昔、ケルトは聖なる森を大切にする樹木信仰を持っていてヨーロッパは深い森におおわれていた。

 

キリスト教徒がやって来ると聖なる森は切り倒され、森の女神は魔女に貶められた。森は消えケルトの聖なる地にはキリスト教会が建立された。

 

 

現代の環境危機をもたらした原因の一つに、キリスト教の人間中心の自然観に問題がある事を指摘する人がいる。

 

そこには自然を思うがままに支配して、目的のために自然を利用尽くし、自然の所有者となる人間中心の傲慢なキリスト教の神学解釈があったというのである。

 

聖書で問題になっているのが創世記の「海の魚、空の鳥、地の上を這うものを従わせよ。」の文面である。

環境問題でやり玉にあげられるのが人間中心の根拠となる「従わせよ。」である。

 

この「従わせよ。」原語のsubdueは
1、力によって優位にたつ。
2、脅しや説得などによって屈服させ、支配下に置く。
3、押さえ圧迫する。
であるから「従わせよ」の聖書の言葉はユダヤ教とキリスト教徒に人間中心の自然支配の根深い根拠をもたらすことになったというのである。

 

1972年にローマクラブの「成長の限界」がだされてから、エコロジーの視点から、聖書を読み取ろうとするエコロジー神学が盛んになってきた。

 

創世記の続きでは、人間が傲慢になったので神は洪水で地上のすべてを滅ぼす。生き残ったノアは神と契約を結ぶのだが、その時には「従わせよ。」の言葉はない。

 

そこでエコロジカルな神学解釈をしたドイツのリートケという現代のキリスト者によると、自然を人間が支配するのではなくて、管理者として神に委託されたと解釈できるという。

 

 

アッシジの聖フランチェスコは木をきる時、丸ごと切り落とすのではなくて、木がいきて行けるようにある部分は残すようにしたり、すべての土地を野菜のために耕すのではなく、いくらか野の草花のために残しておくようにさせた。

 

フランチェスコはおおかみ、キジ、野うさぎ、ひばり、タカ、コオロギ、魚、羊からも慕われたという。

 

フランチェスコは昇天の前夜に遺言のごとく次のように話したと伝えられている。

 

「もし、わたしが皇帝にお話できるとしたら、神の愛のために、どんな人もわたしたちの姉妹であるひばりを捕獲したり害をしたりしてはならないという法令を定めてくださるよう懇願します。

 

 

 同じように、市長や町や村の領主たちも毎年のご降誕の祝日には、住民に麦粒か何かを市や町の外の道ばたにまかせ、とくにわたしたちの姉妹であるひばりや他の鳥たちに、何か食べるものを与えてほしいと思います。」

 

1979年アッシジの聖フランチェスコはヨハネパウロ2世によって環境保護の人々の守護者に選ばれた。聖フランチェスコは太陽、月、風、雲の自然現象まで万物すべて神の兄弟として敬った。

 

歴史学者のホワイトは聖フランチェスコを「西洋史上最大の精神的、霊的革命」といい、「エコロジストの本尊」と呼ぶことを提唱した。エコロジーの年表は「兄弟なる太陽、姉妹なる月」と霊的平等を説いた聖フランチェスコから始まっている。

 

 

環境が汚染されることには誰もが反対だ。にも関わらず汚染が進むのは環境の保全よりも優先される物事の方があまりにも多いからだ。

 

私たちの自己感覚とフランチェスコは違うようだ。
個人的な自己の境界を超えて、他の動植物を含むいのちのネットワークまで広がっている。

 

環境問題が地球全体になっている今
持続可能な世界に移行するには
私たちの境界が地球の大きさにまで広がる時期にきている。

 

わたしたちは地球の一部であり
地球はわたしたちの一部である。
すべてのものはひとつの家族をむすぶ
血液のようにむすびついている。
人がいのちの網の目を織ったのではない。
人はその一本の糸にすぎない。
人はその網の目たいしてすることはすべて、
自分自身に対してすることなのである。
  (アメリカ先住民シアトル酋長の言葉)