「世界とは、自分の内側につくられたビジョンにすぎないんである」というのが多くの現代科学(と古来哲学)の見解です。

われ思う、ゆえに世界あり。

じゃ、外に見えてる世界はなに?

いや、そこに世界はないようだ。

じゃ、内側ってどこにあるの?

それもまた、どこにもないようだ。

じゃ、内側と外側の境目は?

それこそが、「生きてる」という意味らしい。

 

「時間も空間も物質もなく、ただ波があるとしようではないか」というのが量子力学の意見です。

波・・・ね、うそくさ。

だけど結局、これですべての説明がつきそうなのですよ、観念的には。

ギリシャの昔から人類が考え抜いてきた哲学、つまり世界の構造と、現象の奥にあるカラクリが、ついにこの現代に至って、矛盾のない科学の形に落ち着きそうなわけです。

 

例えば、音って空気が振動する波ですよね。

空間と物質というものがあるのなら、というワンステージをつくってからの議論となりますが、ひとまずはここからはじめましょ。

音が聞こえる際になにが起こってるのか、というとこんな具合い。

 

ある衝撃によって空気の疎密波が発生し、大気の震えの一部がたまたまあなたの耳に届いて鼓膜を揺らし、それがカタツムリみたいな器官で増幅されて、神経末端に伝わります。

その先の神経系で、なぜか波は、唐突に電気信号に変換されます。

これが「音」の正体。

そしてここから先が、あなたの「内側」ってことになりましょうか。

この時点で、あなたの外側で起きた変化のサインが、あなたの感覚によって独特な解釈に投影されるわけです。

こうして、世界は築かれます、あなたの内側に。

 

そんなあなたの築いた世界というのが、実にここまで説明してきた「空気が震えて」「耳の中の鼓膜が揺れて」「器官で増幅されて」の部分なのですね。

もともとそれらはどこにも存在してなかったのですが、あなたが電気信号を解釈した瞬間に、それらは外界のイメージに還元される形で生じたわけです、あなたの中に。

あなたが現象を解釈することによって、存在が開始されたのですよ、世界が・・・逆説的ですが。

 

なんだかプラトンさんの「イデア」って考え方を連想しちゃいますね。

人類はせまい洞窟の中で世界の実相の影を見てるに過ぎない、みたいなやつです。

あなたの頭の中は洞窟で、世界の実相とは実は湧き立つ波で、それを感知した脳内に立ち上がるビジョン(つまりあなたの見てる世界)はただの幻影に過ぎないのかも?

 

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

「素粒子は、誰かに見られたときにだけ形になる」の意味がぜんぜんわからない、ってひとがいるみたい(そりゃそうだが)。

有名な実験があるから、まずはその結果を知っておいて。

不思議で、直感に反してて、とても得心がいくもんじゃないけど、とにかくこれを「世界の事実なのだ」と受け入れる必要がある。

量子論はここからはじめるしかないのだ、と覚悟しなきゃね。

 

白い壁の手前に、小穴がふたつ開いたついたてが置いてある。

その穴に向けて、一個の素粒子を発射する。

ふたつの穴のどちらかを通し、素粒子を奥の白壁にぶつけるわけ。

これを何度か繰り返すと、ついたて越しの白壁の二箇所(穴を通り抜けるあたり)に、当たり跡が集中する。

・・・かと思いきや、なんと壁全面にわたって当たり跡ができる。

ついたてで死角になるはずの、あたりっこない位置にも!だよ。

その痕跡群というのが、「波」が壁全面にぶつかったような模様になってるわけ。

 

これを整合的に解釈すると、次のようになる。

発射する時点で「粒」だった一個の素粒子が、飛行中は「波」になって広くひろがり、ついたてのふたつの穴の両方(!)を素通りして壁に向かう。

「波」化した素粒子は、壁にぶつかると再び「粒」に戻り、一点に当たり跡を残す。

それを果てしなく繰り返すと、ランダムな当たり跡の総合によって、壁一面に波が押し寄せたような模様が残る・・・と。

 

さらに賢いひとはこれを「素粒子は普段は波の姿だけど、観測された瞬間に実体化する」と説明することにした。

すなわち、発射時点の素粒子は「ひとに見られてる状態」なので、粒という物質的性質を与えられる。

発射され、ひとの目を逃れた素粒子は、波の状態に散らかる。

素粒子は広く展開したまま、ついたてのふたつ穴を通り抜ける。

その先まで進んで壁に当たると、位置を観測(すなわち視認)されるので、素粒子は粒の姿に戻って、一点に痕跡を残す。

・・・つまり、素粒子は普段、波のように三次元展開した状態でどこにいるかわからないが、何者かに見られた瞬間に一点に収束し、ある位置に出現するんである・・・と。

 

だったら同じ実験内容で、ふたつ穴のどっちを通ったか(本当にふたつの穴を同時に通ってるのか?)を調べる装置を追加してみよう、ってことになった。

するとなんと、素粒子は穴を通過する時点で測定器に「観測されて」粒になり、ふたつの穴を同時に通り抜けることができず、一方だけを通過したんだ。

そしてさっきの結果とは違い(同じ実験なのに!)、ついたての奥の壁には、穴の延長線上の二箇所のみに痕跡が集中したんだ。

素粒子は、見られてないときは「波」、見られてるときには「粒」、と姿を変えるんだよ、まじで。

 

この観測収縮の受け入れは、量子力学を理解するための最初の儀式だよ。

信じるか信じないかはあなたの自由だけど、信じないことには先に進めない。

素粒子は、粒にして、波・・・

そしてその波は、観測された途端に一点に収束して物質化する・・・

だからなに?って感じだけど、とにかく、世界はそうできてるようだ。

 

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

量子論と生物学が結びつくと、細密化学分野の分子生物学が、さらに怪しげな「量子生物学」ってものになります。

ここに至ると、もはや禅的観念の域になり、直感では理解できないオカルト(最新サイエンスなんだけど)の色が差してきます。

初歩的な例では、量子力学に「観測した瞬間に物質が立ち現れる(観測されないものは実体として存在しない)」なんてものがありますよね。

物質は、誰にも見られてないところでは滅形して、波の状態にあります。

そうして空間上のあらゆる座標上に広く展開し、霧散しますが、そいつがですね、ぼくが見た途端に薄雲は一点に収縮し、一個の素粒子として顕現するのですね。

物質と波の相補性と言いまして、素粒子は常にぼくらの目とかくれんぼをしてて、隠れてるときには本当にどこにもいなく(「どこにもいる」とも言えますが)、いざ探すと一点に姿を見せるのです。

・・・すでにややこしくなってますが、これが素粒子の量子的性質なのです。

どれだけ精密な実験を重ねてもその結果になりますし、このことは数学的にも方程式の形で証明できてます。

要するに、ひとが目を閉じるとき、この世界にはなにもないのです。

なにもないんだけど、目を開くと出現するのです。

つまり世界をつくるには、それを見る誰かがいなきゃいけないわけです。

観測をする何者かが存在してはじめて、世界は存在できるのです。

誰かが観測しなければ、そこに物質は存在しません。

いや、形なき「影」が隠れた状態でみっしりと存在してるんだけど、観測することではじめて実体が獲得され、素粒子らしい姿が立ち現れる・・・この描像までは理解できますか?

ま、信じてもらうしかないわけですが(最先端科学なので)、その先です、問題なのは。

ここに生物学を・・・いのちの問題を絡めなきゃならないわけです。

ぼくは、いますよね(たぶん)。

そのぼくが「見る」「感じる」ことで、ものが実体を得ます。

だとしたら、物質であるぼくは、誰かに見てもらえるまで存在できません?

自分で自分を見りゃいいの?

セルフビルドスタイル?

コギト・エルゴ・スム(われ思う、故にわれあり)?

だけど、「見る」「感じる」存在であるぼく、ってのは、自分を見て存在させる瞬間まではどこで待機してんの?

 

・・・って話をですね、科学的説得力を持って書こうと思ったのですが、前置きが長くなっちゃったんで、今日は書くまでに至らず、ここまで。

つづく・・・

 

炭水化物(お米)を食べると力になり、タンパク質(お肉)を食べると体重になる・・・とは漠然と知ってますよね。

これを分子生物学で理解しましょう。

 

炭水化物は、(ほぼ)植物にしかつくれません。

彼女たちは太陽光のエネルギーを使い、二酸化炭素(CO2)と水(H2O)をグルコース(C6H12O6)の形にまるめ、お釣りで出た酸素(O2)を捨てます。

植物はこうして自ら栄養素をつくれるので、「独立栄養生物」という称号を持ってます。

一方で、それを食べることでしか栄養を得られないわれわれ動物は、「従属栄養生物」という立場に甘んじるしかありません。

ノア・ハラリさんの「サピエンス全史」が、ホモサピエンスを描く際に、植物の側に主体性を置いて「小麦は人類に奴隷労働をさせることで世界中の土地を征服した」という言い回しを使ってますが、こういうことなんでした。

さて、植物につくってもらった炭水化物を、われわれ人類は体内に取り込みます。

その際に植物とは逆プロセスを使い、酸素を吸って炭水化物を二酸化炭素と水に分解(排出)し、太陽光(と等価)のエネルギーを抽出する、という作業をしてます。

植物が毒と感じて排出してた酸素の燃焼力を利用して、エネルギー玉をつくり出すわけです。

要するに炭水化物を食べるという行為は、呼吸と結び合わせて運動の活力にする、ということなんでした。

 

一方でタンパク質の摂取は、ゲノム方面が関係してきます。

遺伝子=DNAの塩基コードは、体をどうつくるか?の設計図ですが、より単純には「どのアミノ酸をどの順序で並べるとどのタンパク質になるか」という情報です。

細胞内のシステムは、この情報に基づいていかにアミノ酸を集め、タンパク質の形にして体内に送り出すか、ということに尽きます。

ここまで書けば、こちらも逆ルートをたどることで解答が見えてきますよね。

タンパク質を食べると、消化器系がこれをアミノ酸レベルにまで分解します。

そうしてバラバラになったアミノ酸を獲得した細胞は、DNAが示す設計図通りに、任意のタンパク質に編み上げます。

取り込んだタンパク質を解体して、いったんアミノ酸に戻し、もう一度タンパク質の形にリサイクルするわけです。

新しくつくられたタンパク質は、お届け先のタグで修飾され、筋肉になるべきものはその箇所に、コラーゲンはお肌に、ヘモグロビンは血管に・・・などと送り出されます。※1

 

これが「炭水化物は力になり」「タンパク質は体重になる」の意味です。

つわけで、食事ではその都度に必要なものを摂りましょう。

 

※1 こんなわけで、「コラーゲン」や「コンドロイチン」なんてサプリメントを摂取しても無駄だよ。そいつはいったん体内で、アミノ酸という最小単位にまで切り刻まれる運命にある。その先で偶然にコラーゲンに再生してもらえたら御の字だけど、その確率は高くないと言っていい。CMの内容を注意深く読み解いてみて。「・・・と、専門家が報告しています!」みたいに曖昧な表現になってるから。

 

命・・・ってなんなんでしょうね?

いつもこんなことばっか考えてます。

いや、情緒的な意味でも、文学的、哲学的でもなくて、純粋サイエンスで。

どこからが生命なのか・・・?

どこまでが生物なのか・・・?

どこで区切られて「個」なのか・・・?

よくわかんないですよね。

草や木まではギリギリ生命って感じがしますが、竹林は根っこでひとつながりになっちゃってますし、木も森にまで展開しちゃうと、地上に自然発生した自律的な環境システムって感じになってきて、タマシイ論に立ち入るべきなのか?って話になっちゃいます。

カビは森の縮小版ですが、個はどこで隔てられてるのか?ってのも気になります。

それに、主体性の問題ね。

細菌は他者に働きかける活動をしますが、ウィルスとなると、姿かたちが幾何学的な上に、アクションが全自動的すぎて、もはや生きもの感なし。

それでありながら、個々が独立した系であり、オリジナルで発展式の遺伝子も持ち、増殖までしてみせます。

生命としてカテゴライズできない理由はありません。

さらに、人間は個としての生物に見えるけど、だったらそれを構成する細胞は?

たくさん集まって脈打ち、蠢き、自律的に活動し、目的を持って共同生活を営むそのひとつひとつを、生物個体ではない、と言いきってしまっていいものなのか?

その細胞の中で働く、例えば個々に分裂する核はただのパーツ?知性まで感じさせる転写・翻訳装置(RNA機構)は?もはや職人と言っていい腕前と正確さでコードを読み取ってタンパク質を編み上げていく工場(リボソーム)は?

個々別々に仕事をまかされて従事するこの子たちは、個人事業主です?それとも人間としての私が本当にそれを私自身の仕事として統括してます?

エネルギー製造装置であるミトコンドリアは、むかし生物だったものが細胞に飲み込まれた名残らしいです。

そんなミトコンドリアに住まうタンパク質や酵素もまた、生命活動のような働きをしてるし、ひょっとしてこのひとたちは、細胞に飲み込まれる前のミトコンドリアに飲み込まれた?

生命とは、どこまでも別人同士が入り組んだ入れ小細工なんじゃないですかね?

考えてみたら、単細胞生物が複数個くっついたときに多細胞生物が生まれたわけで、この時点で生命はひとつになったんでしょうか?それとも複合ユニットは複数個のタマシイを持ってる?

究極的には、「精子は生物なの?」問題があります。

いつ、どのタイミングでタマシイが入ったの?

それとも、受精前のこの子には「個」は入ってないの?

卵子には?

受精卵にはタマシイがふたつ同居してる?

・・・なんて不思議極まることをね、今後は書いていきたいと思ってます。

したいようにすれば?って感じ?

はーい。

 

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

世界のつくりを探求することに夢中ですわ。
大人になってから勉強するのが、こんなに楽しいなんてね。
寝ても覚めても、素粒子の振る舞いを追ってるし。
宇宙の果てと時間のゆがみを想像してるし。
細胞の脈打ちと自分のアイデンティティとの統合性を腹の底に探してるし。
本当にいつもいつもそんなことをしてて、病気かな?と思うほどだよ。

お日さまの下で芝生に座るでしょ。
すると、目の前の広場にひとが立ってるじゃない。
さらにその向こうに樹が生えてるじゃない。
ぼくと、あのひとと、あの樹は、同じ時間に存在して「ない」んだよ。
ぼくに見えてるあのひとは(光速度に限界があることから)コンマ数秒前のひとで、その向こうの樹はさらにコンマ数秒前の樹で、その上空の雲はもっと前のやつで、太陽にいたっては数分前のやつで・・・
その像はぼくのオリジナル世界を構築してて、だけど実際のそれらの現在は、ぼくが見る姿からとっくに様相を変えてるんだ。

広場に立つあのひとを取り巻く景色は、ぼくが見るものとは別の時間軸にある。
あのひとはぼくとは違う雲を見てるし、あのひとの太陽も少しだけぼくのとは別のやつだ。
ただ、ぼくと樹との中間に位置するあのひとには、ぼくと樹が同じ時間に存在してる(ぼくとあのひとーあのひとと樹、とが等距離だとして)。
・・・そうだ、それでふと思い出した。

ぼくがいる地球から一光年離れた惑星にAくんがいて、そこからさらに一光年離れた惑星にBちゃんがいるとする。
地球から望遠鏡で見るAくんは1年前の彼で、Bちゃんは2年前の彼女、ってことはわかるよね?
だけど(AくんがぼくとBちゃんの中間地点にいることから)Aくんから見るぼくは1年前のぼくだけど、彼から見るBちゃんも1年前の彼女だ。
ってことは、ぼくとBちゃんとは、Aくんから見ると反対側に位置するものの、同じ時間の系にいるってことになる。
なのに、Bちゃんから見るAくんは1年前の彼で、ぼくは2年前のぼくだ。
ってことは、Bちゃん(ぼくからは2年前の彼女)が「今まさにBちゃんを見るぼく」を見るには、4年の歳月が必要だ。

すでによくわかんなくなってきてるけど、さらにわかんなくする。
そんなBちゃんが、光速度で飛ぶロケットを使ってぼくに会いにくるんだ。
すると、どうなると思う?
さらに、待ち合わせ場所をふたりの中間地点であるAくんの惑星に設定して、ぼくも光速ロケットを使ってそこに向かうんだ。
すると、三人の時間軸はどうなるだろう・・・?
このロジックをうまく使えば、未来が見えるんだ。

・・・ってなことを考え詰めて、ぼくは23歳の頃に、どこにもぬかりなく思える完璧なタイムマシーン理論をまとめ上げた(はるか前のブログにこの説と論証を詳細に記述してあるから、気になるひとは探してみて)。
光の行き来を利用すれば、タイムマシーンは実際にできるのです!
ただ、あのときはまだ、相対性理論とそれによる光の制約を知らなかったんだよなあ・・・
アインシュタインさえいなきゃ、ぼくはノーベル賞をもらえるはずだったんだ。
・・・という取り留めのない一件でございます。

さいきん流行りの(?)量子力学ですが、「これ以上はやさしく説明できん」と考えて書いた前回のものが「全然わからない」と言われたので、さらに噛み砕いてみます。
この考え方を念頭に置くと、世界の見方が変わってきますよ。
まず、目の前に見えてる景色を忘れて、心の目で現象を理解してみましょ。
あなたが視覚経由で脳内にとらえてる光景はすべて、人類の感覚器サイドによるパーソナル解釈な描像です。
目の前に立ち現れる光景(とあなたが信じてるもの)は、神経系のタンパク質が通電することで生じる夢に過ぎないのです。
その奥にある世界の実相を数学的に矛盾なく説明する試みが、果てしなくノーベル賞を獲りつづける最新サイエンス・量子力学です。
今回は、あなたの目の先、指の先に、実はなにがあるんか?というお話を「科学的に(宗教じゃなく!)」します。

この世界のベースは、いろんな種類のエネルギーが混じり合う真空・・・すなわち実質の「無」だと思ってください。
その各種エネルギーの波が干渉し合い、密度の高いところ同士が相互作用し合って、素粒子という現象が生じます。
ただ、ここで言う素粒子とは、つぶじゃなく、ただのエネルギーが圧縮された「点」です。
位置は持ってるけど、ひろがりも実体もありません。
この「点」が、他エネルギーの修飾によって、電磁気力を持ったり、重力に反応したりします。
ちなみにこの世界に働く力は、事実上、この電磁気力と重力のふたつがあるのみです。
世界とは、「素粒子という数学上の『点』があり」「電磁気力と重力が働く」・・・それきりなのです。(※力にはあと二種類があるけど、人類にはほぼ関係ありません)
だけど、これらが絡み合うと気体が生まれ、たくさん集まるとガスになり、雲になり、さらに凝集して石ころのような物質の様相を呈します。
なんでこんなことが起こるのかというと、素粒子は重力で引き合い、電磁気力で結び合えるからです。
と言いつつ、世界に石ころは実在しません。
それは人類サイドによる幻影です。
その石ころに見えるものは、素粒子(という数学上の解)と電磁気力と重力のエネルギーが相互作用しただけの「無の集合」ですから。
なのに、このエネルギー現象を、人類は「石ころ」と解釈する感覚器を持ってます。
幻影を実体として描写し、理解する能力を、人類(生物)は進化の過程で獲得したわけです。
あなたの指もまた、素粒子と電磁気力でできてます。
あなたの指は石ころをつまむ・・・ように見えますが、実はつまんではいません。
なぜなら、あなたの指も石ころも、「無」のエネルギー塊ですので。
だけどなぜそれがそれをつまんだように「感じる」のかというと、石ころの持つ電磁気力と指のプラスマイナスとが反発し合い、あたかもそこになにかが実在してるような「感覚」をあなたに与えるからです。
あなたの目は、指につまんだ(と思える)無のエネルギー現象を「石ころ」と視認しますが、それはエネルギー塊に差し込む光の交錯の様相を視神経が拾って解釈し、オリジナルな描像を立ち上げてるだけで、その中身は(「実」は!)空っぽなのです。
最高精度の顕微鏡で見てみると、石ころの中身は実際に空っぽです。
石ころ内の素粒子の密度たるや、拡大すると、ゴマ粒とゴマ粒が街のワンブロックほども離れてるほどスッカスカ。
肝心のゴマ粒にしても実体のない(位置のみを持つ)エネルギーですし、それらの間にひろがる果てしないすき間に存在するのは、電磁気の反発力だけ。
まさしくこの世界は真空で、感覚器の解釈が立ち上げる物質界という描像は、実際的な意味で「マボロシ」なのです。


さて、あなたの目に映る世界と、この数学的な世界・・・どちらがリアリズムなんでしょうね?
もう一度言いますが、これは最新サイエンス(宗教じゃない!)が導き出す、最高精度の世界構造です。

「素粒子は粒のような姿かたちを持たない」
「それはエネルギー量だけを与えられた、空疎な数学的存在(量子)」
・・・って話を、前回にしたところなんでした。
ここから先、さらに込み入った「量子場」の話をしていいですか?
いえ、します。

われわれの四次元時空世界は、のたうつエネルギーの層が束ねられた「場」というものでできてるんです。
そのエネルギーの波同士のぶつかり合いで、いろんな基本現象が起きます。
・・・訳わからんすね、でも聞いて。
例えば、クォーク場ってのがあります。
クォークについては何度も説明してますが、物質を原子の先まで刻んでいって、これ以上は刻めなくなった終点にある最小パーツ、すなわち「素粒子」です。
そのクォークひとつひとつが、場においては波の状態になって散開してるのです。
この波の密度(存在確率)が高いところで、点状の粒クォークがぴょんと発生します。
さて、このクォーク場にはグルーオン場ってのが重なってまして、グルーってのは接着剤のことなんですが、ぴょんと現れ出た粒クォークに、グルーオン(の波の高いところ)がぶつかります。
するとクォーク三つが接着されて、晴れて陽子が形づくられます。
その場にはまたヒッグス場ってのが重なってまして、組み上がった陽子にヒッグス粒子(の高波)がぶつかると、質量が実装されます。
その場にはさらに電子場がかぶってまして、波の高いところに電子がポンと生み出されます。
陽子がその電子と反応すると、水素原子という、ついに物質が発現します。
結局、物質とは、場の相互作用による現象そのものなんですね。
例えるなら、何枚かのエネルギーのシートのミルフィーユがありまして、その波打つシートのピーク同士がたまたま重なり合うことでぼくらの世界が構成される、というからくりになってます。
さて、そんなわけで水素原子ができたんでした。
さらにそこには光子場が重なってまして、場で生まれた光が水素原子にぶつかり、電磁気力が実装されます(順序には矛盾がありますが、そこは気にしないで)。
こうして電荷を持った水素は、他元素との引力と斥力とで化学反応を起こして、さまざまな分子(水とかね)をつくりはじめます。
だけど運悪くウイークボソン場の高波に飲まれると、放射性崩壊を起こしたりもします。
こうした場の波の高いところで生成されるキャラ(ボソン、グルーオン、光子などなど)すべてが、現代では素粒子と呼ばれます。
電磁気力や、クォークをまとめたり原子核の崩壊を促したりする核力、それに質量に重力、さらには物質を構成する素材まで・・・それらは形なきエネルギーの波の高いところで一点に収縮した塊、すなわち量子というわけです。
実際はもう少し複雑で、物質は反物質と同時に生成されたり消滅したりして世界を形づくる環境の勘定を合わせるわけですが、そんな話はまだ今度。

 

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

相対性理論にたどり着いたら、その先の量子力学まで知りたくなりますよね、ね。
物理の最新にして最細というこの根本理論は、もはや抽象表現、いわば哲学の領域。
だけど今のところ、世界を最も精密に説明する構造論だから、一応知っとくといいかもよ。

「量子」は「素粒子」の言い換えです。
これ以上は分割できない、物質の最小パーツなわけです。
その最小パーツを、ただの数字(量)として扱おうではないか、ってことにしたのです。
なんでそんなことをするのかっつーと、ミクロ世界に素粒子なんてものはついに実在しなかったからなのです。
昔のひとは、素粒子を実体のある粒だと思ってましたが、調べてみますと、そこには影も形も、なんにもありませんでした。
素粒子の実相は、エネルギーのひと塊、つまり一定の「数量」に過ぎなかったのです。
量は計れるのに実像がない、という。
とすれば、素粒子は「ただの数字でしかない」ってことになりますよね。
だけどそんな形のないエネルギーが、たくさん集まると実体に見えてくるから不思議なものです。
じゃ、その数字ってのはなんなの?っつーと、エネルギー最小の一個一個の量です。
これが、どれを取ってもピタリとひとつの定められた数値になってるのですね。
考えてみりゃ、これって不思議なことですよ。
エネルギーなんて、そこここにかすみみたいに散らかった茫洋としたものであって、手にもつかめず、ひと塊になんてできるものじゃありませんから。
だけどこいつを積み重ねますと(つまりエネルギー量を上げますと)、まるで整数のように数直線上で飛び飛びの値になるのです。
小数点以下がなくて、要するに途切れ途切れで、存在形が連続してないわけです。
すると形のないこいつでも、一個、二個・・・と数えることができるようになりますよね。
だから素粒子は、粒のように見えるのです。

例えば光は、むかしむかし、光子という粒(素粒子)だと考えられてました。
光が分割できることに気づいて、粒子説を決定づけたのはニュートンさんです。
ちなみにニュートンさんは、この発想を得た年に、ついでに微分積分を発明し、さらには万有引力の法則を発見するという、奇跡の一年間を送りました。
ところがその後の実験で、どうやら光は波の性質を持ってるようだぞ、となってきたのです。
粒じゃなく、かすみみたいにひろがって、手に触れようにないものだ、と。
こうしてしばらくは、光って粒なの?波なの?どっちなの?・・・という議論がつづきました。
そして時代が進みまして、アインシュタインさんが現れます。
彼はなんと「どっちも!」と大胆なことを言い、この問題に決着をつけました。

だけど、本当にそうでした。
「光は粒みたいに見える波、すなわち量子!」と、ついに人類は突き止めたのです。
この「量子力学誕生!」の論文でもって、アインシュタインさんはノーベル賞を受賞しました。
ちなみにこの人物もまた、量子の発想を得た年に、物質の最小単位を史上はじめて特定し(量子という概念に対して逆説的ですが、素粒子は存在するのだと証明し)、さらには特殊相対性理論を世に出すという、奇跡の一年間を送りました。

古典物理学ってのは、だいたいこのニュートンさんとアインシュタインさん、それにガリレオさんとの三人で全部が構成できちゃってる感じですね。
閑話休題になっちゃいましたが、量子論のつづきはまた次に。

相対論的重力理論をつづける。
ここからは思考実験だ。

われわれは地球を遠く離れ、無重力の宇宙空間を航行中だ。
あなたは上昇加速するロケット内の一室に立っている。
ロケットの床面があなたを上向きに押し込み、あなたは足の裏で自重を感じている(つまり地上とまったく同じ感覚だ)。
この部屋の壁に、水平に光線を発射する銃が取りつけられていて、向かい側の壁の同じ高さにある的に照準を合わせている。
発射!
水平まっすぐに光線が走る。
・・・かと思いきや、この光の航跡はなんと、下向きに曲がる。
光が水平方向に進む間に、ロケットは垂直方向に加速し、向かい側の壁が上にずれてしまうために、光は的より下に当たるわけだ。
これを「光はまっすぐに進む」と決めたアインシュタインは、「いや、曲がってないね。高速運動する物体が空間をねじ曲げただけだもんね」と言い張る。
まあ、相対的にはそうともこじつけられる。
 

が、本当に驚くのはここからだ。
宇宙から母なる地球に戻ったあなたは、地上に着陸・静止したロケットの一室に立っている。
地球の重力があなたを下向きに押し込み、あなたは足の裏で自重を感じている(いつもの感覚だ)。
ここで再び、壁に取り付けた光線銃の出番だ。
光線をさっきと同様に、向かい側の的に向けて発射する。
今度こそ光は水平方向にまっすぐに進み、的の中心に当たる。
・・・かと思いきや、またしても違う。
なんと、やはり光は下向きに曲がり、的の下側に当たるんだ。
アインシュタインは言う。
「なっ」と。
「(地球の)質量が時空間をねじ曲げたんじゃ」と。
 

ここでもう一度繰り返さなきゃならない。
光はどこまでもまっすぐに進むんだった。
ゆがんだ時空間上の測地線・・・すなわち、定点間の最短経路を。
光は決して曲がらない。
だとしたら、曲がるのは相対的に、時空間の方とするしかない(ただ、地球程度の質量の天体では、この曲率は無視できるくらいにわずかだ)。
質量は時空間をゆがませ、ゆがんだ時空間は加速度を発生させ、加速度はあなたに質量を感じさせる。
それこそが重力の正体だ!とアインシュタインの一般相対性理論は結論づけている。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園