福岡に午後到着したその日、車を走らせていたところ、 突然目の前に宗像大社が現れました。それも閉門15分前でした。

宗像大社はその日行く予定ではありませんでしたが、すぐに、車から降りて参拝しました。人払されていたかのように、ほとんど参拝客がいませんでした。

イチキシマ姫はイツクシマ(斎く島)の転訛でオキツシマ姫ともされていて最初は沖ノ島に祀られたのが宗像大社の始まりのようです。田島の辺津宮に三女神が合祀されたのは奈良朝末、光仁天皇の時代とされています。

 

イチキシマ姫はアマテラスとスサノオの誓約(ウケイ)の時に生まれたとされる宗像三女神ですが三女の中でも特にイチキシマ姫は出雲族と関係が深く、八重垣神社の板壁にはスサノオとクシイナダ姫アマテラスと一緒に唯一イチキシマ姫だけが描かれています。

 

宗像郡と福岡市にはスサノオゆかりの社が多く、対馬の神社も出雲系の神社が3割を占めています。

 

古事記に「津島(対馬)のまたの名を天狭手依比売という」記述があり、イチキシマ姫は沖ノ島の神であると同時に対馬の女神だったようです。

 

アマテラスの五男三女を祀る神社の中にイチキシマ姫の名がなく代わりに「サヨリ姫(狭依毘売命)」が入っていることもあります。

 

海部氏(あまべうじ)の勘注系図でも、イチキシマ姫(市杵嶋姫)の別名は佐手依姫命とあるので、海部氏、尾張氏の祖神でもあります。

 

イチキシマ姫は水の神さまとしても有名でよくミズハノメ、ヤツハノメと一緒に祀らています。静岡県磐田市の水神社はミズハノメとイチキシマ姫を祭神としています。

和歌山県のかつらぎ町の「丹生都比売神社」では第四殿にイチキシマ姫が祀られています。松尾大社ではオオヤマクイと並んでイチキシマ姫が祀られていました。オオヤマクイの神社にはよくサルタヒコの名が一緒に連ねています。スサノオとニギハヤヒ、オオヤマクイとサルタヒコそしてイチキシマ姫は関係があります。

 

 

全国のイチキシマ姫ゆかりの神社を参拝しているうちに最初はおぼろげだったイチキシマ姫の姿がいつの間にか浮かび上がってきました。

 

宗像大社を参拝した後の7月9日に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」は世界遺産となりました。


その沖ノ島は「一木一草足りとも持ち出してはならぬ」という掟のおかげで古代の祭祀がそのまま保存されています。

その祭祀遺跡は1岩上祭祀(4世紀後半~5世紀)2岩陰祭祀(5世紀後半~7世紀)3半岩陰・半露天祭祀(7世紀後半~8世紀前半) 4露天祭祀(8世紀~. 9世紀末)の四段階に分かれます。

1岩上祭祀は古代に磐座の上で魂振りなどの呪術行為を女性が祭主となって神がかりをしていたことを表しています

2岩陰祭祀の時代になると農具や工具などの実用品や呪術的な玉飾りや銅鏡が少なくなり、馬具やミニチュアの祭器が多くなります。

3半岩陰・半露天祭祀の時代は磐座祭祀から離れて露天祭祀へ以降する中間に当たり祭祀のために作られたミニチュアの祭器や土器が多くをしめるようになります。

4露天祭祀の時代になると平地に方形の祭壇を設けて祭事をしたようです。出土した祭祀品は今までの祭祀品よりも圧倒的に多く、律令制度が整い祭儀は分業化され形式的になり物を主体にした祭事が多数行われ事を物語っています

これは三輪山などの神体山で最初に磐座(いわくら)・磐境(いわさか)を祭場とする信仰の後、山の頂上にあった山宮(やまのみや)の神を、山裾の里宮(さとのいみや)に移して祭儀をおこなうようになった経過と符合します。



縄文はあらゆるものに精霊が宿る自然崇拝の時代でした。村落が形成されると弥生の祖霊信仰に変わり、そして中央集権が進み勢力を拡大した部族の氏神を国家の神として祀る皇祖崇拝へのプロセスでもありました。右脳優位から左脳優位に移り変わっていったのです。

古代の信仰を残していた琉球では、神に仕えるのは女性とされていたので、祭祀をおこなう聖地の御嶽(うたき)への男性の立ち入りは禁止されていました。

例外とされた琉球国王でさえ、聖域内に入る際には女性用の衣装に着替えたと伝えられています。

これと似たような説話が日本書紀の神代記に出てきます。

「お前を斎主として、女性らしく厳姫(いつ姫)と名付けよう」と神武天皇が男性の道臣(大伴氏の先祖)に語る場面があります。


古来から呪術能力があるのは子を宿す女性という信仰が強かったので祭祀を行う男性に女性の名前をつけたのです。

古代では女性が宗教的な権威をもち男性が政治をおこなうかたちをとっていました。

しかし、古墳時代を過ぎて律令制度が確立されると宗教儀式を司る専門職が細分化されて神主、宮司、物忌、女禰宜(めねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)、祝(はふり)、陰陽師、検校(けんぎょう)、権検校と多数の神職が作られ女性の地位は低下しました。

神々の声を託宣する巫女は力を徐々に失い、やがて男性の司祭による組織的な宗教行事が執り行われるようになりました。

定住農耕社会になり政治が統合され王があらわれるとシャーマンは呪術師と呪医、占い師、祭司と分業化されて脱魂型のシャーマンはみられなくなりました。



中央集権国家は勝手に神がかりして秩序を乱す巫女を嫌いました。

 

明治政府の原動力になった長州藩の国学者岡熊臣は神懸かりをする女性の巫(めかんなぎ)男性の覡(おかんなぎ)を嫌悪し、神職と区別して巫覡(ふげき)を処罰の対象としました。

長州藩は国学者の意見に同調して皇祖からはずれた2万の祠や道祖神、石仏が淫祠として撤去されました。

これが明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と小集落ごとにあった7万社の神社が合祀廃社された神社合祀令の前触れとなりました。

明治以降、女性は神職と切り離され補佐役の舞女、巫女として男性の下におかれました。男性原理は分離して女性原理は融合します。

 



男性原理が強くなると、女性は穢れた存在と見なされるようになり、神聖な場所への女性の立ち入りが止されるようになったのです。

沖ノ島や相撲などの女人禁制は男性原理の優位がもたらしたものでした。