酒を飲んだらチャリに乗れない、という法律になったのだ。
飲みにいくなら、徒歩かタクシー、ってことだよね。
すごいことだよ、これ、日本人の生活と文化が根本的に変わるやつだよ。
令和の時代に、生活圏を江戸時代と同じにまでせまくしてどうすんの。
ほんとにいいことをなにもしないわ、政権、つか政治家ってすごい飲み方をしてるのね。
国民のいったい何割が、タクシー(あるいは運転手つき自動車)を使って飲みにいけるんだろう?
国民がどんな生活をしてるのか、その法律をぶっ込んでどういう結果が待ってるのか、想像がつかないのかな。
チャリ生活をしてる人間は、今後は外で酒が飲めなくなる。
バーベキューで集まっても、帰りはタクシーを使うしかない(往きも同じか)。
田舎なんてバスも通ってないから(タクシーもないが)、当然「家の外で酒を飲むな」ってことになる。
あるいは、江戸時代スタイルで果てしなく歩くか。
駅前でない酒場は、みんなつぶれていく。
いやいや、駅前の酒場でも一緒か、駅からチャリを使うと法に引っかかるし、遠方で飲んでも最寄駅で降りた後にその事実は同じだから、「退社後に一杯」もチャリ生活者には無理になる。
「ひとん家で飲む」宴会やホームパーティの後もタクシーしかない。
めちゃくちゃで、酒文化が崩壊だよ。
発想の愚かさにため息が出る。
街なかでチャリがひどい運転をしてるのことは理解してるし、やつらを駆逐したい気持ちもわかる。
だけどこれこそ、政治家の怠慢の結果なんじゃないの?
チャリって結局、どこを走ったらいいの?
そこをなにも改革しないで、上っ面だけで対処して(腹にすえかねて意地悪してるだけでしょ)、結局また景気を悪くさせるわけじゃん。
チャリ乗りも、酒好きも、酒場の店主も、みんな怒り心頭だよ。
というより、途方に暮れてるよ、生活の問題なんだよこれ。
いっそ、この法を厳格に守らせる社会実験をしてみたらいい。
何割の酒場がつぶれて、どれほどの酒類の出荷量が落ちて、どれほどのひとが出歩かなくなり、GDPがどれほど押し下げられるか。
でも、ま、みんな結局チャリで飲みにいくんだろうけど。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

チャリで酒場にいけなくなっちゃったんで、最近はよく歩く。
よく歩くから、よく考える、歩くメカニズムを。
結局、歩くって作業は、運動の初期値で得た慣性のポテンシャルをどう減ずることなく進行方向に押しやるか、って問題のひとつの最適解だ。
エネルギーが減ずる最大の要因は摩擦による熱量の拡散だけど、人類は足の裏という広い面積を地面に張りつかせるという歩行スタイルから、これを免れない。
その点、竹馬はピンポイント(針先のような)で地面と接するため、エネルギーの散逸が少なく、テコも効いててゲインが非常に効率的だ。
人類の二足歩行はそうはいかないが、代わりにかかととつま先に別の役割りを与えて、進行をスムーズにする。
足はまず、振り子として運動を開始する。
前方の地面にかかとがつくと制動がかかり、この際に重点が固定され、人体の質量はその真上に向けて移動し、要するに束の間、載っけられる。
ところが、この振り子運動は二次元じゃなく、左右上下に歳差運動をしてるんだった。
平たく言えば、歩くという運動の駆動系である腰骨は、自転車のペダルのような左右交互回転をしてる。
こうした構造もあり、重心を左右一方に偏らせた下半身は著しく傾く。
ところが、それに載っけられた上体というのがまた、下半身に対して点対象を保存するジャイロ機能(やじろべえみたいな)を発揮するのだ。
下半身が右に傾けば左にバランスを修正し、前に荷重がかかれば後傾し、という具合いだ。
これを我々は、腰骨(下半身)に対する肩甲骨(上半身)の歳差運動と、足の前後動に対する腕の振りとでコントロールする。
下半身の駆動によって運ばれる上半身は、実は腰の上でロデオをしてたわけだ。
こうした下支えがあり、コントローラーのコクピットである頭骨は、系の座標上の一点に不動の安定感を保つ。
地面への荷重ポイントは、駆動機械が前方に運ばれるのと相対的に後方に引き下がり、具象描写に戻ると、つま先が地面を蹴り出すと同時に、前方に置かれたもう片方の足のかかとが荷重を受け取る形になる。
以下、繰り返し。
腰のペダル漕ぎの発動に対して、全身のパーツは前後、左右、上下対象に呼応し、全質量のアベレージを芯に集中させる。
荷重ポイントは前後にせわしなく移動しても、重点は常に腰に配置されてるところが賢い。
前傾して拳と足とで歩行する(ナックルウォーク)前駆体から進化した人類が、腰を肉体の中心に据えた理由も、これで説明がつくではないか。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

歩くとき、歩くことについて考える。
歩く作業に集中するほど、歩くという活動のメカニズムについて深く考えてしまう。
二足歩行は、足の振り子運動によって上体を前進させる行為と考えがちだが、それほど単純じゃない。
この点を突き詰めると、まず考慮すべきなのが慣性の法則だ。
最初に進行方向に体重を移動させると、その進行は「無摩擦状態においては」永遠に止まることはない。
ところが二足歩行者は、摩擦そのものを運動に利用する。
まずは静止状態への介入の初期値によって、右足が前方に押し出される。
すると右足は、腰を支点に振り子運動を開始し、トルクで得られた運動エネルギーを最高到達点でポテンシャル(位置)エネルギーに変換する。
この瞬間に運動者(わたくし)は右に体重移動し、エネルギーのたまりきった右足をタッチダウンさせる。
すると後方に置かれた左足から荷重が抜け、足の裏がテイクオフされる。
腰に設定したはずの支点が、右足先を固定した途端にその重点に移って、上向きの振り子運動が起こり、上体が前方へと運ばれ、それにともなって左足が拘束を解かれるのだ。
この際に、前方の右足にあったはずのポテンシャルエネルギーが、腰へ、さらに左足先へと移動する。
いつの間にか高い位置にまで持ち上げられた左足は、そのポテンシャルを運動エネルギーに変換し、振り子運動を開始する。
荷重は肉体の右サイドに偏ってるので、この角運動量が地面との摩擦で減ずることはない。
ぐるり前方の最高到達点へと運ばれた左足は、再びポテンシャルエネルギーをため込む。
このとき運動者(わたくしです)は、すかさず左に体重移動をさせる。
左足がタッチダウンし、今度は後方に引き下がった右足から荷重が抜け、こちらにポテンシャルが移動する・・・
その繰り返しこそが、歩行だ。
地面との摩擦によって支点が固定される瞬間に、地面を後方に押し出すわずかな力を加えてやるだけで、上体は慣性のエネルギー(+α)を殺すことなく、初期に設定された進行方向へと運びつづけられるわけだ。
エネルギーは初期に大きな値を与えるだけですみ、後は大した浪費は必要ない。
なかなかいい効率と言えるではないか。
要するに「歩く」とは、足の前後への振り子運動による二次元の活動じゃなく、むしろ左右への体重移動によって足を前後に運ぶという三次元の作業だったんである。
二足歩行者は、右に、左に荷重のやり取りをすることで、エネルギーを前方に押し出してるようだ。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

りんごには、実体がない。
ここまで説明してきたように、その中身の正体は、スッカスカの空間に分子の電磁気力が展開するのみの、いわば虚像だ。
そこにはなにかがあるわけじゃないんだけど、そのなにものかが内蔵するエネルギーの密度と反発力によって、あなたはそいつを「りんごの手触り」として感じることができ、そいつ(りんご)もまた、分子の電磁気力の塊であるあなたの手の平を弾き返すことで、「あなたにつかまれた」と感じることができる。
ではなぜそこにりんごがあるとわかるのか?
なにもない空間の虚像なんであれば、透き通ってるべきでは?
ところが、光は、りんごが持つ電磁気力に反応するんだった。
宇宙からは、いろんな波長の光が地上に降り注いでる。
ガンマ線から紫外線、可視光線、赤外線、電波・・・
このうち、可視光線がりんごの中に差し込むと、りんご内に展開する電磁気力が特定の波長を吸収したり、弾いたり、またカウンターで射出したりして、スペクトルの成分を自分の個性に総合する。
そしてそれを受け取るあなたの目と脳は、「りんごの色、質、クオリア」と解釈する。
なぜいろんな波長のうちで可視光線だけなのかというと、それは完全にこちら都合で、その光線を解釈するのが人類にとっていちばん便利だったからで、光の三原色もなぜその三色なのかといえば、人類が望んでその色を選んだ、あるいはつくり上げたからに他ならない。
空がなぜ青いのかと言うと、陽光が空気の層を透過する際に、窒素酸化物などに波長をこし取られ、青の成分だけが地上まで到達するからだ。
そしてなぜその波長が青なのかと言うと、それはまったくこちらサイドの問題で、つまり「われわれはその波長を青とする」と決めたからに他ならない。
この世界には実質、なにもない。
だけどそれでは不便なんで、生物の進化は、光と電磁気力による作用を、色として、質として、実体感として※1認識できるようにしたんだ。
なにが言いたいのかというと、あなたが見てる世界はあなたが脳内でつくってるにすぎない、ってこと。
本当はこの世界にはなにもなく、原子という(もっと突き詰めれば、素粒子という)虚像がたゆたってるだけなんだ。
つのが、量子力学が結論づける原子論なんでした。

おしまい

※1 脳が立ち上げるこの実体感の幻想を「クオリア」という。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

手を合わせてみて(なーむー・・・)。
あなたの手の平は、分子、原子で構成されてる。
その原子は、原子核と電子で出来てて、これらは電磁気力を持ってる。
その電磁気力によって、右手と左手とは反発し合い、あたかもそこに右手があるように、あるいは左手があるように、手応えが感じられる。
これこそが、物質に実体感があるように思える・・・つまり位置と運動量しか持たない素粒子がつぶのように感じられるトリックだ。
甲子園球場のグラウンドの中心にあずきがあり、球場の外周をケシ粒がめぐってる、というスカスカの原子モデルを紹介した。
それを手の平にのるほどのカプセルに縮小しても、あずきは同じ縮尺で小さくなり、ケシ粒はさらに同じ縮尺で小さくなり、したがってカプセルもまた、球場モデルと密度は寸分も変わらないことに注意する必要がある。
球場大のモデルを素粒子の大きさにまで縮小しても、原子の密度は・・・つまりぼくら人類の肉体や地球の密度は、甲子園球場の広大な空っぽと完全に=なんだ。
なにも詰まってないの、この肉体には。
つぶなんてひとつも使われてないの。
実体なんてどこにもないの。※1
すべては虚ろなマボロシ・・・
なのになんで触れてみてみっしりと感じられる実体感があるのかというと、それは電磁気力による反発の効果なの。
磁石のS極とN極を近づけ合うと「ぷるんっ」とするやつなの、この両手の平を合わせた手応えは。
だとしたら、色は?
なにもないのなら、なんでそこに実際にものがあるように見えてんの?

つづく

※1 機動戦士ガンダムでは、バズーカ砲などの持ち運べる弾を「実体弾」として、レイザービームのように実体のないエネルギー集中タイプと区別してたが、ぼくらの体はまさにビームで出来てるんだ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

水素原子は、原子核に陽子がひとつ、外周の軌道上に電子がひとつ、という最もシンプルなユニットだ。
甲子園球場のグラウンドの中央にあずき大に集中した電荷+1のエネルギーがあり、球場のワンブロック全体に電荷-1の霧が立ち込めてる、という描像をイメージしよう。
原子とはこうまでスカスカの空っぽで、いわゆる物質的な手応えがどこにもない。
では、ぼくらが感じる触感というのはどこからくるのか?
球場もの大きさの原子モデルは扱いづらいので、手の平にのるほどのカプセル大に縮小しよう。
この野球ボール大の透明なカプセルにした水素原子を、ふたつ用意する。
複数の原子を寄せて、分子をつくるんだ。
基本的に原子内の電荷は±が相殺されて中性の体を取ってるけど、ふたつのカプセルを近づけると、まずは外縁に配された-電荷同士(電子×2)が反発して弾き合う。
ところが原子核の+電荷は、自分の電子と同時に、相手の電子の-電荷も引き寄せる。
つまり双方の原子核は、双方の電子をクロスして引っ張るわけだ。
こちらの原子核があちらの電子を引き寄せ、あちらの原子核がこちらの電子を引き寄せて、ふたつの水素原子は、電子にひょうたんの軌道を描かせる形で混じり合う。
が、原子核同士は同電荷で反発し合うから、お互いの中心部分が触れ合うことは決してない(触れ合えば核融合爆発が起きる)。
これが共有結合、すなわち水素分子「H2」の構造だ。
さて、ここで思い出すべきなのが、水素原子とはスカスカの空っぽの手応えゼロの実体なしオバケだった、という事実だ。
それが、ふたつのカプセルをくっつけ、左右から思いきりプレスすると、ふたつの原子核同士は電磁気力で反発し合う。
このときはじめて「そこにものがあるような」抵抗が得られる。
感触が。
なにもないところに、なんと実体に触れてるような手応えが発生したぞ!

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

再び原子の大きな外観に戻る。
甲子園球場のグラウンドの真ん中にちょんと置かれたあずき大の原子核に対して、けし粒のような電子が球場の外周ほどもの広さで取り巻いてるのが、原子の姿なんだった
軽い電子は、2000倍も重い陽子に電磁気力で捉えられてる。※1
電磁気力もまた引力(または斥力)なんだけど、電子は凄まじい運動量による遠心力で原子核から遠ざかろうとする。
つなぎとめられながら、逃げ去ろうとする結果、これがうまい具合いに釣り合う。
電荷−1の電子に対し、原子核内の陽子の電荷は+1と、なぜか力関係が逆向きにピッタシなんだ(ちなみに中性子は±0)。
これには、原子核内の核子に三つずつ収まるクォークの電荷が関係してる。
クォークには2種類あり、アップクォーク(U)とダウンクォーク(D)という。
Uの電荷は+2/3で、Dの電荷は−1/3だ。
陽子はUUDというユニットで構成されてて、電荷を足すとちょうど「1」、中性子はUDDの構成で、差し引きするとちょうど「0」になるんだ。
まったく、自然にはなんて精妙な計算が働いてるんだろう。
こうして電子は、2000倍もの質量差がありながら相性どんぴしゃな陽子に寄り添うように、球場外周の軌道をぴたりと取る。
だけど、たまに−1の電子が、引力に吸い寄せられて+1の陽子に捕獲されることがある。
この際には、陽子の電荷が相殺されて±0になり、中性子に変容する。
これがいわゆる「崩壊」だ。
まったく面白い関係だよ、原子を構成する三人ときたら。

つづく

※1 これらを構成する素粒子には実体がないと言ったけど、特殊相対性理論のE=mc2により、そのエネルギー量は質量に換算できる。素粒子はつぶじゃなく、純粋なエネルギーと認識しておいた方がいい。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

さて、原子の姿を外側から追ってたけど、今度は内側から描写する。
甲子園球場のマウンド付近にちょんとあるあずきの内側、つまり原子核の中の光景だ。
前回に「原子は物質を構成する最小パーツ」という前近代的な表現を使ったけど、そのパラダイムは百年も前に間違いだとわかってるんで、きちんとした解答を用意したい。
物質を刻みきったいちばん小さなパーツは、クォークって素粒子だ。
クォークもまた電子のように実体がなく、位置と運動量のみを持つマボロシみたいなやつと考えていい。
しかも常に三つワンセットで活動する(基本ユニットを構成する)ので、単体を観測されたことがなく、真に数学的な存在だ。
三つのクォークは、重力でも電磁気力でもない、クォークにだけ効力を発揮する引力(核力)に拘束されてて、それがあまりにすごい接着力による封じ込めであるため、人類の稚拙な科学ではいまだはがすことができてない。
そんな三つがひと固まりとなり、陽子、あるいは中性子という「核子」をつくり上げる。
そして核子がまたひと固まりとなって、ようやく原子核となる。
甲子園球場のあずき粒の中には、こんなにも複雑な内部構造があったわけだ。
核子がなぜ原子核に集中してひとかたまり(つまりあずき状)になってるのかというと、クォークに働く核力が核子同士にまでガチガチの引力を及ぼし合うからだ。
重力と電磁気力の効果が宇宙の果てにまで及ぶのに対して、核力は原子核のさしわたし程度にまでしか届かないんだ。
このことは逆に、クォークにかかる核力が原子核のさしわたし分しか効かないために、原子核はその大きさに収まってると言い換えられる。
この核力のガチガチの拘束がはがされ、核子が分かれると「核分裂」となり、核力でくっつき合うと「核融合」となる。
これが原子核の中で起こってる出来事だ。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

あなた、原子のつくりって「ちゃんと」知ってる?
物質世界を構成する基本単位であるこいつの(現代的な)描像がいまいち世間に浸透してないようだから、きちんと説明してみるよ。
原子は、ものを小さく刻んでいって、最後の最後に「もうこれ以上はふたつに分割できない!」という物質の限界最小パーツと説明される概念だ。
だけどこれが最小じゃなかった、って話。
だって、刻んで刻んで最小パーツと思えるまでになった小粒をズームアップし、例えば甲子園球場ほどの大きさにまで拡大してごらんよ。
もしそれが砂つぶのように中身の詰まったものだったとしたら、もう一段小さく砕けない理屈はない。
ところが原子のつくりはそうじゃなかったんだ。
行き着いたその最小を拡大して調べてみると、球場のマウンド付近にあずきほどの原子核がちょんとあり、それを中心にして、スタンドの外周ほどの大きな軌道をけし粒のような電子がめぐってたんだ。
これが20世紀初頭の古典物理による原子の説明だよ。
原子の中身って、スッカスカの空っぽだったんだ。
が、21世紀も近づくと、さらに描像がマジカルになる。
最新の量子論では、電子は原子核の周囲を回ってるわけじゃなく、取り巻いて存在してる、と説明される。
軌道周回する電子には実体がなく、位置のみ、あるいは運動量のみを持ってるんだ。
そして「電子はあまりにもはやいスピードで原子核の周囲をぐるぐると周回するため」という説明は正確じゃないけど、ここではそれがわかりやすいんでそんなふうな感じとだけしておくが、甲子園球場の容積内いっぱいのあらゆる位置に電子はひろがってる、という状態になってる。
電子はもやもやと雲状の球体に散開してるんだ。
ただ、これを「回ってる」と表現するのは間違いだ。
なぜなら電子は、一個しかないにも関わらず、雲の中のすべての地点に同時に存在してるからだ。
まるで無限数個に分身したかのように。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

「主よ、お見守りください」の「主」ってのは、つまり読んで字の如く、自分のことなんだよ。
その祈ってる相手は、鏡なの。
「この願いが叶いますように・・・!」ってのは、要するに、自分にその価値はあるのか?自分はそのための準備をしてきたか、ってことを自分に問うてるんであって、答えを自分の中に見出す内観作業にすぎない。
だから、その願いの結果なんて最初からわかっちゃってんだな。
神さまなんていない。
だけど、神さまというツールは便利だ、自分を投影できるから。
オレも窯を焚くときには、本気で窯神さまにお祈りをする。
すると、自分の中身が全開に明かされる。
主は見ておられる。
その上で、みなさんが楽しい時間を過ごしてくれますように!いい作品がたくさんできますように!しあわせをいっぱい持ち帰ってくれますように!の答え合わせが行われる。
・・・というトリックなんだ。
宗教にのめり込むものよ、無駄金を注ぎ込まず、このセルフなメカニズムをきちんと理解するがよい。
神さまは常にそこにおられる。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園