。

 

 

 

 これに対して、クリーヴランド管弦楽団のほうは、最初にピエール・ブーレーズが取り上げられています。記事を書いたのは、西村弘治氏で、今回の演奏会で、彼はプールズを70年代を担う新しい指揮者ということで取り上げています。クリーブランドと言う同じオーケストラを指揮しながらセルと言う完成された様式とそこから発展する現代音楽に基づいた視線から音楽を分析する。ピエール・ブーレーズの音楽性の新しさを彼の中に見出したのでしょう。実際クリーブランドの演奏会はセルがメインで、ブーレーズはサブと言う位置づけでした。ですからブーレーズは指揮をしない日も結構あったわけです。その時ブーレーズはどういう行動をとっていたかと言うと、ちょうどその期間で、彼の新作が日本人演奏家によって録音されていると言う話を聞いて、その現場に出かけていました。また日本の美を楽しむということで、京都旅行にも出かけていました。ブーレーズの指揮はこの来日公演では3公演しか組まれていませんでした。

 

 

 ブーレーズは東京で開催された彼の代表作の1つ、「マルト・サン・メートル」の日本初演に立ち会っていました。指揮は若杉弘でしたが、そのリハーサルから関わり、初演の成功を見届けたのでした。

 

 

 この当時、ブーレーズは、ドゴール政権下のマルロー文化省の文化政策に異を唱えてフランスを離れ、このクリーブランドで指揮をしていたわけです。それはセルの後継として意図したものとは多少方向性は違ったのでしょうが、クリーブランドと言うオーケストラにとっては非常なプラスになったののではないでしょうか。

 

 

 この記事に引き続きブーレーズに関しては、彼の録音の姿勢についてもインタビューが行われています。こちらは当時の録音エンジニアとして活躍していた相沢正八郎氏が記事を書いています。ここではブーレーズは生とレコードとの違いは、明確に認識した上で反復鑑賞されることを前提としたレコードでは、音楽性と同じ位に技術的な完璧さが重要であることを力説しています。

 

 

 この当時、ブーレーズはクリーブランドとともにレコード会社の要望に従い、近代音楽を録音していました。そこにはブーレーズが信頼を置くトマス・シェパードやポール・マイヤーズと言うCBSの有能なプロデューサーが存在したことも大きく影響しているのでしょう。

 

 

 次の記事でようやくセルが登場します。ただ、ここはレコード芸術の単独インタビューではなく、FM東京がセッティングした丹羽正明氏によるインタビューに同席して、この記事が書かれています。以前の記事で、セルは音楽に大切な要素は、1にリズム、2にリズム、3にリズム、4に様式に忠実なアーティキュレーション、5にバランスと答えています。と書いていますが、この記事によるとそれは、アソシエイト・コンダクターのルイス・レーンの発言と書かれています。いえばセルのイズムがアソシエイト・コンダクターにまで浸透しているということでしょう。

 

 さて、セル/クリーヴランド管弦楽団は1970年5月15日大阪・フェスティバルホールの公演を皮切りに、翌16日大阪、そして京都で20日に、翌日名古屋へ出向き、22、23日と東京で、そして25日には札幌へ、翌日には東京へとんぼ帰りして最終公演を行っています。12日間で全11公演のハードスケジュールのうち、セルは8公演を指揮していました。同じく5月にやって来たカラヤン/ベルリン・フィルが前日の14日まで大阪で6公演行ったのですが、それよりも人気が高く、極めて高い評価を受けて多くの聴衆に感銘を与えたものです。そして帰国後、2か月わずかで突然信じられない悲報が入って来て、「セル、急逝する」の知らせであったのでした。

 

 

 下の写真ではアシスタント・コンダクターのルイス・レーンも同席しています。当時のセルの弟子には、他にマイケル・チャーリー、ジェームズ・レヴァインといった人たちがいて、結局この中ではレヴァインが抜きん出て有名となりましたが、セル自らはレーンを最も可愛がったそうです。

 

 

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