ぼくはひとつの個体としての生物なんである・・・とは言いきれないところに、生命の難解さ、つか謎がありますね。

ぼくのからだは多くの細胞でできてて、その細胞ひとつひとつもまた生命個体である、とすると?

その器であるぼくは、生命個体というよりは、多くの生命を住まわせるひとつの宇宙、ってことになりますかね。

 

いやいや、人体を分割する細胞は独立した生物とは言えないだろ、という意見もあります。

だけど、その活動はまさに原生生物のもので、ぼくの肉体を環境と解釈すれば、そのスペース(宇宙)内でそれぞれに閉じた系を持ち、新陳代謝をし、分裂して自分を増やす細胞のひとつひとつは、例えば「地球環境に置かれたぼくの個体」という立場となんら相違はありませんよね。

 

細胞内のミトコンドリアなどは、本当にむかし、ぼくじゃなかったひとで(DNAからしてぼくとは別もの)、補食されて体内に取り込まれ、居候してる間に、すっかりぼくの一部になっちゃいました。

エネルギーつくり係のこのひとがいないとぼくは生きられませんし、彼女は完全にぼくの一部に組み込まれてますが、それでも彼女ははっきりとぼくとは別人です。

精子はもっとややこしいです。

この子はぼくの一部ですが、生命と呼ぶには条件が足りず、だけどこれもまたはっきりと「ぼくじゃないひと」になる子です。

 

今西きんじさんという哲学者みたいな生物学者さんは、「酸素や炭素も草木も動物も、体内に取り込めば人体の一部なんだから、ぼくとは生態系でなんであり、環境そのものなんであり、すなわちぼくこそが宇宙なんである」みたいなことを言ってます。

なるほど、体内に居着く他人である細胞がぼくの一部なら、ぼくの体外にいるあのひとたちも(あなたでさえも)、呼吸のやり取りや循環の営みでぼくと一連につながってる以上は、ぼくのシステムの一部でないわけがありません。

ましてや、空気や水などは全体でまとまってひとつの系なんだから、地球が、宇宙が、まさにぼくを駆動させる部品なのだと解釈できます。

つまり、ぼくが宇宙に組み込まれてるわけじゃなく、宇宙がぼくの生命機関に組み込まれてるわけです。

 

最初期の生命誕生の物語も、次のように解釈できます。

つまり、例えば太古のむかし、池のような閉鎖系の中に有機物がたまり、凝縮され、つながりあって、生命の前駆体ができました。

ここに自律性が・・・ちょっと違和感を許してもらえれば、アリストテレスの言う「霊魂」が込められます。

その霊魂はですね、生物の前駆体であるひとつの原形質(ゾウリムシみたいな?)個体に宿ったんじゃなく、実は「池」そのもの、池という有機物循環システム全体に与えられたんじゃないか、という考え方もできますよね。

とすれば、池こそが最初の生命体だったわけです。

 

生命とは、一般に考えるよりもずっと大きな概念なのですよ。

うごめく小さきもの一個体一個体が生きてるんじゃなく、めぐりめぐる環境そのものが、自律性を持って生きてるんです。

海や、大気圏や、惑星もまた、閉鎖系ですよね。

生命現象ってのは、大くくりなそれ総体がひとつにつながり合って生きてるね、ってことなんじゃないでしょうか。

宇宙に生命の普遍性なんて概念を持ち込むと、あながち許されていい説なのでは?と感じますが、いかが?

音って、不思議。

そこにあるのは、ただの空気の振動だけ。

音なんてものは、元々そこにあるわけじゃない。

トライアングルをこつくと金属が震え、その伝播のおつりが大気を震わせ、そこでできた波がぼくらの耳の鼓膜に伝わる。

カタツムリみたいな器官の中でこの波が増幅され、神経系に入ると、この情報は電気信号になる。

「音」はこの時点で生み出され、脳の中で「音楽」になり「声」になり「言葉」になる。

大気の波の周波数とその形で、外界で起きた事件の方向、距離、質感が、ぼくらにはわかる。

目も見えてなかったご先祖さまのひとりが、「空気の震えの構成で世界の動きが認識できそうだ」と考え、波を音に変換するシステムを自分の中に組み込んだ結果だ。

神経系は、分子の波を人類が理解できる様式に翻訳し、外界の「素粒子の並び」を具体的な描像に立ち上げる機能を持つ。

聴覚をヒントに、視覚はもっとすごいところに「目をつけた」。

ぼくらの「目の前」にひろがるのは、空気の動きどころじゃない、正真正銘の「無の波」である電磁波のこんがらかった行き来だ。

このオバケみたいな波は、ぼくらを構成する物質(素粒子のかたまり)にぶつかると相互作用を起こすため、人類はそうして受け取った波長の選別を利用して、自分の内側に映像を立ち上げることにした。

こうしてぼくらは、自分の中の三次元空間解釈世界を生きるに至った。

ぼくらが感じてる音も風景も、外側にひろがる実相(波の行き来)とは違った、つくりものの世界だ。

素粒子の世界がマボロシなんじゃなく、ぼくらの内側に築かれた世界こそが、波の解釈の幻影であるところのホログラムなんだ。

そしてややこしいのが、ぼくらの肉体や感覚器そのものもぼくの外側の世界に属するものであり、神経系で生まれた電気からこっちのみが「ぼく」なんだってこと。

人類は、耳で空気の振動を、鼻と舌で化学物質の構成を、目で光の波長を、手足の触覚で電磁気力を独自解釈して、総合的にひとつの絵を描き、その中を生きる。

自分がつくった世界の中に、それをつくり上げた当の本人を(それすらもつくり上げて)置くわけで・・・すると、世界の外側にぼくが、ぼくの内側に世界があるわけで、この奇妙な入れ子構造こそが生命の証なのかも知れない。

 

※厳密には、空気を含めた物質全体が、人類における素粒子の感覚解釈です。

物質界とはまったく別次元に「霊魂」ってものが存在する・・・ってのが、アリストテレスが言い出してなんとなく宗教絡みに流布されてる俗説なんでした。

ぼくの肉体の内側にぼくの中身がいるものとして、そいつをタマシイと呼んでたりするようです。

今回はこの説を検証してみます。

 

小さな子がしゃべりはじめの頃に、生前の記憶を語り出す、ってことがありますよね。

「お空からママを見つけてね、そこに飛び込んできたの」というやつ。

あれは実は、坊やのタマシイが天からママの体内に「入った」件じゃなく、胎内からママの顔の前に「出てきた」ことを言わんとしてるものと思われます。

外から中に入ることは、中から外に出ることと相対的に等しいのです。

彼らに生前(タネの着床前)の記憶はありません。

記憶とは、タンパク質と電気による作用なので、器なきところに中身なし。

生前の彼らには、天界も下界も、ましてやママの姿も見えてません。

視覚とは光と神経系の作用なので、視野が開くのは光が周囲に満たされた時点(お産の瞬間)からです。

 

同様に、滅形した人体からタマシイが独立して抜け出ることもなさそうです。

人体の中身(個人のアイデンティティ)とは、神経系における電気作用の総合なので、装置がオフラインとなり、ましてや装置そのものが失われたら、視覚や聴覚などの感覚、思考、感情や記憶一切は喪失します。

タマシイとは、物質による作用なのです。

科学的には、物質の世界から出ることは、エネルギーの世界に入ること(E=mc2)。

生きてた間の情報はエネルギーの波の中に残る可能性はあるものの、それもまたエントロピーの法則に従って平らにならされて、やがて均衡状態に落ち着きます。

物理法則に逆らって生後につくり上げたものは、物理法則に従って死後には元に戻す必要があるようです。

 

つわけで、ある個体の「タマシイが入るのはどの時点か?」は、両親の情報が初期化された胚が機能をはじめる瞬間に取るべきでしょう。

その機能が充実したところで自我が発生し、タマシイ=わたくしになるわけです。

では、「タマシイはどこからきたか?」というと、それはとりもなおさず、両親の情報の融合からきてます。

が、それまた二組のじいちゃんばあちゃんからきており・・・さらに遡れば必然的に、タマシイは最初期生命である「ルカ」にのみ与えられ、それが時代を下って小分けにされてると考えられます。

要するに、すべての生命の縦軸(歴史のつながり)と横軸(生態系のひろがり)が全部ひとかたまりのタマシイ、すなわち「わたくし」なんである、って結論に至ります。

 

その反対論として、タマシイとはパーソナルなもので、あくまでもわたくしという概念存在とどこまでも・・・例えば前世から、今、そして来世までワンセットなのだ、という宗教観もあります。

だけど、地球で人間として死んだらまた地球の人間として生まれ変わり、そのどちらもわたくしという人間一個人のアイデンティティを持つものなんである・・・なんてチッセーことが、宇宙のエネルギー現象として起こるなんて、信じられます?

タマシイ現象は人類に固有に与えられた特権で、この時空間の普遍的構造(宇宙中で同じ物質が等質等量で行き渡り、どこででも同じ物理現象と物理定数が通用する世界)から完全に独立して存在してるなんて。

 

逆に、タマシイが普遍的なものであると仮定すると、人間の人生を通過した後にハエに生まれ変わる、なんてのはおろか、遠銀河の果ての宇宙人ってチョイスまでも普通にあっておかしくはありません。

それどころか、タマシイは広大な宇宙空間のどこにでも展開してる、ってことになります。

「このスペースはわたくしたちだけで使うには広すぎる」って名言もありますよ。

ここはひとつ、肉体を失ったわたくしのエネルギーは宇宙中に散開する、と考えることにしませんか。

エントロピーの法則によれば、エネルギーは(保存則により)決して失われない、とあります。

それは形を変えて永遠に存在しつづけてくれるんで、安心安心。

かくて、死後の世界にいくとはすなわち、生前の世界に戻る、ってことなんですよ。

 

エネルギーを集中させて、物質界にちょっと寄り道・・・

それがこの生の意味なんじゃないですかね。

「生きる」って、どういうことなんだろね?
ぼくらの生命活動は、突き詰めれば「酸素から電子を引き剥がし、体内で電気エネルギーを行き来させる」ってことになりそう。
これがつまり「呼吸をして、心臓が動いてる」状態ね。

ぼくら人類は、タンパク質間の通電で生体メカニズムを活動させてて、その中枢部をオンラインにすることで思考という作業が可能になり、すなわち「わたくし」というアイデンティティが発生する。
だけど逆に、生体をコントロールするわたくしがいるから、呼吸と鼓動を繰り返す生命機械が存在しつづけられる、とも言える。
まったく不思議なことに、肉体の物理的構造を超越した主体性が、「肉体に先駆けて」内側のどこかに存在してるようだ。

布団の中にもぐり込んで目をつぶってるとき、それは如実に感じられる。
ぼくは、確かにぼくの中にいる。
ぼくの肉体が世界の中に存在してる以上の重みで、ぼくの中身がぼくの肉体の中に存在してる。
中にいるぼくは、ぼくの肉体を操縦し、ぼくの肉体の目から外をのぞき見て、世界とつながり合ってる。

アリストテレスの昔から、「霊魂」という生命の根源がある、みたいに考えられてたようだ。
肉体から完全に独立した、生命機械の操縦者がいるのだ、と。
近代になってから、人体を解剖した学者が脳のシワシワの中に「小人が座ってるような形状がある」ことを見つけ、これを「ホムンクルス(小さなヒト)」と名づけて、これこそが人体の操縦者なのでは?としたこともある。
だけど、純物質である人体に操縦者がいるとすると、新たに疑問が生じる。
「その操縦者を操縦する者は?」という問題だ。

わたくしのホムンクルスの中にひと回り小さなホムンクルスが乗り組むとすると、その小さなホムンクルスにもさらに小さなホムンクルスが乗り組む必要があり、その小さな小さなホムンクルスにも・・・と、鏡の中の鏡のような無限後退が発生して、最後には「神的存在」に行き着くしかなくなる。
だけど、そんな最終的絶対者にさえコントローラーの存在が必要で(この絶対者は絶対者じゃないようだ)、そのコクピットにホムンクルスが乗り組むとなると・・・話が最初に戻ってしまう。

ぼくに操縦者はいない。
そこにあるのは、タンパク質という純物質と、電気という量子の相互作用のみ。
生きるという活動は、結局ここに帰結する。
宇宙からこの肉体という小さな系にエネルギーを取り込み、体内を循環させては放出。
宇宙全体がぼくの中で一周して、戻っていく。
すると、この宇宙ってもの全体が、アリストテレスの言う霊魂なのかもね。

 

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

「世界とは、自分の内側につくられたビジョンにすぎないんである」というのが多くの現代科学(と古来哲学)の見解です。

われ思う、ゆえに世界あり。

じゃ、外に見えてる世界はなに?

いや、そこに世界はないようだ。

じゃ、内側ってどこにあるの?

それもまた、どこにもないようだ。

じゃ、内側と外側の境目は?

それこそが、「生きてる」という意味らしい。

 

「時間も空間も物質もなく、ただ波があるとしようではないか」というのが量子力学の意見です。

波・・・ね、うそくさ。

だけど結局、これですべての説明がつきそうなのですよ、観念的には。

ギリシャの昔から人類が考え抜いてきた哲学、つまり世界の構造と、現象の奥にあるカラクリが、ついにこの現代に至って、矛盾のない科学の形に落ち着きそうなわけです。

 

例えば、音って空気が振動する波ですよね。

空間と物質というものがあるのなら、というワンステージをつくってからの議論となりますが、ひとまずはここからはじめましょ。

音が聞こえる際になにが起こってるのか、というとこんな具合い。

 

ある衝撃によって空気の疎密波が発生し、大気の震えの一部がたまたまあなたの耳に届いて鼓膜を揺らし、それがカタツムリみたいな器官で増幅されて、神経末端に伝わります。

その先の神経系で、なぜか波は、唐突に電気信号に変換されます。

これが「音」の正体。

そしてここから先が、あなたの「内側」ってことになりましょうか。

この時点で、あなたの外側で起きた変化のサインが、あなたの感覚によって独特な解釈に投影されるわけです。

こうして、世界は築かれます、あなたの内側に。

 

そんなあなたの築いた世界というのが、実にここまで説明してきた「空気が震えて」「耳の中の鼓膜が揺れて」「器官で増幅されて」の部分なのですね。

もともとそれらはどこにも存在してなかったのですが、あなたが電気信号を解釈した瞬間に、それらは外界のイメージに還元される形で生じたわけです、あなたの中に。

あなたが現象を解釈することによって、存在が開始されたのですよ、世界が・・・逆説的ですが。

 

なんだかプラトンさんの「イデア」って考え方を連想しちゃいますね。

人類はせまい洞窟の中で世界の実相の影を見てるに過ぎない、みたいなやつです。

あなたの頭の中は洞窟で、世界の実相とは実は湧き立つ波で、それを感知した脳内に立ち上がるビジョン(つまりあなたの見てる世界)はただの幻影に過ぎないのかも?

 

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

「素粒子は、誰かに見られたときにだけ形になる」の意味がぜんぜんわからない、ってひとがいるみたい(そりゃそうだが)。

有名な実験があるから、まずはその結果を知っておいて。

不思議で、直感に反してて、とても得心がいくもんじゃないけど、とにかくこれを「世界の事実なのだ」と受け入れる必要がある。

量子論はここからはじめるしかないのだ、と覚悟しなきゃね。

 

白い壁の手前に、小穴がふたつ開いたついたてが置いてある。

その穴に向けて、一個の素粒子を発射する。

ふたつの穴のどちらかを通し、素粒子を奥の白壁にぶつけるわけ。

これを何度か繰り返すと、ついたて越しの白壁の二箇所(穴を通り抜けるあたり)に、当たり跡が集中する。

・・・かと思いきや、なんと壁全面にわたって当たり跡ができる。

ついたてで死角になるはずの、あたりっこない位置にも!だよ。

その痕跡群というのが、「波」が壁全面にぶつかったような模様になってるわけ。

 

これを整合的に解釈すると、次のようになる。

発射する時点で「粒」だった一個の素粒子が、飛行中は「波」になって広くひろがり、ついたてのふたつの穴の両方(!)を素通りして壁に向かう。

「波」化した素粒子は、壁にぶつかると再び「粒」に戻り、一点に当たり跡を残す。

それを果てしなく繰り返すと、ランダムな当たり跡の総合によって、壁一面に波が押し寄せたような模様が残る・・・と。

 

さらに賢いひとはこれを「素粒子は普段は波の姿だけど、観測された瞬間に実体化する」と説明することにした。

すなわち、発射時点の素粒子は「ひとに見られてる状態」なので、粒という物質的性質を与えられる。

発射され、ひとの目を逃れた素粒子は、波の状態に散らかる。

素粒子は広く展開したまま、ついたてのふたつ穴を通り抜ける。

その先まで進んで壁に当たると、位置を観測(すなわち視認)されるので、素粒子は粒の姿に戻って、一点に痕跡を残す。

・・・つまり、素粒子は普段、波のように三次元展開した状態でどこにいるかわからないが、何者かに見られた瞬間に一点に収束し、ある位置に出現するんである・・・と。

 

だったら同じ実験内容で、ふたつ穴のどっちを通ったか(本当にふたつの穴を同時に通ってるのか?)を調べる装置を追加してみよう、ってことになった。

するとなんと、素粒子は穴を通過する時点で測定器に「観測されて」粒になり、ふたつの穴を同時に通り抜けることができず、一方だけを通過したんだ。

そしてさっきの結果とは違い(同じ実験なのに!)、ついたての奥の壁には、穴の延長線上の二箇所のみに痕跡が集中したんだ。

素粒子は、見られてないときは「波」、見られてるときには「粒」、と姿を変えるんだよ、まじで。

 

この観測収縮の受け入れは、量子力学を理解するための最初の儀式だよ。

信じるか信じないかはあなたの自由だけど、信じないことには先に進めない。

素粒子は、粒にして、波・・・

そしてその波は、観測された途端に一点に収束して物質化する・・・

だからなに?って感じだけど、とにかく、世界はそうできてるようだ。

 

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

量子論と生物学が結びつくと、細密化学分野の分子生物学が、さらに怪しげな「量子生物学」ってものになります。

ここに至ると、もはや禅的観念の域になり、直感では理解できないオカルト(最新サイエンスなんだけど)の色が差してきます。

初歩的な例では、量子力学に「観測した瞬間に物質が立ち現れる(観測されないものは実体として存在しない)」なんてものがありますよね。

物質は、誰にも見られてないところでは滅形して、波の状態にあります。

そうして空間上のあらゆる座標上に広く展開し、霧散しますが、そいつがですね、ぼくが見た途端に薄雲は一点に収縮し、一個の素粒子として顕現するのですね。

物質と波の相補性と言いまして、素粒子は常にぼくらの目とかくれんぼをしてて、隠れてるときには本当にどこにもいなく(「どこにもいる」とも言えますが)、いざ探すと一点に姿を見せるのです。

・・・すでにややこしくなってますが、これが素粒子の量子的性質なのです。

どれだけ精密な実験を重ねてもその結果になりますし、このことは数学的にも方程式の形で証明できてます。

要するに、ひとが目を閉じるとき、この世界にはなにもないのです。

なにもないんだけど、目を開くと出現するのです。

つまり世界をつくるには、それを見る誰かがいなきゃいけないわけです。

観測をする何者かが存在してはじめて、世界は存在できるのです。

誰かが観測しなければ、そこに物質は存在しません。

いや、形なき「影」が隠れた状態でみっしりと存在してるんだけど、観測することではじめて実体が獲得され、素粒子らしい姿が立ち現れる・・・この描像までは理解できますか?

ま、信じてもらうしかないわけですが(最先端科学なので)、その先です、問題なのは。

ここに生物学を・・・いのちの問題を絡めなきゃならないわけです。

ぼくは、いますよね(たぶん)。

そのぼくが「見る」「感じる」ことで、ものが実体を得ます。

だとしたら、物質であるぼくは、誰かに見てもらえるまで存在できません?

自分で自分を見りゃいいの?

セルフビルドスタイル?

コギト・エルゴ・スム(われ思う、故にわれあり)?

だけど、「見る」「感じる」存在であるぼく、ってのは、自分を見て存在させる瞬間まではどこで待機してんの?

 

・・・って話をですね、科学的説得力を持って書こうと思ったのですが、前置きが長くなっちゃったんで、今日は書くまでに至らず、ここまで。

つづく・・・

 

炭水化物(お米)を食べると力になり、タンパク質(お肉)を食べると体重になる・・・とは漠然と知ってますよね。

これを分子生物学で理解しましょう。

 

炭水化物は、(ほぼ)植物にしかつくれません。

彼女たちは太陽光のエネルギーを使い、二酸化炭素(CO2)と水(H2O)をグルコース(C6H12O6)の形にまるめ、お釣りで出た酸素(O2)を捨てます。

植物はこうして自ら栄養素をつくれるので、「独立栄養生物」という称号を持ってます。

一方で、それを食べることでしか栄養を得られないわれわれ動物は、「従属栄養生物」という立場に甘んじるしかありません。

ノア・ハラリさんの「サピエンス全史」が、ホモサピエンスを描く際に、植物の側に主体性を置いて「小麦は人類に奴隷労働をさせることで世界中の土地を征服した」という言い回しを使ってますが、こういうことなんでした。

さて、植物につくってもらった炭水化物を、われわれ人類は体内に取り込みます。

その際に植物とは逆プロセスを使い、酸素を吸って炭水化物を二酸化炭素と水に分解(排出)し、太陽光(と等価)のエネルギーを抽出する、という作業をしてます。

植物が毒と感じて排出してた酸素の燃焼力を利用して、エネルギー玉をつくり出すわけです。

要するに炭水化物を食べるという行為は、呼吸と結び合わせて運動の活力にする、ということなんでした。

 

一方でタンパク質の摂取は、ゲノム方面が関係してきます。

遺伝子=DNAの塩基コードは、体をどうつくるか?の設計図ですが、より単純には「どのアミノ酸をどの順序で並べるとどのタンパク質になるか」という情報です。

細胞内のシステムは、この情報に基づいていかにアミノ酸を集め、タンパク質の形にして体内に送り出すか、ということに尽きます。

ここまで書けば、こちらも逆ルートをたどることで解答が見えてきますよね。

タンパク質を食べると、消化器系がこれをアミノ酸レベルにまで分解します。

そうしてバラバラになったアミノ酸を獲得した細胞は、DNAが示す設計図通りに、任意のタンパク質に編み上げます。

取り込んだタンパク質を解体して、いったんアミノ酸に戻し、もう一度タンパク質の形にリサイクルするわけです。

新しくつくられたタンパク質は、お届け先のタグで修飾され、筋肉になるべきものはその箇所に、コラーゲンはお肌に、ヘモグロビンは血管に・・・などと送り出されます。※1

 

これが「炭水化物は力になり」「タンパク質は体重になる」の意味です。

つわけで、食事ではその都度に必要なものを摂りましょう。

 

※1 こんなわけで、「コラーゲン」や「コンドロイチン」なんてサプリメントを摂取しても無駄だよ。そいつはいったん体内で、アミノ酸という最小単位にまで切り刻まれる運命にある。その先で偶然にコラーゲンに再生してもらえたら御の字だけど、その確率は高くないと言っていい。CMの内容を注意深く読み解いてみて。「・・・と、専門家が報告しています!」みたいに曖昧な表現になってるから。

 

命・・・ってなんなんでしょうね?

いつもこんなことばっか考えてます。

いや、情緒的な意味でも、文学的、哲学的でもなくて、純粋サイエンスで。

どこからが生命なのか・・・?

どこまでが生物なのか・・・?

どこで区切られて「個」なのか・・・?

よくわかんないですよね。

草や木まではギリギリ生命って感じがしますが、竹林は根っこでひとつながりになっちゃってますし、木も森にまで展開しちゃうと、地上に自然発生した自律的な環境システムって感じになってきて、タマシイ論に立ち入るべきなのか?って話になっちゃいます。

カビは森の縮小版ですが、個はどこで隔てられてるのか?ってのも気になります。

それに、主体性の問題ね。

細菌は他者に働きかける活動をしますが、ウィルスとなると、姿かたちが幾何学的な上に、アクションが全自動的すぎて、もはや生きもの感なし。

それでありながら、個々が独立した系であり、オリジナルで発展式の遺伝子も持ち、増殖までしてみせます。

生命としてカテゴライズできない理由はありません。

さらに、人間は個としての生物に見えるけど、だったらそれを構成する細胞は?

たくさん集まって脈打ち、蠢き、自律的に活動し、目的を持って共同生活を営むそのひとつひとつを、生物個体ではない、と言いきってしまっていいものなのか?

その細胞の中で働く、例えば個々に分裂する核はただのパーツ?知性まで感じさせる転写・翻訳装置(RNA機構)は?もはや職人と言っていい腕前と正確さでコードを読み取ってタンパク質を編み上げていく工場(リボソーム)は?

個々別々に仕事をまかされて従事するこの子たちは、個人事業主です?それとも人間としての私が本当にそれを私自身の仕事として統括してます?

エネルギー製造装置であるミトコンドリアは、むかし生物だったものが細胞に飲み込まれた名残らしいです。

そんなミトコンドリアに住まうタンパク質や酵素もまた、生命活動のような働きをしてるし、ひょっとしてこのひとたちは、細胞に飲み込まれる前のミトコンドリアに飲み込まれた?

生命とは、どこまでも別人同士が入り組んだ入れ小細工なんじゃないですかね?

考えてみたら、単細胞生物が複数個くっついたときに多細胞生物が生まれたわけで、この時点で生命はひとつになったんでしょうか?それとも複合ユニットは複数個のタマシイを持ってる?

究極的には、「精子は生物なの?」問題があります。

いつ、どのタイミングでタマシイが入ったの?

それとも、受精前のこの子には「個」は入ってないの?

卵子には?

受精卵にはタマシイがふたつ同居してる?

・・・なんて不思議極まることをね、今後は書いていきたいと思ってます。

したいようにすれば?って感じ?

はーい。

 

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

世界のつくりを探求することに夢中ですわ。
大人になってから勉強するのが、こんなに楽しいなんてね。
寝ても覚めても、素粒子の振る舞いを追ってるし。
宇宙の果てと時間のゆがみを想像してるし。
細胞の脈打ちと自分のアイデンティティとの統合性を腹の底に探してるし。
本当にいつもいつもそんなことをしてて、病気かな?と思うほどだよ。

お日さまの下で芝生に座るでしょ。
すると、目の前の広場にひとが立ってるじゃない。
さらにその向こうに樹が生えてるじゃない。
ぼくと、あのひとと、あの樹は、同じ時間に存在して「ない」んだよ。
ぼくに見えてるあのひとは(光速度に限界があることから)コンマ数秒前のひとで、その向こうの樹はさらにコンマ数秒前の樹で、その上空の雲はもっと前のやつで、太陽にいたっては数分前のやつで・・・
その像はぼくのオリジナル世界を構築してて、だけど実際のそれらの現在は、ぼくが見る姿からとっくに様相を変えてるんだ。

広場に立つあのひとを取り巻く景色は、ぼくが見るものとは別の時間軸にある。
あのひとはぼくとは違う雲を見てるし、あのひとの太陽も少しだけぼくのとは別のやつだ。
ただ、ぼくと樹との中間に位置するあのひとには、ぼくと樹が同じ時間に存在してる(ぼくとあのひとーあのひとと樹、とが等距離だとして)。
・・・そうだ、それでふと思い出した。

ぼくがいる地球から一光年離れた惑星にAくんがいて、そこからさらに一光年離れた惑星にBちゃんがいるとする。
地球から望遠鏡で見るAくんは1年前の彼で、Bちゃんは2年前の彼女、ってことはわかるよね?
だけど(AくんがぼくとBちゃんの中間地点にいることから)Aくんから見るぼくは1年前のぼくだけど、彼から見るBちゃんも1年前の彼女だ。
ってことは、ぼくとBちゃんとは、Aくんから見ると反対側に位置するものの、同じ時間の系にいるってことになる。
なのに、Bちゃんから見るAくんは1年前の彼で、ぼくは2年前のぼくだ。
ってことは、Bちゃん(ぼくからは2年前の彼女)が「今まさにBちゃんを見るぼく」を見るには、4年の歳月が必要だ。

すでによくわかんなくなってきてるけど、さらにわかんなくする。
そんなBちゃんが、光速度で飛ぶロケットを使ってぼくに会いにくるんだ。
すると、どうなると思う?
さらに、待ち合わせ場所をふたりの中間地点であるAくんの惑星に設定して、ぼくも光速ロケットを使ってそこに向かうんだ。
すると、三人の時間軸はどうなるだろう・・・?
このロジックをうまく使えば、未来が見えるんだ。

・・・ってなことを考え詰めて、ぼくは23歳の頃に、どこにもぬかりなく思える完璧なタイムマシーン理論をまとめ上げた(はるか前のブログにこの説と論証を詳細に記述してあるから、気になるひとは探してみて)。
光の行き来を利用すれば、タイムマシーンは実際にできるのです!
ただ、あのときはまだ、相対性理論とそれによる光の制約を知らなかったんだよなあ・・・
アインシュタインさえいなきゃ、ぼくはノーベル賞をもらえるはずだったんだ。
・・・という取り留めのない一件でございます。