1986年~7年にかけて

ラピスが住んでいたアパート。

当時流行った家具調こたつに

色んな物が載っています。

窓際におかれた

ベッド@一応、北欧家具

に陣取っているのは

夜な夜な

ラピスの安眠妨害要員として

暗躍していたクリン@3~4歳。

 

明けたばかりと思っていた2024年もはや3週間余りが過ぎました。

 

昨春、5年ぶりに訪れたフィリピンですが、実は今春も既に飛行機を予約しており、昨日(1/22)で丁度、出発2ケ月前となりました。

そろそろ準備にとりかからなければならないのですが、目下、最大の懸案は、お土産に持って行く半袖Tシャツが手に入るかどうか(←え?この季節に?)。もしTシャツがゲットできなければ、行きたくても行けません。それほどフィリピン文化ではお土産は大事

昔、日本でも、故郷を離れて遠い所へ奉公に出ていた人達は、自分達のお金で買った、或いは、雇い主に持たせて貰ったお土産をどっさり背負って帰郷していたことでしょう。

 

そんな姿に想いを馳せながら、半袖Tシャツを探し回る私達です。

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さて、前回↓の続きです。

 

 

これが本当に私のしたいことなのかなぁ、という疑問が絶えずどこかに巣くっていた私の心に風穴をあけてくれた2人の人物。

その内の1人は作家で、ドクターの学生時代に出会いました。

指導教授がその作家についての著書を出版したことや、その他もろもろのご縁で、学部生も含む団体で作家のご自宅にお呼ばれし、心のこもったおもてなしを受けました。

正直に言えば、当時、私はその作家の著す小説にはそれほど感銘を受けていたわけではありませんでした。

 

が、作家とお連れ合いに直接お目にかかり、その誠実なお人柄と仲睦まじいご様子に、あぁ、世の中にはこんなに正直で率直で真面目に生きている人間がいるんだ、と心を大きく揺さぶられました。

この作家とお連れ合いとの出会いが、それまで激しく毛嫌いしていたキリスト教に対する固定観念を打ち砕き、キリスト教というものを見直してみようと思うきっかけとなりました。

このような出会いがあった後、程なくドクターを修了し、研究員となった私は、当時、同じゼミの先輩が、指導教授に紹介されて通っていた家庭集会に参加するようになりました。

その集会は、当時、私が所属していた大学で、かつて教鞭をとっておられた元教授(牧師)が声をかけて集まった人達が、小さな礼拝を守るという、極めて私的な集まりでした。

そこで私は目からうろこが落ちるような経験をしたのです。

 

その集会で聴いた牧師先生の説教は、私がそれまでに聴いて来たどの説教とも、全く質の異なるものでした。

中学・高校とミッションスクールに通っていたせいで、いわゆる朝礼が礼拝だった為、どんなに少なく見積もっても年200回、6年間で1200回は聖書に関わる話を聴いていたわけですが、それが却って私をキリスト教から遠ざけたと言っても過言ではありません。

俗に「抹香臭い」と言いますが、私にとって聖書にまつわる話は、「道徳」に根差した底の浅い話にしか聞こえず、その「キリスト教臭さ」には辟易していたのです。

が、家庭集会で初めて牧師先生の説教を聴いた時、私は初めてキリスト教の深さに触れたような気がしました。それは「道徳」とは無縁の、人間の本質的な問題に真向から向き合い、真摯に考え抜いた末にあらわれた真実と言えるようなものだったからです※。

※私が家庭集会に通い始めて程なくして、牧師先生は体調を崩され、家庭集会は一時、中断の憂き目に遭いました。その時、牧師先生から、いわゆる一般の教会に通う様にとすすめられ、紹介されたのですが、残念ながら教会では、家庭集会で聴いたような説教は聞けませんでした。その後、ィリピンから戻って来た後も、別の教会を紹介されましたが、結局、そこにも通い続けることはできませんでした。それほどその牧師先生の説教は際立っていたのです。

こうした2つの出会いに心を大きく揺さぶられた私は、何かから解き放たれたような感覚を覚えたことを、今でもよく覚えています。

そして、私は子供の頃から漠然と抱いていた疑問に、真正面から取り組んでみたいと思うようになったのです。

 

つづく

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大寒も過ぎ、暦の上では春に向かって暖かくなり始める筈ですが、ここに来て、今冬一番の強い寒気が襲来しています。

特に今日からあさってにかけて、北陸地方に警報級の大雪が降る可能性があるとのことで、未だに厳しい状況が続いている被災地に、更なる被害が出ないか、とても心配です。

地震で崩れやすくなっている家屋の上に大雪が積もると、倒壊の危険もありますし、体温が低くなると、免疫力が低下して、感染症が広まりつつある避難所などでは特に危険です。

今は唯、どうか寒気が少しでも逸れて、被災地を直撃しませんようにと祈るばかりです。