非二元|目覚めを生きる

非二元|目覚めを生きる

宇宙的自己に目覚める記事を配信。
「迷悟」「苦楽」「生死」の相対を超えた「身体・宇宙」一如の絶対的あり様とは?
迷い、悩み、苦しみのない、日々、生き活きとした生活の実践。

梅雨に入ってからも、雨が降らない時間帯があれば、私は自転車を走らせ、御所近くのバールにアイスコーヒーを飲みに行く。


この店の常連客である30代後半のAさんは、イタリアンのシェフで、いつもランチタイムとディナータイムの合間の休憩時間にここにやってくる。

Aさんは、エスプレッソに砂糖をたっぷり注ぎ入れ、3、4口で一気に飲み干すと、3分を経たないうちに自らの職場に戻っていく。

そのAさんの様子を眺めていると、往復のタイムを競う水泳選手が壁タッチして素早くターンし、元の場所(Aさんの職場)に戻っていくように、見えてくる。

さらに先日、Aさんは
「今日はこれから全力で寝ます!」
と告げ、仮眠を取るために、職場に戻っていった。


この発言を聞いて、私はこんなことを思った。


なぜ、Aさんは、これからやろうとしていることについて、わざわざ言葉にして表明しているのだろう?


おそらく、その理由は、やろうと思ったけれど、実際にはやらずじまいで終ったことがあり、その意志と行為とのギャップをどうにかなくそうと思い、まずは、自分の意志を固めるために、このように宣言するようになったのではなかろうか。


そこで、今日は、意志と行為の関係について、二元論と非二元の違いを述べてみたいと思う。


Aさんの場合、「意志」と「行為」の関係が、行為に先立って、まず意志が起こり(一)、その意思にうながされて行為が起こる(二)、という二段構になっている。


心的な「意志」と身体的な「行為」は別物。


このように考える二元論では、両者の間に時間差が生じ、そのため二段構えとなる。


これに対して、非二元では、行為から独立した「意志」などなく、意志と行為が一体となった「行為」がただあるだけ、の一段構えになる。


私の一日を振り返ってみると、コーヒーを飲んだり、本を読んだり、会話したり、音楽を聞いたり、食事をしたり、自転車に乗ったり、散歩したり、洗濯したり、風呂に入ったり、歯を磨いたり…と様々な行為が起きている。


このどの行為においても、その直前に「これから〇〇をしよう」と身体に向かって命じるような司令官的な存在はどこにも見当たらない。


行為があるなら、その行為には意志が含まれいる。


意志と行為は、分離不可能。


意志的である行為のみが、その都度、自由に立ち現れてくる。


ところが、二段構えの二元論に陥ると、行為から独立してある「意志」、意志から独立してある「行為」が別々にあるかのように実感されてしまう。


そして、この事実誤認から、意志と行為を意識的につなごうとする作為的な努力が生じることになる。


お知らせ

8月4日(日)オンライン開催の「ブッダが悟った縁起の理法」では、「意志」と「行為」の不可分さだけでなく、私たちが見ている世界は、意識のスクリーンに映し出された「像」に過ぎない、という「実物」と「像」を切り分け、私たちを二元論に誘いこむ「映画館モデル」の巧妙な罠の構造をも解き明かし、解毒していきます。

「いつの間にか二元論にはまっているかも」と思われた方は、矢沢大輔のプライベート・セッション、または講話会にふらりとご参加ください。

たとえば、今、目の前に「水車が回っている」風景が見えている、とします。



この場合、「水車」がモノで、「回っている」がコト(状態)になります。


モノとコトとは、それぞれ別々のものである、と思っている人は、二元論にハマっていますが、なかなかこの事実にきづけません。


たとえば、私がまだコピーライターの仕事をしていた頃、「モノ消費からコト消費へ」ということが語られ出しましたが、これも「モノとコトとが別々のものである」という二元論にとらわれたままの一例と言えるでしょう。


そもそもモノ(物)とコト(事象や状態)とが、別々に切り離されてあることなど、あり得るでしょうか?


水車が静止している。

水車が勢いよく回っている。

水車がゆっくり回っている。


このどれもが、モノ(水車)あってのコト(状態)であり、コトあってのモノです。


回りも、止まりもしない「水車」があるわけでもなく、水車のない「回転」も「静止」もありません。


これが、私たちが生きているこの世界の物事(ものごと)のあり方です。


「コト(状態)だけがある」と思っている人は、モノとコトとが別々にある、という二元論にハマっています。


「おいしい」というコト(経験や状態)が、食べ物なくあり得ないように、モノとコトとは切り離されてはいません。


「歯が痛む」なら、歯(モノ)と痛む(コト)は、別々にあるのではなく、一つです。


「歯が痛む」から、「歯医者に行く」という行動が起こり、そして、歯科医師から「どこが痛みますか?」と聞かれたなら、私たちは「昨日から、上の右奥歯がズキズキ痛みます」というように、モノとコトとを分裂させることなく、ちゃんと伝えています。


モノとコトとがセットになって発言されることで、歯科医師に、どの歯が傷んでいるかを伝えることができ、治療してもらえる。


これが私たちが実際に生きている現実の世界での、言葉と物事との関係です。


モノだけが消費される買い物など、あり得ないように、コトだけが消費される買い物もない。


「モノ」にスポットライトを当てた見方と、「コト」にスポットライトを当てた見方の違いはあれど、「モノ消費」があるわけでも、「コト消費」があるわけでもない。


では何があるのか?


水車が回っているなら、水車を回しているのは、川の流れ(自然)です。


川の流れなくして、水車は回りません。


しかし、水車が、川の流れに浸り切ったら、水車は回りません。


水車が、川の流れから離れても、水車は回りません。


ちょうど良い塩梅(浸かり過ぎず、離れ過ぎず)に、川の流れ(自然)とともにあるとき、水車は苦もなく回り続けます。


この良い塩梅(あんばい)のことを、仏教では「中道」といいます。


そして、これは、長く回り続ける商い(仕事)の極意にも通じています。


追記

モノがどのような状態にあるのかを、相手に伝えるために、私たちは普段、言葉を使っています。

モノを主語におき、そのモノの状態(コト)を述語にして、ものごとの様子や状況などを伝え合っている。

これが人間ならではの「言葉」の役目です。

主語と述語あっての、「ものごと」です。

主語と述語をバラバラに切り離したら、言葉の意味は成り立たなくなり、死んだ言葉になります。

述語のない主語だけを切り出し、たとえば「わたし」とは何だろうと問うなら、それは文字通り意味のない(ナンセンス)な問いとなります。


歩いている私。

座っている私。

寝ている私。

食事をしている私。


歩いてもいなければ、座っても、寝てもいない、ないないづくしの「わたし」など、どこにも存在していないからです。


モノとコトとが、切り離されて別々に存在していないように、「わたし」と「行為」とが、別々にあることなどあり得ない。


でも、人は、二元論にハマったとき、「わたし」と「行為」、「主語」と「述語」とをバラバラに切り離し、「〈わたし〉とは何か」を問うてしまう。


「行為」あっての「わたし」であり、「わたし」あっての「行為」。


それが今まさに、生きている〈わたし〉。


このようなことに興味がある方は、矢沢大輔のプライベートセッションもしくは講話会へのご参加をお待ちしております。

縁起の理法は、八つの「不」がつく言葉で語られ、「不一不異」「不生不滅」「不常不断」「不去不来」がありますが、今日は、「不一不異」の意味についてご紹介したいと思います。


ちなみに、「不一不異」は「不一不二」とも呼ばれます。


「不一」とは、私とあなたは、「同一(の人物)ではない」ということ。


そして、不異(不二)とは、私とあなたは、別々に(単独で)存在していないということ。


同一でもなく(不一)、別々に存在しているのでもない(不異)、この関係のことを「縁起の関係」といいます。


そして、この関係は、「私」と「あなた」との間柄にとどまらず、この世界のあらゆるもの同士が、縁起の関係で成立していることを悟ったのが、ブッダでした。



縁起の関係を、私なりにもう少し噛み砕いてご説明すると、こうなります。


たとえば、私は今、この文章を書いています。


そして、あなたは今、この文章を読んでいます。


文章を書いた「私」と、文章を読んでいる「あなた」は、空間的に離れていて、同一の人物ではありません(不一)。


そして、今、この文章を読んでいる「あなた」が現に存在することで、この文章を書いた「私」もまた存在し得る、という意味で、(読む)あなたなくして、(書いた)私もなく、(書いた)私なくして、(読む)あなたもあり得ない、という「自他不二」の関係になっているわけです。


私とあなたは、別々には存在し得ない。


私たちは、人と人との関係(間柄)あっての存在、という意味で、「人間(じんかん)」と書いて、「にんげん」と呼びあっているわけです?


私たちは、苦しい時、誰かに自分の話を聞いてもらいたくなります。


「話す」行為を通じて、自分の内側に留まっている苦しみや苛立ち、不安などを言葉にして外に現そうとします。


これは、「人間」である私たちにとって、とても自然な行為といえます。


そして、あなたの話を聞いてくれる誰かがいてくれることで、私たちは、それぞれ別々に「おひとり様」としてあるのではなく、不一不二(不異)の「お互い様」の関係としてあることを認識しながら、日々、暮らせるようになります。


そして、このような自覚が生じるには、何よりもまず、ここに書いたような「不一不二」や「縁起の関係」の意味を誰かから教えてもらわなければ、自分の経験を通じて「これが縁起の関係か」と深くうなずきながら確信できる日はやってきません。


なぜなら、私自身の経験から振り返っても、仏教の「縁起の理法」が、原因から結果に向かって一方向に流れる「因果の法則」のことではなく、「AなくしてBはなく、BなくしてAはない」両方向の関係であることを誰からも教えてもらえなければ、いまだに私は、「因果の法則」と「縁起の理法」とを混同したまま(無明のまま)、「四苦八苦」の人生を歩んでいただろうからです。。


私たちが生きている現実の世界は、「因果の法則」にではなく、「縁起の理法」によつて成り立っています。


もし、この世界が「因果の世界」であるなら、「原因」によって「結果」が生じるわけですから、たとえば、「今までより2倍働けば(原因)、成果(成績や利益)も2倍になるはずだ」という線形の関係が成り立つはずですが、実際にはそうなっていません。


ところが、仏教の「縁起の理法」を「因果の法則」だと勘違いしてしまっている人は意外と多く(これを「無明」と言いますが)、この勘違いが正されることなく、そのままいってしまうと「縁起の理法は役立たずだ」となってしまうわけです。


これは言い方を変えると、因果の法則に囚われている人には、私たちが実際に生活している「現実」(縁起の世界)のありのままの姿が見えない故に、無明から生じる「苦」の絶えない人生になってしまう、ということてす。


追記

今日は、縁起の理法から「不一不異」についてご紹介しましたが、「不生不滅」の意味を知ると、通常、考えられている「生まれたもの(原因)は、いずれ死ぬ(結果)」という因果にとらわれることなく、「現に今、生きているものは、生まれることなく(不生)、死ぬこともない(不滅)」という境地で、生き生きと生きられるようになります。

この文章を読んで、「縁起の理法」にご興味をもたれた方は、矢沢大輔のプライベートセッション、もしくは講話会にご参加ください。

ノンデュアリティ(非二元)のプライベートセッションをやっていると、「私はいないって、どういうことか腑に落ちず、悩んでます」と時々、相談されます。



「非二元ってどういうこと?」と聞かれたなら、「身体の働きなしには、あらゆるものごとが起こり得ないこと(「身体と世界」が別々に存在していないこと)を実感いただけるよう、セッションを進められますが、「私はいない」の意味を訊ねられると、私にもその真意がわからず、答えに窮してしまいます。


それで、「私はいないの意味を知りたいなら、それを語っている本人に聞いてください」とお答えするしかないのですが、もしかすると、仏道とは何かを語った道元禅師の「自己をわするる」の言葉の意味を誤って解釈してしまった可能性が考えられます。


もし、そうなら、まったく真逆の意味になってしまうので、今日は、その誤解を解くために役立つ文章を、大谷大学のウェブページから引用して紹介させていただきます。


道元は「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と述べています。ここでいう「自己をわするる」とは、決して自分を喪失することではありません。

欲望や自己中心的思考に振り回されている自分に目覚め、そのような自分から解放されることをいうのです。それは真の自己の回復を意味します。そして、そのような真の自己が回復されたとき、迷ってきたこの自分は、実は光輝く世界のなかに生きていたことに気付くのです。

(全文は、こちら→大谷大学 教員エッセイ


この文章からもわかるように、「自己をわするる」とは、自分を喪失することではなく、欲望や自己中心的思考に振り回されている自分(=偽りの自己)から解放され、真の自己の回復を意味しています。


仏教には「無我」という言葉もありますが、無我の「我」もまた、欲望や自己中心的思考にとらわれている状態(「我執」「我見」といいます)を指していて、無我とは、このとらわれが無くなること、つまり、道元禅師が語った「自己をわするる」と同義である、といえます。


これで、「私はいない」という思考にとらわれたなら、それもまた「我執」「我見」となり、それに振り回され、真の自己を見失ったままとなることを理解いただけたのではないでしょうか。


では、特定の宗教に属することなく、真実の自己に目覚め、日々、生きる力を発揮しながらイキイキと暮らしていくには、どのように物事を見れるようになればいいのか、これについて理解を深めたい方は、下記のプライベートセッションか、講座にご参加ください。

創造的コミュニケーション(幸せを育む「対話の技法」)

幸せって なんだっけ なんだっけ〜

ぽん酢しょうゆのある家(うち)さ〜


明石家さんまさんが歌うこのCMが流行したのは、1986年。

ちょうど私が百貨店の宣伝部でコピーライターの仕事をスタートさせた頃のヒットCMだった。


「幸せってなんだっけ?」と問われたなら、人はあらためて、「幸せってなんだ?」と考えさせられるものだ。


そして、このCMの秀逸なところは、


モノ(商品)を手に入れること=幸せ


誰もが疑うことなく信じきっているこの前提を、あからさまに、あっけらかんと歌いあげて、商品名と企業名の知名度を上け、売れ行きを伸ばすことに成功した点にあったと、当時の私は思っていた。


しかし、これはあくまで、商品を売る側の観点から見た見解であって、生活者の観点から、あらためて幸せとは何か?を考えてみたなら…もうこの時点で、幸せは消え失せてしまう、というのが、今日のブログでお伝えしたい本題です。


Don’t think. feel !

考えるな。感じろ!


これは、ブルース・リーが映画「燃えよドラゴン」の中で語った有名なセリフ。


この続きは、どうなっているかというと、


It’s like a finger pointing away to the moon.

Don’t concentrate on the finger,or you will miss all the heavenly glory.


この部分を私なりに訳してみます。


考えることは、「月」をさし示す人差し指のようなものだ。

指=「月」という言葉に、とらわれるな。

言葉にとらわれたら、天(月)の輝きのすべてを見失うだろう。


ブルース・リーが語ったこの言葉は、アクション映画としての文脈においては、武術の極意について語っているように聞こえるが、実はこの作品で、彼は彼自身の生き方=哲学(仏教の世界観)を師や弟子とのやり取り(セリフ)を通して伝えようと試みていたことは、それほど知られていない。


幸せは、自らの外側にあるものを手に入れることではなく、感じるものだと。


月をさし示す指(考え、言葉)にとらわれるな。

月そのものに、輝きがあるのだから。


ここで語られている月とは、夜空に浮かぶ月のことではない。



あちらにあるものを手に入れようと、精神が身体を離れて、あちらにさまよいでたなら、それは、本来の自己の輝きを見失う道。


精神のあるべき場所は、この身体。

精神と身体は、自己(真髄)の二つの側面。


自らを非難し、嫌悪するなら、精神はあるべき身体を離れ出て、憧れを感じる誰かや何かに近づき、一体化して完全になろうとするが、しょせん、それは偽りの自己による偽りの幸せ。


何を手に入れたところで、幸せは感じられない。


Enter the Dragon

※「燃えよドラゴン」の原題。


幸せとは何かを考え出した途端、幸せは消えうせる。


Don’t think. feel !


幸せを感じている時、人は「幸せ」という言葉(考え)さえ意識できない。


追伸

心の中に、裁判官のような観察者がいて、自分の行いや考えの良し悪しを判定し、理想の自分に近づこうとしているなら、その観察者は、幼少期に知らず知らずのうちに自分のものとして受け入れた外部(主に親)からの目線であり、それは本来の自己ではありません。

しかし、私たちは多くは、この事実に気づかず、無意識のうちに自分のなかに取り入れた外部(親)の目線から、自分の思いや感情を俯瞰して眺め、「こうすれば良い子、こういうのは悪い子」という枠組みにはめこみ、自分の心を自ら縛りつけています。

もし、あなたが、生きづらさを感じてきたなら、その根本原因は、この自縛からきています。

その時々に湧きあがる自然な思いや感情を、裁判官のように厳しく裁き、内面を制御しようとするこの自己否定(自己嫌悪)が続く限り、心の安らぎは感じられず、何かが欠けているような感覚が続き、その空洞を埋めようと、自分の外側から様々なモノや知識を手に入れ、内面を満たそうとしますが、何を手に入れても、空虚さは消えません。

なぜなら、本来の自己のあり方を封じ込めるようにフタをかぶせ、そのフタの上で、親や世間から自分がどう見えているかばかりを気にして(偽りの自己の目線に立って)、より良い人生をつくり出そうと、もがき続けてきたからです。

では、何に意識を向けると、本来の自己のあり様を抑圧していたフタがはずれ、自己の独自性、独創性をしなやかに発揮しながら、生きられるようになるのでしょう?

このような生き方に関心がある方は、下記のプライベート・セッション、オンライン講座にご参加ください。

昨年末まで、フジテレビで「いちばん好きな花」というドラマが放送されました。


ドラマが始まった頃、どことなく「silent(フジテレビのドラマ)」に近い世界観を感じていたのですが、その後、同じ脚本家のドラマであることを知り、なるほどなぁと感じながら、最終回まで興味深く観ていました。


そして、先日、テレビ朝日の関ジャムで、「いちばん好きな花」の主題歌である「花」の歌詞に英訳があることを知り、その内容がノンデュアリティの世界観にも通じていたので、歌詞の一部を引用しながら、コメントしていきます。


枯れていく

It's dying


今この瞬間も
Even at this moment

咲いている

It's blooming


全ては溶けていく

Everything comes together


何ができるのだろうか

What can I do


誰を生きようかな
Who shall I live


みんな儚い

We are all ephemeral

みんな尊い

We are all sacred

しわしわに萎れた花束 小脇に抱えて
Holding a bouquet of wilted flowers under my arm

永遠に変わらぬ輝き探してた

I was searching for the beauty that would never fade


僕らを信じてみた
I trusted you and me

僕らを感じてた

I was feeling you and me


咲かせにいくよ
I'm going to bloom


内なら花を
The flower inside of me


まず、冒頭の

It's dying

Even at this moment

It's blooming

Everything comes together

では、相反する「死」と「生」とが、時間差なくあること(非二元であること)が語られています。


また、この部分は、観測されるまでは、OFFとONとが重なり合い、観測された瞬間にどちらかが決定される量子力学の不思議な世界観にも通じています。


これに対し、私たちが思考を通して認識できる二元性の世界では、生まれたのは「過去」、死が訪れるのは「未来」というように時間的隔たり(分離)があります。


We are all ephemeral

We are all sacred

Holding a bouquet of wilted flowers under my arm

I was searching for the beauty that would never fade


ここでは、上の二行と下の二行とが対句になっています。


ephemeral(短命)と、wilted flowers (萎れた花)は、思考を通して見えている個々の生命の儚さを表し、

sacred(神聖な)と、the beauty that would never fade(尽きることのない美しさ)は、思考ではとらえられない精神性の美しさがあることを表しています。


I trusted you and me

I was feeling you and me


ここでは、

youとmeとが分かちがたいもの(非二元)であるかとが語られ、


I'm going to bloom

The flower inside of me


自分の内側に秘められたその花(精神性の美しさ)を咲かせにいこう、と呼びかけています。


さらにこの曲の二番では、


誰もが一人

We are alone


全ては一つ

All is one


と歌われていますが、日本語の「誰もが一人」「全ては一つ」よりも、英語の「Alone」「All one」の方が文字の上でも異なるものではないことが、わかりやすく示されているなと感じました。


そして、この歌は、

My flower’s hereの連呼で終わります。


花は、距離を隔てた「あちら」にあるのでも、時間を隔てた「未来」に咲くのでもなく、「ここにある」と…


思考は、「あちら」と「こちら」、「未来」と「過去」、「あなた」と「私」、「短命」と「永遠」というように、相反するものが時間と空間を隔てて存在するように語ります。


しかし、その二元性の世界をつくり出す思考の活動が完全に静まり、静謐(silent)になった時、精神は自らを若返らせるとてつもないエネルギー(「Love」「Compassion」と呼ばれるもの)で満たさ、花開きます。


お知らせ

新年を迎えてから、プライベートセッションのご予約が増えてきましたので、当面の間、土曜日のご予約もお受けさせていただきます。

今宵、Silent(静寂)な精神に、Holyな(聖なる)何かが入ってきます。


心の中の絶えざるおしゃべりで、心の中が占拠され、騒がしいままなら、そこに聖なる何かが入りこめる余地はありません。


心の中のおしゃべりが完全に止んだ、静寂な精神にのみ、それは訪れます。


心の中のおしゃべりは、思考の活動ですが、それが静まらないのは、「思考者」と「思考」とが分裂していて、思考を見張っている「思考者」が、その都度、現れ出てくる「思考」をコントロールしようと格闘しているからです。


「思考者」は脳内の思考の活動によって作り出された中心的なもので、それはコンパスで円を描く時の中心のようなものです。


思考の活動により中心が設定されたら、同時に円周が決まり、思考の活動は、中心の杭に繋ぎ止められた犬のように、円周内しか動けなくなります。


思考は自ら中心(思考者)をつくり出し、その中心によって自らの活動が縛られてしまう。


この束縛、ジレンマから、何とか自由になろうと、思考者(中心)は、周辺に現れる思考をより良いものに変え、自己拡大を図ろうと試みます。


これが、思考者と思考の絶え間ない格闘、内面のおしゃべりが繰り返される原因です。


さらに、自己中心的な思考の活動は、「偏見」「決めつけ」「固定観念」を生み、この偏狭さから出てくるリアクション(判断、決意、行動)は、適切さを欠いているため、外面(政治、経済、宗教などの分野)にも混乱と騒動をもたらします。


これが現に起きている事実です。


私たちの人生は、人と人との関係によって成り立ち、健全な関係性なくして、私たちは安全に生存しえません。


そして、人との出会いにおいて、私たちが日々、使っているのが、自己中心的な思考の活動で、言葉の上では「平和」「愛」を願いつつ、実際には「紛争」「分裂」を生みだす不適切な反応(批難、無関心、ごまかしなど)が繰り返されています。


私たちの内面(心理面)に、「理想(平和)」と「事実(批難)」の対極があるなら、そこにあるのは両者の葛藤だけで、この両者の矛盾に気がついている「気づき」はありません。


そして、内面の騒がしさを整えようとして、私たちは瞑想などを試みてきましたが、そこにも内面の葛藤を強めてしまう矛盾が生じ得ます。


内面の騒々しさを無理やり抑えつけようとしたり、特定のイメージや姿勢の保持に精神を集中しようとしたり、瞑想を通じてどこか(悟り、涅槃、モクシャなど)に至ろうとしているなら、そこには瞑想対象(思考や姿勢など)を制御しようとしている「瞑想者」の活動があります。


「瞑想者」と「瞑想対象」の分裂(二元性)があるなら、両者の葛藤の摩擦により、真実を見出すエネルギーは奪われ、思考が作りだす観念(無我、無欲など)の世界に逃げるしかない、知覚の鋭さ(感受性)を失ったまどろんだ精神になります。


しかし、「瞑想者」と「思考」が別々ではない真実(非二元であること)の洞察(気づき)を得たなら、両者の葛藤は終わり、その知恵に目覚めた精神の中で、思考の活動は強制されることなく自然に静まります。


おしゃべりで満杯になった精神の中を空っぽにして今日一日を終えれば、そこに聖なるものが入りこめるスペースが生まれ、これまでとはまったく異なる生活の始まりが贈り物のようにやってきます。




Silent night! Holy night!


※写真は、いつもお世話になっているスターバックス京都烏丸六角店の皆さんからいただいた寄せ書きと、クリスマスイブの昼に食べたものです。

そして、食後にこの文章を書いている間にも、タイミングよく「サイレントナイト」の曲が流れ出しました。


【年末年始のプライベートセッション】

12月30日(土)から1月3日(水)の間、対面、オンラインとも、お休みします。

あなたは、誰かと会話している最中、いつのまにか、自分が今、気にかかっていることを話し始めていて、そうこうするうちに、相手から「こういうふうに捉えたら解決できるんじゃない」とか「そう思うなら、やっちゃえばいいじゃない」みたいなアドバイスが返ってきて、興醒めしたことはないだろうか?


自分は別に相手からアドバイスをもらいたくて、話し出したわけでもないのに、話の方向性は相手によって、すかさず問題解決の方向に向けられ、「もうこれ以上、何を話しても、この人の頭の中にある結論(解決策)を聞かされるだけだ」と感じ、会話がそれ以上深まらず、話が切り上げられた経験はないだろうか?


私たちが日々の生活の中で出会っている夫婦の関係、親子の関係、近隣の人々との関係、職場の上司や同僚、部下、お客さんとの関係において、つまり、自分の身の回りのあらゆる人々との関係において、「聞く力」の重要性をみんな語る言うけれど、この国の首相だって「特技は人の話をよく聞くことだ」と言いながら、実際には自らが出した結論(解決策)を強引に実行しようとしているだけで、私たち国民が抱えている悩み、問題は何も聞き入れてもらっているとは感じられない。


「相手の話に耳を傾ける重要性」を語りながら、実際には、自分が出した結論(解決策)通りに物事を押し進めたいだけ。


これが現に起き続けている事実です。


語られている理想と、現に行われている事実との不一致、矛盾、分裂。


人間の内面(心理面)において、矛盾、分裂があるなら、私たちが暮らす社会のあり方に、それは反映されます。


なぜなら、人間の思い(考え)によってつくり出されたのが、社会だからです。


人間の内面性と、私たちが暮らす社会(外面)は、異ならず、分離していません。


それゆえ、私たちの精神に矛盾、混乱があるなら、それは、政治的混乱、経済的混乱、宗教的混乱となってそのまま外面化されます。


そして、ほとんどの人は、これに気づけず、内面の矛盾、分裂を維持したまま、外面(社会)の混乱を正そうと試みますが、社会の混乱は、内面的無秩序の持続により、さらなる混乱をきたすことになります。


矛盾、混乱した精神を用いて、外の世界(社会)を整えようと試みても、問題はますます複雑化し、増え続けるだけ。

これが現に起きている事実です。


内が乱れているなら、それは外に現れる。



内の動きが原因で、その結果が外。


決して、その逆はあり得ません。


では、なぜ、内的な矛盾、葛藤は終わらないまま、起こり続けているのでしょう?


それは、問題に対して、決まった答えを出すよう、学校教育を通じて私たちの脳が訓練されてきたからです。


試験に出される問題には、固定された答え(解答)があります。


そして、教育によって身につけた、解答を求めるこの思考パターンを用いて、私たちは、人生(社会)で出くわす問題に対しても対処しようと試みます。


しかし、私たちが社会で直面するさまざまな問題には、数学や歴史のような固定された解答はありません。


問題の終結は、その問題がつくり出されるプロセスを深く理解する洞察(インサイト)からもたらされ、教育に訓練されパターン化された思考の働きを用いて問題の終結を求めても、問題が終わるどころか、さらなる社会的、政治的、経済的混乱を引き起こすだけとなります。


そして、洞察を得たなら、「聞くこと」と「お決まりの思考パターンを用いて問題の解決を求めること」との違いが明確になり(聞くことの重要性がわかり)、相手の話を聞くことに全エネルギーを注げるようになります。


問題の解決を求めるお決まりの思考パターンを完全に終わらせるこのエネルギー(パッション)を慈悲(コンパッション)といい、慈悲がある時、問題は、内、外の隔てなく焼き尽くされます。


そこで、新年1月開催の講話会では、問題の解決を求める思考を働かせず、相手の話に全エネルギーを注ぎ、聞き届けることの重要性について、洞察が起こるよう、参加された皆さんと一緒に会話を深めていきたいと考えています。

1月の講話会


【年末年始のプライベートセッション】

12月30日(土)から1月3日(水)の間、対面、オンラインとも、お休みします。

また、12月26日(火)から12月29日(金)の間、対面セッションは京都ではなく、大阪・梅田で行います。

人は、安心安全に過ごせる(そう感じられる)自分の居場所を求めています。

そして、その居場所が見つかったなら、そこに安住しようとします。


なぜなら、自分が見つけ出した安住の場の外側では、落ち着いていられないからです。

それゆえ、その場から離れがたくなります。


人には、雨風をしのげる住居、身体を健康に保ち維持するための食料、暑さや寒さを調整できる衣服が不可欠で、「衣食住」が確保されなければ、日々、健全に機能的に活動できません。



そして、これを書いている私は、野菜や果物を育てている農家でもなく、衣服をつくっている生産者でもなく、家を建てる技術や知識を持ち合わせた大工でもありません。


それゆえ、私は、日々の生活に必要な衣食住を確保するため、他の人々や自然界の動物や植物に頼って生きています。


これは、精神的な依存ではなく、あくまで物理面においての依存です。


そして、この社会において、問題を生み出し、衣食住の安定を脅かしているのは、物理的依存ではなく、精神的依存の方です。


たとえば、精神が落ち着かなくて、不安定な状態であるなら、精神は安定を求め、自分が落ち着ける居場所を求めます。


この「居場所」は、物理的に雨風をしのげる建物のことではなく、あくまで精神的に頼れる(自分は「ひとりぼっちではない」と思える)観念上の居場所です。


そして、精神的な不安を払拭してくれるその居場所は、何らかの宗教に属することでもたらされてきたことは、誰もが知っている事実です。


それが伝統的な宗教であれ、特定の教祖を崇拝する新興宗教であれ、精神が落ち着く居場所が見つかれば、人はそこに安住するようになります。


ところが、歴史を振り返って見ると、この何百年の間、人と人の争いは絶えることはなく、この時代においてもなお、宗教的な対立による戦争は続いています。


その背景にあるのは何かといえば、「私はイスラム人である」「私はアラブ人である」「私はロシア人である」「私はウクライナ人である」「私たちはユダヤ教を信じている」「私たちはイスラム教を信じている」「私たちが信じている神こそ、絶対的な平和をもたらすものである」などなど…

そのどれもが精神的な面で、自分に安心安全をもたらしてくれている信仰から生じているのではないでしょうか?


また、日本においては、宗教に関して(政治とのつながりを含め)、今、どのような問題(対立、紛争)が起きているでしょうか?


人は精神面において安心安全を求め、「自分の居場所が見つかったなら、きっとその先は何の心配もなく安心安全に暮らせるだろう」。

そう思って、自分が属せる居場所を求めますが、精神的に頼れるであろう特定の何かに属してしまうと、皮肉なことに、その精神的な分離が物理的な世界にも拡張されて分離の壁が築かれ、その内側と外側で、争いと戦争が繰り返されている。


つまり、私たち人類は、精神的な安心安全(観念上の居場所)を求めて、何らかの教義や教祖に依存してしまうことで、物理面、身体面(衣食住)において、安心安全の逆である戦争やテロの危機にさらされたまま、今なおそのパラドックス(逆説)から抜け出れない状況にあるわけです。


私たち人類が心の底から求めているのは、物理的(衣食住)にも、精神的にも、安心安全である、同じ一つの地球で暮らしていくことです。


精神面、心理面において安心安全を求めても、現実的に安心安全がもたらされないのなら(もたらされたとしても、それが一時的な安心であるなら)、私たちは、真の安心安全を見出すべく、どこから始めればいいのでしょうか?


人類が長年はまりこんだまま、解消できないでいる安心安全のパラドックスから抜け出るには、何に目をつけ、直視する必要があるのでしょうか?


12月の講話会では、参加された皆さんと上記について対話し、真の安心安全がどこにあるのかを見出していきたいと考えています。

自分自身を知るには、自己を観察する必要があります。


その際、誰が自己を観察するのでしょう?


観察者が自己を観察し、「自分のこういうところは自分なりにも気に入ってるけれど、逆にこういうところは、どうしても許せない」

このような判断を下し、自己改良を試みているなら、それは観察と言えるでしょうか?


科学者が何かを観察するとき、予め自分(観察者)が望む結果が出ることを期待して、観察対象を調べ、「この点は自分が予測した通りの結果を裏付けてくれる事実なので論文に残すけれど、この点は期待した結果に反する事実なので、論文には記載しないことにしよう。


観察者の先入観(期待する結論・結果を望む)が入り混じったこのような調査は偏見に満ち、とうてい観察とは言えないように、自己とは何かを観察する際にも、「自己とはこういうものであるはずだ」という先入観を持って観察したなら、それもまた観察とは言えないものになります。


自分の期待した通りの結果が出ることを望む「観察者」が、観察対象を眺めるなら、それは観察とは言えない。


では、どうすれば、調べようとしている「自己」を、偏見なく歪みなく観察し、真実を見出せるようになるのでしょう?


観察に、観察者が介入するなら、その観察は先入観や偏見によって歪められ、現にあるもの(観察されているもの)が、あるがままに見えなくなります。


では、現にあるものを、あるがままに見る観察とは、どのようなものなのか?


もし、あなたが何らかの結論(たとえば「私はいない」というような観念)にとらわれたなら、それが自己観察を歪める新たな先入観(偏見のフィルター)となり、あるがままの自己を見えなくさせ、日々の生活を曇らせます。


11月開催の「目覚めを生きる」では、上記のような内容をテーマに、観察者不在の観察とはどのようなものなのかを掘り下げていきます。