染めと織の万葉慕情87
忘れさりにし下紐の歌
1983/12/09 吉田たすく
紐の歌のつづきです。
紐の歌が長くつづき五カ月にもなりましたが巻二十の歌をのせて終わりたいと思います。
巻二十には防人(さきもり)の歌が、八十数首のせられています。私が若い頃の戦時中には次のような歌をおそわったものです。
今日よりは
かえりみなくて
大君の
醜(しこ)の御楯(みたて)と
出で立つわれは
めされた今日からはかえりみないで大君の強い御盾となって戦へ出立するのであると。 この歌のような気持ちを持って、戦争へ兄弟や友を戦場へ送り、本人もそのつもりで征(い)き帰らぬ人となったのでしたが、口には言えない本心は、どんなであったのでしょう。
万葉の防人はこの歌のような忠誠を誓った勇ましい人達だったのかも知れませんが。歌を読んでみますとこんな益荒男(マスラオ)ぶりな歌は数首もないのでした。
ほとんどの歌は家人を思い、父母の言葉に泣き、妻を思う、また子を思う歌がつづきます。
から衣
裾(すそ)に取りつき
泣く子らを
置きてぞ来ぬや
母もなしにして
衣の裾に取りすがって泣く子供たちを郷において戦に来てしまった。その子らの母親も今はいないのに。
それから、妻を思う歌にこんなのがあります。
難波道を
行きて来までと
吾が妹子(せこ)が
着けし紐が
緒絶えにけるかも
東国の防人たちは陸路で難波へ集結をし、軍船で瀬戸内を九州へ、半島へと出征しました。難波は防人のいよいよ覚悟をおぼえる港だったのでしょう。
難波へ行き帰ってくるまでと妻が着けてくれた下紐も切れてしまった事だ。 長い出征に疲れはてた歌です。
わが妹子が
しぬひにせよと
着けし紐
糸になるとも
吾は解かじとよ
わが妻が、私を思い出すよすがにしなさいよと結んでくれた下紐だから、よれよれになって糸になってしまっても私はこれを解くまいと思っている。
防人たちの歌は益荒男(マスラオ)ぶりでなく手弱女(タオヤメ)ぶりの歌だったのでした。
防人にかぎらず都からはなれた旅先での男子(おのこ)たちは、妻を思う歌に、妻の結んだ下紐をにぎりしめ泣いたのです。 そして紐に誓うのでした。
これにこたえて妻も同じく
草枕
旅行(たびゆく) 夫(せ)なが
丸寝せば
家なるわれは
紐解かず寝む
旅先で一人丸寝をしてるんだもの、私も紐解かないでわびしくあなたを思って一人寝しますよ。 元気で帰ってね。
たくさんの紐の歌をとりあげてきました。東歌にある庶民のなまの歌、そうでなく家持のような都人までが妻恋の思いを下紐によせて歌っていたのでした。 中には旅先で妻に内しょで紐解いた歌もありましたが、紐の歌は万葉集中に、八十余首もあったのです。
ところが次の時代の平安の歌集、古今集を開いてみますとただの四首だけでした。
下紐を二人寝のあと結びあって別れ、再び逢う時二人して解くという男と女のやくそく事が、平安時代には無くなってしまったのか。それとも歌は都人、雲上人のあそびで、下紐などは下品な下賎(げせん)なことで歌になどのせるべきものでは無いと指導されて来たのか。 私にはわかりません。
古今集の紐の歌は、形式的なきれいな言葉の中にはさまれた紐でした。
紐の歌は以後まぼろしのようにきえさったのです。
(新匠工芸会会員、織物作家)
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余談です
防人(さきもり)
西暦645年、大化改新で律令国家建設を目指した大和朝廷は、西暦663年、百済を救う白村江(ハクスキノエ)の戦いで唐・新羅連 合軍に敗戦し、北九州の防衛体制を固める必要に 迫られます。
防人は、当初は全国から徴用されたが、天平2年(730年)からは朝廷の東国掌握政策とも絡み、 もっぱら東国の民のみが徴用されるようになった。防人に召された民は、東山道を武蔵国 国府のあった府中(東京都府中市)に集合した後、国府の役人である防人部領使(サキモリノコトリヅカイ) の先導で遠い旅路についた。
自分の食い扶持を自分で調達し背負って東海道を陸路野宿を重ねな がら難波津を目指します。難波津(大阪)からは、やっと官費が支給されて瀬戸内海を海路九州の太宰府へ行きます。そこで訓練を受け、筑紫・壱岐・対馬へと配属され、田畑を 耕し自給自足しながら、防備兵として3年の兵役を務めます。(壱岐には150人ぐらい配置されました)
やっとの思いで兵 役を終えた防人達の帰路はまた厳しいものでした。官の援助はなく自力で帰 るしかなく、途中で諦めるものも出て、無事に故郷に帰れるという保証はなかったのです。
防人の歩いた道 東山道
東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。日本海側も太平洋側も通らず、本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国・出羽国に至る行政区分であり、幹線道路。
古代から中世にかけてはその範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代になると、江戸からの道ができて江戸を起点として西側の中山道と東(北)側の奥州街道などに再編されます。
古代に作られた東山道(とうさんどう)の
神坂峠(みさかとうげ)は、岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1,569 mの峠で、木曽山脈南部の主稜線の富士見台(富士見台高原である)と恵那山との鞍部です。 険しい道程から東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた(「御坂峠」という別表記はここに由来する)。神坂峠は、急峻で距離も長かったため、峠を越えられずに途中で死亡する者や、盗賊が出ては旅人を襲ったとの記録が、いろいろな古典に書かれている。後に、東山道(中山道)は神坂峠を避けて、木曾谷を通るようになったため、神坂峠を越える者は減少します。
日本武尊が東征の際に通り、平安時代初期に、伝教大師最澄は、この峠のあまりにもの急峻さに驚き、旅人のために峠を挟んで両側に広済院と広拯院という「お救い小屋(仮設避難所)」を設けた。『叡山大師伝』に記載あり。
『今昔物語集』の巻二十八に、信濃国司の任期を終えて都へ帰る途中の藤原陳忠が神坂峠から谷底へ転落したものの、救出の際にヒラタケを抱えて生還したとの逸話。
神坂峠の近く、富士見台高原は北アルプス、御嶽山、南アルプス、中央アルプスの360°の大パノラマが楽しめる絶好の場所で、私は年に一度位行っています。

