量子論と生物学が結びつくと、細密化学分野の分子生物学が、さらに怪しげな「量子生物学」ってものになります。

ここに至ると、もはや禅的観念の域になり、直感では理解できないオカルト(最新サイエンスなんだけど)の色が差してきます。

初歩的な例では、量子力学に「観測した瞬間に物質が立ち現れる(観測されないものは実体として存在しない)」なんてものがありますよね。

物質は、誰にも見られてないところでは滅形して、波の状態にあります。

そうして空間上のあらゆる座標上に広く展開し、霧散しますが、そいつがですね、ぼくが見た途端に薄雲は一点に収縮し、一個の素粒子として顕現するのですね。

物質と波の相補性と言いまして、素粒子は常にぼくらの目とかくれんぼをしてて、隠れてるときには本当にどこにもいなく(「どこにもいる」とも言えますが)、いざ探すと一点に姿を見せるのです。

・・・すでにややこしくなってますが、これが素粒子の量子的性質なのです。

どれだけ精密な実験を重ねてもその結果になりますし、このことは数学的にも方程式の形で証明できてます。

要するに、ひとが目を閉じるとき、この世界にはなにもないのです。

なにもないんだけど、目を開くと出現するのです。

つまり世界をつくるには、それを見る誰かがいなきゃいけないわけです。

観測をする何者かが存在してはじめて、世界は存在できるのです。

誰かが観測しなければ、そこに物質は存在しません。

いや、形なき「影」が隠れた状態でみっしりと存在してるんだけど、観測することではじめて実体が獲得され、素粒子らしい姿が立ち現れる・・・この描像までは理解できますか?

ま、信じてもらうしかないわけですが(最先端科学なので)、その先です、問題なのは。

ここに生物学を・・・いのちの問題を絡めなきゃならないわけです。

ぼくは、いますよね(たぶん)。

そのぼくが「見る」「感じる」ことで、ものが実体を得ます。

だとしたら、物質であるぼくは、誰かに見てもらえるまで存在できません?

自分で自分を見りゃいいの?

セルフビルドスタイル?

コギト・エルゴ・スム(われ思う、故にわれあり)?

だけど、「見る」「感じる」存在であるぼく、ってのは、自分を見て存在させる瞬間まではどこで待機してんの?

 

・・・って話をですね、科学的説得力を持って書こうと思ったのですが、前置きが長くなっちゃったんで、今日は書くまでに至らず、ここまで。

つづく・・・