「万有引力の法則」を「重力論」へと更新した、アインシュタインさんの説明です。

 

あなたは地上に立っている。

あなたの質量は地表面を下向きに押し込み、あなたは足の裏で自重を感じる。

これがG(グラビティ=重力)だ。

今度は、あなたは宇宙空間を旅するロケット内にいる。

ここには重力がない。

だけどロケットは上昇加速中で、あなたはその一室に立っている。

ロケットの床面があなたを上向きに押し込み、あなたは足の裏で自重を感じる。

これもGだ。

この双方の環境は、まったく同じ感覚をあなたの足の裏に与える。

ニュートンが万有引力の法則で定義した物理定数(とあなたと天体の質量の相互作用)によって、Gは・・・言い換えれば、あなたの体重は求められる。

あなたの肉体は常に、空間上に質量を持って存在している。

が、無重力空間にいるとき、それはあなたに感知されない。

Gが発生するのは、あなたが別の力によって動かされたとき・・・つまり加速系の中にいるときだけだ。

等速直線運動の系(静止系)にいても、それは意識されない。

体重は、Gがつくり出すあなたの幻影と言える。

 

エレベーターの上昇では、体重が普段よりも重く感じられる。

だけどそれは上昇加速中だけで、その後に速度が安定すると+α分のGは感じられなくなる(というか、Gは純粋な地球重力の1になる)。

電車に乗っているときも、発車後の加速中にあなたは進行方向からの圧を感じてよろめくが、速度がキープされると、地上の静止時と同じ安定を取り戻す。

あなたの質量をあなたはいつも持ち歩いているが、無重力空間の静止系では、それは存在しないものとできる。

逆に言えば、あなたが重力空間にいるか加速しているときにのみ(つまりGを感じたときにのみ)、あなたは自分の質量を意識できる。

・・・とすればわかりやすかったんだけど、相対性を絶対視する(矛盾ですね)あの科学者が、へそ曲がりなことに「いや逆だ。質量こそが加速度を生むのだ」と言い出したんだった。

質量が存在するために時空間はゆがみ、その底に向かってあなたは加速しつづけているのだ、と。

 

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ニュートン説を更新するアインシュタインの「説明」もまた、最新の量子力学的パラダイムの前では「記述」とされてしまうわけだけど、ひとまず彼は万有引力の構図を時空間の振る舞いとして矛盾なく説明し、その相互作用現象を「重力」と言い換えた。
そんな彼の、相対論的重力論を解説する。

まず彼は、特殊相対性理論で「質量とエネルギーは同じものだ(ご存じのE=mc2)」とした。
両者は形が違うだけで、光速の二乗を介して変換可能なのだ、と。
光速の二乗、ってところが引っ掛かるけど、速度ってのは要するに、空間距離と時間の流れをひとまとめにしたツールであるとだけ考えればいい。
つまりこの式は、質量とエネルギーのやり取りに時空間(タテヨコ奥行きの三次元+時間)が絡んでくる、と言ってるわけだ。
さらにその後に発表する一般相対性理論で、アインシュタインは慣性の等速運動系を加速系にまで拡張(一般化)する。
そして、「重力とは質量(エネルギーの集中)がゆがませる時空間上の加速度である」としたんである、なんと全部入りであることよ。

相対性理論は基本的に、光を絶対的な基準として中心に据え、もろもろの現象を相対的に説明してしまおう、という論法だ。
アインシュタインは、光はまっすぐに進む!しかもいちばん速く!と決めた(勝手に)。
光がいちばん速いかどうかはわからないし、まっすぐに進むわけでもないんだけど、とにかく相対性の主体を光の側に置いたのだ。
光が曲がって観測される場合があるのは、道の方が曲がってるせいであって、光は曲面の二地点間を最短距離に進んでるんだからまっすぐと言ってよい、というむちゃな理屈だ。
それを踏まえて、アインシュタインは「時空間は質量によってゆがむ」ものとした。
光との相対性に鑑みれば、光が曲がって見える定常の時空間は、光がまっすぐに進むぐにゃぐにゃの時空間、と言い換えることができるからだ。
張り詰めたゴムマットに鉄球を置いてたわませ、小球を転がす実験を見たことあるでしょ、あれあれ。
そして、ニュートンが「質量を持つもの同士は引き合う」とした「引く」との表現を、「加速する」と更新した。
加速ったって、どこからどこに向かって?
それは、本来あるべき座標から→質量がゆがませる時空間上のずれた座標へ、だ。
ただの机上計算だけど、皆既日食時の天体観測で、実際にこの考え方はニュートン式よりも精密であることが証明されることになる。
かくて彼は、質量から導き出される時空間のゆがみの曲率(光の道すじ)こそが重力の正体なのだ、と結論づけた。
物質同士は、引き合うのではなく、お互いがつくり出す時空間のゆがみの中を加速し合ってるんである、と。

・・・わかる?


ちょっと難しかったけど、本当に難解になっていくのはここからだ。
んなわけで、量子重力理論編につづく・・・かどうかは考え中(たぶんつづかない)。

 

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科学が現象を明らかにする際に用いる、「記述」と「説明」という言い回しがある。
ケプラーは天体の振る舞いを数式に落とし込んだわけだけど、それは運動のデッサンに過ぎず、根底にある原動力を組み込めていないため、「記述した」と言う。
一方でニュートンは、ケプラーの法則に「なぜ」を加えて運動の意味とメカニズムを明らかにし、すなわち「説明」をした。

ニュートンは、天体の軌道が楕円を描く他に、ところどころで不規則に振れるのが気になっていた。
そこで、その点までを網羅した根本理論を築こうと、まず慣性の法則を念頭に置いた。
ガリレオの、例の「動きはじめた物体はまっすぐに動きつづける」「ただし他から力を加えられないかぎり」というやつだ。
天体は、天上界を動きつづけているが、まっすぐにではなく、ゆがんだ軌道を巡っている。
そこで彼は、天体の運動には目に見えない力が干渉している、と考えたわけだ。
それは地上ではおなじみの、地球の中心方向への垂直ベクトルだとひらめいたが、ニュートンはもう一歩、思考実験を進めた。
地上で、大砲をあまりにも強く(つまり速く)水平方向に撃ち込めば、弾は慣性に従い、発射地点から見る水平方向を差したまま、宇宙空間へと飛び出していくだろう。
が、実際には弾の軌道は目に見えない力で地面方向に曲げられ、地球の丸みに沿って飛びつづける。
そしてついには地球を一周し、大砲の射手を後方から撃ち抜くにちがいない。

だったら、月も同様に「何者かが巨大な大砲で撃ち込んだ球体にすぎない」と仮定すれば?
月の直線運動(になるはずのもの)もまた、地球の中心に向かうなんらかの力、言わば「地球引力」から干渉を受け、地球をぐるぐると巡ることになるはずだ。

今、まさに空で起きている現象のように。
しかしこれだけでは、天体の不規則軌道という事実にフィットしない。
ニュートンがたどり着いた結論は、「万有引力」だ。
つまり、地球もまた「月引力」からの干渉を受け、月に向かって落ちている、という。
ただ地球があまりに大きいため、小さな月が地球を巡って見えるのだ。
その正円とは言えない回転軌道の軸は、なんてことはない、地球の中心ではなく、地球と月とを結んだ間にあったのだ。
さらにその運動は、太陽や他の惑星の引力からも干渉を受けている。
これでついに、天体の不規則軌道に「説明」がつく。
天体同士は、お互いに引っ張り合っていたのだ。
一件落着だ!

・・・ところが、のちに現れるアインシュタインのせいで、ニュートンのこの説明もまた「記述」に格落ちしてしまう。
なぜなら、ニュートンは「なぜ天体同士が引っ張り合うのか」についての説明をしていないからだ。
なんてことだ、相対性理論編にさらにつづくなんて。

 

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前回までのあらすじ


神が創りたもうた天上世界の惑星軌道が楕円にゆがんでいることで、プトレマイオスの天動説は破綻した。


その世界観を更新したコペルニクスの地動説も、やはり楕円軌道の解釈に腐心する。


なぜ太陽を中心に、惑星はまんまるの道すじを描いてくれないのか?


それが問題だ・・・

 



そこで、黎明期を迎えていた中世科学の出番だ。


精密な観測データを元に、ケプラーは惑星の楕円軌道に法則性を見出した。


彼の数式は、天体の運動(一定時間における進行距離と速度と回転芯との関係)を正確に描写しており、惑星が正円軌道を取らないことに、もはや疑いの余地はなくなった。


そしてついに、大砲の弾道研究から微積分法をつくってしまった天才、ニュートンが登場する。

 



さて、ニュートンにはハレーという知り合いがおり、数十年に一度だけ観測されるほうき星の研究をしていた。


「ニュートンさん、星の軌道って、まるいんすか?」
「いや、楕円だ。今、計算が終わった」


その数式に、ハレーが集めた観測記録を導入してみると、次回にほうき星が現れる日時と方角が正確に割り出された。


この天体、すなわちハレー彗星は、太陽を軸として長く偏った楕円軌道を描き、76年おきに地球に最接近するのだ、とその数式は示している。



この構図を見て、ニュートンには思い当たる節があった。


「大砲のタマを頭上高くに撃ち上げたら・・・」


タマは天高くのぼり、やがて失速して曲線を描きはじめ、最高点で進行方向を変えると、今度は地上に向かって加速する。


その放物線は、ケプラーの楕円軌道の法則にぴたりと合致する。


「・・・天体も落下してる?」



要するに、ハレー彗星は高くのぼり(つまりこちらから遠ざかり)、なんらかの力で引き戻され、落ちてくる(こちらに接近する)わけだ。


ただ、落ちる先に地面がないのだ。


落下点を与えられない天体は、永遠に落ちつづけるしかない。


ぐるぐると、ふたつのUターンのピークをつくって。


楕円軌道とはすなわち、落下と上昇の放物線をなめらかにつないだものに過ぎない。


「だとしたら、月なんてりんごと一緒やん!天上世界を落ちてんねやんか!」


 

・・・結論が近そうだが、長くなったのでさらにつづく。


紀元がはじまる頃にプトレマイオスが確立した天動説は、天上の星々の動きをわりとうまく描写してたようだ。
この考え方は千年以上も(あの教団による異端弾圧のおかげで)生き延びつづけた。

ところが、改めてきちんと観測してみると、完全な円であるはずの惑星の軌道が、実は楕円にゆがんでるという問題が持ち上がってきた。
おかしいなおかしいな・・・と感じながら、中世になった頃、コペルニクスがようやく「天動説まちがってんちゃうん」と言い出したんだった、死を覚悟して。
考えてみりゃ、地球を中心に頭上の天球(空にかぶされた壮大なドーム屋根)が回転してる、って理論基礎はあまりにも古くさい。
そこで、全天の星背景を不動のものとし、相対的に地球を回転させる(すなわち地動説)ことにしたわけだ。
なにしろ、太陽を中心に、水、金、地、火、木、土、の惑星が同心円上を周回してくれる図はシンプルで、かつ美しい。
ここにガリレオが望遠鏡を手に現れ、木星を周回する衛星を見て「やっぱコペ説、まちがいねーわ」と、太鼓判を押す形になったんだった。

ところで、天体の運動論におけるガリレオの役回りの重要性はそこじゃなく、本文とはまったく関係なく思える「慣性の法則」の論理立てだ。
かいつまんで言うと、「動きはじめたものはずっと一直線に動きつづける」「ただし外から力を加えない限りな」というやつだ。

それは少し横に置いておく。
さて、天上世界(宇宙空間という概念はまだない)の構造理解が更新されても、やはり惑星の軌道は楕円に見えてしまう。
最先端の天文台を任されたケプラーが、精密な観測記録を元に軌道計算すると、惑星の描く楕円形は二次関数の法則に正確に従ってることが明らかになった。

こうして、正円軌道という幻想は完全に葬り去られる。
そしてついに、微分と積分(二次関数の表現式!)の発明者であるニュートンが現れるんである。
まあ逆に、惑星の軌道を数式で説明するために微積分法をつくってしまったわけだけど、それほどの天才だ。
ここでガリレオの慣性の法則が出てくるんである。
この法則をもちろん知ってるニュートンは、大砲の弾道を研究してた。
大砲のタマもこの法則に従い、「動きはじめたら一直線に動きつづける」はずなのだ。
ところが、撃ち上げられたタマは、なにかわからぬ下向きの力を受けて軌道を曲げ、放物線を描いて地上に落ちる。
二次関数だ。
・・・まてよ、この曲線のスタートとエンドをなめらかにつないだら・・・まさか楕円形にならん?

 
これを読んでるみんなも、ちょっと興奮してこん?
天上界の星の動きが、地上のルールと結びついてるとしたら・・・
いいとこだけど長くなりそうなんで、「万有引力編」につづく。

 

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みなさん、ルネサンスを、ただの美術様式の変革だと思ってませんか?
ちゃうんすよ。

昔々、ギリシャ時代~ローマ時代初期、人類の叡智はすっかりと成熟を遂げておりました。
アリストテレスは円周率の近似値を果てしない精度まで求める方法を知ってましたし、ユークリッドは素数が無限にあることを数式で証明してましたし、ピタゴラスはドレミの音律を代数計算でクリアに割り出してました。
ところが例のおっちょこちょいな教団のせいで、ローマ帝政は千年もの間、戦争テクニック以外のなにも発展させなかったんです。
なにしろこの教団ときたら、「考えるな、信じよ」「新知見を口にした者はぶっ殺す!」という大変な教義を掲げてるもんですから、人類はすっかりバカになってたんです。
そんなわけで、中世では円周率は3,17の先が混乱してましたし(しかも間違ってるし)、世紀初頭に書かれたガレノスの医学書が数百年もの間、医療従事者の教科書として使われてるありさまでした。
その間に数学や天文学はイスラム圏と仏教圏で高度に発展しており、ヨーロッパ人が「下等文明」と蔑む植民地から学習するしかないという始末。

こんな事態に反感を持つ・・・ということ自体が、人類の知性と言っていいでしょう。
中世後期になって(随分とかかったもんだな)、コペルニクスは思案し、ガリレオは観察し、ケプラーは論理を用い、ニュートン・ライプニッツは計算をして、宇宙論において神さまの存在必要を否定したんです。

知性・教養に基づいて自分で判断をしよう!信仰のがんじがらめから離れてリアルな人間性を自由に表現しよう!って運動は文学方面にも波及しまして、ダンテやシェイクスピアという描写のこなれた作家が出てきました。
印刷技術の発達で、市井の人々が文字を読んで学識を持てるようにもなりました。
それまではずっと、かしこいひとのひらめきは秘匿されるか握りつぶされるか、だったんです。
新知識に接して、世間はまさに蒙を啓かれる思いだったことでしょう。
そして、ルターが出現します。
支配地域の拡張に躍起になり、金稼ぎに狂って腐れ外道と成り下がった教団を「ぶっこわーす」なんて宣言して、聖書を言葉通りに感じましょう、って宗教改革がはじまったんです(この人物が正解とも言えないけど)。
それにしてもこの教団の姿勢ときたら、言うことを聞かない勢力は叩き潰す、帝国と組んで世界を征服する、って考え方自体は現代でもあまり変わってないようですね、今のアメリカの状況を見てますと。

そんなわけで、この大きな流れがルネサンスなんです。
「再生」を意味するこの言葉は、要するに、基本に立ち返りましょう、という表現活動です。
こうして美術は、神聖なものと結びつけて光り輝かせてた肖像画に、解剖学のリアリズムを持ち込んだわけです。
科学の探究は自由、芸術表現も自由、発言も自由、人間は自由!
人々の中に閉じ込められてたその思いを、ついに解き放ったのがルネサンス、というわけでした。
そういう目でルネサンスの絵画を鑑賞すると、また違った見え方になるかもしれませんよ。

 

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川って、実はそこにあるわけじゃないのですよ。
あるのは、谷であり、地図上の川すじののたくりだけ。
そこに水が流れ込んで、はじめて川という現象になりますが、水は常に動きつづけて、ひと所にとどまっていられません。
ゆく川の流れは絶えずして元の水にあらず・・・なんて昔のひと(鴨長明さん)は諸行無常をうまく表現しました。
今日ある川は、昨日あった川とはまったくの別もので、内容がすっかり入れ替わってるのです。
つまり川の実質は、文字通りに流動的です。
生物も同じです。
常に摂取と排泄、新陳代謝によって中身を入れ替えつつ、体系と機能と姿かたち・・・すなわち、わたくしとしての体裁を保つのみです。
今現在の自分の肉体は、半年前に存在した(そして今はもうない)自分の肉体のコピーにすぎません。
 

ところが不思議なことに、生物は川のように、空間上に鋳型を持っていませんよね。
なにもない座標に、どうしたわけか物質が集合し、わたくしは超然と存在しつづけます。
ではそこにあらかじめになにがあるのかというと、遺伝子なのである・・・とするのが福岡ハカセの動的平衡論です。
どこにおわすとも知れぬ遺伝子が「せよ」と命じると、その指示に生命機械が従い、物質世界から素材を集めて、自らを組み立てます。
生物は、鋳型の代わりにゲノムという「設計情報」を与えられておりまして、その情報に物質が流れ込むと、生命機械(つまりわたくし)が立ち現れます。
情報は生命機械の内部に組み込まれてるのですが、その生命機械をつくり上げるのは情報です。
昔々、そんな循環のメカニズムが忽然と出現し、設計と具現のフィードバックサイクルが開始されました。
それにしても、このニワトリと卵とはどっちが先だったんでしょうね?

物質世界から素材を取り込み、生命機械にタンパク質をつくらせるようにDNAが指導するセントラルドグマは、知性の仕事としか言いようがありません。
その知性なるものを、いったい誰がつくったんでしょうか?
とりあえず、知性ある何者かがわれわれの知性をつくった、としましょう。
とすると、その知性ある者とはなんなのかはさておき、そこにはさらに本質的な問題・・・つまりその何者かの知性をつくった先にさらなる知性が存在するはずだ、という疑問が生じます。
それは最初の霊魂がつくったのだ。(だったらその霊魂は誰がつくったのか?)
それは宇宙人がつくったのだ。(だったらその宇宙人は誰がつくったのか?)
それは大いなる宇宙意思がつくったのだ。(だったらその宇宙意思とやらは誰がつくったのか?)
それはわたしがつくったのだ。(だったらそのわたしは誰がつくったのか?)
すべては夢想だ。(だったらその夢想とは誰のものなのか?)

・・・

多くのひとはここで万能者(神さま)の存在に逃げますが、だったらその神さまとやらは誰がつくったのか?という、やはり無限後退の曼荼羅の迷宮をめぐることになり、はっきりとした答えを示すことができません。
結局は科学も宗教も、この最初にして根本的な難問、すなわち「なぜなにもないのでなく、なにかがあるのか?」というところに行き着くしかないのでした。
なにも解決しないまま、今回はおしまいです、ちゃんちゃん。

 

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さて今回は、モノを刻んで刻んで、いちばん小さく刻みきった先には、なにが残るか?のやつ。
・・・ギリシャ哲学の昔からある定番ネタですが、その実相をあなたは理解してますか?

物質の最小単位である原子を細かく分解しきると、クォークという素粒子・・・つまり、もうこれ以上小さくは分けられない最後の部品になります。
万物の基本素材であるクォークは、粒ではなく、テレビの電波みたいな波の姿をしてます。
手に触れようにない、「無」にして、真空を震えてひろがるエネルギー。
そんな芒洋とひろがるエネルギーの波を、一点に集めてカプセルみたいに丸めちゃう力が、この世界には存在するのです。

「のり(グルー)」と名付けられた引力がそれで、神さまはぼくらの世界に「万有引力」「電磁の引力」と、この「クォークにだけ働くのり」という三つ(のみ)の引力を用意してくれました。※1
こののりもまた「無にして波」のやつなんですが、クォークを三つひとからげにくっつけて、せまいせまいエリアに閉じ込めてしまう力を持ってます。
そして「のりに捕まったクォーク三個のユニット」こそが、すべての物質の素(水素原子核)となります。
のりの引力は猛烈で、かつ力の及ぶ範囲はものすごく短く、ちょうど水素原子核の半径くらいまでしか届きません(つか、その引力圏のせいで水素原子核はこの大きさになります)。
クォーク(×3)は波なので、のりの引力圏であるせまいエリア内をもわもわと飛び交います。
そして、決して檻の外に逃れることはできません。
果てしなく拡散したがる「手応え無的エネルギー」も、強い引力で一箇所にギュギュッと押し込められますと、それは質量という現象になりまして(おなじみのE=mc2)、これによってクォーク×3ユニットは、物質のタネとしての体裁を整えます。

ちなみに、こうして出来上がる水素原子核は、+に荷電します。※2
すると原子核同士は、同電荷で反発し合って、お互いに触れ合うことはできませんよね。
だけど、二つの原子核をものすごいスピードまで加速させてぶっつけ合わせると、その乗組員であるクォーク同士が、相手ののりの効力が及ぶ距離にまで近づいてしまいます。
電荷の反発の障壁を越えて、今度はのりの引力が効果を発揮するわけです。
すると、あれほど相手を強く拒絶してた原子核同士が、逆に猛烈な力で引き合うはめになり、大爆発(どっかーん!)と同時にくっついて・・・つまり融合してしまうのです。
これが核融合です。

そんな原子核同士を引き離しますと、またまたどっかーん!・・・大爆発しまして、これが核分裂です。
よくニュースに出てくる核ってのは、実は小さな小さな原子核のことでして、その爆発力の元をたどると、クォーク同士を結びつけるのりの力に行き着くのです。
融合や分裂のたびに起こる大爆発は、原子核のかけらがエネルギーとして解放される現象でして、これもまたE=mc2(「エネルギーは質量の別の姿だよ」=そうたいせいりろん)の結果です。

いかがですか?
わけを知ると、世界のあっちやこっちが結びついて面白いですよね。

※1 これらの引斥力と、放射性崩壊を引き起こす力との四つとで、自然界の振る舞いのすべては説明できます。
※2 核を構成するクォークには、+2/3の電荷を持つアップクォークと、−1/3の電荷を持つダウンクォークの2種類があります。
これらのうちの三つが選抜されて核子を構成しますが、アップ・アップ・ダウンというユニットだと、電荷が合計で1になって陽子(つまり水素原子核)となり、アップ・ダウン・ダウンのユニットだと電荷が打ち消され、電荷が0の中性子となります(ぶんすうをたしざんしてね)。
ま、このモデルの論理構成はすべてが数学における机上の仮想ですが、この計算で世界の構造がうまく説明できるので、量子論の根本となってます。

 

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生命の起源って、どこにあったの・・・?

この点は、ほんとに謎に満ちてます。
無機物しかなかった時代に、原初生命は、石ころと空気から生ずるしかなかったんですから。

だけど実際、最初期生命は、それらを用いて有機的自律システムをいちから構築したのです。

それには、素材である元素の性質と、化学の力(電磁気力と核力)を用いるより他には頼りどころがありませんでした。
そこで奇跡のような出来事が起き、ゲノムという活動指示書(とそれに従う生命機械)が誕生するわけですが、考えてみると、ゲノムなんてただのタンパク質合成の設計図にすぎないわけで、これをどう読み込んだところで、生命体は動けません。
その点にやっと気づいた現代の科学者たちは、ゲノムの他に「エレクトロノーム(生体電気のスイッチングシステム)」と「マイクロバイオーム(小ユニット同士の相互作用系)」という新概念を打ち出してきました。
そして、これらのパッケージこそが生命である、としたわけです。
つまり、ゲノムに従って構成された静的なメカニズムを、電気でコードされた別の指示書が駆動させ、そうして活動力を得た小パーツたちが連動して、「生命」というひとつの大きな宇宙を形成するのだ、という。

例えば、脳は主にタンパク質でできてますが、この物質塊に認識や判断をさせるには、エリア同士をつなぐ電気によるネットワークが必要です。
これまた「コネクトーム」という概念になりますが、新皮質という記憶の引き出しを開け閉めし、そのタンパク質間をつないで駆けめぐる電気の道すじこそが思考なのだ、ってことに今のところなってるようです。
この電気の行き来こそが生命活動の根幹なので、どれだけ遺伝子情報を解読しようと、死んで通電しなくなった脳から個人の思い出、意思、アイデンティティなど・・・すなわち生前の「わたくし」を引き出すことはできません。
宇宙人が地球にやってきて、パソコンの構造をどれだけ徹底的に調査しても、それがなにをする道具なのかはわからないのよ通電させてみないことには、ってわけで、DNAの塩基の並びをすべて知ったところで、そこに生命の意味は不存在で、それをオンラインにしてくれる電気の情報と対応させることこそが重要なんでした。


人類が生きるとは、つまるところ摂取物から電子を抜き取る作業に尽きる、という論があります。
そうして外環境からもらった電子を体内の分子間でどう受け渡していくのか、が生の営みなのですと。
原子核の周囲に電子(と空き席)をまとった原子・分子ってのは実にうまくできたツールでして、このパズルの組み合わせによって生じるイオン勾配が実質、宇宙をつくり上げ、ついでにぼくらを形づくり、動かし、考えさせ、つまり生かしてます。
その電子までをぼくの肉体の一部、生命活動の必須パーツとするなら・・・
とするならですよ、ぼくって宇宙ですよね、文字通りの。
だって、ぼくと宇宙とは、呼気で一連の生命としてつながってるのですよ。
宇宙中の電子がぼくの中にパーツとして組み込まれ、循環し、また出ていって、ついでにあなたの体内にも入って活動し・・・そうして宇宙のすべてが連動してるのです。
今西錦司さんって文化人類学者の説ですが、気持ち悪くないから読んでみてね。

さて、本をたくさん読む小生ですが、本棚は30センチ立方のボックス四コマだけです。
本は、宇宙!
だけど宇宙(スペース)は無限じゃない。
本なんてたくさん集めて持っててもしょうがないから、読んだ後は捨てたり売ったりして、最重要なものだけを残して新陳代謝させます。
本は、中身だけが自分の中に血肉として残ればいいの。
生きるって、電子と一緒に、外環境から知識を吸収することなんだよなあ。
そして電子が脳のタンパク質間に道すじをコードすることで、知識はぼくの中に本棚として固定されるわけです。
・・・うまくオチましたところで(オチたか?)、また。

 

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わが工房は、絶好の虹展望ポイント!(都内で他にこんな場所ある?)

いつも雨上がりに、大きな大きな虹が隅から隅まで、東の空一面にわたります。

ではいったいなぜ、こんな奇跡みたいな自然現象が起きるのか?

 

雨上がりってのは、大気に水蒸気が満ち満ちてるのですね。

これを、見上げた空全面に、ガラス玉のような透明な球体がびっしりと並んでるものと考えてみましょ。

ここに太陽光を当てます。

太陽という天体は光を全方位に向けて放射状に放ってますが、こちらとはあまりに隔たってるため、地球大気に到達する日光は、すべてのガラス玉にほぼ平行に入射します。

そして球面に跳ね返されます。

その跳ね返った光のうち、あなたの瞳に向かってくるのは、大気上に広く開いた輪っかの部分です。

その輪っかの下半分は地平線に隠れて見えないので、あなたに観察可能なのは、輪っかの上部の弧の部分(すなわち、上空に渡る橋の部分)だけです。

 

さてしかし、ガラス玉(正確には水滴)はまっすぐに光を跳ね返すわけじゃないのです。

太陽からはるばるやってきた光は、透明な球体に入射する際に屈折(わずかに軌道がそれる)します。

球体内に入り込んだ光は、向こう側の内表面で反射し、さらに球面のこちら側から飛び出す際に、再度屈折します。

日光が屈折すると、ニュートンさんがプリズム実験で発見した通り、七色のスペクトルに分光します。

この屈折の角度が、赤から青まで少々の開きがありまして、これが虹の帯の太さということになります。

具体的には、虹の弧から射出された赤色(42度に屈折)は上の方に見え、青色(40度)は下の方に見えます。

要するに、日光の差し込みを水滴が跳ね返す角度40度〜42度付近の光線をあなたの瞳という一点で総合したものが虹のリングであり、そのうちの赤の帯は少々大きく見え、青の帯は少々小さい、というわけです。※1

ちなみに、二重に虹が見えるときがありますよね。

その大きく儚い方(鮮やかな虹の少し上空に見えるやつ)は、光線が水滴の中で二度反射して射出されたものです。

こちらは水滴の中で光の軌道がクロスするために、赤が内側、青が外側という逆配色になります。

 

太陽光は、地球大気に満ちたすべての水滴に入射し、反射しておびただしい七色光線をばら撒きます。

実際には、そのすべての水滴が七色以外にもあらゆる光をあなたに向けて射出してますが、あなたは人類の視覚能力の限界により、赤の波長以下の赤外線、青(紫)の波長以上の紫外線は感知できないので、結果的に可視光の細い波長帯のみ(すなわち虹の部分)を見ることになるわけです。

あなたの見る虹は、大気中に築かれた太陽光反射現象の大構造のたった一面なのです。

 

次に虹を見る機会があったら、そんなメカニズムにも思いを馳せてみましょ。

きっと、さらに自然の壮大さを感じられますよ。

 

※1 あなたAと虹の中の一点Bとを結ぶ直線をAB、太陽Cと虹の一点Bとを結ぶ直線をBCとすると、角ABCは、虹のどの点を取っても40度付近になる、ということです。

 

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