広東省の韶関近郊曲江に南華禅寺という古刹がある。日本ではあまり知られてはいないが実は中国国内だけでなく東南アジア一体からも信者が押し掛け大変な賑わいになっている。 

昔の名は、曹渓山宝林寺と言って六祖慧能(638~713)が説法を説いた寺院である。慧能は中国禅仏教の祖師として尊ばれている。

 



慧能の弟子である青原行思の法灯からは曹洞宗の名のもとになった洞山和尚(807~869)と曹山和尚(840~901) が出ている。曹山は六祖慧能を慕って曹渓山から名を取った。 さらに青原行思からは雲門や法眼などが出ている。南嶽懐譲からは馬祖、百丈、 黄檗、臨済と続き、さらに馬祖の弟子からは南泉、趙州と禅の傑物ぞろいである。 日本の禅の系統はすべて、慧能の元から始まっている。 


そして現地で一番驚いたのは南華禅寺に慧能の生きている姿そのままの肉身仏が安置されていた事である。慧能の肉身仏には漆が塗ってあるらしいがミイラと異なり生前の姿を保っている。慧能の肉身仏は中国に現存するミイラとしては最古と言われている。

肉身仏の写真撮影は禁止になっているが、お寺の入り口では様々な仏教グッズが販売されているので写真は購入できる。

 南華禅寺の曹渓門をくぐると放生池があり、放生という名の通り池に亀や魚を放流する参詣者を見かける。南華寺の境内は広い。そこで法要が営まれたり、慧能が杖をついたところから湧き出したと伝えられる湧き水があり、巨木もあり、毎日通ったがあきる事がなかった。中国でも有数の気の場が良いお寺ではないかと思う。中国全土、隅々まで行ったわけではないが、そんな気持ちにさせる場所でもある。慧能だけではなく、きっと数多くの高僧のバイブレーションが、色濃くこの場所にしみ込んでいるのだと思う 

 


また、この近くには温泉が湧いており、すぐ近くには巨大なリゾート温泉ランドも建設されていた。そのうちの何カ所かの温泉に入ったが、客は少なく貸し切り状態だった。そこでは日本とは異なり、男性が付き添い、身体を拭いてパンツまで履かせてくれるので、戸惑いと気恥ずかしさを感じた。 

 

門前には精進料理の店や宿、土産物屋が軒を連ね華やかである。菜食者にとっては居心地が良い。販売しているインスタントラーメンも肉なしである。

 



荒廃していた南華禅寺

 この南華禅寺、今は賑わっているが1930年代、日中戦争の頃までは荒廃していて、無惨な姿をしていた。中国近代仏教中興の祖、虚雲和尚が復興していなければ、今頃どうなっていたかわからない。 中国に大きな傷跡を残した文化大革命は、チベットもそうだったが中国仏教も壊滅的な破壊を被っている。法具や仏像は破壊され、経典は焼かれた。僧侶は強制的に結婚させられ強制労働をさせられた。逆らう僧は拷問され、殺され、寺から追放された。すべての寺院は没収され、工場、軍などの施設にされていた。そのため新しく復興された寺院はコンクリートで味気ない。

 



 慧能の説法を記した「六祖壇経」は、禅語録の大ベストセラーである。「六祖壇経」を説法したのは大梵寺となっているが、この寺は柳田聖山によると資料が全く無いので、仮託の名ではないかと言われていた。

 

ところが現地で韶関市の地図を購入してみる大梵寺は韶関市内中心部近くに記載されていた。訪れて見ると繁華街の裏通りに、ひっそり立っており、慧能が「六祖壇経」を説法したお寺だと言わなければ、気がつかずに通りすぎてしまう、そんなたたずまいだった。

慧能

 六祖慧能の出身地は文化果つる辺境の地といわれた新州(今の広東省新興県)の田舎生まれで、身分が低く薪を売って暮らす、母子家庭の子どもだった。学問がなく、文字も読めなかった。ようするに生まれも育ちも悪い最低の境遇だった。

貧しかった慧能は毎日柴刈りをし、町でそれを売って生計をたてていた。ある日、慧能は町で偶然耳にした金剛経の「まさに住する所無くして、しかも其の心を生ずべし」を聞いてすぐに心が開ける。

 



 そして、湖北省黄梅山の五祖弘忍(601~674)の元へ参じた慧能は、米つき小屋で臼を引いたり、薪を割ったりの雑用生活をしただけで、後継者として認められ、座禅修行に励む先輩エリートを尻目に、達磨以来の大事な衣鉢を受け継いでしまう。

 風采の上がらぬ無学文盲の米つき男が坐禅修行もしないで出世する。まるで劇画に出てくる様な、痛快なサクセス・ストーリーである。この話は「曹渓大師伝」という中国語の映画になっているので庶民にも知られている話だ。

悟境の偈

「六祖壇経」のあまりにも有名なハイライトに後継者を決める悟境を偈に託したライバル対決の場面がある。
 
先輩エリートの代表選手「神秀」は、身の丈八尺、容姿端麗、儒教、老荘、仏教を修めた博学秀才、又、6年間の仏道修行を続け、500人の修行者の首席で皆に尊敬されている。五祖弘忍のおぼえも高く「神秀にわれも及ばぬ」と言わしめた逸材だった。

 かたや慧能は背は低く、顔は不細工、何処の馬の骨ともしらぬ地の果ての田舎者、読み書きができない、無知、無学、坐禅修行もしたことのない下働き8ヶ月の米つき男、これでは圧倒的に慧能は不利で、神秀とは勝負にならない

神秀の偈
「我が身は悟りの樹、心は明鏡の台のようなもの。たえず努力して、鏡を磨いて塵埃を残してはならぬ。」 

これを知った慧能は読み書きが出来ないので誰かに読んでもらって、自分の偈を書いてもらった。 

慧能の偈(敦煌版)
「悟りに樹などはない。明鏡もまた台はない。仏性は常に清らかだ。(敦煌版以外の偈は本来無一物)どこにも塵埃の付きようがない」

鏡の塵を払う神秀の偈は段階的に修行して悟りに入る漸悟(ぜんご)にあたり、もともと払う塵はないとする慧能の立場は段階をふまない悟りの頓悟(とんご)という。払う塵がないのに塵を払おうとすると疲れ果ててしまう。

 



 二人の偈を見た師匠の弘忍は、その夜、慧能を呼び寄せ悟りを認可して達磨から恵可に伝えられたインド・ベナレス伝来の袈裟を慧能に与えた。これが知られると殺されるから、三年間は誰にも頓悟の教えを説いてはならないと言い含め、その日のうちに揚子江を越えて南へ逃がした。五祖弘忍はその3日後には亡くなったと言う。(別な話では1年後、3年後とある) その後、慧能は15年間、世間に知られることなく山の中で猟師と暮らしていた。

悟りには、生まれ、容姿、職業、身分、教養、学問はいらない、文字が読めなくともよい。徳も礼拝も必要ない。修行の年数も関係ない。

自己の本性さえ自覚すれば即座に誰でも仏になれる見本が慧能である。神秀のようなスーパーエリートでなくとも、誰でも悟れるなら庶民には希望の持てる話である。「六祖壇経」はそう言いたいようだ。




しかし、芝居か戯曲のようにドラマチックであまりにも都合のよすぎる話なので、昔からこれは創作ではないかと疑われたようだ。
今世紀初頭に敦煌から多量の文献が発見され、その中に一番古い六祖壇経が見つかった。それにより、この部分は後世の脚色であると研究者はいってる。 

 六祖壇経にでてくる神秀は慧能を引き立てる悪役になっているが、神秀は唐に並ぶ者のない天下の名僧、国師として唐の正史に記録され王室、貴族、庶民にいたるまで厚い帰依を受けている。神秀が洛陽の都に入ると則天武后はじめ王室一門皆足下にひざまずいたという。神秀が百歳を過ぎて没した時には大通禅師という中国で最初の禅師号があたえられている。 神秀の死後、弟子達も同様に王室の帰依を受け大いに繁栄を極めた。 

神秀亡きあとの、唐の玄宗皇帝の時代、慧能の弟子の神会(じんね)が、唐の都に現れる。神会は達磨以来の正当な後継者は神秀ではなく慧能だと宣言をして攻撃を開始した。慧能の伝記や法話が書かれている曹渓大師伝や六祖壇経はこの神会没以降に出てくる。南宗禅の正当性を示す為に書かれたのではないかといわれている。

 



この神会の説法は成功し、後世に伝わる禅は、慧能の系統の南宗禅が残り、神秀の北宗禅はすたれた。慧能はすべての禅宗の祖となった。