40代の頃に、どこからともなく漠然とした不安が込みあげてきて、その不安の原因が何かも分からず、私(自我)はその答えを求めて、方々をさまよい歩くようになった。
この人の元に行けば、落ち着かない衝動が消えて、のびのびと自由に生きられるようになるのではないかと思えた人を見つけては、その師のもとに私は飛んで行った。
多くのお金と時間を費やしたものの、師を探し求める私の活動は約10年、止まることはなかった。
何かが間違っている。
それはわかっていたのだが、何が間違っているのかが分からず、私はその答えを求め続けていた。
しかし、ある日、インドのジニャーニ(賢者)の本を読み、そこに自分のことが書かれていたので、私は驚いた。
そこには、こんなことが書いてあった。
自分を体だとみなしているなら、師は体となって自分の外側に現れ続ける。
しかし、真我に出会ったなら、真我以外に何もないことがわかり、「内側、外側」の二元性は消え、身体的なグルは消える。
真我とグル(師)は同義語で、それは常に自分の内側に座している。
内在するそのグルを見つけなさい。
つまり、「自分とは何か?」の認識に従って、師が肉体となって外側に現れたり、内側に常にあるもの(正確にいうと、この段階では内側も外側もなくなっているのだが)であるかが決まると記されていたのだ。
これを読んでから、師を方々に探し歩く、私(自我)の活動は自然に止んでいった。
自我は、不完全さを何かで埋めようと、外側にその何かを探し求めて動き回るけれど、真我は既に完全であり、不動であることがわかれば、自我の動きは、真我の中に消えていく。
真我しか存在しておらず、真我と分離して存在しているものなど、何もないことがはっきりわかるようになる。
だから、内なる真我(グル)とともにいてください。
セッションが終わってから、こんな話をして過ごしたのだが、もうそこには、話をする人も、話を聞いている人もおらず、一なる真我だけがあった。
追伸
私はセッション中は、真我という言葉はほとんど使わず、「気づき」「意識」「私」という言葉で、それを指し示しています。
その方が、それに気づきやすいからです。
でも、その存在に気づいたなら、真我と言おうが、グルと言おうが、気づきと言おうが、言葉にこだわる必要はなくなります。
存在は、言葉ではなく、あるものだからです。
見えないけれど、確かあるもの。
永遠なるもの。不滅なるもの。
その無限さを知ったなら、宇宙はその理解に従い、姿を変えます。
