自分の居場所を求めるパラドックス | 非二元|目覚めを生きる

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「迷悟」「苦楽」「生死」の相対を超えた「身体・宇宙」一如の絶対的あり様とは?
迷い、悩み、苦しみのない、日々、生き活きとした生活の実践。

人は、安心安全に過ごせる(そう感じられる)自分の居場所を求めています。

そして、その居場所が見つかったなら、そこに安住しようとします。


なぜなら、自分が見つけ出した安住の場の外側では、落ち着いていられないからです。

それゆえ、その場から離れがたくなります。


人には、雨風をしのげる住居、身体を健康に保ち維持するための食料、暑さや寒さを調整できる衣服が不可欠で、「衣食住」が確保されなければ、日々、健全に機能的に活動できません。



そして、これを書いている私は、野菜や果物を育てている農家でもなく、衣服をつくっている生産者でもなく、家を建てる技術や知識を持ち合わせた大工でもありません。


それゆえ、私は、日々の生活に必要な衣食住を確保するため、他の人々や自然界の動物や植物に頼って生きています。


これは、精神的な依存ではなく、あくまで物理面においての依存です。


そして、この社会において、問題を生み出し、衣食住の安定を脅かしているのは、物理的依存ではなく、精神的依存の方です。


たとえば、精神が落ち着かなくて、不安定な状態であるなら、精神は安定を求め、自分が落ち着ける居場所を求めます。


この「居場所」は、物理的に雨風をしのげる建物のことではなく、あくまで精神的に頼れる(自分は「ひとりぼっちではない」と思える)観念上の居場所です。


そして、精神的な不安を払拭してくれるその居場所は、何らかの宗教に属することでもたらされてきたことは、誰もが知っている事実です。


それが伝統的な宗教であれ、特定の教祖を崇拝する新興宗教であれ、精神が落ち着く居場所が見つかれば、人はそこに安住するようになります。


ところが、歴史を振り返って見ると、この何百年の間、人と人の争いは絶えることはなく、この時代においてもなお、宗教的な対立による戦争は続いています。


その背景にあるのは何かといえば、「私はイスラム人である」「私はアラブ人である」「私はロシア人である」「私はウクライナ人である」「私たちはユダヤ教を信じている」「私たちはイスラム教を信じている」「私たちが信じている神こそ、絶対的な平和をもたらすものである」などなど…

そのどれもが精神的な面で、自分に安心安全をもたらしてくれている信仰から生じているのではないでしょうか?


また、日本においては、宗教に関して(政治とのつながりを含め)、今、どのような問題(対立、紛争)が起きているでしょうか?


人は精神面において安心安全を求め、「自分の居場所が見つかったなら、きっとその先は何の心配もなく安心安全に暮らせるだろう」。

そう思って、自分が属せる居場所を求めますが、精神的に頼れるであろう特定の何かに属してしまうと、皮肉なことに、その精神的な分離が物理的な世界にも拡張されて分離の壁が築かれ、その内側と外側で、争いと戦争が繰り返されている。


つまり、私たち人類は、精神的な安心安全(観念上の居場所)を求めて、何らかの教義や教祖に依存してしまうことで、物理面、身体面(衣食住)において、安心安全の逆である戦争やテロの危機にさらされたまま、今なおそのパラドックス(逆説)から抜け出れない状況にあるわけです。


私たち人類が心の底から求めているのは、物理的(衣食住)にも、精神的にも、安心安全である、同じ一つの地球で暮らしていくことです。


精神面、心理面において安心安全を求めても、現実的に安心安全がもたらされないのなら(もたらされたとしても、それが一時的な安心であるなら)、私たちは、真の安心安全を見出すべく、どこから始めればいいのでしょうか?


人類が長年はまりこんだまま、解消できないでいる安心安全のパラドックスから抜け出るには、何に目をつけ、直視する必要があるのでしょうか?


12月の講話会では、参加された皆さんと上記について対話し、真の安心安全がどこにあるのかを見出していきたいと考えています。