≪今日のコペル(臨床自然運動学)先生の独り言≫

筒井重行が提唱する「臨床自然運動学」

からだ日記と自然運動と白隠の環(メビウスの輪)その9

今回紹介している絵は、「わいわい天王図」です。

作者は、白隠慧鶴です(江戸時代中期の禅僧)。

「わいわい天王」は、羽織・袴・両刀、天狗あるいは猿田彦の面をつけ、「牛頭天王」と書いたお札を「わいわい天王、騒ぐがお好き」と叫びながらまく、そして金銭を乞うという類の願人

坊主です。

のちに発展した浪曲以外にも、門付け、大道芸として普及しました。

からだ日記の中で、皮の袋に入った血と肉と骨が、中でバラバラになって、ブルブルっと揺らすと氷枕の中の氷と水のように、ぶつかり合ってゴロゴロと鳴るイメージがあります。

この表現で、私の記憶の中から次の事柄が湧き上がってきました。

それは、白隠禅師坐禅和讃です。

衆生本来仏なり

水と氷の如くにて

水を離れて氷なく

衆生の外に仏なし

・・・・・・・・・

大自然(仏)と水と氷の関係とは・・・・

人体の内部で何が起きているの?・・・・・・

それは、禅感覚?、大自然の生命の活き?、

天地同根・万物一体?

そして、唯識の末那識・阿頼耶識の世界感覚?・・・・・・・・

禅語(禅の言葉)〜千里同風、明暗雙雙(めいあんそうそう)

無心の体感(感覚) と 自然運動(無心・有心ゆらぎ)養生法

からだの中である特殊な感覚が発生しているようです。

それは、「本来無一物」「無心」などと言われているものです。

「本来」という語は、もともとという意味でなく、「本質的に」とか、「根源的に」ということです。また、「無一物」は何も無いということではなく、有と無の両方を超えた次元を意味しているようです。

したがって「本来無一物」は、有も無もそこから出てくるような「根源」、「原初」を表現しているようです。

自然運動の働きには、自然界の見えないはたらきをイメージとして、人間に見せてくれる可能性があります。

もし、「本来無一物」という感覚を体感会得できたならば、どんなにか安楽に生きてゆけることでしょうか。

蘇東坡(そとうば)の句に、「無一物中無尽蔵」がありますが、そこには何ものにも束縛されない自在な創造性に満ちた世界が待っているようです。

我々は、まず日々の養生法の実践から始めてみませんか。

私は、今ここでは「るす」です。

しかし、新たな私は「本来無一物」の感覚の道を通って五億年たったら帰ってきます。 コペル

≪今日のコペル(臨床自然運動学)先生の独り言≫

筒井重行が提唱する「臨床自然運動学」

からだ日記と自然運動と白隠の環(メビウスの輪)その8

今回紹介している絵は、「布袋携童図」です。

作者は、白隠慧鶴です(江戸時代中期の禅僧)。

布袋は唐代に実存したとされるお坊さんで、町に出かけて説法するのが好きで、供物がたくさん入った袋を持って歩いていたので、その名がついたと言われています。

日本では、七福神の一人として有名です。

子供の手をひいている布袋さんが笑っている。

笑いは元気のもと。いつも笑いを振りまいている布袋さん。

病魔も居心地が悪くて寄り付かないようです。

泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生。同じ暮らすなら笑って暮らせというのが、布袋さんの教えです。

この図では、布袋さんが傘を持っています、この傘に蓮の絵が書かれています。この傘で子供をかざしています。

傘は何を、あらわしているのでしょうか?

法句経 204番

健康(無病)は、最高の利得であり

足るを知るは、最上の宝であり

信頼は、最高の知己であり

ニルヴァーナ(涅槃)は、最上の安楽(さいわい)である

             コペル訳

健康 ・笑いと 自然運動(無心・有心ゆらぎ)養生法

からだ日記の中に、自然運動の中でからだの変化と共に色んな感情の変化も出てきます。臨床を30年近くやってきてやっとこの内容が理解できるようになってきました。

体と心の変化は、あたまで考えるのではなく、自然の風にまかせて、あたまをカラッポにしていれば良いのです。それが身心の健康につながるようです。無心(大・小) 即ち 健康(大・小)

◎日本でこの「健康」という言葉を文献で始めて使った人が、白隠禅師なのです。戦国時代が終わり、人々は身体の堅剛さだけでなく「心」の安らかさを求め、「健体康心」(けんたいこうしん)を願い「健康」を考えたと思われます。古くから、色力康健などと

「康健」が使われていたようです。康福、康楽、康強、康癒・・

では、健康の定義とはなんでしょうか?

WHOの健康の定義は・・・・・・

Health is a dynamic state of complete physical,

mental ,spiritual and social well-being and not merely

the absence of disease infirmity

健康とは、肉体的、精神的、霊的および社会的に完全に幸福な流動的な状態であり、単に疾病または病弱がないということではない。健康の秘密を読み解くには、白隠の環の解読と二つの迷走神経の働きの認識が必要です。

 

≪今日のコペル(臨床自然運動学)先生の独り言≫

筒井重行が提唱する「臨床自然運動学」

からだ日記と自然運動と白隠の環(メビウスの輪)その7

今回紹介している絵は、「布袋すたすた坊主図」です。

作者は、白隠慧鶴です(江戸時代中期の禅僧)。

布袋は唐代に実存したとされるお坊さんで、町に出かけて説法するのが好きで、供物がたくさん入った袋を持って歩いていたので、その名がついたと言われています。

日本では、七福神の一人として有名です。

「すたすた坊主」というのは、江戸時代にいた、忙しい人々の代わりに神仏にお参りに行くと称して、芸を見せたりしてお金をもらっていた人たちのことです。

「来た来たまたきた、いつも参らぬさひさひ参らぬ、すたすた坊主、ゆんべも三百はりこんだ、それからはだかの代参り」などと書いてありますが、実際にこんなことを唱えながら、持ってい

る竹の小枝で自分の体にぴしゃぴしゃ水を掛けながら、みずごりなどをしていたようです。

右側に「布袋どらをぶち すたすた坊主なる所」とあります。

「どらをぶつ」とは、道楽のこと。

布袋さんにとっての道楽、つまり説法が過ぎてすたすた坊主になってしまっても、みなさんの福を祈りましょうという意味だと解釈されています。

「すたすた坊主像」は、白隠自らの生き方を表した禅画です。

はだか一貫になっても、全てを投げ出して人々を救う。

泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生。同じ暮らすなら笑って暮らせというのが、布袋様の教えです。

すたすた坊主(布袋)・退歩 と 自然運動(ゆらぎ)

からだ日記の中に、自然運動の中でしぜんに子供にもどっていき、夢の中で色んな問題を解決してゆき、笑いながら目覚めていくとあります。

禅の言葉で「退歩」があります。

禅では「進歩」が外的対象に着目する姿勢を言いますが、「退歩」は、心を問題にする姿勢を意味しています。

自然運動は、失われた身体感覚を取り戻す反応の要素も含んでいるように思えます。

すたすた坊主(布袋)の歩む方向は、退歩の方向でそれは原初に向かっているのではないでしょうか?

この退歩の感覚をとりもどすには、色んな方法があるようです。

それには、まず頭を空っぽして、自然の風を楽しむ事が必要です。

我々のご先祖さまであるホヤは、海中で流れに身を任せ揺らいでいました。その感覚を取り戻すのです。

しかしこの感覚は、現代人は喪失しているようです。

どうすれば、取り戻すことができるのでしょうか?

自然運動の中には、身体の修正、心の調整、魂の目覚めなどの無意識のセルフケアーが含まれているようです。

また、日本古来の作法、動作、型、養生法等も参考になります。

無意識、原初、退歩、自然運動・・・・・未知の人体構造・働き

≪今日のコペル(臨床自然運動学)先生の独り言≫

筒井重行が提唱する「臨床自然運動学」

からだ日記と自然運動と白隠の環(メビウスの輪)その6

今回紹介している絵は、「馬上才図」です。

作者は、白隠慧鶴です(江戸時代中期の禅僧)。

これは、布袋さんらしき人物が持つ瓢箪から、水が糸を引くように飛び出し、その上を走る馬とその上で演技する人物が描かれています。

これは、朝鮮通信使に、馬上才の馬と曲芸師が随行している構図。

白隠は、日本の外交的危機を救った人物として「規伯玄方」を評価して、この「馬上才図」を書いたとされています。

さらに、白隠は全ての物は、宇宙の中に存在するものですので、ヒトは、既に瓢箪の中にあるとしています。

もろもろの問題は、心が馬の上で曲芸するように不安定で、そして自分の存在位置を理解していないことから、始まります。

瓢箪を、周辺なき無限大の球体で、至る所が中心となる存在と観ると、人間は自我(意識)を捨て、自己(無意識)の壁を破り、大自然の中心となる事で何か見えてくるものがあるようです。

ヒトは、宇宙の「ちり」であり、この塵の中に全宇宙があり、この塵が宇宙を構成しているのです。

瓢箪と自然運動

自然運動が起きると、体と心に色んな感覚、イメージが起きてきます。

からだ日記の文中にお多福、イメージ、ストーリー、穴をぬける、田園風景、ハッピーな気分、膨れる、蓋などの表現があります。

これをどのように読み解けば良いのでしょうか。

いまだに、解明不能ですが、現在行っている治療では新たな発見があり、キーワードとして自然運動、無意識、ひょうたん、大宇宙、再生等を組み合わせることで解明の糸口が見つかる予感がします。 

新たな治療法では、

その時、その時、頭に浮かぶ事や意識にフォーカスせず、ただ流し続ける感覚が出現します。

あとは時々、自分の呼吸に気付くというか、呼び戻されるというか、あっちとこっちを行ったり来たりしている体感が出現します。

自然運動は、瓢箪の入り口を出入りする現象かもしれません。

それは、・・・・・・・          コペル

≪今日のコペル(臨床自然運動学)先生の独り言≫

筒井重行が提唱する「臨床自然運動学」

からだ日記と自然運動と白隠の環(メビウスの輪)その5

今回紹介している絵は、鍾馗鬼味噌図(しょうきおにみそず)です。

作者は、白隠慧鶴です(江戸時代中期の禅僧)。

これは、鍾馗がスリコギで味噌をすっている図柄。

すり鉢の中には四匹の鬼がいます。

鬼は、人間の煩悩の化身をあらわしています。

それらをすりつぶした味噌を食えば、煩悩から解放され成仏できる?・・・・・・・・

右上の賛には「鬼みそばかりは、むごふとてすりにくひものじゃ」とある。

左下で摺鉢を押さえている、鍾馗の息子は「ととさ、鬼みそをちとなめてみたい」と言って、食欲の前にむごたらしさの感覚は退いている。

鍾馗(しようき)は、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりします。

鍾馗さんはすり鉢の中の何をすりつぶそうとしているのでしょうか。

それは・・・・・

不依倚一物(ふえいいちもつ)と自然運動

からだ日記の文中に、心の中に依存心のような物を自覚してとあります。

この問題を読み解くために、今回は「不依倚一物」という言葉をご紹介いたします。

無意識の自然運動を正しく理解するには、不依倚一物(ふえいいちもつ)という言葉を読み解くことが良いようです。

自分の中に、ある不思議な力が存在しています。

人体には、高次制御システムが機能しており、これを補足する日々養生が基本になります。

術者が何かのエネルギーを注入しているのではなく、人体のシステムのスィッチを単に押しているだけなのです。

それは、生まれた時から、自分自身の中にある無意識の原初の存在があるからです。

この中に、無意識の自然運動も含まれているかもしれません。

自然運動を、正しく体の声を聴きながら体感することをお勧めします。 

人間が何かに依存する原因は、不安・苦しみ・痛み・恐怖により自己肯定感が安定しないことです。

依存は、生体のエネルギーの流れを阻害し、色んな問題を起こします

これを解決するにはどうすれば良いのでしょか・・・・・・

それは「あわい海」を泳いで対岸に行こうとする無心の意志が大事なのではないでしょうか? コペル

≪今日のコペル(臨床自然運動学)先生の独り言≫

筒井重行が提唱する「臨床自然運動学」

からだ日記と自然運動と白隠の環(メビウスの輪)その4

今回紹介している絵は、群盲撫象図(ぐんもうぶぞうず)です。

作者は、白隠慧鶴です(江戸時代中期の禅僧)。

これはインドから伝えられた逸話を、白隠禅師が描いたものです。

はじめの「群盲」とは、複数の盲目との意味。

後半の「象を評す」「象を撫でる」とは、象のことを評するとの意味になります。

意味は、断片的な情報で全てを理解したと思うと、間違った考えを持ってしまう。

木を見て森を見ず、のことわざにも通じる意味になります。

触れるには、表層と深層、両者の間(あわい)の三層を意識する必要があります。

無意識のセルフケアーとしての自然運動には、量と動きの方向性の2つが存在しています。

自然運動は、①微細な動き、②小さな動き、③大きな動き、④重力の解放の動きがあるようです。

この自然運動を見極めるには、時空を超えた多次元的な目線が必要です。

この運動をコントロールしている存在はどこにあるのか?

特に臨床の現場では、ささやかな気づきを患者さんと共有することが非常に大事なようです。

無意識の自然運動を理解するには、自然界に目を向けると参考になります。

脳の「コリ」をほぐし、体の「コリ」をほぐし、間(あわい)を抜ける。

それは、“間抜け”になること。

そして、自由になり安心につながり、自己肯定感が増大していく。

生・老・病・死の風に乗るには、“間抜け”になることだ・・・・・

全てが、空っぽになる。  コペル

≪今日のコペル(臨床自然運動学)先生の独り言≫

11月25日は、野沢龍雲寺世田谷で練馬よりお手伝いに来られていたお坊さんに紹介された

禅宗寺院「園照院」内の「泉竹」@練馬区桜台 お寺で楽しむ昼懐石へ

齋藤のお姉さんがアメリカよりお母さんの介護のお手伝いに来ていたので美味しいものを食べて息抜きしていただきました。

現地に来てビックリ併設する廣徳寺は拝観できないが、入口までの参道の紅葉がとても美しく、

園照院の広間からのお庭がこれまた美しい、そしてお料理も最高に美味しいく目でも楽しめる最高のお料理(花懐石)でした。言葉でお伝えするよりも写真をたくさん撮りましたのでご欄ください。コペル

http://www.izuchiku.jp/

こぼれ話:

前日には、建長寺の館長と臨済宗大徳寺派の廣徳寺住職とで来られていたそうです。

 

 

 

≪今日のコペル(臨床自然運動学)先生の独り言≫

筒井重行が提唱する「臨床自然運動学」

からだ日記と自然運動と白隠の環(メビウスの輪)その3

今回紹介している絵には、真ん中から顔を覗かせている布袋さんが、何かを握っています。

作者は、白隠慧鶴です(江戸時代中期の禅僧)

長い紙を丸くして、そこに字が書いてあります。

右側の細い楕円形の判子がありますね、読んでみますと「在青州作一領」と書いてあります。

左はちょっと読みにくいですが、不思議なことに字が逆になっています、天地がしかも裏返しになっています。

これは、紙の裏側から書いているからです。

読んでみますと「布杉(ふさん)重七斤」と書いてあります。

その意味は、

私は生まれた時には裸一貫(約4kg)

生まれたまま、天然の襦袢(皮膚)をつけて生まれたのだ!

この細長い紙は、「メビウスの輪」になっています。

この輪は、表がいつの間にか裏になっています。

一切の存在は、一つの原理に帰着する。

一つの存在は、一切の原理に帰着する。

一即一切、一切即一。

白隠さん(臨済宗の禅僧)は、ドイツのメビウス(1790-1868)

という数学者がこの不思議な面を発見する、百年前にこの不思議な面の特徴を使っています。

表が裏、裏が表と言っています。

すべて対立概念があると我々は考えますが、すべてには根源があり同じであると書いたのでしょうか?

裏とか表とか、そういう対立概念を超えた、存在や動きがあると表現しているようです。

コペルは、この環を「白隠の環」とよんでいます。

それは、自然運動を30年以上、臨床の現場で診てきたコペルは、

自然運動には自然界の原初を含んでいると考えるようになったからです。

全ての出来事には、原初の風がふいている・・・・

その風をすべて受け止めれば、何かが起こる。

そうすれば・・・・・・・・・コペル

 

細川普輔(著)の「禅の調べ」 はもう3回も読み返してしまいました。

盤珪禅師と白隠禅師の禅画を2時間も見て警策 (きょうさく、けいさく)に打たれた様な衝撃を受けました。

それ以来目から鱗で見えないものが見えて、斬新なイメージが沸き出てきます。

皆様に細川普輔(著)の「禅の調べ」を読むことをお勧めします。コペル

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