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foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

何度見ても

  いいものは

 何がいいというより

  ただ いいね!

京都で鍵膳から河井寛次郎記念館へと回り寛次郎の素晴らしい作品を沢山拝見してきましたが、自分が生まれる前から 両親がとても影響を受けていたので無意識の中にスーッと入ってきます。

 家に帰って

寛次郎の作品を改めて観ました

 

 花紋抹茶碗 (大)

 花紋抹茶碗 (小)

 三色扁壺

 柿釉ぐい呑み2

 呉須筒描紋茶碗

 三色打薬抹茶碗 1960年70歳の作品 

 辰砂呉須鉄絵 花紋 扁壷2 1937年47歳の作品

 呉洲鉄菱花紋長角筥(ハコ) 1947年57歳の作品

 呉州灰皿 1950年60歳の作品

 

記念館にあるような大作は一点もありませんが、柄や形の似た物もあり、毎日好きに触って楽しめるのでありがたいです。

 河井寛次郎も濱田庄司も民芸の人。二人共、自分はただの陶工だから銘は入れないと言い、寛次郎はただの陶工だからと人間国宝さえ辞退しています。 銘を入れないと真似されますよと新聞記者が尋ねたら、真似されても物が本物ならそれで良いと気にもされませんでした。 この寛次郎の生き方やその考えやを一番受け継いだのが直弟子の生田和孝と言われていました。ですから、生田さんは寛次郎と同じ様に作品に銘を入れません。

 

 生田さんは寛次郎の窯を出て丹波焼を盛り返し、鎬大皿で文部大臣賞を取り、これからという55歳で早逝されてしまいました。

 生田さんは私の父の友人で、個展の後、時々父のところに皿や碗などをたくさん使ってくれと送ってきていました。ですから実家にいる頃はいつも生田さんの器で食事をしていました。私も学生の頃、生田さんの所で陶芸家になりたいと思ったこともありましたが、その時は染織をする事に決めていたので諦めました。今も生田さんの器も飾りながら使っています。

 河井寛次郎作品はとても人気ですし、作品に銘を入れないので偽物が多いのも有名です。

偽物でなくても、河井武一(甥)、河井透(武一の長男)、河井創太(曾孫)河井敏孝(博次の養嗣子)や多くの直弟子等が寛次郎似の作品を作っているので、混同されることも多く、業者でも迷うことがあるそうです。

 寛次郎以外は全般的に見ると、皆、どれも少し優しい感じで、寛次郎の構築さやすっきりとした豪快さから見るとやや小粒の感じがします。

この中で、個人的には河井武一作品の中にも好きなものがあります。

 弟子の中でも生田和孝は寛次郎似のものは造ってません。

 

また、寛次郎は銘を入れないので河井武一作品を寛次郎作偽り共箱を偽造したり、悪質な偽物が多いのも特徴で、ヤフオク等を見ると沢山出ていて面白いです。

 

さて、拙宅。

 茶碗と湯呑みと筥が計5個置いている写真がありますね、この中に河井寛次郎作ではないものがあります。

 さてどれでしょう。

 これも寛次郎が何点か作っているものによく似ていて、偶に業者でも寛次郎作として販売していたり、ヤフオクなどで河井寛次郎作として売られていたり、偽物を含めて似たものがよく出品されているものです。

 正解は、呉須筒描紋湯呑です。

 

偽物ではなく、作者は寛次郎の婿養子、河井博次作の湯呑です。

形はそっくりですが、筒描きの柄が寛次郎とは少し違います。

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さて、お気に入りの碗でお茶を。

 お抹茶は60位ある茶碗の中から毎日その日に気に入ったものを取っ替え引っ替え 日に3杯ほど飲んでいますが、

河井寛次郎の抹茶茶碗は3点。

三色碗、花紋が大と小

 どれも見込み(うつわの内側)の底にポツポツと3つ目跡(重ね焼きをした時の跡)がついていますね。

一般的にお抹茶椀はひとつづつ素焼きの甕に入れて他に触れない様に大切に焼かれますが、寛次郎は民の技、民芸品なので重ね焼きをしています。

 

この中で、私のいちばんのお気に入りは、大きい花紋抹茶碗です。

胴も厚めで高台も寛次郎らしい特徴がありどっしりと豪快です。

 大きく割れて金継ぎをしてありますが、太い金継ぎでこれもいい景色。

どっしりと大きい方が温かみがありゴツくて寛次郎らしくて好きです。

 もう30年もこれでお抹茶を飲んでいますが掌にふわっとどっしりとおさまり、心の温かさが伝わります。

 器は使われるために生まれてきた物ですから、使わないと可哀想。私のところではどれも使っていますが、

「物語のある料理『野の花料理・恵那の野山の 蕎麦懐石』」でも、お客様に自由にご自分で碗を選んでいただき、お茶をたてて飲んでいただいています。

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茶の良さは

 収まりの良い

   たなごころ

ふわふわと

 少し多めに

   泡繊細

これが私の好きなお抹茶です。

泡は福々として細かければ細かいほど甘くおいしさが募ります。

 

 たまに他所で三日月の泡や海の泡の茶をいただきますが、ふくふくしないので私には合わないのでしょう。美味しいものに出会いません。

大好きな河井寛次郎の器でいただくお茶は 本当に美味しいです。

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 お抹茶はスプーン(茶杓)で粉の茶をすくって器にいれて(茶筅)で混ぜるだけという世界最古のインスタント飲料です。

そして、抹茶は、抽出液ではなく茶葉そのものを飲むため、食物繊維が豊富ですし、紅茶や煎茶、コーヒーに比べてより多くの栄養成分を摂取できます。

 美味しいですし、健康のためにもお抹茶を飲みましょう

昨夜は東山の有名イタリアン イルギオットーネでいただき、今日は二条城からグランピエ、鍵膳、河井寛次郎記念館と世界の民藝を勉強し楽しみ、しっかり歩いたから、夜は祇園四条などの喧騒から離れ、

 洛北一乗寺の閑静な住宅街の中にひっそりと在る「唯食いかわ」へ。

 

 店構えは、高名な庭師北山 安夫作で一見敷居が高そうだが、中に入ると笑顔で女将さんが出迎えてくれます。カウンター、座敷、テーブル席とこじんまりしたいい店。

 テーブルを勧められたが、何よりもカウンターが一番なので。

 京都の山野草採取業者のバカボンさんの採りたて山野草が楽しめるお店。

魚は全て天然物

と言うよりこのお店は天然物しかない。

 

料理の注文はしない。

 いいものを少しづつくださいとだけ。

 

まず 喉を潤すのに

 恵比寿の生

 

●突出し

大きめの筍皮の筺

 

何が入っているかな

 期待が膨れる

 

蓋を開けると真っ先に目に入った冬苺

 

この寒空の中 山に入って採ってくるとは 貴重な逸品

 今だけの遊び

     粋だね

 

冬苺 聖護院大根の柿包

京都の北方 美山の鹿 モッツァレラチーズ

金柑 等

冬苺は通常の秋などのものより小粒だが酸味は少なくサラッとした優しい甘さ

聖護院大根を昆布で締めてあり柿の甘さとよく合う

 

●合わせる酒は 酒の保冷庫をみさせていただき

奥播磨 芳醇辛口を選ぶ。

純吟で、おりがらみとあるが、それほどオリは無い。

旨味もありキレが続くいい酒だ。

 

●お造り 

大きな一枚板に

それぞれの魚に京の野にある雑草をそれぞれ合わせてお供にいただく。

これはすごい

 

 スミレに青森の中とろ マンリョウ

 ナズナにチェジュの鯖

 オオバコにアオリイカ

 カキドオシに石垣鯛

 ハコベとアカツメグサに鮑

 シャク(セリ科シャク属の多年草。別名、ヤマニンジン)とシロツメグサに鰤

 

土佐醤油 トマトと玉ねぎお出汁 お塩

 

どの草もそれほどアクは強くなくいい感じ

マンリョウの実は味をあまり感じない

鮑はコリコリ 鯖 アオリイカ 石垣鯛 鰤 どれもお供が面白く美味しい。

鮪が無いのがいいね。

 

 

●湯葉蒸し 雲丹載せ

雲丹は黄色っぽいから蝦夷ムラサキウニだね

 

●次は河豚の白子 石焼を注文

 

●そして合わせるお酒は緑川 純吟 雪洞貯蔵酒 緑 

このお酒に酸味を加えて飲みながら白子を食べようと思い、

柑橘類何があるか尋ねたら、酢橘とレモンがあると言われた。

サラッとした綺麗な酒なので、

レモン一切れをお願いして一滴垂らすことにする。

 今回の緑川は新潟らしい綺麗なスッキリ酒なので、やや甘みのあるレモンにしたが、旨みのある酒の場合は甘みのない酢橘が良い。

 

石焼 熱々白子が旨い

これならお酒もお猪口にレモン1滴では追いつかない 4滴垂らす。

酸味が白子を綺麗にする。

旨い!

(河豚は一般的に酢醤油などでよく食べられるが、酢など入れないで酒に酸味を加えそれを飲みながらの方が、河豚本来の味の邪魔をしないので確実に美味しい。

本当に白子によく合う。

 

●テッピ(鉄皮)

ふぐは鉄砲とも言われますが、鉄砲の皮から「鉄皮(てっぴ)」と呼んでいます。

背中側の皮が薄く固くコリッと、腹側の皮は厚みがありプリっとしています

今日はコリッとではなくギュッとした食感

いいもんだ。

 

●テッサも注文

何も言わないでも、薄造りでなくてよかった。

薄造りなどペラペラでおいしくない。

河豚は少し厚みがある切り方でなければ美味しくない。

 私は鳥取県育ちなので子供頃から家で虎河豚は時々食べていたけど、

大学に入って東京でテッサを食べたらペラペラの薄さでびっくりした。

また、てっちりは刺身を取った残りの骨付きのアラのようなものばかり。

 故郷では刺身は程よい厚みがあり、鍋は河豚の皮を引いた後のそのままのぶつ切りで、丸い形だった。

 高級魚なので刺身はこんなに薄く、鍋も冴えない、貧乏臭くもあり、これでは鉄砲の名が死ぬ。

仕方ないから薄造りは3枚ほど重ねて食べるけど、薄くカットしてあるので味は薄くなり歯応えが死んでいるのでそれほど美味しいとは思えない。

河豚はしっかりとした食感も含めて食べるもの。

養殖がとても増えているが、生簀で育てた河豚は身が締まらない。身の締まっていない河豚など河豚ではない。まして、餌も鰯が高騰して大部分が加工餌。病気をしないように抗生物質を使ったり様々な化学栄養素、肌が傷つかないように薬を使って育てる。養殖する以上は仕方ないだろうけど、豚や牛より使用基準が甘いそうだ。

こんなもの食べなくても何も困らないし食べたくない。

 古伊万里や皿の柄を見させたければ虎フグではなく、カワハギで十分。変な河豚よりカワハギの方が美味しいしね。

厚みが丁度よく旨い河豚は、

後で聞いたら、ここの大将が薄造りは美味しくないと これくらいの厚みにされたそうです。

 

●手作り豆腐

緑色している 甘くて優しい味わい とても美味しい

 

●里芋の煮付け

これもとろっとふわっと美味しい

お汁がうまい

 

●デザートにクラシックな高級アイスキャンデー

これが 美味しかった。

鈴木商店製 

神戸の東灘区田中町とある。

摂津本山に70年続くアイスキャンデーの専門店

すっきりといい味 懐かし味

 

●アイス最中もお嬢さん用に買ってあるとのことで それも頂いた    (お嬢さんごめんなさい)

 懐かしい最中の皮にソフトクリームが挟んである。

 

パリッとしてサラッとした美味しさ。

 

 

もなかの載っていた皿は、

京都祇園で春に毎年開催される「都をどり」の時に配られる団子皿。

京都で和食を食べると時々見受けますが、もともとそのデザインを考案したのは三代清水六兵衞とのこと。

野のものと天然のお魚を合わせる試みと美味しいお酒 いい勉強になりました。

料理一つづつゆっくりと出されるが、こちらも食べるのが遅いからちょうどよく

 いい時間を楽しみました。

さて、3日間の京都の勉強も明日が最終日。

 日本で一番予約を取れないという中東でどんな勉強ができるだろう。 

今回の3箇所と、先月行った美山荘との対比も考えてみたい。

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唯食いかわ

京都市左京区一乗寺谷田町 33-2

0757228590
お店の裏手に駐車場もございます(駐車台数に限りがありますので、事前にお電話下さい)0757228590

定休日 水曜日 17~22時

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三代清水六兵衞

1820-1883(明治16)

清水家中興の祖で、文人、画家との交流が深く、文人趣味によく通じた煎茶器の他、赤絵・染付磁器、土物では御本、織部などを得意とし、「六兵衞様」と呼ばれるスタイルを確立した。印は大徳寺の大綱和尚の筆による六角「清」印などを用いた。

初咲の
 梅の香りに
   春立ちぬ

まだかまだかと待っていた初梅が漸く今日 数輪 咲きました

立春の
 寿ぎを愛で
    初の梅

昨日は大寒最後の日
 節分で豆まきをして
   今日から春です

節分の
 豆を拾いて
  春は立つ




わんこ達も とても元気

河井寛次郎記念館に館長の猫のえきちゃんに挨拶に伺いましたら、

寛次郎の木彫を代表する兎を飾った玄関間で

 正座して待っていてくれました。

抱っこもさせてくれました。

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河井寛次郎

 またゆったり拝見しました

 作品も生き方も

いいね!

 何がいいというより

  ただ いいね!

  好きなんだな。

 私は浜田庄司も河井寛次郎もほんの数点持っていて

「物語のある料理『野の花料理・恵那の野山の 蕎麦懐石』」でも使っていますが、

濱田庄司の方が如何にも民の技という感じで、使いやすく、けっこう多用途で使える感じですが、飾っておくには寛次郎ですね。

 しかし、寛次郎の碗をつかってみると。

一見ゴツそうな抹茶茶碗ですが持ってみると掌にぴたっとおさまり、その重さがちょうど良い。

もう30年程使っていますが抹茶が旨いです。

この辺りは寛次郎の神がかった所かもしれません。

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清水寺に程近い、東山五条。大通りからひと筋それて路地に入ると、そこは静かな住宅街。車一台がやっと通り抜けられるほどの狭い道沿いに、民家が建ち並んでいます。そんな京都の人々の生活に溶け込むようにして建っている「河井寬次郎記念館」。

土と炎の詩人。「暮しが仕事 仕事が暮し」の言葉を残した陶工・河井寬次郎の住まい兼仕事場を公開したものです。

外観は黒格子に犬矢来のある京町家風の造りですが、中に入ると山里の古民家のよう。木のぬくもりが感じられる、重厚感ある佇まいです。 建物のみならず、館内の家具や調度類も寬次郎のデザイン、あるいは蒐集によるもので、そこかしこに力強さを感じるような陶器作品が置かれ、「そこに有るべくして在る」というような存在感を放つ木彫作品たち。

 木彫は100点ほど作っていますが、全てが非売品でここにくれば対面できます。

 私の父は染織家でしたが、まだ20代の頃から河井寛次郎を尊敬しており、機織りの合間に寛次郎似の器を作ったりもしていました。母も父を知る前から芸術や民芸運動に興味を持ち河井寛次郎が好きで、京都五条坂の河井寛次郎邸へも数回お邪魔して奥様にも可愛がっていただいたという思い出の場所。 私がまだ生まれる前から来ていたんです。そして私も10代の頃から何度も来て、二代にわたって影響を受けています。

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河井寬次郎記念館

〒605-0875 京都市東山区五条坂鐘鋳町569

電話・FAX 075-561-3585

月曜休館 (祝日は開館、翌日休館、夏期・冬期休館あり)

10:00~17:00(入館受付16:30まで)

河井寛次郎(1890年(明治23年)~1966年(昭和41年)は天才陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。柳、濱田とともに民芸運動を立ち上げる。 類いなる才能の持ち主で、多くの陶芸家 芸術家に影響を与え、おそらくその影響は日本一だろうと思われる。

 自分は陶芸家ではなく市井の一陶工だと言って、重要無形文化財保持者(人間国宝)や、様々な賞を辞退して無位無冠の陶工と呼ばれる。

(ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するが、出展を嫌がった河井に対し、河井に心酔する川勝堅一が独断での出品によるものです。)

もう先々週になりますが、映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家』を観てきました

とても懐かしく、新しい発見もあり、モリコーネの天才さを発見する素晴らしい映画でした。

たくさんの思い出の映画の場面と共にエンニオ・モリコーネの映画音楽が蘇ります。

それは単なるBGMではなく、音楽によって映画の幅が何倍のも深くなることを教えてくれます。

あなたもモリコーネとともに名画を巡る157分の旅に出かけませんか。

エンニオ・モリコーネは1961年のデビュー以来、500作以上という驚異的な数の映画とTV作品の音楽を手掛けます。この映画は、映画音楽のパイオニア、モリコーネが自身の半生を回想しながら映画と欠かせない素晴らしい楽曲が生まれた秘話を振り返る音楽ドキュメンタリーです。名場面とともに語られる解説はまさに懇切丁寧な音声ガイド。紹介されている映画が何度も観ているものだとしても、さらに深く入り込みたくなります。単なる記録映像にならず、実に叙情的で心揺さぶる内容になっています。映画音楽への愛、裏切り、葛藤、至福……。

60年代 高校をよくサボって映画を見に行っていました。ウエストサイドミュージックやサウンドオブミュージック、その他マカロニ・ウェスタンの大ブーム。

マカロニ・ウエスタンといっても50歳以下、もしかしたら60歳以下の方には何のことかわからない人もおられると思います。

マカロニ・ウエスタンはイタリア製西部劇のことで、アメリカ産の西部劇とは一味も二味も違う活劇でした。

黒澤明の『用心棒』などの影響で、イタリアで生まれました。

 荒野の用心棒 クリント・イーストウッド 『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』でクリント・イーストウッドと渋い俳優のリー・ヴァン・クリーフ 

『夕陽の用心棒』のジュリアーノ・ジェンマ フランコ・ネロ チャールズ・ブロンソンなど。

『荒野の用心棒』の口笛は今でも映画以上に蘇ります。『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』など、クリント・イーストウッドや渋い俳優のリー・ヴァン・クリーフは忘れられません

これら映画の曲を作曲したのがエンニオ・モリコーネ。

 2020年7月6日に91歳で逝去したモリコーネ。セルジオ・レオーネ監督との『荒野の用心棒』(’64)、『夕陽のガンマン』(’65)、『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』(’66)、彼との最後の作品となった『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(’84)。同じく何度もタッグを組んだジュゼッペ・トルナトーレ監督との『ニュー・シネマ・パラダイス』(’88)、『海の上のピアニスト』(’98)。ブライアン・デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』(’87)、アカデミー賞作曲賞を受賞したクエンティン・タランティーノ監督の『ヘイトフル・エイト』(’15)……ざっと思い返しただけでも、数々の名作になくてはならないモリコーネの音楽が脳裏に浮かびます。映画音楽の作曲が天職のような巨匠ですが、その人生は波乱に満ちていました。

伏見ミリオン座などで上映中です。

予告編

https://eiga.com/movie/96331/

 遊び心の 物語のある料理『野の花料理・恵那の野山の蕎麦懐石』 如月の蕎麦懐石では二月初めに来られるお客様へお出しする一品として、節分にちなんで黒豆を用意します。

 

黒豆の黒色は、魔除けの色、悪気をはらう色とされ、更に髪も黒々としていて健康的な不老長寿をもたらす色として、信じられていました。

また、皺のないふっくらと甘く煮た黒豆はしわが寄らないように、長生きできるように、という意味があります。

黒豆は地元の無農薬有機栽培農家さんの安心安全で豊かな味わいのある黒豆を分けていただきました。

サラッと上品なやさしい甘辛ふくめ味に作りたいと思います。

調味料

 メープルシロップ

 三年熟成醤油

 粗塩少々

 砂糖は体に良くないので私の所には存在しませんし、鋭い味ですので使いません。蜂蜜も良いのですが、独特の甘味と舌にねっとりと来る感じを出したくないので今回は少しにして、優しい甘さの木の樹液で作られたメープルシロップを80%使用しました。

たっぷりのお水に1日浸け、味付けをして落し蓋をして水分が減って黒豆がのぞかないように何度も水を加えて三日間弱火で煮ていきます。

福福と丸く膨らみツヤツヤとした黒豆メープルの優しい甘さと、コクのある熟成醤油がふわっと優しい甘辛さです。

器は 色絵金彩 鳳凰 牡丹図 小鉢

鳳凰、牡丹という吉祥を描いた とても古い貴重な品です。

恵那の野に出かけて、ヒイラギと南天、蝋梅をひと枝 手折り、飾らせていただきました。

柊にも南天にも魔除けの意味があります。

身土不二 地産地消

飾り物もお豆も皆 地元の恵那で調達できるという 豊かな里に感謝しながら

大切なお客様へお豆もお飾りも 器も、使用したすべてのものが

 お祝いを表し お祈りする 心を込めて一品をお出しできる幸せです

みなさんの家では「鬼は外福は内」と言って豆を巻かれると思いますが、

鳥取県倉吉市の私の実家はちょっと違っていました。

 節分の日は、柊と鰯の頭を串に刺した柊鰯(やいかがし)ひいらぎいわし)を表門と裏門に挿してから部屋の入り口に小さなものを刺して飾ります。

 子供の頃 

  台所で大豆を煎り 四角い五合升に入れます。

 四人兄弟の内その年の年男(としおとこ)の男の子は(年男がいない場合でも)羽織袴(はおりはかま)に着替え、足袋を履き正装をして、腰にはズッシリと重い 本物の脇差しを差して、家中を口上(こうじょう)を述べながら豆をまいていきます。

 この脇差は、特に名刀中の名刀と言われ、天下五剣といわれる5振の刀に含まれる、大江山の「酒呑童子」(しゅてんどうじ)を切った、平安時代の国宝「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)や、平家伝来の名刀「抜丸」等の刀鍛冶集団が代々いた伯耆国倉吉で打たれた刀です。(尚、倉吉には現在も鍛冶町があり、1軒の鍛冶屋が残っています。)

子供ながら勇ましくカッコいいと思っていました。

 羽織袴など一年間でこの時ぐらいしか着ませんから、子供ながら凄く緊張しています。

さらに口上を一言も間違えないように言おうと より緊張する時間です。

 玄関から、全部の部屋13と、お風呂、廊下、トイレまですべての部屋と、庭にも向かって合計20回近くもこの口上を述べながら家中に豆を撒いてまわります。ですから終えるまでに一時間以上も掛かってしまいます。

 羽織袴で五合枡の大豆を持ち、部屋ごとに窓を開け、口上を述べてを豆をまいてまわります。

兄弟四人と申しましたが年が離れていて、私と直ぐ下の弟は5つ、一番下の弟はひと回り12歳も違いますから、次男坊の私が一番多く行っていました。

 豆をまく度の口上ですが、

新瑞の

 年の初めに

   豆打てば

 福は内 福は内 福は内

  鬼は外

    鬼は外

 江戸時代から続いている 口上(こうじょう)は謡(うたい)の様に抑揚をつけて 歌います。

 あらたまの~

としのはじめにまめうてば~ (ここまでゆっくり語り)

 ふくわうち ふくわうち ふくわうち! (ここは早く語り)

(ここで構えて升から豆を手で握り)

おには~そと~(といってここで豆をまく)

  おには~そと~(といってここで豆をまく)

 子供で 羽織袴で腰には刀を差して格好良いし、最初は緊張して張り切っているのですが、刀はオモチャじゃないからとても重いし、後の方の部屋ではもうくたびれてしまうし飽きてしまう。

10部屋もまわった頃にはもう 口上も豆まきも嫌だと思うが

子供ながら大切なことだからと我慢。

 普段着たこともない羽織袴は格好良いが風通しがよくて大寒には寒い。 

 どうにかすべての部屋などに巻き終わって終わったころにはもう

へとへと。

  小さい頃は途中で嫌になり泣き出したこともあったそうです。

それが終わってからようやく皆で晩ご飯になり、家族全員がその年齢の数だけ豆を食べます。

 僕は6歳だったので6個

大豆は炒ってあり、予想より旨いが たった6個では数が少なすぎてすぐに食べ終わり、物足りない。

それと引き替え

お母ちゃんは沢山だ。ばあちゃんは60才以上だから多すぎて下痢でもしないかと心配。

 少し僕に分けてくれればお互いに丁度良い数食べられるのにと思いながら

いつも分けてもらった。

炒りたての大豆は香ばしくて旨かった。

次の日

各部屋のいたるところに豆が転がっている。

昨日あまりたべられなかったから

もったいないから拾って食べた。

美味しくなかった

豆まきの大豆は 炒りたてじゃないと不味い! と つくづく実感しました。

 …………………………

(古い写真は刀は差していませんが、この子は、手織物の鳥取県無形文化財になっている私の直ぐ下の弟の6歳位の時の節分姿です。)

「天下五剣」(てんがごけん)とは、数ある日本刀の中でも最高傑作と呼ぶのにふさわしい5振のことです。

その5振とは、「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)、「三日月宗近」(みかづきむねちか)、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)、「大典太光世」(おおでんたみつよ)、「数珠丸恒次」(じゅずまるつねつぐ)。

 …………………………

 この豆をまく時の口上(こうじょう)ですが、

私の生まれ育ったのは鳥取県倉吉市で、近所の方や遠方の方、他県の方に尋ねてみましたが、しかし誰に聞いてもこんな口上は知らないと言われます。長い歴史の中 どこからきたものなのでしょう?

 皆さんの家では どうですか

少し かわった口上のある方は教えてくださいませんか

2023年の立春は2月4日からですから、その前日、2月3日が春の節分ですね。

 節分というと最近は豆まきよりも恵方巻きの方が有名ですが、恵方巻きの起源はいくつもの説があり、その一つに江戸時代末期から明治時代初期にかけて、大阪・船場の商人による商売繁盛の祈願事としてはじまったようです。

 その後、恵方巻きは一反廃れましたが、1973年から大阪海苔問屋協同組合が、海苔を使用する巻き寿司販促キャンペーンを始め、大阪市で海苔店経営者等がオイルショック後の海苔の需要拡大を狙い、海苔巻きの早食い競争をはじめ、復活することとなりました。

 この道頓堀のイベントがマスコミに取り上げられて関西に広がり、その後コンビニのファミリーマートが先駆けとなり販売されるようになって全国に広がったようです。

節分とは直接関係ないのにうまく商人に乗せられていますね。

 太巻きをを切らないでそのまま大きな口を開けてかぶりつくという ちょっと下品で人にはあまり見られたくない食べ方ですが、

 私が生まれ育った頃は、大きな食べ物を直接かぶりつくと、親に「はしたない・みっともない」などと言われて怒られました。また、瓶入りジュースやコカコーラも直接飲むと怒られたものでしたが、おそらく、1971年に銀座三越1Fにマクドナルド第1号点が開店して、ハンバーガーにかぶりつくスタイルが話題になった頃から徐々にこの喰らいつく下品な食べ方が普通に広まったのでないかと思われます。

 今では美しいタレントが瓶で飲むCMは当たり前ですが、やはりなんか… 少し… しっくりこないです。

と言ってももう私もそうやって飲んでいますけど。

 ところで、このオープンした頃のマクドナルドは食材が良かったのでしょうね、バンズも美味しく、すべてが美味しく銀座に行くと歩行者天国でよく食べていました。しかし、店舗展開がふえるたびにおいしくなくなっていき、もう25年以上も食べていません。

 恵方巻きを大口でたべるのは笑ってすませても、毎年その売れ残りの大量廃棄が話題になるという笑えない事実も持っています。

さて、私の実家の節分行事は 柊鰯(やいかがし)を表門と裏門に挿してから始まります。

 柊鰯(やいかがし・ひいらぎいわし)

みなさんご存知のように、節分は立春・立夏・立秋・立冬の分け目のことで、特に冬(大晦日)から立春の節分は新しい年に変わるとても重要な分け目ですね。

 季節の節目には、その節目の隙間から災いが訪れると言われており、それを防ぐために、この節分に魔よけとして柊鰯を飾ります。

柊は、棘の痛さで鬼を追い払うため、いわしの頭はその臭気で鬼を寄せ付けないようにするためと言われています。

私のところは柊鰯を「やいかがし」と言いますが、別の言い方のところもあると思います。

鰯を焼くと臭いが更にでることから、『焼き嗅がし』が転じて『やいかがし』となったとも言われます。

ところで、ことわざの『鰯の頭も信心から』もこの柊鰯から始まりました。

 信仰心の不思議さを皮肉っぽく述べたものですが、いわしの頭のようなあまり役に立たないものでも、それを信じる人には何よりも大切なものであるということで、それほど信じる力は大きいということを示しています。また、何でもなさそうなものを信じる人を揶揄するときにも使われますね。

このことわざは、江戸時代刊行の俳諧の基本文献『毛吹草(けふきぐさ)』(1645年)に「いわしのかしらもしんじんから」と出てきているそうで、このことわざも古くから使われていたのですね。

 さて、この柊鰯(ひいらぎいわし)はいつ頃から始まったのかの確かな資料はまだ出ていなくて判らないそうですが、「柊」だけなら、奈良時代初期編纂の『古事記(711年)』に、ヤマトタケルの東征に『比比羅木之八尋矛(ひひらぎのやほこのほこ)』柊の木で作った八尋の矛(ほこ)というのが出てきます。しかし、矛(ほこ)とは両刃の剣のことですから木で作った剣など武器にはなりません。これは鋭い棘の葉を持っている柊の霊を矛に托してヒイラギで出来た矛を持っている人物は霊力を授けられるとしたのでしょう。

おそらく、まだ言葉もなかった太古の昔、柊の木はその鋭い棘の葉に触れると痛いので動物が避ける事から、動物避けの場所に使っていて、鬼や邪も避けると思われるようになったのだろうとおもいます。

 2000年以上もしきたりが続いているって凄い事ですね。

現代でも、魔除けとして敷地の角々に植えられている家を見かけますが、私も恵那市に家を建てた時には裏角に柊を植えました。

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ちょっと横道

「柊」という漢字は木偏に「冬」ですね。節分(大晦日)との関係からか、冬を代表する木とされていることがわかりますが、晩秋~初冬にかけて花をつけることから、「木」と「冬」を組み合わせて「柊」になったといわれています。まるで粉雪がパラパラっと降りたような小さくかわいい花です。

百人一首の11番「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」の作者 小野篁の『小野篁歌字尽』という本では、季節を代表する木として詠っていますが

春椿(つばき)

   夏は榎(えのき)に

      秋楸(ひさぎ)

    冬は柊(ひいらぎ)

     同じくは桐(きり)

ここでも柊は冬を代表する木として使っています。

節分は柊鰯を飾ったあとは豆まきですが、次回、私の実家でのちょっと変わった節分風景を書きましょう。

河井寛次郎記念館に猫のえきちゃんに挨拶に伺いましたら、

寛次郎の木彫の代表作の兎を飾った玄関間で

 正座して待っていてくれました。

 

抱っこもさせてくれました。

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河井寛次郎

 またゆったり拝見しました

 作品も生き方も

いいね!

 何がいいというより

  ただ いいね!

  好きなんだな。

 私は浜田庄司も河井寛次郎もほんの数点持っていて

「物語のある料理『野の花料理・恵那の野山の 蕎麦懐石』」でも使っていますが、

濱田庄司の方が如何にも民の技という感じで、使いやすく、けっこう多用途で使える感じですが、飾っておくには寛次郎ですね。

 しかし、寛次郎の碗をつかってみると。

一見ゴツそうな抹茶茶碗ですが持ってみると掌にぴたっとおさまり、その重さがちょうど良い。

もう30年程使っていますが抹茶が旨いです。

この辺りは寛次郎の神がかった所かもしれません。

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清水寺に程近い、東山五条。大通りからひと筋それて路地に入ると、そこは静かな住宅街。
車一台がやっと通り抜けられるほどの狭い道沿いに、民家が建ち並んでいます。そんな京都の人々の生活に溶け込むようにして建っている「河井寬次郎記念館」。
土と炎の詩人。「暮しが仕事 仕事が暮し」の言葉を残した陶工・河井寬次郎の住まい兼仕事場を公開したものです。

外観は黒格子に犬矢来のある京町家風の造りですが、中に入ると山里の古民家のよう。木のぬくもりが感じられる、重厚感ある佇まいです。
建物のみならず、館内の家具や調度類も寬次郎のデザイン、あるいは蒐集によるもので、そこかしこに力強さを感じるような陶器作品が置かれ、「そこに有るべくして在る」というような存在感を放つ木彫作品たち。

 木彫は100点ほど作っていますが、全てが非売品でここにくれば対面できます。

 私の父は染織家でしたが、まだ20代の頃から河井寛次郎を尊敬しており、機織りの合間に寛次郎似の器を作ったりもしていました。母も父を知る前から芸術や民芸運動に興味を持ち河井寛次郎が好きで、京都五条坂の河井寛次郎邸へも数回お邪魔して奥様にも可愛がっていただいたという思い出の場所。
私がまだ生まれる前から来ていたんです。そして私も10代の頃から何度も来て、二代にわたって影響を受けています。

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河井寬次郎記念館

〒605-0875 京都市東山区五条坂鐘鋳町569

電話・FAX 075-561-3585

月曜休館 (祝日は開館、翌日休館、夏期・冬期休館あり)

10:00~17:00(入館受付16:30まで)

河井寛次郎(1890年(明治23年)~1966年(昭和41年)は天才陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。柳、濱田とともに民芸運動を立ち上げる。 類いなる才能の持ち主で、多くの陶芸家 芸術家に影響を与え、おそらくその影響は日本一だろうと思われる。

 自分は陶芸家ではなく市井の一陶工だと言って、重要無形文化財保持者(人間国宝)や、様々な賞を辞退して無位無冠の陶工と呼ばれる。

(ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するが、出展を嫌がった河井に対し、河井に心酔する川勝堅一が独断での出品によるものです。)

ここは民芸好きは絶対訪れて甘いものをいただきたいお店

その暖簾をくぐると

 左側に天井までの壁一面を覆う総欅造り拭き漆の大飾棚がまず目に入る。

重厚で繊細 いつ見ても素晴らしい。

 

流麗な木目や精巧な金具の一つひとつ、時を経ていっそう風格をたたえるその棚は、のちに木工芸の分野で初の人間国宝となる黒田辰秋が鍵善のために制作したもの。とても素晴らしいものです。

ここはいつも タイムスリップをした様な想いになります。

 

京都祇園で300年続き現当主で15代続く、くずきりが特に有名な和菓子屋さん「鍵善良房」。

 戦後 店を再開したとき、武者小路実篤が屋号を揮毫し、水上勉の「くずきりは京の味の王者だと思う」という文や、岡部伊都子の随筆『園の賑わい』など、多くの作家が鍵膳について書いています。

 

まず、奥に行って くずきりをいただきました。

鮮やかな緑の碗

 蓋を開けると黒光りする漆に

   真っ白なくずきり

コントラストの変化がが素晴らしいですね

 

お箸で持ち上げ

黒蜜に入れると

一瞬 のれそれの様にも見えて 面白い

 

ピラピラっと

 プリプリっと

   モチモチーっと

 

やっぱり 鍵善のくずきりはいつ食べても美味しい

 

葛粉は奈良の最高級品だね

 ツルツルっと美味しい

 

美味しい葛切りをいただいた後は、

ゆっくりとお店にある黒田辰秋(1) の家具や作品と河井寛次郎(2)の作品を拝見。

 左右の壁にドンっとあります。

 黒田辰秋27歳作品。

 

まず、小さい方の棚でも重厚な大飾棚。

次は大きな方

 

若さ故かとても大胆で繊細。依頼人の眼力もすばらしいが、さすが黒田辰秋。

素晴らしい大飾棚です。

堂々として細部までキリッとしている。 「200年はもつから」と黒田は言ったそうで、この飾り棚の値段は家一軒分ほどもしたそうです。

 

十二代当主 、今西善造は 同世代の27歳の黒田辰秋のものづくりにほれ込み、店の内装をすべて任せたいと考えていたようです。善造は1942年、30代半ばの若さで急逝したのと太平洋戦争でその夢はかないませんでしたが、箪笥やテーブル、菓子箱やくずきりの螺鈿(らでん)用器など黒田の作品がたくさん残されています。

 

この素晴らしい大飾棚には河井寛次郎の偏壺が数点飾ってあります。

 黒田辰秋は京都の出身で、漆芸家、木工家で、その作品は鋭く深く格好良く私も大好きな作家の一人で、私は彼の朱漆捻茶器を参考に陶器の天目釉ぐい呑みを作っています。

 柳宗悦・河井寛次郎などの民芸運動を盛り上げた一人でもあります。

鍵善は陶芸家の河井寛次郎が近所で懇意にしており、よくお菓子を配達したという記録がありますし、黒田辰秋とも親しいお付き合いがありました。

柳宗悦と民芸の仲間で鍵善のくずきりを食べている写真も残っています。

 

だから、鍵善に黒田辰秋と寛次郎の作品が一緒にあるのはごく自然で何ら不思議でもないのだが、

 

飾ってある偏壺を見て、いつもうれしくなります。

 

 寛次郎を代表する独特の花模様が辰砂、呉須、鉄釉で描かれた扁壷ですが、私が持っている河井寛次郎の193747歳の扁壺2つとソックリなんです。

色や形も同じで、花の一部がほんの少し違うだけ。

 

私の花扁壷は193747歳の時の作品で、おそらく同じ時か同じ日に作られた物だと思います。

 これも時々花を活けたりして使っています。

(写真の最後に私のものも載せてあります。)

 

大好きな河井寛次郎と黒田辰秋の作品が共にあり、まるで私が河井寛次郎と黒田辰秋と一緒にいるような夢の世界

  本当にウキウキします。

       うれしい時間でした。

 

さて次は鍵善から、くずきりを出前したという河井寛次郎記念館へ歩いて18(1.5km) 館長さんに会いに出かけましょう。

 

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鍵善良房 四条本店

 京都市東山区祇園町北側264

  075-561-1818 

 

鍵善は昨年近くに美術館のZENBI-鍵善良房-KAGIZEN ART MUSEUMをオープンしましたが、今回は時間がとれず、春には伺う予定です。

 

 

(1) 

黒田辰秋(1904 - 1982年)は、漆芸家、木工家。木工と乾漆、螺鈿などの漆芸で 幅広く知られる人間国宝

京都市祇園生まれ。京都の祇園町清井町に生まれた黒田辰秋は、十代で木漆工芸の分業という制作過程に疑問を持ち、素地作りから加飾までを一貫制作する独自のスタイルを確立、生涯京都を拠点に活躍して1970年には木工芸の分野で初めての重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

黒田と鍵善の縁は、1931年、27歳の黒田に同世代であった十二代当主 今西善造が店舗の大飾棚制作を依頼したことからはじまりました。ともに京都に生まれ育ち、ものづくりを生業とする二人は親交を深め、黒田の作品に惚れ込んだ善造はその後も数々の調度を依頼し黒田もまたその信頼に見事に応えました。

 

(2) 

 河井寛次郎(1890年(明治23)1966年(昭和41年)は天才陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。柳、濱田とともに民芸運動を立ち上げる。 類いなる才能の持ち主で、多くの陶芸家 芸術家に影響を与え、おそらくその影響は日本一だろうと思われる。

 自分は陶芸家ではなく市井の一陶工だと言って、重要無形文化財保持者(人間国宝)や、様々な賞を辞退して無位無冠の陶工と呼ばれる。

(ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するが、出展を嫌がった河井に対し、河井に心酔する川勝堅一の独断で出品によるものである。)

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 私の父は染織家でしたが、若い時から河井寛次郎を尊敬しており、機織りの合間に寛次郎似の器を作ったりもしていました。母も父を知る前から芸術や民芸運動に興味を持ち河井寛次郎が好きで、京都五条坂の河井寛次郎邸へも数回訪問しています。その後父と知り合いますが、お互い知り合う前から、共に芸術・民芸運動・河井寛次郎が共通項目であり、このような二人が接近するのはごく自然だったのでしょう。そんな二人から生まれた私は、お腹の中にいた頃から芸術・民芸運動・河井寛次郎の影響が強かったのでしょうね。