手を合わせてみて(なーむー・・・)。
あなたの手の平は、分子、原子で構成されてる。
その原子は、原子核と電子で出来てて、これらは電磁気力を持ってる。
その電磁気力によって、右手と左手とは反発し合い、あたかもそこに右手があるように、あるいは左手があるように、手応えが感じられる。
これこそが、物質に実体感があるように思える・・・つまり位置と運動量しか持たない素粒子がつぶのように感じられるトリックだ。
甲子園球場のグラウンドの中心にあずきがあり、球場の外周をケシ粒がめぐってる、というスカスカの原子モデルを紹介した。
それを手の平にのるほどのカプセルに縮小しても、あずきは同じ縮尺で小さくなり、ケシ粒はさらに同じ縮尺で小さくなり、したがってカプセルもまた、球場モデルと密度は寸分も変わらないことに注意する必要がある。
球場大のモデルを素粒子の大きさにまで縮小しても、原子の密度は・・・つまりぼくら人類の肉体や地球の密度は、甲子園球場の広大な空っぽと完全に=なんだ。
なにも詰まってないの、この肉体には。
つぶなんてひとつも使われてないの。
実体なんてどこにもないの。※1
すべては虚ろなマボロシ・・・
なのになんで触れてみてみっしりと感じられる実体感があるのかというと、それは電磁気力による反発の効果なの。
磁石のS極とN極を近づけ合うと「ぷるんっ」とするやつなの、この両手の平を合わせた手応えは。
だとしたら、色は?
なにもないのなら、なんでそこに実際にものがあるように見えてんの?

つづく

※1 機動戦士ガンダムでは、バズーカ砲などの持ち運べる弾を「実体弾」として、レイザービームのように実体のないエネルギー集中タイプと区別してたが、ぼくらの体はまさにビームで出来てるんだ。

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水素原子は、原子核に陽子がひとつ、外周の軌道上に電子がひとつ、という最もシンプルなユニットだ。
甲子園球場のグラウンドの中央にあずき大に集中した電荷+1のエネルギーがあり、球場のワンブロック全体に電荷-1の霧が立ち込めてる、という描像をイメージしよう。
原子とはこうまでスカスカの空っぽで、いわゆる物質的な手応えがどこにもない。
では、ぼくらが感じる触感というのはどこからくるのか?
球場もの大きさの原子モデルは扱いづらいので、手の平にのるほどのカプセル大に縮小しよう。
この野球ボール大の透明なカプセルにした水素原子を、ふたつ用意する。
複数の原子を寄せて、分子をつくるんだ。
基本的に原子内の電荷は±が相殺されて中性の体を取ってるけど、ふたつのカプセルを近づけると、まずは外縁に配された-電荷同士(電子×2)が反発して弾き合う。
ところが原子核の+電荷は、自分の電子と同時に、相手の電子の-電荷も引き寄せる。
つまり双方の原子核は、双方の電子をクロスして引っ張るわけだ。
こちらの原子核があちらの電子を引き寄せ、あちらの原子核がこちらの電子を引き寄せて、ふたつの水素原子は、電子にひょうたんの軌道を描かせる形で混じり合う。
が、原子核同士は同電荷で反発し合うから、お互いの中心部分が触れ合うことは決してない(触れ合えば核融合爆発が起きる)。
これが共有結合、すなわち水素分子「H2」の構造だ。
さて、ここで思い出すべきなのが、水素原子とはスカスカの空っぽの手応えゼロの実体なしオバケだった、という事実だ。
それが、ふたつのカプセルをくっつけ、左右から思いきりプレスすると、ふたつの原子核同士は電磁気力で反発し合う。
このときはじめて「そこにものがあるような」抵抗が得られる。
感触が。
なにもないところに、なんと実体に触れてるような手応えが発生したぞ!

つづく

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再び原子の大きな外観に戻る。
甲子園球場のグラウンドの真ん中にちょんと置かれたあずき大の原子核に対して、けし粒のような電子が球場の外周ほどもの広さで取り巻いてるのが、原子の姿なんだった
軽い電子は、2000倍も重い陽子に電磁気力で捉えられてる。※1
電磁気力もまた引力(または斥力)なんだけど、電子は凄まじい運動量による遠心力で原子核から遠ざかろうとする。
つなぎとめられながら、逃げ去ろうとする結果、これがうまい具合いに釣り合う。
電荷−1の電子に対し、原子核内の陽子の電荷は+1と、なぜか力関係が逆向きにピッタシなんだ(ちなみに中性子は±0)。
これには、原子核内の核子に三つずつ収まるクォークの電荷が関係してる。
クォークには2種類あり、アップクォーク(U)とダウンクォーク(D)という。
Uの電荷は+2/3で、Dの電荷は−1/3だ。
陽子はUUDというユニットで構成されてて、電荷を足すとちょうど「1」、中性子はUDDの構成で、差し引きするとちょうど「0」になるんだ。
まったく、自然にはなんて精妙な計算が働いてるんだろう。
こうして電子は、2000倍もの質量差がありながら相性どんぴしゃな陽子に寄り添うように、球場外周の軌道をぴたりと取る。
だけど、たまに−1の電子が、引力に吸い寄せられて+1の陽子に捕獲されることがある。
この際には、陽子の電荷が相殺されて±0になり、中性子に変容する。
これがいわゆる「崩壊」だ。
まったく面白い関係だよ、原子を構成する三人ときたら。

つづく

※1 これらを構成する素粒子には実体がないと言ったけど、特殊相対性理論のE=mc2により、そのエネルギー量は質量に換算できる。素粒子はつぶじゃなく、純粋なエネルギーと認識しておいた方がいい。

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さて、原子の姿を外側から追ってたけど、今度は内側から描写する。
甲子園球場のマウンド付近にちょんとあるあずきの内側、つまり原子核の中の光景だ。
前回に「原子は物質を構成する最小パーツ」という前近代的な表現を使ったけど、そのパラダイムは百年も前に間違いだとわかってるんで、きちんとした解答を用意したい。
物質を刻みきったいちばん小さなパーツは、クォークって素粒子だ。
クォークもまた電子のように実体がなく、位置と運動量のみを持つマボロシみたいなやつと考えていい。
しかも常に三つワンセットで活動する(基本ユニットを構成する)ので、単体を観測されたことがなく、真に数学的な存在だ。
三つのクォークは、重力でも電磁気力でもない、クォークにだけ効力を発揮する引力(核力)に拘束されてて、それがあまりにすごい接着力による封じ込めであるため、人類の稚拙な科学ではいまだはがすことができてない。
そんな三つがひと固まりとなり、陽子、あるいは中性子という「核子」をつくり上げる。
そして核子がまたひと固まりとなって、ようやく原子核となる。
甲子園球場のあずき粒の中には、こんなにも複雑な内部構造があったわけだ。
核子がなぜ原子核に集中してひとかたまり(つまりあずき状)になってるのかというと、クォークに働く核力が核子同士にまでガチガチの引力を及ぼし合うからだ。
重力と電磁気力の効果が宇宙の果てにまで及ぶのに対して、核力は原子核のさしわたし程度にまでしか届かないんだ。
このことは逆に、クォークにかかる核力が原子核のさしわたし分しか効かないために、原子核はその大きさに収まってると言い換えられる。
この核力のガチガチの拘束がはがされ、核子が分かれると「核分裂」となり、核力でくっつき合うと「核融合」となる。
これが原子核の中で起こってる出来事だ。

つづく

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あなた、原子のつくりって「ちゃんと」知ってる?
物質世界を構成する基本単位であるこいつの(現代的な)描像がいまいち世間に浸透してないようだから、きちんと説明してみるよ。
原子は、ものを小さく刻んでいって、最後の最後に「もうこれ以上はふたつに分割できない!」という物質の限界最小パーツと説明される概念だ。
だけどこれが最小じゃなかった、って話。
だって、刻んで刻んで最小パーツと思えるまでになった小粒をズームアップし、例えば甲子園球場ほどの大きさにまで拡大してごらんよ。
もしそれが砂つぶのように中身の詰まったものだったとしたら、もう一段小さく砕けない理屈はない。
ところが原子のつくりはそうじゃなかったんだ。
行き着いたその最小を拡大して調べてみると、球場のマウンド付近にあずきほどの原子核がちょんとあり、それを中心にして、スタンドの外周ほどの大きな軌道をけし粒のような電子がめぐってたんだ。
これが20世紀初頭の古典物理による原子の説明だよ。
原子の中身って、スッカスカの空っぽだったんだ。
が、21世紀も近づくと、さらに描像がマジカルになる。
最新の量子論では、電子は原子核の周囲を回ってるわけじゃなく、取り巻いて存在してる、と説明される。
軌道周回する電子には実体がなく、位置のみ、あるいは運動量のみを持ってるんだ。
そして「電子はあまりにもはやいスピードで原子核の周囲をぐるぐると周回するため」という説明は正確じゃないけど、ここではそれがわかりやすいんでそんなふうな感じとだけしておくが、甲子園球場の容積内いっぱいのあらゆる位置に電子はひろがってる、という状態になってる。
電子はもやもやと雲状の球体に散開してるんだ。
ただ、これを「回ってる」と表現するのは間違いだ。
なぜなら電子は、一個しかないにも関わらず、雲の中のすべての地点に同時に存在してるからだ。
まるで無限数個に分身したかのように。

つづく

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「主よ、お見守りください」の「主」ってのは、つまり読んで字の如く、自分のことなんだよ。
その祈ってる相手は、鏡なの。
「この願いが叶いますように・・・!」ってのは、要するに、自分にその価値はあるのか?自分はそのための準備をしてきたか、ってことを自分に問うてるんであって、答えを自分の中に見出す内観作業にすぎない。
だから、その願いの結果なんて最初からわかっちゃってんだな。
神さまなんていない。
だけど、神さまというツールは便利だ、自分を投影できるから。
オレも窯を焚くときには、本気で窯神さまにお祈りをする。
すると、自分の中身が全開に明かされる。
主は見ておられる。
その上で、みなさんが楽しい時間を過ごしてくれますように!いい作品がたくさんできますように!しあわせをいっぱい持ち帰ってくれますように!の答え合わせが行われる。
・・・というトリックなんだ。
宗教にのめり込むものよ、無駄金を注ぎ込まず、このセルフなメカニズムをきちんと理解するがよい。
神さまは常にそこにおられる。

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心にモヤモヤがあると、ものごとがうまくいかない。
過ごす日常全部がつまんなくなってくる。
人生全体がバカバカしいものに思えてくる。
・・・わかる、わかるよ。
ひとは失敗もする、ケンカもする、うそもつきたくなる、ジェラシーも感じてしまう。
そんなときは、一個一個をしらみつぶしにしていこうではないの。
失敗はつらい、なにしろ捲土重来の機会(次の成功)まで待つ時間が果てしないし、それで相殺はできても帳消しとはならない。
なのでいっそ、失敗は笑い話にするに限る。
「こんなにもひとに迷惑をかけたことがあるんすよオレ」と武勇伝にしてしまえ。
物語の導入から緻密に構成して、クライマックスではちょっと盛って、落とすところでは思いきった白状をして、自分と同時に周囲をもスッキリさせる。
話が面白く達者に熟成されていくに従って、その傷は徐々にぬり込められていくであろう。
・・・そこまでが長いんだけどね、でもまあネタは増える。
ケンカ?謝っちゃえよう。
謝れない相手なんて、しょせんは友だちでいる価値のなかった相手なんだ、そんなのはスッパリと切り捨ててしまえばいい。
だけど友だちでいる価値のある相手なら、謝っちゃえ。
つまんない突っ張りで、かけがえのないものをなくすべきじゃないわ。
オレなんてインフレってくらいに謝ってるよ、謝りまくってるよ、安いもんだ、そういうのが人生だ(ありがとうとごめんなさいが言えない人間は第一級の精神障害者なんで治療すべき)。
でも、バカとクズにはぜったいに謝らないけどね、なにしろそんなやつとの関係なんてどうでもいい。
うそをついちゃった?そりゃだめだ、こればかりはしんどい、心がよどむぜ。
うそは本当につらい、自分の芯までさいなまれる、なにしろ自爆だからね、その痛みには手の施しようがない。
一刻も早く白状しちゃえよ、時間をかけないことだ、白状は直後くらいがいい、でなきゃ深手になる一方だ。
ひとはなんで偶像(神さま仏さま)を拝みたくなるのかというと、自分と向き合えるから。
その拝む相手のナントカさまは、鏡(自分自身)に他ならない。
そこではうそは許されない、なにしろ「ナムナム」とは自分の心をのぞき込む作業なんだから。
自分は、自分の目に見つめられてるのだ。
うそという美しい取りつくろいは自分の内側を汚す行為なんであり、それは明白な自傷行為なんで、心の内と語らうことができる健全な人類においては事実上、うそをつくことは不可能なんだ(つまりそのひどい行動が自分にバレバレなために心は痛むのだ)。
さっさと本当のことを吐いて自分をスッキリさせることだな。
最後にジェラシーだけど、これはまったく意味も価値もない直情で、なんで神さまが人間にこれをさせるのか理解に苦しむ。
ひとは自分を苦しませるためにどんなバカバカしい考えも試してみるものだ、という典型例と言える。
自分と関係のないところで起きてるひとのうらやましい部分なんて、どうでもいいじゃない。
へえ、と思ってトイレに流しちゃいな。
だけどひとは、どうしようもなく許せないほどにひとの成功体験を強くうらやむものなんだなあ。
それを克服するには、強い心というよりも、脱力が必要だな。
悟りの境地とは、かくも遠きにあり。

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「あの企業が純利益を90%落とした」というニュースがあって、その劇的な凋落を騒ぎ立ててるけど、オレはどうもこのレトリックには報道のミスリードのにおいを感じてるのだ。
つまり、%の使い方が間違ってるのでは?と。
細かく内容を見ると、総売り上げが6兆円近くあって、そのうちの純利益が300億円だから、利益率は0、5%。
このオーダーからしてすでに作為がおいはじめるが、まだこの%の使い方は明解だ。
売上高を%で表す、いわゆる「前年比98%の売り上げでした」的な使い方もわかる。
純粋に積み上げた数字同士の比較だからね。
だけど利益の差を%で表すことには問題がある。
利益損益とは、それ自体が差を表す相対的なものなんで、差の中に出現する差を計算しようとすると、これはカオス理論の範疇になってきはしないか?
例えば上の件では、前年3000億だった数字が300億になって90%落ちた、としてるわけだが、来年に去年の数字を回復させたら「1000%の大増益!」となる。
落ち込んだ数字を元に戻しただけなのに、超好景気の印象を与えられる。
その翌年に純利益がゼロになったら、「100%の落ち込み!」となるが、ここまでは問題ない。
ところがここからだ。
ゼロの翌年に1円の儲けが出れば、「無限%アップ」ということになり、ここで数字は破綻する。
これがまた翌年に1円の赤字となれば、差は2円にもかかわらず、「無限大の落ち込み」となる上に、0のラインをまたぐことで、%テージ表現に虚数が登場する。
これは実数で表現できない、無限よりも大きな(この世ならぬ)数字だ。
このへんはいったいどう報道するんだろうか?
結局、すごいっぽい数字を根拠っぽく仕立てて、企業の凋落に説得力っぽさを持たせようという報道サイドの世論誘導っぽいやつだ。
地上波にもこういう謎の方法論がなかなかの存在感で行き渡ってて、なんでもかんでもを疑ってみたくなる今日この頃だわ。

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「なんかおかしいと思ったら、しはん、長袖ですか」
・・・って、おかしいことあるか、Tシャツしか持ってへんみたいに勘違いすな、秋やっちゅーねん。
「ってかしはん、クツはくことあるんすか」
・・・って、クツくらいはくわ、一年中ビーサンはいてるからってバカにすんなっちゅーねん。
「だけどくつした持ってんすか」
・・・って、持っとるわ、あなどるなっちゅーねん、めちゃかわいいの持ってるわ。
「あら、今日は服着てるの?」
って、着るっちゅーねん、コラよめ〜、そろそろ裸だと寒いっちゅーねん、バカにすな。

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「頭は悪いが力持ち」というのが、世界から見たアメリカ評の定番だった。
今や逆に(逆でもないが)「力持ちのバカ」と言わざるをえなくなりそうだ。
本当にそういう民度なんだなあ。
これまでもアメリカは、悪辣なロシアやずる賢い中国と同質の振る舞いをしてきても、その陣営にいる日本やヨーロッパは不本意ながらも支持するしかなかった。
本当にあいつとの関係はしぶしぶ(かつずぶずぶ)だった。
ソ連はかつての東欧の衛星国を奴隷として扱ってきたけど、アメリカもまた同様に日本をそう扱ってきた。
あまりにも不平等な安保条約、政治における恐喝的圧力、経済における内政干渉・・・衛星国以下の、植民地状態だ。
ただ日本人は、ハンバーガーとディズニーを大好きにさせられてるために、ひどい扱いから目を背けてたんだった(このへん、あの国は巧妙なんだよなあ)。
だけどいよいよあからさまな時代に突入する。
新大統領になるあのひとは建前なしに本音で・・・というか、欲望を隠そうともしないで実行するキャラなんで、こちらの反応など気にせず、好き放題にむしり取りはじめるだろう。
言ってることをコロコロ変える石破さんで (そして嬉々として隷属する自民党で)歯が立つのか、心配すぎる。
アメリカは、自国のためだけに動きはじめる。
いや、これまでも「世界のため!」と言いながら自国を儲けさせてきたんだが、もう世界のことなんて考えなくなる。
今回の大統領選挙では、外に開かれた西・東海岸線の州は民主主義を選び、内陸の州は内向きの国家主義を選んだ。
結局、この国は大きすぎて、逆に世界のことをぜんぜん知らない(ひとが多い)わけだ。
戦争の拡大や環境破壊なんて、興味の外。
ただ、イスラエルだけは自国の飛び地なんで、徹底的に介入する。
アメリカ、グレート、アゲイン、だってさ。
アメリカがグレートだった時代なんて、かつて一度もなかったぜえ。
栄えてたのはまさに腕力のおかげであって、周囲はその愚行を軽蔑の眼差しで眺めてたんだ。
頭が悪いやつがまたおっぱじめやがった、と。
それでもその圧倒的(力と大きさまかせ)な経済力は無視しようがない。
いったいどんな時代がはじまるのか・・・そして次世代にどんな世界が残されるのか・・・あの国の力強さには不安と絶望しか感じられない。

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