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自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に

染めと織の万葉慕情88

  玉の緒の歌

    1983/12/16 吉田たすく

 

 

 紐の歌を長い間取りあげましたが、紐には「高麗錦紐解き放けて」などの歌を読みますところ、大陸渡来の錦の布を細く切って紐に作っていた事がわかります。

 高麗錦でなくとも麻の布や倭文(しず) (日本古来の織物)の布などでも作ったものと思われます。細い紐に似かよった染織品に「緒(を)」があります。 今回からその緒の歌をひろってみたいと思います。同じような形態ですが、緒は縒(よ)り糸か組み紐のようなも

ので、織り布の細いものではなく、縄状のものであったようです。 それもそのはず、歌のほとんどが「玉の緒」を詠(うた)っています。

 下紐とくらべ用途も目的も身に着ける場所もまったくちがいます。 玉の緒ですから、今でいうネックレス、首飾りをつづるものです。 それと腕につけるブレスレットの緒とか今の風俗にはありませんが、足の飾りにした足玉などの緒の事です。

 「玉の緒」の玉は緒の装飾語で、美しい緒といった意味の場合もあります。これらが枕詞(ことば)に使われて、詠われてもいます。

 照左豆(てりさつ)が

  手にまき古す

    玉もがも

   その緒は替えて

    わが玉にせむ

  照左豆は古来難解とされ、猟夫とか玉商人とかいわれていますがはっきりしない言葉のようです。

  てりさつが手に巻いていた古くなった真珠が欲しいものだ。その古い緒は取りかえて自分の玉にしたい。

 この歌は万葉巻七の「玉に寄す」という一群の中の一首です。

 ついでにほかの玉の歌を読んでみましょう。

 秋風は

  つぎてな吹きそ

    海(わた)の底

   奥(おき)なる玉を

    手に巻くまでに

  秋風はつづいて吹かないでおくれよ、大海の真珠を私の手に巻きつけるまでは。

  秋風よ私の気持をじゃましなさんな、彼女を手に入れるまでは、という意味なのでしょう。

 「玉を「手に巻く」と詠うところを見ると当時のファッションに、腕飾りがはやっていた事が想像されます。

 世の中は

  常斯(か)くのみか

    結びてし

   白玉の緒の

    絶らく思へば

 世の中はいつもこうした無情なものなのか、きつく結んだ真珠の緒も切れてしまう事を思へば。

 色白の美しい彼女もとうとう私をはなれて行ってしまったなげきの歌なのです。

 玉の緒と聞けば、それを飾る当時の女性の首すじやふくよかな胸もと、またしなやかな腕、赤裳裾(すそ)からのぞく小鹿のようなすんなりした白き足もとを思わせてくれますが、玉の緒の歌のたいていが失恋の歌によまれているのがかなしい事です。

    (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

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 『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 これは新聞の切り抜きしか残されていず、古いもので読みづらい部分もあり、一部解説や余話を交えながら私が読み解いていきます。

 尚このシリーズのバックナンバーはアメーバの私のブログ 「food 風土」の中の、テーマ『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、ご興味のある方はそちらをご覧ください。

 https://ameblo.jp/foo-do/theme-10117071584.html

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタペストリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいます。

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

染めと織の万葉慕情87

  忘れさりにし下紐の歌

    1983/12/09 吉田たすく

 

 紐の歌のつづきです。

紐の歌が長くつづき五カ月にもなりましたが巻二十の歌をのせて終わりたいと思います。

 巻二十には防人(さきもり)の歌が、八十数首のせられています。私が若い頃の戦時中には次のような歌をおそわったものです。

 

 今日よりは

  かえりみなくて

    大君の

   醜(しこ)の御楯(みたて)と

    出で立つわれは

 

 めされた今日からはかえりみないで大君の強い御盾となって戦へ出立するのであると。 この歌のような気持ちを持って、戦争へ兄弟や友を戦場へ送り、本人もそのつもりで征(い)き帰らぬ人となったのでしたが、口には言えない本心は、どんなであったのでしょう。 

 万葉の防人はこの歌のような忠誠を誓った勇ましい人達だったのかも知れませんが。歌を読んでみますとこんな益荒男(マスラオ)ぶりな歌は数首もないのでした。

 ほとんどの歌は家人を思い、父母の言葉に泣き、妻を思う、また子を思う歌がつづきます。

 

 から衣

  裾(すそ)に取りつき

    泣く子らを

   置きてぞ来ぬや

    母もなしにして

 

 衣の裾に取りすがって泣く子供たちを郷において戦に来てしまった。その子らの母親も今はいないのに。

 

 それから、妻を思う歌にこんなのがあります。

 

 難波道を

  行きて来までと

    吾が妹子(せこ)が

   着けし紐が

    緒絶えにけるかも

 

 東国の防人たちは陸路で難波へ集結をし、軍船で瀬戸内を九州へ、半島へと出征しました。難波は防人のいよいよ覚悟をおぼえる港だったのでしょう。

 難波へ行き帰ってくるまでと妻が着けてくれた下紐も切れてしまった事だ。 長い出征に疲れはてた歌です。

 

 わが妹子が

  しぬひにせよと

    着けし紐

   糸になるとも

    吾は解かじとよ

 

 わが妻が、私を思い出すよすがにしなさいよと結んでくれた下紐だから、よれよれになって糸になってしまっても私はこれを解くまいと思っている。

 防人たちの歌は益荒男(マスラオ)ぶりでなく手弱女(タオヤメ)ぶりの歌だったのでした。

 

 防人にかぎらず都からはなれた旅先での男子(おのこ)たちは、妻を思う歌に、妻の結んだ下紐をにぎりしめ泣いたのです。 そして紐に誓うのでした。

 

これにこたえて妻も同じく

 

 草枕

  旅行(たびゆく) 夫(せ)なが

    丸寝せば

   家なるわれは

    紐解かず寝む

 

 旅先で一人丸寝をしてるんだもの、私も紐解かないでわびしくあなたを思って一人寝しますよ。 元気で帰ってね。

 

 たくさんの紐の歌をとりあげてきました。東歌にある庶民のなまの歌、そうでなく家持のような都人までが妻恋の思いを下紐によせて歌っていたのでした。 中には旅先で妻に内しょで紐解いた歌もありましたが、紐の歌は万葉集中に、八十余首もあったのです。

 ところが次の時代の平安の歌集、古今集を開いてみますとただの四首だけでした。

 下紐を二人寝のあと結びあって別れ、再び逢う時二人して解くという男と女のやくそく事が、平安時代には無くなってしまったのか。それとも歌は都人、雲上人のあそびで、下紐などは下品な下賎(げせん)なことで歌になどのせるべきものでは無いと指導されて来たのか。 私にはわかりません。

 古今集の紐の歌は、形式的なきれいな言葉の中にはさまれた紐でした。

 

  紐の歌は以後まぼろしのようにきえさったのです。

 

   (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

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余談です

 

防人(さきもり)

西暦645年、大化改新で律令国家建設を目指した大和朝廷は、西暦663年、百済を救う白村江(ハクスキノエ)の戦いで唐・新羅連 合軍に敗戦し、北九州の防衛体制を固める必要に 迫られます。

 防人は、当初は全国から徴用されたが、天平2年(730年)からは朝廷の東国掌握政策とも絡み、 もっぱら東国の民のみが徴用されるようになった。防人に召された民は、東山道を武蔵国 国府のあった府中(東京都府中市)に集合した後、国府の役人である防人部領使(サキモリノコトリヅカイ) の先導で遠い旅路についた。

 自分の食い扶持を自分で調達し背負って東海道を陸路野宿を重ねな がら難波津を目指します。難波津(大阪)からは、やっと官費が支給されて瀬戸内海を海路九州の太宰府へ行きます。そこで訓練を受け、筑紫・壱岐・対馬へと配属され、田畑を 耕し自給自足しながら、防備兵として3年の兵役を務めます。(壱岐には150人ぐらい配置されました)

 

 やっとの思いで兵 役を終えた防人達の帰路はまた厳しいものでした。官の援助はなく自力で帰 るしかなく、途中で諦めるものも出て、無事に故郷に帰れるという保証はなかったのです。

 

防人の歩いた道 東山道

東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。日本海側も太平洋側も通らず、本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国出羽国に至る行政区分であり、幹線道路。

 古代から中世にかけてはその範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代になると、江戸からの道ができて江戸を起点として西側の中山道と東(北)側の奥州街道などに再編されます。

 

 古代に作られた東山道(とうさんどう)の

神坂峠(みさかとうげ)は、岐阜県中津川市長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1,569 mで、木曽山脈南部の主稜線の富士見台(富士見台高原である)と恵那山との鞍部です。 険しい道程から東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた(「御坂峠」という別表記はここに由来する)。神坂峠は、急峻で距離も長かったため、峠を越えられずに途中で死亡する者や、盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、いろいろな古典に書かれている。後に、東山道(中山道)は神坂峠を避けて、木曾谷を通るようになったため、神坂峠を越える者は減少します。

 

日本武尊が東征の際に通り、平安時代初期に、伝教大師最澄は、この峠のあまりにもの急峻さに驚き、旅人のために峠を挟んで両側に広済院と広拯院という「お救い小屋(仮設避難所)」を設けた。『叡山大師伝』に記載あり。

 

『今昔物語集』の巻二十八に、信濃国司の任期を終えて都へ帰る途中の藤原陳忠が神坂峠から谷底へ転落したものの、救出の際にヒラタケを抱えて生還したとの逸話。

 

神坂峠の近く、富士見台高原は北アルプス御嶽山南アルプス、中央アルプスの360°の大パノラマが楽しめる絶好の場所で、私は年に一度位行っています。

染めと織の万葉慕情86

  手枕まかず紐とかず

    1983/12/02 吉田たすく

 紐の歌のつづきです。

万葉巻十八には大伴の家持が越中の国に単身赴任をしていたおりに作った歌が多くのせられています。

 その中の一首に五年もの長い間、都に花の妻をおいて一人越中の国でナデシコを庭先に蒔(ま)いて花をめでて心をなぐさめた歌があります。

 大君の 遠の朝廷(みかど)と 仕(ま) き給ふ 官(つかさ)のまにま み雪降る 越に下り来 あらたまの 年の五年(いつとせ) 敷栲(しきたへ)の 手枕まかず 紐解かず 丸寝をすれば いぶせみと 情慰 (こころなぐさ) に なでしこを 屋戸(やど) に蒔き生し 夏の野の さ百合引植えて 咲く花を 出で見ることに なでしこが その花妻に さ百合花 後は逢はむと 慰むる 心し無くは 天離(あまさかる) 鄙(ひな)に一日も あるべくもあれや

 大君の遠い田舎の役所として、御任命になる役目のままに、御雪降る越の国に下って来て、五年の間、妻の手沈もまかず、結んでくれた下紐も、郷の娘と解くでもなく、一人丸寝をしているので、気持がふさいでしまい、心を慰めようと、 ナデシコを庭先に蒔いて育て、夏の野の百合を引き植え、咲く花を出て見るごとに、ナデシコのように美しい花の妻(都にのこした妻)に後にでも逢えようと、思いを慰めることができなかったら、都から遠い田舎に一日でもいることができるだろうか、 できはしない。 という歌です。

 国造としての家持が、都に妻をおき、単身赴任をして五カ年の間み雪降る越の国で生活、そのわびしさを詠います。

 「敷栲(しきたえ)の手枕まかず紐解かず 丸寝をすれば」と、都においている妻と共寝、うま寝を思い出し鄙(ひな)にいる心がせつなくきかれるのです。

 家持もこのような思いであったから、同じように旅先でのおのこたちも詠っています。

 海原を

  遠く渡りて

    年経とも

   児(こ)らが結べる

    紐解くなゆめ

 これは防人(さきもり)の歌です。 さきもりは東国の人達が徴兵されていました。 関東地方から九州へ半島へと海をわたって行きました。郷にのこした妻の結んでくれた下紐をにぎりしめ、 この紐はとかないよとちかうのです。雄々しい姿の防人なれども心の中はおなじ人の児なのです。

      (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 今週は京都などの平野でも紅葉が一番の見頃のようですが、私はここ20年程は12月の第一週に京に行くようにしていました。永観堂やその他京都市内で1番の見頃時期なのに、12月と言うので客数が少し減り、1番のチャンス。この12月第一週が一番です。

  生憎と今年は都合が付かず来週になってしまいますが、落ち葉の京もいいもんですね。

 

 紅葉の美しさには濃い赤、赤、朱、黄など様々な色が共演してこそその美しさがさらに膨らみますね。

 

 なぜモミジというのでしょう、

紅花(べにばな(万葉集の紅(くれない)))を 揉んで、絹布を紅色に染めたものを「モミ」と言い「もみづ」と呼んだものを、秋になって紅葉した樹木の葉が赤や黄色に染まっていく様子をこの「もみづ」に例えて言われるようになったのです。

 もみじは現代は真っ赤な紅葉が好まれ、紅葉と書くと思われているようですが、実は紅葉(もみじ・こうよう) と黄葉(もみじ・こうよう)という字がありました。  紅花染(べにばなぞめ)には染め方により黄色から紅色までありますが、それと同じように平安時代はモミジとは赤・紅・黄など多様な色の木々の総称でした。

そしてそれは時代によって好まれるものが変わっていったのです。

 万葉集には「もみじ」の歌が百首ほど詠まれていますが、現代では和歌の表記はモミジが黄葉ではなくて紅葉と変えて書かれているものが多く、気が付かなかったのですが、実は、黄葉と記したものばかりで、赤葉が一首、紅葉も一首しかないそうです。次の古今和歌集でも黄葉が圧倒的に多いそうです。

 平安の雅の時代には現代のように派手で鮮やかな赤よりも、落ち着いた黄葉が好まれていたのですね

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あしひきの

 山の黄葉(もみじば)

   今夜もか

  浮かび行くらむ

   山川の瀬に

     大伴書持

山のもみじは、今夜もまたはらはらと散っては、山川の深い谷間の川に浮かんで流れて行くことであろう

 …………………………

経もなく

 緯も定めず

   娘子らが

  織る黄葉に

   霜な降りそね

     大津皇子

縦糸もなく横糸も定めずに、少女たちが織った紅葉の錦に、霜よ降らないでおくれ

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黄葉(もみじば)の

 過ぎかてぬ子を

   人妻と

  見つつやあらむ

   恋しきものを

     読み人知らず

忘れられないほど恋しい女を、人妻ゆえに、見るばかりで手を出せない切なさよ

手折(たお)らずて

 散りなば惜しと

   わが思ひし

  秋の黄葉(もみじ)を

   かざしつるかも

     橘朝臣奈良麻呂

手折らないでいて、散ってしまったら惜しいと思っていた、秋の黄葉を、手折って髪にかざることができました。

 美しい娘をそっとしておいておきたいと思いつつ、他所へ行ってしまったら惜しいと思い 手折って私の元へ

 岐阜県でジビエといえば、「かたつむり」 「柳家」 「いろりの郷 奈かお」がビッグ3でどれもミシュランですが、

この秋はこのビッグ3三軒の食べ歩きをしました。

柳家(瑞浪)さんはちょっと前ですが、2023.10.14に行きました。

 

 世界の優れたレストランを紹介するフランスのガイド「ラ・リスト」で4位にランクインし、ミシュラン東海3県の2019特別版で2つ星を獲得。グルメサイト「食べログ」では、過去に総合ランキング10年連続1位というほどの偉業を成し遂げているという店。

 

 柳家さんのネットの案内では

「岐阜県瑞浪の市街地からさらに離れた山奥に、郷土料理の名店「柳家」はある。江戸時代後期の古民家を移築したという趣のある空間で味わえるのは、春は山菜、夏は天然の鮎や鰻などの川魚、秋は松茸などのキノコ、冬はジビエなどその時期にしか食べられない、地元の里山の食材をふんだんに使ったおまかせコースだ。土地、空間、料理――そのどれもが唯一無二の"野生の宴"に、感性を丸裸にして身を委ねたい。」このように記載されている。

 

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 今回は常連の友人達と訪問。

 

瑞浪駅に着くと、50人ぐらい乗れそうな大きめの柳家のマイクロバスが待っていてこれで向かう。

 火が暮れて真っ暗の中 どんどん山奥へ入っていく。


 江戸時代後期の古民家を移築した建物で創業70年を超える100人ぐらい入れる店。

 

 

ジビエ大好きなので、こちらではどんな味のジビエが出るか楽しみで、また、100人程も客が入れる大きなお店で地元の里山の食材をふんだんに出し切れるのか、そこにも興味が湧く。

  

 

店内は全て個室の囲炉裏部屋。

 

部屋に通され囲炉裏を囲んで座る。

炉端では火の周りに串を刺した鮎が焼焼かれていた

 

 当家の三男の方がつきっきりで料理の説明をしながら焼いてくださる。

毎日こうしてお話しされているからだろうが、とても話し上手

 

 

まずビールを注文

 

 

●突出し三品

あみたけ インカのめざめ 高野豆腐

 アミタケは独特なぬめりと旨味があり美味しい

 

 

●鮎

 

キノコを炉端 火の周りに串を刺して焼き始められた

 

 柳家でしか飲めない限定の日本酒があるというので注文した。

ラベルに「For Gibie 薬食い」と書かれている岐阜県恵那市 岩村町にある岩村醸造の 女城主 純米吟醸生原酒で、使用米は北海道産きたしずく。

 

女城主はほぼ毎年6種類くらい試飲等で飲んでいるが、その中では一番の出来。きれいめだが味のバランスも悪くないいい味の酒。

 

後日岩村醸造へ行ったら店頭限定で瓶詰めして販売されている純米吟醸と同じものだと言われたが、こちらは岐阜県岩村産のひだほまれだった。

 

●鯉の洗い

 信州 佐久産

 泥臭くなく まあ良い感じ

 

●蜂の子

 甘すぎるところが多いが、甘みが抑えてあり良い味だ。

秋 丁度キノコの季節だが、地物は全くなく、今回は全て岩手産とのこと

 

 

サケツバタケ

「裂け鍔茸」と書く。

 

ツエ茸 杖茸

松茸と椎茸を足して微かに苦味を入れた感じ 汁が多く 旨い

 

どのキノコも肉も、いろりの火の横に串を刺して焼いていくのだが、そのうち、炎の上でも焼かれ、炎が当たり部分的に焦げすぎができている。 忙しいから、時間通りに進めねばならないからだろうか黒く焦げ目が付いてしまっている

 

●茸の天ぷら

キノコというと どこでも天ぷらがだされ、美味しいのだが、小麦で衣をつけて油で揚げると繊細な味のキノコ本来の味が弱まってしまう。少しなら良いが、たくさんの種類のキノコを楽しむには天ぷらより他の方法がいいな。

 

●松茸

 岩手産 傘も開いていなく、良い形だ。

   一本1万円に近いそうだ。

 

丁度いい焼き方

 とても瑞々しくて美味しい

  とても瑞々しいが、瑞々しいというより水分が多く水っぽく感じる。

今まで採りたてや自分で採った新鮮すぎる松茸を何度も食べているが、ここまで水分が多い松茸は初めてだ。しかし、こういう水っぽさもなかなか良く柔らかく美味しい。

 

 

日本酒 天領特別純米 飛切り 飛騨産ひとめぼれ 精米60% 岐阜県下呂市天領酒造

サラッとした甘みに旨みがあるが

米臭さが多い

 

 

●イノシシの心臓

ボチボチ

 

 

●鹿のヒレ

 囲炉裏で焼くにしても、

   私には少し焼き過ぎ、もう少しレアがいいな。というより低温でジックリがいいな。

 

 

●イノシシのロース

直火の炎で焼いているのだが、上に持っていって炎にくぐらせたり近づけすぎて、燃えた油煙が付いてしまっている。 これはちょっとね。

 

炎にくぐらせたりのパフォーマンスはせず焼けばいいのに。

 

タレを付けるから誤魔化せるので多少はいいかな

焼き具合は丁度良い

 

 

 

●天然鰻蒲焼き

 美味しい 

なかなか良い鰻でした。ただ山県市のかたつむりで旨すぎの鰻を食べたので、それさえ食べていなければすごく美味しいと思っただろうが、ちょっとかわいそう。

  

 

●茸汁

 

濃厚で美味しい。

  塩分過多で辛い。

大勢のお客様用に大鍋で作られているのだろう、濃厚で美味しい出汁が出ているが、ちょっと煮詰まったのかな。

 

●松茸ご飯

美味しい 美味しい でも塩分強め

 

 

 

全体的にまずまず美味しかった。

 

お酒飲まない人 19000円

飲んだ人22000円

 

焼き方はもっと改善の余地がありちょっとと思うところもあったが、つきっきりで食べさせなければならず、大勢の客を相手にしなければならない店だから時間を守って進行もせざるを得ないのに、きちんと説明や冗談を交えながら楽しく進行されたのはみごと。

 でもそれがなんとなく感じられてしまうのは残念。

 

 郷土料理で地元の食材をうたっている割に、地元のものがちょっと少ない感じ。ただ、気候が不安定だから仕方ないとも言えるが、近年は気候不安定が当たり前になってきているし。

 

  大勢が入れる店だし 気候変動だから仕方ないかな。

    でもなんかちょっと寂しいね。

 

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柳家

完全予約制

岐阜県瑞浪市陶町猿爪573-2

 

0572-65-2102

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サケツバタケ(裂け鍔茸)

「サケ(裂け)・ツバ(鍔)・タケ(茸)」という名前がついているように、柄の上部が星形に裂ける厚いツバが大きな特徴のきのこ。

 

ツエタケ(杖茸)
細長い柄が杖に似ていることからそのように呼ばれます

 

青空に

 紅の衣を

  惜しみつつ

  白き衣を

   誂える今

 

 

 

燃える様な紅の世界が

 散りゆきて虚ろいを感じさせると

  やがて白い無垢の世界が始まります

 

 

 白く冷たい世界の

  その下は

 次に始まる新緑の世界の

  装いの用意が始まります

 

 

 日本の四季は

   美の変化

    心に染みる

     ありがたさ

 

 

 

 

森の隠れ家という意味で、

木々の中をせせらぎが流れるレストラン。

窓からこの情景を眺めながら食事をいただくのが好きで時々お邪魔しているイタリアンレストラン

 紅葉を眺めながらランチをしようと今回はお昼に予約し、一番軽めのランチを注文しました。

 

 

メニュー

●Antipasti misto

シェフおもてなし前菜

● La minestra

南瓜と西京味噌のポタージュ

● Primi piatti

本日のパスタ

● Seconde piatti

旬魚のポワレ

自家製白ワインソース

● Piccolo Dolce

石川県産 五郎島金時のさつまいものブリュレ

● Dolce

林檎タルトの再構築

ジェラート添え

珈琲または紅茶と共に

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まず

 いつもの様に 赤ワイン

タンニンが少し効いた味わい

 

●Antipasti misto

シェフおもてなし前菜

 

 モアレがせせらぎっぽくていい感じのお皿

 

● La minestra

南瓜と西京味噌のポタージュ

 カボチャの甘味が十分出ている

 

 

本日のパスタ

● Seconde piatti

パスタのソースが美味しい

 

 

窓の外

 紅葉の様な

  小さな手をした女の子

   紅葉で遊んでいる

   可愛い情景

 

 

 

●旬魚のポワレ

 自家製白ワインソース

 

 

 

● Piccolo Dolce

石川県産 五郎島金時のさつまいものブリュレ

 


 

 

● Dolce

林檎タルトの再構築

ジェラート添え

 

リンゴのジェラートが美味しかった ジェラートのおかわりがしたかった

珈琲または紅茶を尋ねられ

いつもの様に エスプレッソを

 

 秋空に

  美しい紅葉

  気持ちよく頂いたランチ

     ごちそうさまでした。

 …………………………

La tana nel BOSCO

岐阜県多治見市小名田町小滝 5-6

染めと織の万葉慕情85

  秋風に今か今かと紐ときて

    1983/11/25 吉田たすく

 

 

 紐の敗のつづきです。

 

 晩秋の月は美しいというよりもすごみを感じるくらい透明な空に青鏡のようなつめたさです。それも居まち、寝まちの月がなおさらです。

ここに月と紐の歌がありました。

 

 秋風に

  今か今かと

    紐解きて

   うら待ち居るに

    月かたぶきぬ

 

彼氏をまつ女心の歌です。下紐を解いてまっているけれどやって来ません。月はだんだん西にかたむき夜もふけて行くのです。この人を待つ、下紐を解いて待つ歌をひろってみましょう。

 

 眉根(まよね)掻(か)き

  鼻ひ紐解け

    待つらむか

   何時しか見むと

    思へるわれを

 

 万葉当時の人々に”人に逢う”とか”まち人来たる”しるしと思われていた事の一つに“マヨネカク”というのがありました。眉(まゆ)の根がかゆくなり、目じりがかゆくなり、自然に指でかくしぐさがあれば、まち人来るしるしだというのです。そしてもう一つは”鼻ひ"、今でいうクシャミの事です。クシャミが出れば、まち人来たると思われていました。今、私達の間にもクシャミ ー

回は何とかで二回、三回は何とかかんとかいうでしょう。このような事が万葉時代からいわれていたのです。なかなかおもしろいことです。

 まよねをかき、くしゃみをして、私が来ると思って下紐をといて、今ごろ待っているであろうかなあ。早く進いたい寝たいと思っている私の事をという歌。

 離れた地で夜の彼女を思う気持ちの歌です。これとほとんど同じ歌が別の巻にものっていました。

 

 眉根(まよね)(か)き

  鼻ひ越解げ

    特てりやも

   何時かも見むと

    恋ひ来しわれを

 

 まよねかき、ぐしゃみをし、私が来る事をおもい、紐を解いて待っていたのかいあんたわ。いつ逢えるかしら、早く逢いたいと恋しくて来た私を。

 この歌に答へて女の歌。

 

 今日なれば

  鼻ひ鼻ひし

    眉かゆみ

   思ひしことは

    君にしありけり

 

 くしゃみがとまらず又くしゃみをし、そのうえ眉がかゆくてかゆくてたまらなかったのは、今日になってみるとみんなあなたのせいだったわ。ほんとにそうなのと分ったのよ。じれったかったわといったところなのでしょう。

 

 まよねかくは、今はなくなってしまった言葉です。

 

          (新匠工芸会会員、織物作家)

 

幽玄の

 彼方にみゆる

   紅葉(もみじば)は

  儚き夢の

   はじめなりけり

        周之介

 

 …………………………

 

 美しきゆえ、毎年のように何度も見に行きました。

その美しさに、今夜は うたを詠んでしまいましたが、まさかこれが正夢になろうとは。

 家に帰ったところで知りました。

 20年続いてきた曽木公園のライトアップも今年限りで終わるそうです。

 

 見納めの

  儚き夢と

   燃え尽きて

  深き想いを

    残し去り行く

染めと織の万葉慕情84

  秋のもみじをかざして

   1983/11/18 吉田たすく

 

 

 紐のつづきです。夕方の自転車での散輪で小鴨川(注1)土堤を行くと、打吹山(うつぶきやま(注2))の紅葉の美しい事。

大山(だいせん(注3))の紅葉は雄大で豪華な錦なら打吹山の紅葉は、衣装のようにまとまった華麗さです。椎の濃緑の間にさまざまな木々が多いために黄、朱、赤、金茶とその木自身の色相をこの一年の全精力で色づきつくし、それらの配置は霊の匠がなしたわざかと思われるほどであり、織師の私にはこの上もないイメージをあたえてくれるのです。

 この山が夕日に染まる頃 西の大山は紫に暮れていくのです。さて、紐の歌ですが、紐の歌に紅葉をあしらった歌がありました。

 こないだ古墳に色彩壁画の発見された「明日香」地方の紅葉の歌。

 明日香川

  黄葉(もみじ)流る

    葛城(かつらぎ)の

   山の木の葉は

    今し散るらし

 につづいて

 妹が紐

  解くと結びて

    立田山

   今こそ黄葉

    はじめてありけれ

 「妹が紐解くと結びて」は、立田山(注5)の「立ツ」にかかる序文で、妻と紐を解くは共寝の事で、結ぶは、共寝の朝、互に紐を結びあって朝の出立つを意味するので「立ツ」にかかるのでしょう。

立田山では丁度今もみじがはじまったところです。その詠われる”モミジ”ですが今、私達は「紅薬」と紅の字であらわします。

 万葉では「黄葉」と書いて、モミジ"とよませています。現代人は多くカエデ類の真赤なモミジを愛好していますが、万葉びとたちは紅葉だけでなく、黄色く染まる落葉の美しさを大変めでたのでありましょう。

 ちょうど大山のモミジがそうなので、ブナのモミジは黄色です。それにくらべ小鹿渓(注4)のモミジは、真赤なモミジですから大山以上に美しいものです。万葉に出てくるモミジでは、黄葉と記したもの、六十五首もあるのに赤葉が一首、紅葉も一首しかありません。赤色、朱色よりも黄色の方が勝っていたようです。

 鳥取県のあちこちのモミジの色をよく観察してみると、やはり赤よりも黄色の多いのに気がつきます。紐の歌ではありませんがモミジの歌を数首よんでみましょう。

 秋山の

  黄葉を茂み

    迷ひぬる

   妹を求めむ

    山道(ち)知らずも

 妻を思ふ心と山道の黄葉のしげみにまよう気持ちを詠います。又黄葉を手折りて挿頭(かざし)髪かざりにして宴会に興をそえる歌

 手折らずて

  散りなば惜しと

    我がおもいし

   秋の黄葉を

    かざしつるかも

 又、清流に散りゆくモミジのはかなき美しさに、人の死を考え死の意味の枕詞にも使います。

  真草刈る

   荒野にはあれど

     黄葉の

    過ぎにし君が

     形見とぞ来し

 黄葉の

  過きにし子等と

    携はり

   遊びし礎を

    見れば悲しも

 行く秋をおしみ、物のあわれを詠うにはもってこいの材料であったのです。

 モミジを歌った歌は百首をこえて、色づく、紅にほふ、秋山の色など表現されているのです。

 (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 

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吉田たすくの生まれ育った鳥取県倉吉市は、大昔伯耆国久米郡倉吉と言い、市の中心にある打吹山の打吹城を中心に江戸時代以前からの城下町で、伯耆国の経済の中心として栄えた歴史の街です。

 (挿絵は打吹山を小鴨川の土手から見たところです。写真はイメージ) 

小鴨川(注1)

 小鴨川は鳥取県中部(鳥取県倉吉市 江戸時代は伯耆国久米郡倉吉)を流れる大河、天神川の支流で、平安時代からの城下町で江戸の昔から倉吉の水運の拠点でもありました。私(周之介)も小さい時から、よく遊びに行き、魚釣りや魚獲り、デートコースでもあり、夏は水泳に行ったり、納涼花火大会も催されている心の川でもあります。 

打吹山(うつぶきやま(注2))

伯耆国の経済の中心として栄えた倉吉のシンボル。天に帰った天女だった母に、笛を吹き、太鼓を打ち鳴らし、母親に呼びかけたという「打吹天女伝説」の残る山で、ここから打吹山と呼ばれています。

かつては打吹城が築かれ、その麓に城下町が広がっています。

きれいにお椀を伏せたような山で、標高204m。スダジイなどの原生林で覆われた自然林の宝庫。椎の実拾いや犬の散歩などよく行きました。

大山(だいせん)(注3)

中国地方最高峰の独立峰の火山で、その裾野は日本海に達しており主峰の剣ヶ峰や三鈷峰、烏ヶ山や船上山などの峰を持つ。

自宅の窓を開けると遠くに大山が望め、小学校へ入る前から毎年夏には一度は父母と雪渓のところまで行っていましたし、紅葉は特に美しく、冬のスキーなど鳥取県民に取っては心の山です。

小鹿渓(注4)

鳥取県東伯郡三朝町

世界一美しい木造建築の三徳山三仏寺奥之院「投入堂(なげいれどう)」の下を流れる三徳川の支流、小鹿川の上流に見られる約4kmにわたる渓谷で、国の名勝指定地とされています。岩肌を勢いよく流れ落ちる滝や淵、奇岩、巨岩などすばらしい景観で春は新緑、初夏はシャクナゲ、秋は紅葉と、四季折々の自然のコントラストがみごとで、鳥取県有数の人気ハイキングコースです。特に紅葉が素晴らしく、私も紅葉の時期に父と行ったことがありますし、投入堂参拝の後によくいきました。

立田山(注5)

竜田山(たつたやま)は、大阪府・京都府・奈良県の府県境にある生駒山地の最南端、信貴山の南に連なる大和川北岸の山々の総称。竜田川流域にあって紅葉が美しく、万葉集に読まれた事で有名。