2020年6月21日に金環日食(日本は部分日食16時から18時頃)が起きます。

 

迷信と思う人がいるかもしれませんが、昔から日食中は屋外に出ないようにいわれています。

 

世界中のシャーマンや神秘家は皆一応に日食を見てはいけないと語ります。 

 

 

アメリカ・インディアンのメディスンマンのローリングサンダーは次のように言っています。

「日食を見てはいけない。 
 日食の間、太陽も月もその働きを停止する。 
 何かが死んで何かが生まれるときなのだ。 
 日食の間中、暖かい家の中にはいり、
 何があっても外に出てはいけない。」

『日蝕を見ないでヴィジョンを見ること』 
http://native.way-nifty.com/native_heart/…/07/post-4a73.html

 

皆既日蝕のときに太陽・月・地球が一直線に並びますが、このとき地球の磁場は太陽と月の影響によって大きく変化します。 

地球と生息するすべての生物の間には、目に見えない振動する力場で、むすびついています。

 

人間もまたその影響化におかれています。 

 

しかし、現代の文明は磁場から取り込まれた情報のやりとりする別系統の神経ネットワークを、発達させてきませんでした。
退化してしまったのです。 

 

生体磁気の研究者のベッカーによると、人間の体内には、地球の地磁気に同調する神経系があります。

 

通常の中枢神経系の機能は、交流のデジタル・コンピューターのように機能します。

大量の情報を高速でデジタルで処理をします。

 

これとは別に周囲の磁場から取り込まれた情報のやりとりする、影の神経系とも言うべき、もう一つ別の直流型の神経系があります。 

 

ベッカーは傷ついた細胞の修復や、骨折の治癒、地球磁場の感知は、直流で処理していることを発見しました。

この神経系は、アナログ・コンピューターのように、電流パルスの微妙な強度や方向性によって、多様で正確な情報処理を行います。

コード化された情報の波動は、形態形成場ともいうべき生命場全体へと波及します。 

 

私たちは世界を半分の能力でしか見ていません。デジタル化した中枢神経系から意識が解放されないと、波のようにうねるエネルギー場をとらえることが出来ないのです。 

 

日食や地震のとき動物が異常な行動をとる事は昔から知られています。

動物たちは微細なエネルギー場の異常をとらえることができます。

 

インド洋沿岸諸国に多大な被害をもたらしたスマトラ沖地震津波のときには 
タイ南部の海岸にいた観光用のゾウが、津波襲来の前に近くの丘に駆け上がり、結果的に背中に乗せていた外国人観光客約10名の命を救いました。 
観光客を乗せた何隻ものボートを、安全な場所に誘導したイルカ達もいます。 
サルが逃げる方へ逃げたおかげで、助かった人の話も伝わっています。 

 

日食のときは次の様に報告されています。 
セミが一斉に鳴きやみ 
野鳥は一斉に鳴き始めてから、巣に戻り眠る姿勢を取りました。 
動物園の像は室内に入り、 
キツネザルは仲間を呼び合い寝小屋前に集まりました。 

 

地球の磁場は呼吸のようにリズムをもっています。

 

南極からは螺旋状に正のエネルギーが流れ出し、北極はそのエネルギーを受け取ります。

約100万年ごとに地球の地磁気の極性は逆転し、地球上の岩石にはその歴史が刻印されます。

黒点が成長する時期の太陽の磁場は百~千倍まで増大し、樹木の成長はその太陽の黒点の影響を受けます。

血液には鉄分が含まれていて、磁気の影響をうけます。

 

磁気エネルギーの変化によっては、動植物は新陳代謝が活発になったり、成長が阻害されたりします。

磁場の変化は脳の松果体に影響をあたえ、ホルモンのバランスが変わることもあります。 

 

生体細胞には水晶状の構造があり、生物に存在する磁場や地球磁場のような振動にも同調しています。

頭蓋内部の中央、鼻孔の奥にある篩骨(しこつ)には多数の空洞があってその壁の細胞は磁気を感知します。

磁気を帯びた器官は地球の磁場の流れを正確に捕らえていまする。

その後にある松果体は磁場のエネルギー変化を感知しています。 

 

アボリジニは延々と続く砂漠の道を地図もコンパスもなく、道に迷う事なく目的地にたどり着きます。

丸一日歩いた知らない道を5~6歳の子どもが迷わず自分の村に帰ります。

 

先住民が持つ驚異的な方向定位能力は地磁気を鋭くキャッチするハトの帰巣本能と同じものです。

ハトの脳内にも磁気を感知する器官があります。

 

生体細胞には地磁気に同調する水晶状物質が組み込まれていて、神経繊維を保護する神経周囲細胞は構造が水晶結晶体のようであり、半導体のようにエネルギーを伝達します。その伝達による波動により、おのおの場には異なる電圧と電流の方向性が生じ、膨大な情報がコード化されます。この波のようにうねるエネルギーの場は生命体をその環境と分かちがたく結びつけています。 

 

アボリジニたちは渡り鳥のように磁気に対する鋭敏な知覚を持っています。そして磁気の流れをソングラインと呼んでいます。

地球磁気圏の磁気の流れは蛇の形をしていて虹の蛇ともよばれています。

 

地表と電離層の間で振動している周波数は、毎秒7・8ヘルツです。これはシューマン共鳴と呼ばれています。 

 

脳の松果体はメラトニン、ドーパミン、セロトニンなど脳内ホルモンの調整をしていることがしられています。

そしてこの松果体は地球の磁気と相互関係にあります。 

 

脳の側頭部を刺激すると、幻覚や幻聴など時間と空間の感覚が変化をする変性意識体験が起きることが知られています。

 

地球磁場の変動が起きるときは、何かが死んで何かが生まれるときなのです。 

 

深いトランス状態の中で魂のより深いところから立ち現れてくる力に自己を明け渡すことができれば、古い自己は死に全体性の中で再誕生するでしょう。 

先住民や動物たちは母なる地球の声に共鳴しています。

 

 

夏至と日食のスペシャルな2020年6月21日20:00~21:30に女神タリカと清水友邦が「女神の時代」をテーマにオンラインでお話しします。

「女神が目覚めるとき」

 

https://www.taoistjapan.com/talklive-yuho-tarika?fbclid=IwAR2yFsnEDExWjXwS8Rxf8pEO-itNZMp8nTa87mRzf7QafzS1nnM5KhA0HGM

 

 

危機を克服して変容するか、それとも退行するか

 

新型コロナウイルスの感染によって世界中にゆらぎが起きています。

 

持続可能な文明への変容が起きています。

 

このままではやっていけないので変わらざるをえないのです。

 

 

1977年にノーベル賞を受賞したイリヤ・プリゴジンの散逸構造論(さんいつこうぞうろん)に「ゆらぎ」という重要な概念があります。

 

生命体のような有機的なシステムは外からエネルギーを取り入れて、外に排出(散逸)してシステムを維持、増殖しています。

 

ところがまわりのエネルギーの流れが変化して複雑になり、システムがエネルギーを吸収できなくなると内部に「ゆらぎ」が生じます。

 

ゆらぎはますます増大して、自己のシステムを破壊に導き、やがて新たなシステムを再構築するのです。

 

動物なのか植物なのかわからない粘菌という生物があります。

 

粘菌はエサを食べながら成長を続けますがエサがなくなると、四方から一つの中心に向かって集合体をつくります。

 

やがて2~3mmほどの長さのナメクジ状となって移動します。

 

それは一つの生命体のように見えますが一つ一つが独立したアメーバーの集合体なのです。

 

不思議なことに粘菌の集合体は情報を伝達する神経を持たなくとも一つの個体生物のような統率された行動を示します。

 

移動を止めると粘菌は尾の部分が茎状になって垂直に伸びて死に、頭の部分は胞子となって空中に飛び散ります。

 

そして胞子はあらたな繁殖地でふたたびアメーバ状となり生きて行くのです。

 

危機状況のアメーバの行動

https://www.youtube.com/watch?v=Ze3NjbE7kQI&feature=share&fbclid=IwAR1EuwvB5Au9wHAWC18NtFsVBMOpsoed1SPF6q4Mr4uG00pdy3ZYxH8XzYk

 

この粘菌のように生命も環境に適応しながら自己増殖をして生命を維持しようとしていきます。

 

病気や失敗など人生の問題を機会にスピリチュアルな洞察が訪れた人の話はしばしば聴いた事があると思います。

 

破局に直面すると生命はゆらぎを創り出し、自己を超越して、より新しい秩序に向って進化させていきます。

 

ゆらぎが起きているときは古い自我を脱ぎ捨てる自己超越が起きる最大のチャンスなのです。

 

生命や社会システムは散逸構造をしており、危機に直面すればその形態を変えダイナミックに進化してゆくことができます。

 

使い捨ての大量消費を続けるなら必ず地球の資源は食いつぶされ、残った廃棄物で私たちの生活が破綻するのはもはや時間の問題といわれていました。

 

しかし膨大な環境コストのかかる消費生活を私たちは手放すことはしてきませんでした。

 

地球と環境との関係性を見失い環境破壊を続けてきました。

 

「人間は自然よりも優れており、それを支配する存在である」として人間以外の生命は人間の利益のために使用する「道具である」とみなす価値観を持っていました。

 

命に対する尊重はなく命を物として扱う人間中心主義の考えが深く頭に刻み込まれています。

 

そのため人間は地球上の全生命を脅かす存在となっています。

 

多数の生物を絶滅させて全体のバランスを崩し自らも滅びようとしているようです。

 

人口爆発と生物種の絶滅

https://www.facebook.com/prayas.shimizu/media_set?set=a.3148635598532345&type=3

 

冨の偏った配分や硬直化した文化、

市民の公平な権利を守らない役人、

宗教民族の対立、人種への差別偏見

環境よりも自分たちの既得権益を擁護する人々が権力を握っている社会、

腐敗した政治による現代社会は明らかに持続不可能です。

 

いままでの社会形態を崩壊させ価値観、世界観を根本的に変える時期に来ています。

 

私たちにはゆらぎを創りだし古い自我を超えてよりダイナミックに自己を成長させようとする衝動があります。

 

苦悩が起きている状況とは自分の器を大きく変えなくてはいけない事態です。

 

古い自我では環境の変化に対応出来ないので新しい自我に変わらざるをえません。

 

新しい自我に脱皮する為には抑圧して来た自我の影を自覚する必要があります。

 

そうしてさなぎから蝶に脱皮して自由に飛び回るのです。

 

古い自我を超えようとする時には分離していた影との境界で激しい葛藤が起きます。

 

ほとんどの人は自分の触れたくない感情がでてくることには抵抗があります。

 

その新たな展開に恐れをいだき自分自身との直面をさけ古い自我にしがみつき現状維持をはかろうとします。

 

精神的混乱が続くと自我は病的退行の段階に至ります。

 

現実と非現実の境界がゆらぎ、不安定になります。

 

自身の暗黒面を直面できないため一体何が起きているのか把握できず強い不安と恐怖にさらされます。

 

無意識から沸き上がる否定的なエネルギーに巻き込まれて混乱したまま自己を喪失して退行してしまいます。

 

意識の成長は母親から離される分離、子どもの自我が死に成人した自我を身につける移行、共同体の仲間入りをはたす統合のプロセスをたどります。

 

人間は物質的な欲望に振り回されて地球環境を脅かしています。

 

意識の発達段階で病的で偏狭な自我をまとってしまい、自己中心的な行動をとり、他の生物を滅ぼし、資源を食いつくし、廃棄物を撒き散らかしています。

 

稚拙な技術で原子力が扱えると思い込んでいます。

 

地球環境に責任を持ち、他の生物を尊重する大人には未だなっていません。

 

大人になるには今までの自我が死にあたらしい自我が再生される成人式のイニシエーションを経過しなければなりません。

 

現代社会は明らかに持続不可能なので、私たちの社会が新しい社会に移行するには退行か成長の二つの道があります。

 

一つは環境が悪化し崩壊に向かっているにもかかわらず、権力を握っている体制側が新たな展開に恐れをいだき既得権益を守りがたいためにあらゆる手はずを使って現状維持をはかろうとします。

 

人々は偽りの価値にしがみつき、体制を変えようとはせず情報操作された社会の中で夢想と忘却の日々をいたずらに過ごします。

 

物事が緩慢に進んで何の変化もないように見えても、システムのゆらぎが臨界値を超えると、予期せぬ変化が急激に起きるのが崩壊のプロセスです。

 

硬直した保守体制はやってきた環境悪化に対応できず社会秩序は崩壊に向かいます。

 

憎しみや復讐の感情が制御不能な暴力となって対立が世界中に吹き荒れます。

 

人々は堪え難いストレスに苛まれます。

 

もう一つは、ゆらぎが個人の内面に起きて意識のマトリックスの転換が進み、自分の思考を自覚することができる観照の眼を持った人々が増え続けて、加速がつきます。

 

ついに社会を変えることができる人数の臨界値を超えてしまいます。

 

環境保護や他者との相互信頼を大切にする企業や政治家が支持され対策が講じられるようになります。

 

大勢の人々が真の宗教性をもつようになって組織宗教はみな力を失い宗教の対立は消滅していきます。

 

人々は自分の内部にある心理的葛藤を外部に向かって行動表現しなくなり、信頼を築き、尊敬する関係が生まれます。

 

奪い合うのではなく相互に分かち合い助け合うようになります。

 

無意識の領域の自覚が進み命のネットワークが実感され人種民族の違いに寛容になります。

 

物質的価値よりも人との関係性や心の充実が価値を持つようになります。

 

統合型の人間が増え社会が成熟すれば裁判所、警察、軍隊、政府と国家は必要がなくなり、国境線は消えます。

 

軍隊は武器をスコップに替え災害救助隊に変容します。

 

富の再配分がおこなわれ、軍事予算のすべては貧困、農業、循環する自然再生エネルギーの開発費にまわされます。

 

地球は持続可能な状態に落ち着きます。

 

資源を食いつぶす現代の競争社会はこのままではいずれ消え去る運命にあります。

 

地球環境の問題をかかえた人類はこのまま欲望に振り回されて破局をむかえて自滅するのか、

 

真実を自覚できた人々が増えて統合型の成熟した社会にジャンプするのか。

 

その鍵は私たち一人一人の覚醒にかかっているといえるでしょう。

 

昔、ケルトは聖なる森を大切にする樹木信仰を持っていてヨーロッパは深い森におおわれていた。

 

キリスト教徒がやって来ると聖なる森は切り倒され、森の女神は魔女に貶められた。森は消えケルトの聖なる地にはキリスト教会が建立された。

 

 

現代の環境危機をもたらした原因の一つに、キリスト教の人間中心の自然観に問題がある事を指摘する人がいる。

 

そこには自然を思うがままに支配して、目的のために自然を利用尽くし、自然の所有者となる人間中心の傲慢なキリスト教の神学解釈があったというのである。

 

聖書で問題になっているのが創世記の「海の魚、空の鳥、地の上を這うものを従わせよ。」の文面である。

環境問題でやり玉にあげられるのが人間中心の根拠となる「従わせよ。」である。

 

この「従わせよ。」原語のsubdueは
1、力によって優位にたつ。
2、脅しや説得などによって屈服させ、支配下に置く。
3、押さえ圧迫する。
であるから「従わせよ」の聖書の言葉はユダヤ教とキリスト教徒に人間中心の自然支配の根深い根拠をもたらすことになったというのである。

 

1972年にローマクラブの「成長の限界」がだされてから、エコロジーの視点から、聖書を読み取ろうとするエコロジー神学が盛んになってきた。

 

創世記の続きでは、人間が傲慢になったので神は洪水で地上のすべてを滅ぼす。生き残ったノアは神と契約を結ぶのだが、その時には「従わせよ。」の言葉はない。

 

そこでエコロジカルな神学解釈をしたドイツのリートケという現代のキリスト者によると、自然を人間が支配するのではなくて、管理者として神に委託されたと解釈できるという。

 

 

アッシジの聖フランチェスコは木をきる時、丸ごと切り落とすのではなくて、木がいきて行けるようにある部分は残すようにしたり、すべての土地を野菜のために耕すのではなく、いくらか野の草花のために残しておくようにさせた。

 

フランチェスコはおおかみ、キジ、野うさぎ、ひばり、タカ、コオロギ、魚、羊からも慕われたという。

 

フランチェスコは昇天の前夜に遺言のごとく次のように話したと伝えられている。

 

「もし、わたしが皇帝にお話できるとしたら、神の愛のために、どんな人もわたしたちの姉妹であるひばりを捕獲したり害をしたりしてはならないという法令を定めてくださるよう懇願します。

 

 

 同じように、市長や町や村の領主たちも毎年のご降誕の祝日には、住民に麦粒か何かを市や町の外の道ばたにまかせ、とくにわたしたちの姉妹であるひばりや他の鳥たちに、何か食べるものを与えてほしいと思います。」

 

1979年アッシジの聖フランチェスコはヨハネパウロ2世によって環境保護の人々の守護者に選ばれた。聖フランチェスコは太陽、月、風、雲の自然現象まで万物すべて神の兄弟として敬った。

 

歴史学者のホワイトは聖フランチェスコを「西洋史上最大の精神的、霊的革命」といい、「エコロジストの本尊」と呼ぶことを提唱した。エコロジーの年表は「兄弟なる太陽、姉妹なる月」と霊的平等を説いた聖フランチェスコから始まっている。

 

 

環境が汚染されることには誰もが反対だ。にも関わらず汚染が進むのは環境の保全よりも優先される物事の方があまりにも多いからだ。

 

私たちの自己感覚とフランチェスコは違うようだ。
個人的な自己の境界を超えて、他の動植物を含むいのちのネットワークまで広がっている。

 

環境問題が地球全体になっている今
持続可能な世界に移行するには
私たちの境界が地球の大きさにまで広がる時期にきている。

 

わたしたちは地球の一部であり
地球はわたしたちの一部である。
すべてのものはひとつの家族をむすぶ
血液のようにむすびついている。
人がいのちの網の目を織ったのではない。
人はその一本の糸にすぎない。
人はその網の目たいしてすることはすべて、
自分自身に対してすることなのである。
  (アメリカ先住民シアトル酋長の言葉)

八戸の是川縄文館に寄ってきました。

 

ここには国宝の合掌土偶が展示されています。戦争がなく平和だった縄文時代後期後半(紀元前1600年)と推定されています。

 

 

夏王朝が滅ぼされ黄河流域に殷王朝が成立、ギリシア本土でミケーネ文明が起きて、旧約聖書でヘブライ人がカナンの地からエジプトに移住した頃です。

 

環状集落内の竪穴住居跡出入口から奥まった壁際の床で横倒しになって出土しました。奥の棚に祭壇があって、そこから落ちたように左脚だけが離れていました。

 

 

天然のアスファルトを接着剤として使い修理されていたので大切に使われたようです。

 

本体の手前には小さな焼け面があったので室内で火を使った祭儀を行っていたようです。

 

赤い顔料が残されていたので全身が真っ赤に塗られていたようです。

 

 

合掌土偶は女性器があるので女性像でした。土偶のほとんどは女性と見られています。

 

縄文は女神の時代でした。

 

地球が誕生したのが46億年前です。生命誕生が40億年前と言われ、化石の生物が5億年前の古生代に見つかり、約700万年前に直立二足歩行をする猿人が現れたと言われています。

 

 

そして約20万年前に人類の共通の元母ミトコンドリア イブが誕生しました。10万年前に人類はアフリカを出て世界中に散らばり4万年前に日本列島に現れたというのがミトコンドリアDNAのシナリオです。

 

日本列島は大陸と陸続きで温暖化により1万4500年前に島となり、氷河が訪れ再び1万2700年前から1200年間再び地続きになって最終的に大陸から離れて島国になったのが1万1500年前でした。

 

縄文時代が始まったのは縄文土器が発見された1万6000年前と見られています。

 

最初に日本に住み着いた古モンドロイドの縄文人は大陸から歩いて日本まで来ることができました。

 

 

その後に温暖化が訪れて東北に縄文文化が花開いたのです。

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これからの予定 
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よみがえる女神の時代

⭐️東京「瀬織津姫とマグダラのマリア」 
〜封印が解かれた女神〜 


トーク:清水友邦 & 武藤悦子 
ダンス・パフォーマンス:アムリッタ朝子 


2019年9月14日(土)東京
https://www.facebook.com/events/2407600376138587/

 

⭐️天皇陛下の即位を披露する記念の10月22日のイベント
古代紀国の女王「名草戸畔(なぐさとべ)伝説
〜知られざるもう一つの日本建国物語〜

 

2019年10月22日火曜日
仙台市戦災復興記念館

 

出演
なかひら・まい(作家・画家・ユング心理学研究会理事)
清水友邦(作家・呼吸道指導者)
虹乃 美稀子(東仙台シュタイナー虹のこども園園長)

 

『名草戸畔(なぐさとべ)古代紀国の女王伝説』を書いた、なかひらまいさんを仙台にお呼びして、「よみがえる女神」の著者である清水友邦さんと「みちのくひかり歴史クラブ」を主宰されている虹乃 美稀子さんとで、天皇陛下の即位を披露する記念の10月22日に古代日本建国の知られざるもうひとつの歴史を解き明かします。

https://www.facebook.com/events/810838182651301/

⭐️清水友邦 ワークショップ

 

ワークショップの目的は
自分自身を知るということです。


身体、感情、思考、時間、空間、あらゆる概念、知識
これらは全て私ではありません。


今まで自分だと思っていた私は私ではないということです。
それにはまず自分のマインド、思考を観照できるようにならなくてはなりません。
苦しみを取り去る方法は思

考と一体化している偽りの自己に気がついて、今ここに在る純粋な意識と繋がることです。


しかし、物心が付いてからずっと思考と一体化しているので思考を見守るのが難しいのです。


それには体の感覚に注意を向け常に変化している呼吸から始めるのがやさしいのです。


そして呼吸は無意識と意識を繋ぐ橋渡しをしています。
変性意識、シャーマン意識状態の中でサトルボディを俯瞰することで
観照が目覚めて自己の全体性を回復させようとするものです。

⭐️清水友邦 大阪2DAYワークショップ関西 

「命の扉を開く」 
〜 身体の気づき サトル・ボディの目覚め〜

https://www.facebook.com/events/465180257620432/

⭐️清水友邦 3DAYワークショップ 岩手県花巻市
「眠りから目を覚ます」 
〜偽りの自分から本当の自分に気づく〜 
2019年 11月2日~11月4日 
https://www.facebook.com/events/430670184451069/

オーストラリアの先住民の言葉にドリームタイム(夢見)という言葉があります。

 

あらゆる植物、動物達、死者や先祖、地上から姿を消したすべての魂は時空を超えたドリームタイムで夢見ています。

 

全ての命はドリームタイムから種子として大地に宿り、そこから地上にすべての命がたち現れて来ます。

 

これから地上に現れて来る魂も地上から姿を消したすべての魂も、時空を超えた夢見とよばれるドリームタイムの中で溶け合って今も生きているのです。

 

夏が終わり植物が枯れて朽ち果てると、死をイメージする冬がやって来ます。そして、春には再び新芽がふき、植物はよみがえります。

古代の人々は、死と再生を繰り返す、大地の女神に畏怖の念を持ち、豊穣の祭儀をおこない、豊かな実りを祈りました。

 

古代の人々はまた、死者はこの世に戻ってくることができ、夢や啓示で生者と語り合うことができると考えていました。

 

祭儀を通して死者にふさわしい敬意を払い、そして、あの世に帰って新しい神となった死者に、今度は生者のほうが導いてもらうというわけです。

縄文時代は先祖の墓を中心に同心円状に集落が形成されていました。神話世界は、生と死が循環していて終わりがありません。

 

縄文は現代の様に生と死を分けてはいなかったのです。縄文と弥生の移行期は集落の境に墓地が作られるようになり、弥生時代は村から離れた山の裾野などに作られました。生者と死者の世界を分けるようになったのです。

 

 

現代社会は時間が過去、現在、未来に流れていく直線的な世界で死は終わりを意味します。

 

縄文土器に蛇のモチーフが現れますが、蛇は脱皮することから死と再生の象徴になっています。

 

また蛇は強い生命力を持つことからエネルギーも表しています。

純粋なエネルギーである蛇が目覚めると自我の牢獄に閉じ込められている意識が解放されドリームタイムへの回帰がはじまります。

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無条件の愛、永遠の至福、無限の光、沈黙、虚空などの言葉は言語で表現できない真実の自己を表しています。
思考は自己イメージを持ちそれが自分だと思い込んでいます。
思考に同一化することをやめてリラックスしたとき
自他を分ける境界が消え観照の意識だけがある微細な領域に気がつきます。
探求者を観照に誘導するワークショップをします。

 

⭐️2019年9月22日(日)23日(月)関西 
◉清水友邦 大阪2DAYワークショップ 
「命の扉を開く」 
〜 身体の気づき サトル・ボディの目覚め〜
https://www.facebook.com/events/465180257620432/

⭐️2019年 11月2日~11月4日 岩手県花巻市 
◉清水友邦 3DAYワークショップ 
「眠りから目を覚ます」 
〜偽りの自分から本当の自分に気づく〜 
https://www.facebook.com/events/430670184451069/

⭐️清水友邦 大阪 個人セッション
◉2019年9月20日(金)午前
大阪 個人セッション詳細は
https://www.facebook.com/events/2287788378141332/

⭐️清水友邦 東京 個人セッション
◉2019年9月15日(日)~17日(火) 東京
東京個人セッション詳細は
https://www.facebook.com/events/626583494519834/

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福岡に午後到着したその日、車を走らせていたところ、 突然目の前に宗像大社が現れました。それも閉門15分前でした。

宗像大社はその日行く予定ではありませんでしたが、すぐに、車から降りて参拝しました。人払されていたかのように、ほとんど参拝客がいませんでした。

イチキシマ姫はイツクシマ(斎く島)の転訛でオキツシマ姫ともされていて最初は沖ノ島に祀られたのが宗像大社の始まりのようです。田島の辺津宮に三女神が合祀されたのは奈良朝末、光仁天皇の時代とされています。

 

イチキシマ姫はアマテラスとスサノオの誓約(ウケイ)の時に生まれたとされる宗像三女神ですが三女の中でも特にイチキシマ姫は出雲族と関係が深く、八重垣神社の板壁にはスサノオとクシイナダ姫アマテラスと一緒に唯一イチキシマ姫だけが描かれています。

 

宗像郡と福岡市にはスサノオゆかりの社が多く、対馬の神社も出雲系の神社が3割を占めています。

 

古事記に「津島(対馬)のまたの名を天狭手依比売という」記述があり、イチキシマ姫は沖ノ島の神であると同時に対馬の女神だったようです。

 

アマテラスの五男三女を祀る神社の中にイチキシマ姫の名がなく代わりに「サヨリ姫(狭依毘売命)」が入っていることもあります。

 

海部氏(あまべうじ)の勘注系図でも、イチキシマ姫(市杵嶋姫)の別名は佐手依姫命とあるので、海部氏、尾張氏の祖神でもあります。

 

イチキシマ姫は水の神さまとしても有名でよくミズハノメ、ヤツハノメと一緒に祀らています。静岡県磐田市の水神社はミズハノメとイチキシマ姫を祭神としています。

和歌山県のかつらぎ町の「丹生都比売神社」では第四殿にイチキシマ姫が祀られています。松尾大社ではオオヤマクイと並んでイチキシマ姫が祀られていました。オオヤマクイの神社にはよくサルタヒコの名が一緒に連ねています。スサノオとニギハヤヒ、オオヤマクイとサルタヒコそしてイチキシマ姫は関係があります。

 

 

全国のイチキシマ姫ゆかりの神社を参拝しているうちに最初はおぼろげだったイチキシマ姫の姿がいつの間にか浮かび上がってきました。

 

宗像大社を参拝した後の7月9日に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」は世界遺産となりました。


その沖ノ島は「一木一草足りとも持ち出してはならぬ」という掟のおかげで古代の祭祀がそのまま保存されています。

その祭祀遺跡は1岩上祭祀(4世紀後半~5世紀)2岩陰祭祀(5世紀後半~7世紀)3半岩陰・半露天祭祀(7世紀後半~8世紀前半) 4露天祭祀(8世紀~. 9世紀末)の四段階に分かれます。

1岩上祭祀は古代に磐座の上で魂振りなどの呪術行為を女性が祭主となって神がかりをしていたことを表しています

2岩陰祭祀の時代になると農具や工具などの実用品や呪術的な玉飾りや銅鏡が少なくなり、馬具やミニチュアの祭器が多くなります。

3半岩陰・半露天祭祀の時代は磐座祭祀から離れて露天祭祀へ以降する中間に当たり祭祀のために作られたミニチュアの祭器や土器が多くをしめるようになります。

4露天祭祀の時代になると平地に方形の祭壇を設けて祭事をしたようです。出土した祭祀品は今までの祭祀品よりも圧倒的に多く、律令制度が整い祭儀は分業化され形式的になり物を主体にした祭事が多数行われ事を物語っています

これは三輪山などの神体山で最初に磐座(いわくら)・磐境(いわさか)を祭場とする信仰の後、山の頂上にあった山宮(やまのみや)の神を、山裾の里宮(さとのいみや)に移して祭儀をおこなうようになった経過と符合します。



縄文はあらゆるものに精霊が宿る自然崇拝の時代でした。村落が形成されると弥生の祖霊信仰に変わり、そして中央集権が進み勢力を拡大した部族の氏神を国家の神として祀る皇祖崇拝へのプロセスでもありました。右脳優位から左脳優位に移り変わっていったのです。

古代の信仰を残していた琉球では、神に仕えるのは女性とされていたので、祭祀をおこなう聖地の御嶽(うたき)への男性の立ち入りは禁止されていました。

例外とされた琉球国王でさえ、聖域内に入る際には女性用の衣装に着替えたと伝えられています。

これと似たような説話が日本書紀の神代記に出てきます。

「お前を斎主として、女性らしく厳姫(いつ姫)と名付けよう」と神武天皇が男性の道臣(大伴氏の先祖)に語る場面があります。


古来から呪術能力があるのは子を宿す女性という信仰が強かったので祭祀を行う男性に女性の名前をつけたのです。

古代では女性が宗教的な権威をもち男性が政治をおこなうかたちをとっていました。

しかし、古墳時代を過ぎて律令制度が確立されると宗教儀式を司る専門職が細分化されて神主、宮司、物忌、女禰宜(めねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)、祝(はふり)、陰陽師、検校(けんぎょう)、権検校と多数の神職が作られ女性の地位は低下しました。

神々の声を託宣する巫女は力を徐々に失い、やがて男性の司祭による組織的な宗教行事が執り行われるようになりました。

定住農耕社会になり政治が統合され王があらわれるとシャーマンは呪術師と呪医、占い師、祭司と分業化されて脱魂型のシャーマンはみられなくなりました。



中央集権国家は勝手に神がかりして秩序を乱す巫女を嫌いました。

 

明治政府の原動力になった長州藩の国学者岡熊臣は神懸かりをする女性の巫(めかんなぎ)男性の覡(おかんなぎ)を嫌悪し、神職と区別して巫覡(ふげき)を処罰の対象としました。

長州藩は国学者の意見に同調して皇祖からはずれた2万の祠や道祖神、石仏が淫祠として撤去されました。

これが明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と小集落ごとにあった7万社の神社が合祀廃社された神社合祀令の前触れとなりました。

明治以降、女性は神職と切り離され補佐役の舞女、巫女として男性の下におかれました。男性原理は分離して女性原理は融合します。

 



男性原理が強くなると、女性は穢れた存在と見なされるようになり、神聖な場所への女性の立ち入りが止されるようになったのです。

沖ノ島や相撲などの女人禁制は男性原理の優位がもたらしたものでした。

広東省の韶関近郊曲江に南華禅寺という古刹がある。日本ではあまり知られてはいないが実は中国国内だけでなく東南アジア一体からも信者が押し掛け大変な賑わいになっている。 

昔の名は、曹渓山宝林寺と言って六祖慧能(638~713)が説法を説いた寺院である。慧能は中国禅仏教の祖師として尊ばれている。

 



慧能の弟子である青原行思の法灯からは曹洞宗の名のもとになった洞山和尚(807~869)と曹山和尚(840~901) が出ている。曹山は六祖慧能を慕って曹渓山から名を取った。 さらに青原行思からは雲門や法眼などが出ている。南嶽懐譲からは馬祖、百丈、 黄檗、臨済と続き、さらに馬祖の弟子からは南泉、趙州と禅の傑物ぞろいである。 日本の禅の系統はすべて、慧能の元から始まっている。 


そして現地で一番驚いたのは南華禅寺に慧能の生きている姿そのままの肉身仏が安置されていた事である。慧能の肉身仏には漆が塗ってあるらしいがミイラと異なり生前の姿を保っている。慧能の肉身仏は中国に現存するミイラとしては最古と言われている。

肉身仏の写真撮影は禁止になっているが、お寺の入り口では様々な仏教グッズが販売されているので写真は購入できる。

 南華禅寺の曹渓門をくぐると放生池があり、放生という名の通り池に亀や魚を放流する参詣者を見かける。南華寺の境内は広い。そこで法要が営まれたり、慧能が杖をついたところから湧き出したと伝えられる湧き水があり、巨木もあり、毎日通ったがあきる事がなかった。中国でも有数の気の場が良いお寺ではないかと思う。中国全土、隅々まで行ったわけではないが、そんな気持ちにさせる場所でもある。慧能だけではなく、きっと数多くの高僧のバイブレーションが、色濃くこの場所にしみ込んでいるのだと思う 

 


また、この近くには温泉が湧いており、すぐ近くには巨大なリゾート温泉ランドも建設されていた。そのうちの何カ所かの温泉に入ったが、客は少なく貸し切り状態だった。そこでは日本とは異なり、男性が付き添い、身体を拭いてパンツまで履かせてくれるので、戸惑いと気恥ずかしさを感じた。 

 

門前には精進料理の店や宿、土産物屋が軒を連ね華やかである。菜食者にとっては居心地が良い。販売しているインスタントラーメンも肉なしである。

 



荒廃していた南華禅寺

 この南華禅寺、今は賑わっているが1930年代、日中戦争の頃までは荒廃していて、無惨な姿をしていた。中国近代仏教中興の祖、虚雲和尚が復興していなければ、今頃どうなっていたかわからない。 中国に大きな傷跡を残した文化大革命は、チベットもそうだったが中国仏教も壊滅的な破壊を被っている。法具や仏像は破壊され、経典は焼かれた。僧侶は強制的に結婚させられ強制労働をさせられた。逆らう僧は拷問され、殺され、寺から追放された。すべての寺院は没収され、工場、軍などの施設にされていた。そのため新しく復興された寺院はコンクリートで味気ない。

 



 慧能の説法を記した「六祖壇経」は、禅語録の大ベストセラーである。「六祖壇経」を説法したのは大梵寺となっているが、この寺は柳田聖山によると資料が全く無いので、仮託の名ではないかと言われていた。

 

ところが現地で韶関市の地図を購入してみる大梵寺は韶関市内中心部近くに記載されていた。訪れて見ると繁華街の裏通りに、ひっそり立っており、慧能が「六祖壇経」を説法したお寺だと言わなければ、気がつかずに通りすぎてしまう、そんなたたずまいだった。

慧能

 六祖慧能の出身地は文化果つる辺境の地といわれた新州(今の広東省新興県)の田舎生まれで、身分が低く薪を売って暮らす、母子家庭の子どもだった。学問がなく、文字も読めなかった。ようするに生まれも育ちも悪い最低の境遇だった。

貧しかった慧能は毎日柴刈りをし、町でそれを売って生計をたてていた。ある日、慧能は町で偶然耳にした金剛経の「まさに住する所無くして、しかも其の心を生ずべし」を聞いてすぐに心が開ける。

 



 そして、湖北省黄梅山の五祖弘忍(601~674)の元へ参じた慧能は、米つき小屋で臼を引いたり、薪を割ったりの雑用生活をしただけで、後継者として認められ、座禅修行に励む先輩エリートを尻目に、達磨以来の大事な衣鉢を受け継いでしまう。

 風采の上がらぬ無学文盲の米つき男が坐禅修行もしないで出世する。まるで劇画に出てくる様な、痛快なサクセス・ストーリーである。この話は「曹渓大師伝」という中国語の映画になっているので庶民にも知られている話だ。

悟境の偈

「六祖壇経」のあまりにも有名なハイライトに後継者を決める悟境を偈に託したライバル対決の場面がある。
 
先輩エリートの代表選手「神秀」は、身の丈八尺、容姿端麗、儒教、老荘、仏教を修めた博学秀才、又、6年間の仏道修行を続け、500人の修行者の首席で皆に尊敬されている。五祖弘忍のおぼえも高く「神秀にわれも及ばぬ」と言わしめた逸材だった。

 かたや慧能は背は低く、顔は不細工、何処の馬の骨ともしらぬ地の果ての田舎者、読み書きができない、無知、無学、坐禅修行もしたことのない下働き8ヶ月の米つき男、これでは圧倒的に慧能は不利で、神秀とは勝負にならない

神秀の偈
「我が身は悟りの樹、心は明鏡の台のようなもの。たえず努力して、鏡を磨いて塵埃を残してはならぬ。」 

これを知った慧能は読み書きが出来ないので誰かに読んでもらって、自分の偈を書いてもらった。 

慧能の偈(敦煌版)
「悟りに樹などはない。明鏡もまた台はない。仏性は常に清らかだ。(敦煌版以外の偈は本来無一物)どこにも塵埃の付きようがない」

鏡の塵を払う神秀の偈は段階的に修行して悟りに入る漸悟(ぜんご)にあたり、もともと払う塵はないとする慧能の立場は段階をふまない悟りの頓悟(とんご)という。払う塵がないのに塵を払おうとすると疲れ果ててしまう。

 



 二人の偈を見た師匠の弘忍は、その夜、慧能を呼び寄せ悟りを認可して達磨から恵可に伝えられたインド・ベナレス伝来の袈裟を慧能に与えた。これが知られると殺されるから、三年間は誰にも頓悟の教えを説いてはならないと言い含め、その日のうちに揚子江を越えて南へ逃がした。五祖弘忍はその3日後には亡くなったと言う。(別な話では1年後、3年後とある) その後、慧能は15年間、世間に知られることなく山の中で猟師と暮らしていた。

悟りには、生まれ、容姿、職業、身分、教養、学問はいらない、文字が読めなくともよい。徳も礼拝も必要ない。修行の年数も関係ない。

自己の本性さえ自覚すれば即座に誰でも仏になれる見本が慧能である。神秀のようなスーパーエリートでなくとも、誰でも悟れるなら庶民には希望の持てる話である。「六祖壇経」はそう言いたいようだ。




しかし、芝居か戯曲のようにドラマチックであまりにも都合のよすぎる話なので、昔からこれは創作ではないかと疑われたようだ。
今世紀初頭に敦煌から多量の文献が発見され、その中に一番古い六祖壇経が見つかった。それにより、この部分は後世の脚色であると研究者はいってる。 

 六祖壇経にでてくる神秀は慧能を引き立てる悪役になっているが、神秀は唐に並ぶ者のない天下の名僧、国師として唐の正史に記録され王室、貴族、庶民にいたるまで厚い帰依を受けている。神秀が洛陽の都に入ると則天武后はじめ王室一門皆足下にひざまずいたという。神秀が百歳を過ぎて没した時には大通禅師という中国で最初の禅師号があたえられている。 神秀の死後、弟子達も同様に王室の帰依を受け大いに繁栄を極めた。 

神秀亡きあとの、唐の玄宗皇帝の時代、慧能の弟子の神会(じんね)が、唐の都に現れる。神会は達磨以来の正当な後継者は神秀ではなく慧能だと宣言をして攻撃を開始した。慧能の伝記や法話が書かれている曹渓大師伝や六祖壇経はこの神会没以降に出てくる。南宗禅の正当性を示す為に書かれたのではないかといわれている。

 



この神会の説法は成功し、後世に伝わる禅は、慧能の系統の南宗禅が残り、神秀の北宗禅はすたれた。慧能はすべての禅宗の祖となった。

 

「恐怖は暗黒の世界への入り口である。恐怖は怒りを生み、怒りは憎しみを生み、憎しみは苦難をもたらす」ジェダイ・マスター・ヨーダ 「スターウォーズ」より
 
「怒りや欲望やその他の激情に支配される者は、あらゆる点から見て奴隷である。自由を獲得するために魂は奴隷状態から解放されなければならない」プラトン

愛を与える両親があなたを深く傷つける。親は子どもの自由なエネルギーをしばしば制限する。怒りは言葉で表現したり、物を殴る蹴る、などで緊張を発散する事が出来る。しかし親が暴力的で自分より強い場合には報復をおそれておとなしく服従する。

子供はあるがままの自分を否定して親に気にいられるような自我を形成する。そうして相手に嫌われないように良い子の仮面をかぶり自分を抑圧してしまう。

子供の体は緊張し愛を感じる通路を封鎖してしまう。現代人は野生である身体の反応を理性で押さえ込む事が多い。感情や痛みを否定したらエネルギーの流れは分断される。

支配的な親に対して、歯向かった為にひどく罰せられ、親から傷つけられた経験を持つと親への愛と同時に怒りと憎しみの感情も混入してしまう。

否定された愛は、分離して怒り、恐怖、悲しみとして記憶される。そして、恋愛に傷つき、愛が冷めて終わりを告げるとき、愛は憎しみ、悲しみ、怒りに変わる。深く傷ついたひとほど本当は愛に飢えている。

現代人は思考に依存している為に身体の反応を理性で押さえ込む事が多い。情動がうまく発散出来ないと、やがて神経系統の中に閉じ込められたエネルギーが噴出する。攻撃性が外に向えば社会的な問題が発生し、内部に向えば免疫などの自己治癒のシステムにダメージを与えてしまう。

私たちは関係性の中で様々な感情に巻き込まれると、怒りという方法で逃げてしまうことがある。しかし、怒りを表現しても「気づき」がない状態で起きている為に感情を爆発させても緊張は解消されない。怒りは抑圧しても短絡的に解放しても、エネルギーの流れをせき止めているブロックが消える事はない。

泣くなという条件づけを受けたために泣く事よりも怒りの方が簡単にでる男性がいる。世界中で暴力の嵐が吹き荒れているが本当は愛を求めて泣いている。怒りの中には愛を受けとれなかった悲しみがある。怒りの奥には悲しみ、無力感がある。恐怖がある。愛が分離され表に出てきた怒りがある。

 



先住民は荒野で一人になり断食と祈りの中で自分の恐怖、不安、悲しみ、怒りと向き合い魂と大地、共同体との繋がりを取り戻す。

アフリカのブッシュマンは煮えたぎるエネルギーをヌンと呼んでいる。部族の全員がダンスを踊るとヌンは体を熱く熱して背骨を上昇して、キアと呼ばれる癒しと変容の状態をもたらす。鉛を金に変える様に微細な身体があらわれる

部族社会では危機に陥ったとき祭りをおこなう。火を焚きそのまわりで歌い踊って、エネルギーを発散させる。祭という儀礼をおこなうことで不安や怒りを解消して、ストレスから身を守り、希望や勇気を回復して、心身の危機を克服する。変容と統合とよばれる機能が、祭りにはそなわっている。

怒りと攻撃性はエネルギーの上昇と爆発であり誤用すれば破壊をもたらすがそれを昇華すれば死と再生をもたらす。

 



あらゆる人々が心の安らぎを求めて努力をしている。本当の安らぎは怒りと悲しみと恐怖、絶望と無力感の只中にある。いまここにある。

怒り、不安、恐怖、心痛、わたしの思考、あらゆる現象には実体がなく、すべては関係性によって起こり、去り、変化してゆくと仏教では説く。

思考が作り上げた虚構を見破ることができた時、過去・現在・未来はなく、そこにはタオという存在の流れだけがある。

怒りの感情とともにそこに付随する様々な感情を純粋意識で自覚した時、否定的に思えたエネルギーは肯定的なエネルギーに変容する。湧き上がる攻撃的なエネルギーを自覚できると情動のエネルギーに巻き込まれなくなりその人は変容する。

人間はまわりにエネルギーの波動の場を作っている。相手が優しいと気分がよく、相手が敵意や怒りを持っていると気分が悪い。相手のエネルギーの場に感情を左右され自己の中心を保てない。人々の心的エネルギーが環境に影響を与えてエネルギーの場を形成している。

怒り、憎しみ、恐怖、悲しみは愛の扉の鍵であり、心を開いて自分の傷つきやすい感情を受け入れると、存在の流れともいうべき本当の自分に出会う機会になる。否定的に思える体験には真実の愛に目覚めるというまったく新しい次元が隠されている。

 

一つだったものに境界線を引くと境界線上で問題が生じる。心の内面である自我の境界線上には恐怖や怒り、無力感、が発生し、国境線上では紛争が絶えない。境界線が消えると外と内の区別も消えて世界全体は一つに戻る。心の中にある境界線に実態はなく気がつけば境界線は一瞬にして消える。

怒りや憎しみを他人に投影して行動せず、攻撃的なエネルギーを生命力に変容出来る人々が増えてきて、それがある臨界値に達したときに社会は根本的に変容するだろう。

成熟した社会への道は個人の意識の成熟と切り離せない。怒りのエネルギーを誤用すれば破壊をもたらすがそれに気づけば世界の再生をもたらす。

 

中世の魔女狩りを始めたキリスト教の聖職者達は強固なペルソナを持ち、

自分に邪悪な面はないと信じていた為シャドーの分裂が深かったといわれている。

その不安定なシャドーの投影先が邪悪な魔女だった。

 

邪悪さは自分の内面にあるので魔女を相手に正義の戦いを始めても内面の衝動はなくならない。

かくして自我の葛藤は解消されず魔女の火あぶりが何百年も続き何百万人もの人々がシャドーの投影の犠牲になってしまった。

 

保守的キリスト教は世界を善と悪というように非常に単純化して見ていた。

世界を二分化して、自分と異なる意見は悪魔の考え方だとして攻撃した。

 

天国で病人は癒され、虐げられている者は解放され。

平和と健康と喜びに満ちあふれるが地獄では苦痛、悪、苦悩、病気、死がまっている。

 

硬直したキリスト教徒は世界を二つにわけ境界線をつくりそこで対立して争って来た。

世界を二つにわけて片方を根絶すれば天国がやって来ると想像した。

 

どの宗教にも許す事、愛する事、心を開く事の教えがあるが

信者のマインドによってその愛は限定されている。

愛しあうのは同じ宗教の信徒同士だけにかぎられ、外側の異教徒は憎み皆殺しにする。

愛に境界線を引いてしまえば分離され恐怖、悲しみ、怒りと憎悪になる。一つの世界に境界線を引くことによって病が生じている。

 

アメリカの有名なキリスト教テレビ伝道師ジミー・スワガートはイスラム教創始者のムハンマドを「性的倒錯者」「変質者」と呼び、イスラム教徒の国外追放を叫んだ。

彼もまた影(シャドー)との分裂が深かった。

ジミー・スワガートは売春婦と車の中でいるところを発見され、

性スキャンダルが明らかになり表舞台から姿を消した。

 

世界を単純な善悪二元論にわけてイスラム教徒を相手に正義の戦いを始めても無意識の葛藤がなくなることはない。

ブッシュ大統領は世界を善と悪の単純な二元論に置き換えて正義の戦いを始めた。

 

片方の極をなくそうと戦いそして努力した結果、

今、手にしているのは暴力と戦争、病と貧困、対立と争いの世界である。

善を追求したはずが、悪が力を増してしまった。

快楽を求めたがますます苦痛が強くなった。

影は抑圧すればするほど力を増すのである。

 

 

老子は語る。 

美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。 
善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。 
だから、有と無はたがいに生まれ、 
難と易はたがいに補いあい、 
長と短はたがいに引き立てる、 
高と低はたがいに相対的であり、 
声と音はたがいに調和しあい、 
前と後はたがいに順序をもつ。 
だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、 
言葉のない教えをする。 

 

内と外、右手と左手、右足と左足、右目と左目、それは別々ではない。

同じものの異なった側面だ。それをわけることはできない。

相互に依存しあっている。

光のない影、

外側のない内側、

負けのない勝ち、

死のない生、

美しさのない醜さ、

昼のない夜、

どちらがなくとも存在出来ない。 

 

 

この世界のすべてのものは相互に依存しあっている。

 

物質も生命も魂も、この宇宙が織りなす網の目の一部であり

一つの生命体のネットワークとして響きあっている。

人生は愛するものを失うことの苦悩と、悲しみの連続に満ちている。

 

この世界を死と生、善と悪、男と女、光と闇に分けて見る限り、

苦しみやつらく悲しいことから避ける事はできない。
タオの世界から見れば苦悩も喜びも等しいことに気がつくまで・・・

「引き寄せの法則」を「思ったことが実現する」「欲しいものが手に入る」と解釈してポジティブなことを考えるとポジティブなことが起こると信じている人がいます。

誰でも人生を思い通りに生きたいと思っています。プラス思考でいけば何事もプラスに働いて、バラ色の明るい未来が実現すると信じたいところです。

 

ところが三次元の世界はいつも二つの極の間を揺れ動いています。失敗した人は成功し、成功した人は失敗します。悲しみは喜びに変わり、喜びは容易に悲しみに変わります。「陽極まれば陰となし陰極まれば陽となす」が自然の法則です。

新しく手に入れたものは再び失います。永遠のものではないからです。永遠のものは最初から持っています。

 

 

現実はいくらプラス思考しても必ず望んではいないマイナスの出来事が起きてきます。マイナスの出来事が起きるのはプラス思考の回数が足りないからだと短絡的に考えてプラス思考をいくら強めても、思った通りの結果を得られないことが起きます。

 

結局、何をやってもだめな自分の考えが浮上して罪悪感が増大してしまいます。プラス思考はマインドで出来た薬なので服用を誤るとマインドが強まりかえって苦しんでしまうのです。

 

嫌悪するような、感情が動かされる出来事、気にさわる他人の行動などは影に追いやった自分の一部です。それに同調するために心が動くのです。外側に感じていた問題は自分の内側にもあります。あいつは気に食わない奴だと他人を自分と切り離してみますが自分の中にも同じ要素を持っているのです。自分の中にはすべてがあります。

「引き寄せの法則」は文字どおり自分にふわしい出来事を引き寄せることですが、自分ではないと分離して影に追いやった苦しみも大切な自分なので引き付けるのです。

自覚できていない意識の領域があるとその領域を自覚するような出来事を宇宙が確認するために引き寄せます。

自我は思考で影を作り否定した自分を切り離して見えないように暗闇にしまいます。宇宙は光に満ちているので闇があれば照らしだします。思考が光を遮って闇を作るので思考で闇を消すことができません。闇は光の不在です。気づきが光です。光がさすと闇は一瞬にして消えます。

 

人生に失望し自分に絶望して、すべてを存在の流れに明け渡した時、覆いが取れて光がさして闇は消えます。光がさすということは思考が本当の自分ではないことに気がつくことです。そのことを光明を得るといいます。

本当の自分を自覚するとあるがままの世界があらわれます。外側の世界と内側の世界、絶望と希望の二つ世界を同時に生きられるようになります。