この世界は、どこまでもひろがる平原。

この不動の地を覆う丸天井が回転することで、頭上の星はめぐる。

太陽と月には特別なレールが用意されてて、一日に一度、その軌道を運ばれていく。

あったりまえの事実だ。

主観的には。

ところが、七つか八つばかりの大きめの星だけは、天球の流れに従わず、昨夜あっちに出たかと思えば、今夜はこっち、明日はどっち・・・という具合いにうろうろとさまよってることに、あなたは気づく。

そこで探究がはじまる。

 

ようく観察してみると、その中の二つの星、すなわち水星と金星は、太陽の周りをぐるぐると回ってることがわかる。

なにしろこのふたつは、昔から暁の明星(あかつきのみょうじょう)、宵(よい)の明星といって、明け方と夕刻にしか姿を表さない。

すなわち、太陽「周辺」にしか。

あの二つの星が太陽の周囲をめぐってるとなると、太陽とは地平を隔てたところまで放浪するあの三つの星、すなわち火星、木星、土星はどうなってるのか?

これまたようく観察してみると、おいおいどうやらあれらの星も、地球をまたぐ軌道でぐーるうう~・・・っと太陽を周回してるようだ。

 

その昔、動かない地球とその天球上を運ばれる太陽と月、そしてその太陽をめぐる星々を図説するのに、プトレマイオスは地球を中心にして、まるで歯車式の時計のように複雑なメカニズムを描いた(天動説)。

神さまとはこれほど難解な天体構造をお考えになるのだなあ、さすがさすが、と。

ところがあなたは、プトレマイオスが見落としてた天体の仕組み、しかも最も重大な事実に気づく。

すなわち「この地球も太陽の周りを回ってんじゃね?」って点に。

 

太陽の近くをめぐる水星、金星と、太陽から逆サイドまでを大きくめぐる火星、木星、土星の間に、地球もまた軌道を取れば、この全天の運動にうまく説明がつく。

主観と客観が素晴らしくうまく噛み合う。

しかも、あの見苦しい周転円(小歯車)をふんだんに配置したプトレマイオス式のカラクリよりも、シンプルに図説できる。

天体のすべての運動は同心円上、という形で。

こうまで美しくあってこそ、神さまの仕事じゃね?

 

知識のないひとは、地上からの狭い視点だけで夜空を見上げて満足する。

そこ止まりでもロマンティックで悪くないが、新しい知識を持つだけで、あなたは宇宙からの広大な視点を手に入れられる。

神さまが創造したメカニズムそのものの理解によって、神さまがごらんになった光景が拝めるんだ。(ここからさらに進めば「神さまの不存在」の説明まで可能だ)

知識を持つのは、必要だからって喫緊の理由だけじゃなく、人生を豊かにするため。

勉強していろいろ知ってかしこくなろうってのは、社会をうまく渡ってくためじゃない。

知って面白がれる人間は、きっとしあわせだと思うんだよ。

 

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メインブログの方から、定期執筆の豆知識を転載。

これを最後まで読んだら、きっとあなたは「量子力学」と「とマルチバース」という最先鋭の基本知識ふたつを手に入れるよ。

最近のノーベル物理学賞は、素粒子論と宇宙論という量子系が一年おきにぐるぐると獲り分けてる構図なんで、この流行ってるやつの中身を知っといて損はないと思うんだ。

世間ではオカルトみたいなえせ見識が出回ってるんで、吾輩がちゃんとした説明を試みるものなり。

 

さて、量子力学についてはどこまで知ってる?

ものは、半分に半分に細かく刻んでいくと、行き着く先は原子という一単位になる。

この原子も原子核と電子でできてて、原子核も陽子と中性子という核子でできてて、核子もクォークという素粒子でできてる。

ところがこの小ささの行き止まりである素粒子ってのは、実体を持たない「波」なんだ。

これが集まって相互作用を起こすことで、ツブという物質のテイになるんだ。

そして素粒子にはもういっこのへんなルールがあって、それがなんと「相互作用の現場を人間が見ないと実体化しない」ってことなんだ。

人間が観測しないと、物質は「まだ」そこには存在せず、波のままなの。

・・・結局オカルトみたいだけど、これは実験で証明されてる現代における最先端サイエンスなんで、覚えておいて。

 

ところで、あなたは三面鏡の中の自分が永遠の向こうまで無限に並んでるのを見たことがあるでしょ。

あれって、実は無限じゃないんだよ。

光速は相対性理論によって厳密に定数化されてるんで、鏡がどれだけがんばって無数のあなたを写し込もうとしても、その仕事は光の速度を上回ることができないんだ。

その像を見るあなたもまた、鏡のいちばん向こうの自分を光の速度でしか追いかけられないんで、結局、最後尾に並んだ自分を見られずじまいだ。

夜空の星を見たとき、その星が何年も前に放った光が時間をかけてあなたの目に届くという理屈から、あなたはその星の過去の姿を見てる、ってロジックは知ってるよね?

これと同様に、あなたが見る対象物とあなたとの間にわずかでも距離がある限り、あなたの見てる世界は必ず過去の像だ。

あなたが見てるぼくの姿は、ほんのわずかだけ過去のもの、ってわけ。

ここで思い出してほしいのが、前述の量子論の「波の世界は人間が見たときにだけ実体化する」ってやつ。

あなたが見てるぼくの姿は、すでに実体化させた過去のぼくの像なんであって、あなたは現在のぼくをまだ見てないことから、現在のぼくはまだあなたの世界に存在してないと言える。

そしてまだ観測されてない現在のぼくは、あなたの中でまだ波なんであって、それは重ね合わせやもつれの状態であらゆる可能性を持って漂ってる。

つまり、あなたが見てる時点から先の世界(厳密な現在)はまだ物質的実体として確定してなくて、無数に分岐してるんだ。

これがマルチバースの理屈だよ。

ほんとに世界はパラレルに分かれてるんだ、ってことが理解できる?

映画や物語なんかでこのへんが奇妙に解釈されてるけど、ちゃんと真の意味を知っとくのも悪くないよね。

 

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たった今、何年かぶりにFAXってものが届いて・・・つまり今どきのひとは「なにそれ?」かもしれないけど、説明すれば、スマホやLINEや、ひょっとしてメールなんて文化がまだ世間に出回ってなかった古代の時代に使われてた、「こちらから文字を送信するとあちらの紙にプリントできる」って電信装置なんだけど、その受信機が作動したのですよ。

いったい何事か?と送られてきた内容(プリント)を見てみると、それがどうやら宛て先間違いのようなのですね。

しかもその内容が、交通共済協同組合なる組織から個人に当てた、交通事故の示談解決内容確認書というシリアスなものなのです。

文面には、事故を起こした側と起こされた相手の名前に、車両登録番号、損害賠償金額までが記載されてて、外に漏れちゃまじでやばい雰囲気のやつ。

これを、暗号なしの、相手確認なしの、剥き出しの情報で、昭和のお気楽さでポンと送っちゃえるメンタル(というか教育)の国って、もうどうしようもないですね。

コロナを体験した後になっても、この国の医療機関は保健所に、いろんな情報をFAXを使って送ってるらしいですが、ここまでオンラインできない科学技術の低さって、本当になんなんでしょうか?

自民党のおじいちゃんたちのためにむつかしい機械は導入しない、って政治判断があるにしても、なかなかこの状況にはシブいものがあります。

まあ、うちの母親にもよめの両親にも「ペイペイはじめろ」「その方が安全だし簡単だから」「そのうち現金なんて使えなくなるから」と口すっぱく言っても、あの人々は頑として新技術に手を出そうとはしません。

こんな国だから、世界標準から完全に置いていかれて、その極端な取り残され方がまるで「現在稼働してる最後の古代遺跡」のように珍しがられ、懐かしがられて、世界中から(後進のアジア諸国からでさえ)観光客が殺到して感心されちゃう、というメリット(?)もなくはありませんが。

そして「現金なんて今に使えなくなる」という現役世代の声を否定しつづける親たちの意見は、驚いたことに正しく、本当にこの国ではまったくマネーの電子化が進まないでいつまでも現金が使えてしまう、という実際もあるわけです。

きのう、中国製の人型ロボットが格闘技までし合って実用化に相当近づいてる、というニュースをやってましたが、日本のロボットはアイボちゃんとアシモくん以降、少しも進歩してないようです。

そりゃそうだ、あちらの投下資金21兆円に比べて、日本がロボット開発に出す予算は2千億円だそうで、その差は百倍というオーダー。

どこまで果てしなく置いていかれるか、一周回って楽しみになってきました、一周遅れなだけに。

いや、すでに百周遅れてるかもね。

 

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太古のむかし、石ころが転がって有機物になり、高分子に結合して自律的な運動システムを構築し、営みを洗練させて、ついに意識を獲得した。
素朴な元素と自然法則のみの世界がいかにして、エントロピーを逆行させるがごとき魔法、すなわち「生命」を手に入れたのか?
・・・と深く深く考え詰めてまして、分子生物学やら、脳神経科学やら、生命発生学やらの、「オカルトやスピリチュアルじゃない」真っ当な自然科学書を読み込んでます。
この本は、生命が獲得した神経系(外界への接触→理解・反応システム)による無制約連合学習・・・つまり、感覚情報の一元化とカウンターアクションの果てしない繰り返しによってもたらされた臨機応変な判断能力こそが意識につながった、と論じてます。
体表面全体にめぐらせた各感覚器が集める単純刺激を中枢部で束ね(インプット)、複雑・緻密化させた情報をもとに外への働きかけを決定する(アウトプット)という繰り返しによって、神経系は精緻化・強大化・高度化していき、ついには外界とわたくしとを区別するようになり、自己に至る、というわけです。
生命とは曖昧なもので、どのメカニズムから先が外世界からの独立と言え、どの振る舞いから先が生きるという営みと言え、自律機械の創発がどの階層に達すると自己が完成したと言えるか、ってラインがわりとあやふやです。
高分子(タンパク質や核酸)の集合体たる細胞をたくさん連結させれば生命か、と言えばそうではなく、もぞもぞと原子的な摂食機械がうごめいて自己完結の循環系をつくればそれはパーソナリティの確立か、と言えばそうでもないようで、そこには難しい哲学的な議論が関わってきます。
この本は、アリストテレスの言う理性霊魂(論理的に思考する能力と、客観的世界の概念形成)を神経系の到達点として獲得することこそが、「わたくし」をつくり出す、と論じてます。
生命の発生の瞬間でも、生きるという活動の開始位置でもなく、生物の中に魂が生じたタイミングはいつか、という部分に論点を絞ってるわけです。
興味深いのは、タンパク質間の電気と化学物質のやり取り(脳活動)がオンラインだからこそ、自分という意識は生じ、維持される、と断じてるところです。
感覚器が外界の情報を、例えば「写真撮影」で取り込んだとしても、そこへの働きかけをする頃には外界の状況は変化してるわけで(外敵を発見した頃にはすでに自分は食べられてる、とか、獲物を見つけた頃にはすでに取り逃してる、とか)、意味がありません。
「ビデオ撮影」として外界の動きを捉えても、それは過去の出来事であるために、まだタイムラグが生じます。
判断活動がオンラインであるとは、つまり「未来を予測する能力を持つ」ことであり、ボールをキャッチするには、ボールの軌道の先回りをし、グローブをひろげたところにボールが落ちてこなければならないわけです。
動物意識は、未来を予知してるのですよ。
考える、とはそういう作業なのです。
意識メカニズムをよくここまで洗練させたなあ、生命進化よ、とうなずかされる一冊です。

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アメリカは変わったわけじゃない、ただ正直になっただけだ・・・って説はうなずける。
トランプさんは、ただあけすけなだけで、アメリカは過去もずっとこうだった。
他国が持っててうらやましいものは力ずくで奪ってきたし、自分がいちばんじゃなきゃ気がすまないって態度もこれまでと一緒。
ただ、それを隠さない、バレることに臆さない、軽蔑されても恥じ入らない、って点が更新されたにすぎない。
ブッシュ(Jr.)さんあたりは、トランプさんと等量の強欲と下品さを持ってたけど、もう少し陰湿で姑息で・・・つまりスマートだった。
その点でトランプさんは、吹っ切れてる。
アメリカはずっと自分たちが尊敬されてると思い込んできたけど、それはとんでもない勘違いだ。
世界から彼らは常に一貫して、侮蔑の眼差しで見られてきた。
なのにアメリカは、動じない・・・というより、それに気づく感性がなかった(こここそがアメリカ的なのだ)。
トランプさんは違う。
侮蔑されても構わないし、嫌われてることに気づく感性はあるが、それをものともしない別の感性もある。
さすがだ、わかってらっしゃる、これは手強い。
映画のジャイアンは「バカだけど力持ち」ってキャラだけど、テレビになると「力持ちのバカ」になり下がる。
この転換が、ブッシュさんあたりからトランプさんへのアップデイトかもしれない。
考えてみれば確かに、隠す必要なんかなにもない。
ロシアと組めば、この上ない強さを手に入れられるし、欲しいものがなんでも強奪できることは明白だ。
そうしなくても、体の大きさと声のデカささえ見せつければ、周囲のザコたち相手なら大概の言うことを聞かせることはできる。
そのことを隠さないことがいちばんの得策(つか、お得)だ、とトランプさんは知ってる。
あの国はリミッターが外れた。
「合衆国」なんておためごかしもやめて、きちんと「帝国」と名乗るのがいいかもしれない。
グローバル世界って幻想が大失敗の末に霧散して久しいけど、いよいよその後のパラダイムがシリアスにシフトしてきたなあ、と感じずにはいられない。
だけど日本は安心だ。
親分がますます強くなったんで、ますますなんでも言うことを聞いて頭を下げてれば、たくさんのおこぼれにあずかることができるぞ。
石破さん、あのこぼれんばかりの笑顔とお手てすりすりで、トランプさんの心をわしづかみだ!

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エントロピーは面白い。
「エネルギーは使うと減る」「集まったものは散らかる」と、それだけの法則なんだけど、事あるごとにそれを感じて「へえ」となる。
ところで、風呂に入るのが好き!
何時間でも湯船につかってられる。
お湯の中でじっと本を読んでると、億劫になって動けなくなって、そこにいるまま生活したいとまで考える。
ただ、お湯はだんだんとぬるくなっていく。
お湯と水との境界線、ってところまでこらえるんで、ようやく風呂から上がると体が冷えきってたりする。
入浴は、体温対お湯の温度の戦いと言える。
お湯の温度が高いうちは体は温まるが、お湯が冷めてやがてその温度が体温を下回ると、体温が逆に周囲のお湯を(水を)温めはじめる。
相対的に、体温は冷えていく。
お湯の温度もまた時間にしたがって周囲の空間に散逸していくため、ついには両者ともが冷めきる。
大局的に見ると、お湯(とぼく)は浴室内の空気を温めてつづけてるわけだ。
一方、浴室内の空気は、浴室の壁も温める。
浴室の壁は、その外にある外気を温め、外気は地球大気全体を温め、地球大気は宇宙空間を温める。
こうして温まるはずの宇宙空間だが、この無限開放系は膨張しつづけてる。
温度ってのは、素粒子の振動の言い換えだ。
強く震えるものを、人類の神経系は「温かい」「熱い」と感じるにすぎない。
その振動の波は、空間がひろがるにしたがって、静止への一方向に引き伸ばされつづける。
波がのびのびに伸びきって平坦になった状態を「エントロピーの最大値」と言い、これが宇宙の最後の姿だ。
宇宙の最後は、なにもなくフラットな波だ。
・・・ってことをですね、お風呂に入ると考えてしまうなあ、の話でした。
次回、「ならなんでぼくは温かいのか?」編にたぶんつづく。

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酒を飲んだらチャリに乗れない、という法律になったのだ。
飲みにいくなら、徒歩かタクシー、ってことだよね。
すごいことだよ、これ、日本人の生活と文化が根本的に変わるやつだよ。
令和の時代に、生活圏を江戸時代と同じにまでせまくしてどうすんの。
ほんとにいいことをなにもしないわ、政権、つか政治家ってすごい飲み方をしてるのね。
国民のいったい何割が、タクシー(あるいは運転手つき自動車)を使って飲みにいけるんだろう?
国民がどんな生活をしてるのか、その法律をぶっ込んでどういう結果が待ってるのか、想像がつかないのかな。
チャリ生活をしてる人間は、今後は外で酒が飲めなくなる。
バーベキューで集まっても、帰りはタクシーを使うしかない(往きも同じか)。
田舎なんてバスも通ってないから(タクシーもないが)、当然「家の外で酒を飲むな」ってことになる。
あるいは、江戸時代スタイルで果てしなく歩くか。
駅前でない酒場は、みんなつぶれていく。
いやいや、駅前の酒場でも一緒か、駅からチャリを使うと法に引っかかるし、遠方で飲んでも最寄駅で降りた後にその事実は同じだから、「退社後に一杯」もチャリ生活者には無理になる。
「ひとん家で飲む」宴会やホームパーティの後もタクシーしかない。
めちゃくちゃで、酒文化が崩壊だよ。
発想の愚かさにため息が出る。
街なかでチャリがひどい運転をしてるのことは理解してるし、やつらを駆逐したい気持ちもわかる。
だけどこれこそ、政治家の怠慢の結果なんじゃないの?
チャリって結局、どこを走ったらいいの?
そこをなにも改革しないで、上っ面だけで対処して(腹にすえかねて意地悪してるだけでしょ)、結局また景気を悪くさせるわけじゃん。
チャリ乗りも、酒好きも、酒場の店主も、みんな怒り心頭だよ。
というより、途方に暮れてるよ、生活の問題なんだよこれ。
いっそ、この法を厳格に守らせる社会実験をしてみたらいい。
何割の酒場がつぶれて、どれほどの酒類の出荷量が落ちて、どれほどのひとが出歩かなくなり、GDPがどれほど押し下げられるか。
でも、ま、みんな結局チャリで飲みにいくんだろうけど。

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チャリで酒場にいけなくなっちゃったんで、最近はよく歩く。
よく歩くから、よく考える、歩くメカニズムを。
結局、歩くって作業は、運動の初期値で得た慣性のポテンシャルをどう減ずることなく進行方向に押しやるか、って問題のひとつの最適解だ。
エネルギーが減ずる最大の要因は摩擦による熱量の拡散だけど、人類は足の裏という広い面積を地面に張りつかせるという歩行スタイルから、これを免れない。
その点、竹馬はピンポイント(針先のような)で地面と接するため、エネルギーの散逸が少なく、テコも効いててゲインが非常に効率的だ。
人類の二足歩行はそうはいかないが、代わりにかかととつま先に別の役割りを与えて、進行をスムーズにする。
足はまず、振り子として運動を開始する。
前方の地面にかかとがつくと制動がかかり、この際に重点が固定され、人体の質量はその真上に向けて移動し、要するに束の間、載っけられる。
ところが、この振り子運動は二次元じゃなく、左右上下に歳差運動をしてるんだった。
平たく言えば、歩くという運動の駆動系である腰骨は、自転車のペダルのような左右交互回転をしてる。
こうした構造もあり、重心を左右一方に偏らせた下半身は著しく傾く。
ところが、それに載っけられた上体というのがまた、下半身に対して点対象を保存するジャイロ機能(やじろべえみたいな)を発揮するのだ。
下半身が右に傾けば左にバランスを修正し、前に荷重がかかれば後傾し、という具合いだ。
これを我々は、腰骨(下半身)に対する肩甲骨(上半身)の歳差運動と、足の前後動に対する腕の振りとでコントロールする。
下半身の駆動によって運ばれる上半身は、実は腰の上でロデオをしてたわけだ。
こうした下支えがあり、コントローラーのコクピットである頭骨は、系の座標上の一点に不動の安定感を保つ。
地面への荷重ポイントは、駆動機械が前方に運ばれるのと相対的に後方に引き下がり、具象描写に戻ると、つま先が地面を蹴り出すと同時に、前方に置かれたもう片方の足のかかとが荷重を受け取る形になる。
以下、繰り返し。
腰のペダル漕ぎの発動に対して、全身のパーツは前後、左右、上下対象に呼応し、全質量のアベレージを芯に集中させる。
荷重ポイントは前後にせわしなく移動しても、重点は常に腰に配置されてるところが賢い。
前傾して拳と足とで歩行する(ナックルウォーク)前駆体から進化した人類が、腰を肉体の中心に据えた理由も、これで説明がつくではないか。

つづく

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歩くとき、歩くことについて考える。
歩く作業に集中するほど、歩くという活動のメカニズムについて深く考えてしまう。
二足歩行は、足の振り子運動によって上体を前進させる行為と考えがちだが、それほど単純じゃない。
この点を突き詰めると、まず考慮すべきなのが慣性の法則だ。
最初に進行方向に体重を移動させると、その進行は「無摩擦状態においては」永遠に止まることはない。
ところが二足歩行者は、摩擦そのものを運動に利用する。
まずは静止状態への介入の初期値によって、右足が前方に押し出される。
すると右足は、腰を支点に振り子運動を開始し、トルクで得られた運動エネルギーを最高到達点でポテンシャル(位置)エネルギーに変換する。
この瞬間に運動者(わたくし)は右に体重移動し、エネルギーのたまりきった右足をタッチダウンさせる。
すると後方に置かれた左足から荷重が抜け、足の裏がテイクオフされる。
腰に設定したはずの支点が、右足先を固定した途端にその重点に移って、上向きの振り子運動が起こり、上体が前方へと運ばれ、それにともなって左足が拘束を解かれるのだ。
この際に、前方の右足にあったはずのポテンシャルエネルギーが、腰へ、さらに左足先へと移動する。
いつの間にか高い位置にまで持ち上げられた左足は、そのポテンシャルを運動エネルギーに変換し、振り子運動を開始する。
荷重は肉体の右サイドに偏ってるので、この角運動量が地面との摩擦で減ずることはない。
ぐるり前方の最高到達点へと運ばれた左足は、再びポテンシャルエネルギーをため込む。
このとき運動者(わたくしです)は、すかさず左に体重移動をさせる。
左足がタッチダウンし、今度は後方に引き下がった右足から荷重が抜け、こちらにポテンシャルが移動する・・・
その繰り返しこそが、歩行だ。
地面との摩擦によって支点が固定される瞬間に、地面を後方に押し出すわずかな力を加えてやるだけで、上体は慣性のエネルギー(+α)を殺すことなく、初期に設定された進行方向へと運びつづけられるわけだ。
エネルギーは初期に大きな値を与えるだけですみ、後は大した浪費は必要ない。
なかなかいい効率と言えるではないか。
要するに「歩く」とは、足の前後への振り子運動による二次元の活動じゃなく、むしろ左右への体重移動によって足を前後に運ぶという三次元の作業だったんである。
二足歩行者は、右に、左に荷重のやり取りをすることで、エネルギーを前方に押し出してるようだ。

つづく

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りんごには、実体がない。
ここまで説明してきたように、その中身の正体は、スッカスカの空間に分子の電磁気力が展開するのみの、いわば虚像だ。
そこにはなにかがあるわけじゃないんだけど、そのなにものかが内蔵するエネルギーの密度と反発力によって、あなたはそいつを「りんごの手触り」として感じることができ、そいつ(りんご)もまた、分子の電磁気力の塊であるあなたの手の平を弾き返すことで、「あなたにつかまれた」と感じることができる。
ではなぜそこにりんごがあるとわかるのか?
なにもない空間の虚像なんであれば、透き通ってるべきでは?
ところが、光は、りんごが持つ電磁気力に反応するんだった。
宇宙からは、いろんな波長の光が地上に降り注いでる。
ガンマ線から紫外線、可視光線、赤外線、電波・・・
このうち、可視光線がりんごの中に差し込むと、りんご内に展開する電磁気力が特定の波長を吸収したり、弾いたり、またカウンターで射出したりして、スペクトルの成分を自分の個性に総合する。
そしてそれを受け取るあなたの目と脳は、「りんごの色、質、クオリア」と解釈する。
なぜいろんな波長のうちで可視光線だけなのかというと、それは完全にこちら都合で、その光線を解釈するのが人類にとっていちばん便利だったからで、光の三原色もなぜその三色なのかといえば、人類が望んでその色を選んだ、あるいはつくり上げたからに他ならない。
空がなぜ青いのかと言うと、陽光が空気の層を透過する際に、窒素酸化物などに波長をこし取られ、青の成分だけが地上まで到達するからだ。
そしてなぜその波長が青なのかと言うと、それはまったくこちらサイドの問題で、つまり「われわれはその波長を青とする」と決めたからに他ならない。
この世界には実質、なにもない。
だけどそれでは不便なんで、生物の進化は、光と電磁気力による作用を、色として、質として、実体感として※1認識できるようにしたんだ。
なにが言いたいのかというと、あなたが見てる世界はあなたが脳内でつくってるにすぎない、ってこと。
本当はこの世界にはなにもなく、原子という(もっと突き詰めれば、素粒子という)虚像がたゆたってるだけなんだ。
つのが、量子力学が結論づける原子論なんでした。

おしまい

※1 脳が立ち上げるこの実体感の幻想を「クオリア」という。

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