ぼくはひとつの個体としての生物なんである・・・とは言いきれないところに、生命の難解さ、つか謎がありますね。
ぼくのからだは多くの細胞でできてて、その細胞ひとつひとつもまた生命個体である、とすると?
その器であるぼくは、生命個体というよりは、多くの生命を住まわせるひとつの宇宙、ってことになりますかね。
いやいや、人体を分割する細胞は独立した生物とは言えないだろ、という意見もあります。
だけど、その活動はまさに原生生物のもので、ぼくの肉体を環境と解釈すれば、そのスペース(宇宙)内でそれぞれに閉じた系を持ち、新陳代謝をし、分裂して自分を増やす細胞のひとつひとつは、例えば「地球環境に置かれたぼくの個体」という立場となんら相違はありませんよね。
細胞内のミトコンドリアなどは、本当にむかし、ぼくじゃなかったひとで(DNAからしてぼくとは別もの)、補食されて体内に取り込まれ、居候してる間に、すっかりぼくの一部になっちゃいました。
エネルギーつくり係のこのひとがいないとぼくは生きられませんし、彼女は完全にぼくの一部に組み込まれてますが、それでも彼女ははっきりとぼくとは別人です。
精子はもっとややこしいです。
この子はぼくの一部ですが、生命と呼ぶには条件が足りず、だけどこれもまたはっきりと「ぼくじゃないひと」になる子です。
今西きんじさんという哲学者みたいな生物学者さんは、「酸素や炭素も草木も動物も、体内に取り込めば人体の一部なんだから、ぼくとは生態系でなんであり、環境そのものなんであり、すなわちぼくこそが宇宙なんである」みたいなことを言ってます。
なるほど、体内に居着く他人である細胞がぼくの一部なら、ぼくの体外にいるあのひとたちも(あなたでさえも)、呼吸のやり取りや循環の営みでぼくと一連につながってる以上は、ぼくのシステムの一部でないわけがありません。
ましてや、空気や水などは全体でまとまってひとつの系なんだから、地球が、宇宙が、まさにぼくを駆動させる部品なのだと解釈できます。
つまり、ぼくが宇宙に組み込まれてるわけじゃなく、宇宙がぼくの生命機関に組み込まれてるわけです。
最初期の生命誕生の物語も、次のように解釈できます。
つまり、例えば太古のむかし、池のような閉鎖系の中に有機物がたまり、凝縮され、つながりあって、生命の前駆体ができました。
ここに自律性が・・・ちょっと違和感を許してもらえれば、アリストテレスの言う「霊魂」が込められます。
その霊魂はですね、生物の前駆体であるひとつの原形質(ゾウリムシみたいな?)個体に宿ったんじゃなく、実は「池」そのもの、池という有機物循環システム全体に与えられたんじゃないか、という考え方もできますよね。
とすれば、池こそが最初の生命体だったわけです。
生命とは、一般に考えるよりもずっと大きな概念なのですよ。
うごめく小さきもの一個体一個体が生きてるんじゃなく、めぐりめぐる環境そのものが、自律性を持って生きてるんです。
海や、大気圏や、惑星もまた、閉鎖系ですよね。
生命現象ってのは、大くくりなそれ総体がひとつにつながり合って生きてるね、ってことなんじゃないでしょうか。
宇宙に生命の普遍性なんて概念を持ち込むと、あながち許されていい説なのでは?と感じますが、いかが?