非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」 -24ページ目

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。


昨日は、ドイツから来日されたマルクス・ガブリエル教授の講演「超越論的存在論と統覚的観念論」とシンポジウムに参加してきた。

ガブリエル教授は、「ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こる」という複雑系のバタフライ効果のあり得なさをあっさり笑い飛ばしてしまうユーモアセンスに溢れた哲学者だ。

哲学者というと、眉間にシワを寄せて、カンタンそうなことを難しそうに語る人というイメージがあるかも知れないが、ガブリエル教授にはそのような重苦しさはない。

一応、ガブリエル教授は哲学者ということになっているけれど、私から見ると覚者にしか見えず、これまでの哲学に当てはめて、教授の多元論を理解しようとしても無理なような気がしている。

実際、講演後の質問タイムでも、質問ではなく長々と持論を述べ、自分の考えとガブリエル教授の考えとの接点を見出そうとする人が出てきたのだが、最後まで話が噛み合うことはなかった。

年齢を重ねるほど持論にとらわれるようになり、持論が破壊されることを恐れて、自分の都合のいいように新しい理論を解釈しようとしてしまう。

しかし、これでは、いつまで経っても、持論が強化されていくだけで、持論の外側にある真実にに気づけなくなる。

この点は、現在の非二元(ノンデュアリティ)を取り巻く状況と、かなり近いものがあるなと感じた。

お知らせ
非二元性を、思考実験を行うように体験的に理解してみたい方は、非二元のプライベートセッションをお受けください。
趣味を仕事にしてしまうと、純粋に楽しめていたものが楽しめなくなる。

一般的にはそう思われている。

でも、私は、趣味の「読書」を仕事にしてしまった。

読書が趣味だった頃と今とで、一番変わったのは、本の選び方と読み方が格段に上手くなったことだ。

本の選び方が上手くなったことで、読む価値のない本にお金を使う無駄遣いがなくなった。
これにより、1ヶ月あたり1〜2万円程度の無駄使いをなくせるようになった。

また、本の読み方が上手くなったことで、本から得た情報を仕事に活かせるようになり、投資した書籍代を大きく上回るリターン(収入)を得られるようになった。

無駄遣いが減り、投資の利回りが上がったのだから、経済的な余裕ができ、私はますます趣味の読書に没頭できるようになった。

だから、「趣味を仕事にすると、趣味を楽しめなくなる」という考えは、必ずしも全ての人に当てはまるものではないと思っている。

これは、野球が大好きな野球小僧が、プロ野球選手になって、好きなことを仕事にしてしまうと、野球が面白くなくなるかというと、そうではなく、ますます野球にのめり込み、野球を極めたくなる心境と同じような気がしている。

野球の場合は、どんなに野球が好きでも、野球を仕事にできる人は、極々限られてしまうけれど、「こんな趣味が仕事になるのか?」と思えるようなことを仕事にして成功している人を私はたくさん目撃してきた。

例えば、私の父は、小さい頃から大好きだった趣味の釣りを仕事にして、40年以上、安定した収入を得ているし、私の大好きなバーの店主は、趣味のレコード鑑賞を仕事に活かして大繁盛している。

一見、お金にならないような「釣り」や「レコード鑑賞」「読書」でさえ、少し捉え方を変えてみると、大きなリターンを得られる仕事になりえる。

では、趣味をどのように捉え直すと、仕事になり得るのか?

私の今の関心は、そこにある。

なぜなら、趣味を仕事にしてしまった人の店に行くと、想像を超えるほどの楽しさがあって、これこそ本物の仕事だと思えることが多いからだ。

お知らせ
将来、自分の好きなことを活かして仕事をしてみたいと思っている方は、7月末開催のお金の流れが変わる波動の法則にお越しください。
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自己投資のリターン率が上がる本の読み方を学びたい方は、読みっぱなしで終わらない読書術にお越しください。
昨日、広島から飛行機に乗ってアクティブ・ブレイン読書法に参加してくださった山下さんと飲みに行った。

そして、今日、山下さんからこの写真が届いた。
恐ろしいことに、私にはこのような写真を撮られた記憶がない。
なのにカメラに向かってちゃんとポーズをとっている。

何がおかしくて二人でこんなに大笑いしてるのか、まったく思い出せないのだが、ただただ楽しかったことだけは、よく覚えている。

お知らせ
「アクティブ・ブレイン読書法」は、アクティブ・ブレインのベーシックコース(記憶術)に参加された方しか受講いただけませんが、来月から記憶術を学んでいなくても参加いただける認知科学をベースにした新しい読書術の講座を始めます。
昨日は、名古屋の女性と電話で非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやった。

特定の人物の振る舞いや一言に反応して湧き上がってくる怒りの感情に振り回されないようになりたいというのが、彼女の望みだった。

私自身も、40代の頃まで、浮き沈みする「感情の動き」と「自分」とを同一化してしまっていて、怒りを抑え込もうとするものの、抑え込まれていた怒りが、ある日、大爆発してして、余計に騒ぎが大きくなることを何度も経験してきたので、彼女の気持ちはよくわかった。

そこで、感情の変化が、常にひとりでに起こり続けている事実と、その動きをコントロールできる誰かが本当に存在しているなら、とっくの昔に怒りが出てこないようにできていたハズだという当たり前の事実を確認しながら、感情を動かしているのは自分ではないことを明らかにしていった。

セッションが終わる頃には、怒りの感情と戦おうとしていた自分など存在していなかったことが明らかになり、本当の自分が、どのような感情の変化をも拒否せず、あらゆる感情を起こるがままに許容してきたキャパシティそのものであることが明らかになり、彼女の怒りとの格闘劇は終わった。

お知らせ
怒りをコントロールしようとすれば、怒りとの戦いはいつまでも続きます。
怒りをコントロールしようとしているその心(マインド)の動きこそが、イラつきを増長させる働きそのものだからです。
怒りを感じることには何の問題もありません。
問題があるとするなら、怒りの感情が現れた後に連続的に出てくる怒りに関する連続的な思考であり、その物語に巻き込まれると、一瞬で収まる怒りもなかなか治らなくなります。
マインド(考える心)は複雑さを好む。

シンプルなものに出会うと、マインドはやることがなくなるので、シンプルさをスルーし続ける。

考えることがなくなると、マインドは出番を失う。
それゆえ、マインドは考える必要のある何かを探し続け、生き延びようとする。

例えば、誰だって英語を話せるようになる脳機能を持っているのに、マインドは容易く話せるようになることを嫌う。

努力なく話せるようになると、「なぜ、いつまで経っても私は英語を話せるようにならないんだろう?」と悩めなくなってしまう。

それゆえ、マインドは、どれだけ勉強しても、英語を話せるようにならない、面倒で複雑な努力をしたがる。

例えば、外国人と挨拶程度しか交わせない発話力しかないのに、「英単語をたくさん覚えて、頭の中で文法通りに言葉を組み立てれば、英語を話せるようになる」と複雑なことを考え、会話の中で一生自分の口から発しそうもない難しい英単語を頭に詰め込もうとしたりする。

わざわざ複雑なことをしているのだがら、当然、時間がかかるし、教材のお金もかかってしまう。

そして、時間とお金をかけたにもかかわらず、英語を話せるようにはならず、どれだけ無益な努力をしているかにも、なかなか気づけない。

アメリカに生まれた子供が、英語を話せるようになるために、お金をかけて勉強しているだろうか?

日本に生まれた私たちが、特別な教育を受けなくても、2歳か3歳になれば、誰でもひとりでに日本語を話せるようになるように、脳には言語を話し出すプログラムが組み込まれている。

日本に生まれれば、日本語を話せるようになるし、アメリカに生まれれば、英語を話せるようになる。

そして、言葉を使って人と会話ができるようになる脳の仕組みは複雑なものではない。

複雑なものではないからこそ、マインドは、そのような仕組みを嫌う。

簡単すぎるもの、誰でもできるようなものに、マインドは興味を持てない。

それゆえ、マインドは、外国語の習得さえ、複雑なものにしたがる。

シンプルなものをわさわさ複雑にして、あーでもない、こーでもないと思い悩み、右往左往しながら、やっとの思いで手に入れたものにしか喜びを見出せないマインドは、複雑さだけを好み、その複雑さを手放すことができない。

このマインドに支配されているなら、人生は複雑で、問題だらけのようにしか見えない。

しかし、意識が目覚めたなら、考える心がひとりでに脱落し、機能する心が、考える心に妨害されることなく、きれいに機能し始める。

それゆえ、人生は、この上なくシンプルになる。

お知らせ
上記の文章を読んで、「考える心(マインド)に巻き込まれないようにするには、どうすればいいんだろう?」と考えたなら、それこそ複雑さを好むマインドの動きです。
こうして、マインドは、ある思考に、次の思考を繋げて思考を絶やさないように動き続けています。
このマインドの動きから解放されて、シンプルに生きたい方は、非二元のプライベートセッションをご予約ください。

私は、セミナーをやっている日曜以外は、ほぼ毎日、近所の図書館で本を読んで過ごしている。

1日2〜4時間は図書館で本を読み、モスバーガーでも家でも本を読んでいるので、1日平均1〜2冊のペースで本を読み続けている。

私の読書中毒がはじまったのは、高校時代で、親には学校に行くフリをして図書館に行き本を読んでいた。

学校の先生の授業を受けるより、図書館に行って本を読んでいる方が断然面白かったので、私は高校の単位が取れなくなり、高2が終わる春に高校を中退し、そして家からも追い出されてしまった。

私には2人の息子がいるが、もし、自分の息子が自分のような行動をとるバカ息子だったら、親として本当にたまったもんじゃないなと我ながら思う。

そういう意味で、両親には本当に面倒をかけたなと思っている。

そして、私は今、55歳になったけど、相変わらず図書館に通い続けている。

高校時代と違うのは、親に後ろめたさを感じることなく、毎日、堂々と図書館に通い、「意識」に関する研究を、人工知能、認知科学、インド哲学などの学術書を通して自由に行えるようになったことだ。

私が子供の頃に「空手バカ一代」という漫画が流行ったのだが、これになぞらえるなら、私の人生は間違いなく「読書バカ一代」だ。

そして、この変質ぶりは「私」の意志で決めたことではなく、遺伝子レベルで決まっていたことなので、誰にも止められず、逆らいようがない。

お知らせ
学習動画サイトSchooの生授業で好評となった「読みっぱなして終わらない読書術」の実践編
「読書の投資効果を上げる技術」では、お金と時間をかけてでも読む価値のある本をどう選び、どう読めば、自己投資のリターンを最大化できるかをお伝えします。
昨日は、渋谷で、ノンデュアリティ(非二元)・コロキアムを開催しました。

冒頭、「他人は変えられないけど、自分は変えられる」というストーリーを信じて、自分を変えようとしている人は多いけど、自分を変える以前に、「変えようとしている自分とは、そもそも何なのか?」を問う人は皆無に近いことをお伝えしました。

自分とは何かがわかれば、変わるような存在でないことが明らかになるし、自分が不変の存在なら、変えようとする努力そのものがいかに的外れであるかも明確になるので、このような問いかけから始めました。

その後、どんな話になったかは、ホームページに書きましたので、こちらのページよりお読みください。

次回のノンデュアリティ・コロキアムは、8月5日(日)に開催します。
昨日は、大学で経営学を教えている女性とカフェオレを飲みながら、非二元(ノンデュアリティ)のセッションをやった。

「ノンデュアリティのことを知ってから、自分が大学で教えていることに疑問を持ち始めた」ということで、冒頭、こんな話をした。

非二元性を体験したなら、「自分が今やっていることが正しいのか?間違っているのか?」「これから自分が何をすべきなのか?」「自分の使命は何なのか?」といった思考(シンキング・マインド)に巻き込まれなくなり、機能的な思考(ワーキング・マインド)だけが働くようになります。
ですから、今の仕事をどうするべきかと考える必要はありません。
その思考こそが、シンキング・マインドですから。
そう告げてからセッションを始めた。

彼女は、ノンデュアリティの中でも、「ネオ・アドヴァイタ」と呼ばれる人たちの本をいろいろ読んでいて、「私がいない」という言葉の意味に引っかかりを感じていた。

そこで、「私がいない」というのは、非二元性を体験したものが語った言葉であり、その言葉を聞いてその意味をわかろうとするのは、カフェオレを一度も飲んだことのない人が、カフェオレを飲んだことのある人の感想を聞いて、自分も飲んだつもりになるほ愚かなことだと伝えた。

カフェオレの味を知りたければ、カフェオレを飲んだことのある人の感想を聞くよりも、自分で一度カフェオレを飲んでみればいい。
それと同じで、非二元性の味を知りたければ、自分でそれを味わってみるまでは、非二元の味などわかるはずがない。

もし、わかったとしても、それは概念的に解釈された知的理解であって、体験的理解ではない。

だから、今日は、非二元性を自分で直接体験してくださいと声をかけ、約1時間かけて、探してもけっして見つからないものだけれど、確かに存在しているものがあることを明らかにしていった。

そして、最後に、大学で授業を教えている先生も、その授業に出席している生徒も、別々に存在していないことを確認してセッションを終えた。

カフェを出てから、目の前の光景を見て、「今までと見え方がぜんぜん違う。広がりを感じる」と語った彼女の言葉が、今も強く印象に残っている。

お知らせ
今週末の日曜は、渋谷でノンデュアリティ・コロキアムをやります。
鎌倉の禅師から教わった、見える世界と見えない世界がどのように関係しあっているのかを表した分数についても、少し語ってみようと思っています。
今日は、覚醒前と覚醒後では、何が変わるかについて書いてみます。

覚醒とは、二元性の夢(幻想)からの目覚めですから、自他の二元対立の思考が消え(現れてもとらわれなくなり)、真実(非二元性、ワンネス)がありのままに見えるようになります。

朝、目が覚めると、それまで見ていた夢が消えてなくなりますが、私たちは、夢を見ている間は、それが夢だとは気づけません。
私たちが夢が夢だったと気づけるのは、眠りから目が覚めて、夢が消えてなくなってはじめて、直前まで見ていたものが現実ではなく、夢だったと気づけるわけです。

これと同じで、私たちは二元性の夢から目覚めるまでは、二元性の夢を現実だと思い込み、夢だとは気づけません。

しかし、二元性の夢から目覚めたなら、二元性の世界は夢(幻想)であり、真実(非二元性)が見えるようになります。

ただし、これまで見ていた3次元の世界が夢のように消えて、見えなくなるわけではありません。

見える世界はそのまま残りますが、目覚めた後は、真実(非二元性)に気づけているので、真実に反する行為が自然に消えていきます。

行為は、見える3次元の世界に現れるものなので、その行為には当然、結果が伴います。

真実(非二元性)から現れ出た行為や仕事は、真実に沿ったものですから、覚醒前に比べて、より大きな結果となって現れます。

これは、飛行機と気流の関係にたとえるとわかりやすいかもしれません。
飛行機は気流(真実)の流れに沿って飛べば、それほど燃料を費やすことなく、スムーズに目的地にたどり着けます。

しかし、もし、気流に逆らって飛んだなら、到着するのに余計な時間がかかるだけでなく、燃料も余計に費やしてしまいます。

これと同じで、夢から目覚めて真実が見えたなら、どのような行為や仕事が真実に沿っていて、どのような行為が反しているかがわかるようになります。
そして、その行為の結果は、真実に沿ったものも反したものも、よりわかりやすく結果となって現れます。

さらに厳密にいえば、行為が起きている時点で、それが真実に沿っているなら至福を感じられ、反しているなら苦痛を感じるので、自然に真実に沿った行為が成されるようになります。

しかし、目覚める前は、自他が二元対立している夢の中にいるわけですから、真実が見えません。
(これを「無知」「無明」といいます)

夢の中にいるなら、自分の行いが真実に沿ったものか反したものかがわかりませんから、二元対立(分離)の思い込みから生じる思考や感情、行為が繰り返されてしまいます。

そして、行為には必ず結果が伴いますから、その行為は結果的に苦痛となって現れます。

さらに、覚醒後には、より確かに真実が見え出しますから、真実に反する行為の苦痛はより確かなものになり、自然に真実に反する動きは消え、真実に沿った動きだけが生じるようになります。

この軌道修正こそが「恩寵」であり、この恩寵(宇宙の法則)から逸脱できるものなど、どこにも存在していません。

お知らせ
二元性の幻想から目覚めたい方は、ノンデュアリティのプライベートセッションをお受けください。
先日、非二元(ノンデュアリティ)のセッションを終えてから、「矢沢さんはどのようにして非二元に出会ったのですか?」と質問されたので、コーヒーを飲みながら、こんな話をして過ごした。

40代の頃に、どこからともなく漠然とした不安が込みあげてきて、その不安の原因が何かも分からず、私(自我)はその答えを求めて、方々をさまよい歩くようになった。

この人の元に行けば、落ち着かない衝動が消えて、のびのびと自由に生きられるようになるのではないかと思えた人を見つけては、その師のもとに私は飛んで行った。

多くのお金と時間を費やしたものの、師を探し求める私の活動は約10年、止まることはなかった。

何かが間違っている。
それはわかっていたのだが、何が間違っているのかが分からず、私はその答えを求め続けていた。

しかし、ある日、インドのジニャーニ(賢者)の本を読み、そこに自分のことが書かれていたので、私は驚いた。

そこには、こんなことが書いてあった。

自分を体だとみなしているなら、師は体となって自分の外側に現れ続ける。
しかし、真我に出会ったなら、真我以外に何もないことがわかり、「内側、外側」の二元性は消え、身体的なグルは消える。
真我とグル(師)は同義語で、それは常に自分の内側に座している。
内在するそのグルを見つけなさい。

つまり、「自分とは何か?」の認識に従って、師が肉体となって外側に現れたり、内側に常にあるもの(正確にいうと、この段階では内側も外側もなくなっているのだが)であるかが決まると記されていたのだ。

これを読んでから、師を方々に探し歩く、私(自我)の活動は自然に止んでいった。

自我は、不完全さを何かで埋めようと、外側にその何かを探し求めて動き回るけれど、真我は既に完全であり、不動であることがわかれば、自我の動きは、真我の中に消えていく。

真我しか存在しておらず、真我と分離して存在しているものなど、何もないことがはっきりわかるようになる。

だから、内なる真我(グル)とともにいてください。

セッションが終わってから、こんな話をして過ごしたのだが、もうそこには、話をする人も、話を聞いている人もおらず、一なる真我だけがあった。

追伸
私はセッション中は、真我という言葉はほとんど使わず、「気づき」「意識」「私」という言葉で、それを指し示しています。
その方が、それに気づきやすいからです。
でも、その存在に気づいたなら、真我と言おうが、グルと言おうが、気づきと言おうが、言葉にこだわる必要はなくなります。
存在は、言葉ではなく、あるものだからです。
見えないけれど、確かあるもの。
永遠なるもの。不滅なるもの。
その無限さを知ったなら、宇宙はその理解に従い、姿を変えます。