当時は天井近くまである本棚や
ビニール製の衣装ケースの上に
軽々と飛び乗っておりました。
昨年の11月21日、長きにわたって続いたフィリピン調査旅行記が最終回を迎え↓
2日後の11月23日の番外編で遂に幕を閉じました↓。
その後、レシピとカレンダーと今日のナナイと続いた後、12月にほぼひと月、お休みを頂くことに。
で、今年最初の火曜日は例によってカレンダー。
つまり、今日が今年最初のフィリピン関係の記事をアップする火曜日ということに。
少し前から今年は何を書こうかなと考えていたのですが、このサイトを立ち上げた当初の目的である、O村に住み込み調査していた時のO村日記をアップしていきたいなぁ、と。
で、その前にまず初心に帰って(?)、私たちがフィリピンに渡るまでの経緯を書いてみようと思い至った次第です。
実は、2001年11月11日に開設したウェブサイト『考えるノート』の自己紹介のページでも簡単に触れているのですが、回想法で脳の活性化をはかる為にも、今回はもう少しだけ詳しく書いてみようかな?と思っています。
では、フィリピンへの道、スタート~。
・・・・・・・
今を去ること40年近く前のこと。
1980年代後半、私は日本の、とある大学院で規定の単位取得後、研究員という身分を得て、絶賛モラトリアム※中でした。
※小此木啓吾1930-2003)が1977年に「中央公論」に「モラトリアム人間の時代」を発表して以来、「モラトリアム」という言葉は、広く一般に使われるようになりました。当時、私もこの言葉をよく聞いた記憶があります。
大学や短大などで非常勤講師として週に何コマかの授業を受け持ってはいましたが、その報酬たるやほんと~に微々たるもので、実際、初めての振り込みの時、通帳記入して、「え?何、これ?交通費?」と思ったほど。
学費は貸与されていたものの、大学卒業と同時にアパートを借り、ひとり暮らしを始めていたので、家賃や光熱費、食費、書籍代などは捻出しなければならず、かかる少額で賄える筈もありません。
では何で生計をたてていたのかと言えば、大学時代に立ち上げた家庭教師に毛が生えたような極小私塾※。
※大学院進学に良い顔をしない両親の元からひとり立ちするぞ!と意気込んで、生徒さん達から頂くお月謝をこつこつと貯めて、独立資金の準備にいそしんでいた大学生時代。が、まさか日本を離れる1991年までの13年間もの間、私塾で糊口をしのぐことになろうとは、大学生の頃の私は夢にも思っていませんでした。
当時は指導教授の秘書のような仕事もしており(←これは無償)、私塾、非常勤講師、秘書的な仕事をしながら、研究員として後輩である学部生のお世話をし、1年に1度は研究発表もする大学院の授業にも出席していたので、睡眠時間は4~5時間ということもざら。ゆっくり物を考える暇もない毎日でした※。
※ゆっくり物を考える暇もないのに、研究発表をしなければならないなんて、正に本末転倒だったと、今になるとよく分かります。
そんな日々を送りながら、私は何となくこのままどこかの大学の常勤講師となり、その大学に就職してしまっていいのかなぁ、という気がぼんやりとしていました。
何と言うか、これが本当に私のしたいことなのかなぁ、という疑問が絶えず心のどこかに巣くっていたような気がします。
そんな私の心に風穴をあけてくれたのが、当時、指導教授の仕事の関係で出会ったある作家の方と、指導教授の紹介で通い始めた家庭集会で説教をしておられた牧師先生(当時、通っていた大学の元教授)のお2人でした。
どちらもキリスト教関係という意味では共通点がありましたが、お2人を並べてみると、まったく共通点がない、と言っても過言ではないほど、それぞれに違った人生を歩んで来られたの方々でした。
唯一、お2人が似通っていたのは、どんな困難に遭遇しようとも、自分の信じた道をまっすぐ突き進むという信念の強さだったかも知れません。
このお2人との出会いが、私の人生の大きな転換点となったのです。
つづく