自分自身を知るには、自己を観察する必要があります。
その際、誰が自己を観察するのでしょう?
観察者が自己を観察し、「自分のこういうところは自分なりにも気に入ってるけれど、逆にこういうところは、どうしても許せない」
このような判断を下し、自己改良を試みているなら、それは観察と言えるでしょうか?
科学者が何かを観察するとき、予め自分(観察者)が望む結果が出ることを期待して、観察対象を調べ、「この点は自分が予測した通りの結果を裏付けてくれる事実なので論文に残すけれど、この点は期待した結果に反する事実なので、論文には記載しないことにしよう。
観察者の先入観(期待する結論・結果を望む)が入り混じったこのような調査は偏見に満ち、とうてい観察とは言えないように、自己とは何かを観察する際にも、「自己とはこういうものであるはずだ」という先入観を持って観察したなら、それもまた観察とは言えないものになります。
自分の期待した通りの結果が出ることを望む「観察者」が、観察対象を眺めるなら、それは観察とは言えない。
では、どうすれば、調べようとしている「自己」を、偏見なく歪みなく観察し、真実を見出せるようになるのでしょう?
観察に、観察者が介入するなら、その観察は先入観や偏見によって歪められ、現にあるもの(観察されているもの)が、あるがままに見えなくなります。
では、現にあるものを、あるがままに見る観察とは、どのようなものなのか?
もし、あなたが何らかの結論(たとえば「私はいない」というような観念)にとらわれたなら、それが自己観察を歪める新たな先入観(偏見のフィルター)となり、あるがままの自己を見えなくさせ、日々の生活を曇らせます。
11月開催の「目覚めを生きる」では、上記のような内容をテーマに、観察者不在の観察とはどのようなものなのかを掘り下げていきます。
