ユニクロから売り出し中の
半袖Tシャツ@
PEACE FOR ALLのシリーズ。
さて
これを着るのは一体?
1週間前の前回の記事↓
の冒頭で、フィリピン調査旅行用のお土産の半袖Tシャツを、絶賛、捜索中だと書きました。
結果は見事ゲット!
1月下旬に新しいTシャツが売り出されるという情報を元に、先週金曜日(1/26)の夜、パペルがユニクロのウェブサイトをチェック。すると、この間までなかった半袖Tシャツが、続々とアップされているではありませんか!
早速、翌土曜日(1/27)の午後、半袖Tシャツ購入作戦開始。
まずは、昨春、5年ぶりに行った時に、亡くなっていた人や、認知症でセブに引き取られて行った人などをお土産リストから外し、新しいリストを作成。
次にユニクロのオンラインショップにアクセスして、どの人にどのTシャツが合うかを考えながら、サイズを決めて行きます。
これらを一手に引き受けてくれたのはパペル。
実はパペルの特技は、会えば大体、その人の服のサイズが分かること。で、いつもTシャツの選定はパペルに担当して貰っている次第です。
パペルが選んでくれた柄を私がチェックして、パペルがそれらを商品カートに入れ、最後に2人で商品とサイズとをダブルチェック。
そして、遂に無事購入となりました!
以前は夏の盛りを過ぎた頃、ディスカウントになったTシャツを買っていたのですが、それだとサイズがないこともしばしば。
で、今回は定価もいとわず買う事に。お陰でほぼすべてのサイズが揃っていて、一気に買う事ができました。※
※フィリピンの人達は、骨格としては絶対に私達よりスリムなので、若い頃はXSでも大きすぎる人も。が、その後、ぐんぐん体格が良くなって、ある年齢以上の方の中には、3XLの方もおられます。なので、たとえユニクロでも、店舗ではサイズがないのです。
これで私も枕を高くして眠れるというものです(←実際、他の種々雑多な懸案事項の中でも、このTシャツ問題は大きな心の負担になっていて、夜、考え出すと、眠れないことが続いていたのです)。
ちなみに、冒頭のTシャツは、私達が通っているO村に最初の教会を建てた大工さんご夫妻へのお土産です。実はこのご夫妻だけペアルック。一緒に来て貰えるでしょうか?
お次は、バコロッドとマニラのペンションの予約です。昨春、5年ぶりに、長年通い続けていたバコロッドの常宿に泊まってみると、激しく値上げしたにもかかわらず、店内のレストランは寂れているは、設備はボロボロになっているはで、散々でした。
バコロッドの中心街もすっかり変わってしまい、立地的にもいまいちに。
というわけで、現在、新しいペンションを探そうと計画中。なので、いつもよりはちょっと厄介です。
何はともあれ、お土産のTシャツがゲットできたので、ペンションの予約が完了すれば、晴れてO村の人達に「今年も行くよ~。」と伝えることが出来ます。
来週には完了していますように。
・・・・・・・
さて、前回の続きです。
片や作家、片や牧師のお2人との出会いで、心を大きく揺さぶられ、何かから解き放たれたような感覚を覚えた私は、子供の頃から漠然と抱いていた疑問に、真正面から取り組んでみたいと思うようになりました。
それは、どうして地球上には、食べる物もなく餓えて命を落としている人達がいる一方で、日々、食べきれない量の食材や料理が準備され、余った物が捨てられているのか?という疑問です。
私がこのような疑問を抱くようになったのは、多分、小学校の中学年の頃だったように思います。
当時、高度経済成長期を驀進していた日本には、既に食料が余っていました。その一方で、世界では飢えて死ぬ人が信じられないほど多くいるのはどうしてだろう。余っている食料を困っている人に届ければ済むことではないか?
子供だった私には、この現実が理解できず、単純に摩訶不思議だったのです。
中学生になった頃には、エチオピア※で大飢饉が発生。約20万人の方が餓えで命を落としました。確かその頃、テレビでもエチオピアの惨状を写して、募金を呼び掛けていたような気がします(←記憶おぼろげ)。
※エチオピアでは、1984年から1985年にかけても大飢饉が発生し、約100万人が餓死したと言われています。
当時、このような事に疑問を投げかけると、親を含む多くの大人達は、「あれは、あの国の問題だから、あの国が何とかするべきだ。」と口を揃えて言いました。
2024年現在でも、エチオピアという国を心理的に近く感じている日本人が多いとは思いませんが、1970年代当時の日本人から見ると、エチオピアは遥か彼方の遠い遠い国だったのに違いありません。
一方、私が通っていたミッションスクールでは、毎朝の礼拝で聞かされる聖書の言葉とは裏腹に、そんな世界の惨状をよそに、より高い社会的地位を得て、より良い暮らしを送ることを目指す、という暗黙の了解があったように思います。いわゆるエリート志向とでもいうような校風があったと言えば、分かりやすいかも知れません。※
※こうしたダブルスタンダードに辟易していたのも、私がキリスト教を毛嫌いしていた一因であったように思います。
2人の人との出会いが私の心に風穴をあけた時、私は真っ先に子供の頃から抱いていたこうした疑問に真剣に向き合ってみようと思ったのです。
が、それにはまず専攻を変える必要がありました。つまり、研究員になるまで属していたフィールドから飛び出す必要があったわけです。
これがなかなかひと筋縄ではいかなかったのであります。
つづく