地方魚籠の話4 「飛騨魚籠」
有名な郡上魚籠の影でほとんど知られていないが、岐阜県には「飛騨魚籠」というもうひとつの地方魚籠があった。

それは、益田川(飛騨川)の萩原で作られていた。

木曽川の大支流である飛騨川は、乗鞍岳の南から発して美濃加茂で木曽川と合流する延長約229キロメートルの大河川である。
その昔、馬瀬川が合流する飛騨金山が飛騨國と美濃國の境であったため、上流側を益田川(ましたがわ)、下流側を飛騨川と呼んでいた。
益田川流域では温泉がある「下呂」が有名だが、その昔は「萩原」が南飛騨の政治の中心地として栄えていた。
また、古くは飛騨街道の「萩原宿」があった場所である。
そんな飛騨萩原は、郡上と同じように海から遠い内陸部のため、川魚が重要なタンパク源であった。
しかし、その役目を担ったのは意外にも鮎ではなかった。
今でこそ益田川の萩原は大鮎が釣れることで有名だが、実は、ダムが一つも無かった頃でも伊勢湾からの遡上鮎は下流で遮られていた。
理由は、大岩や奇岩が続く景勝地「中山七里」の一部に岩盤で極端に狭められた激流帯があり、清流を自由に泳ぐ鮎でも、その多くが飛び越えることができなかったからであった。
下記は戦前の中山七里の風景

そのため、明治時代には何度も岩盤を削って魚道を作る工事がされ、明治31年にやっと遡上ができるようになったが、その後もあまり効果はなかったという。
(古い資料にも工事の記録が残っている)
当時の状況を伝えるものとして、明治27年の岐阜県の魚種別の漁獲高を記載した資料がある。
その数字では、下流の飛騨川(武儀郡管内)の鮎の漁獲量が2,285貫(約8.5トン)となっているのに対し、
上流側の益田川(益田郡管内)の鮎の漁獲量はわずか262貫(約1トン弱)に過ぎなかった。
ちなみに、同じ年の他河川の鮎の漁獲量は
長良川上流(郡上郡管内)3,343貫(約12.5トン)
長良川中流(武儀郡管内)6,716貫(約25.2トン)
長良川下流(方懸郡管内)5,235貫(約19.6トン)
というから、益田川に遡上できた鮎がどれだけ少なかったのかが分かる。
また、一方で同年の益田川での鯇(アメノウオ=アマゴ)の漁獲高は103貫(386㎏)と記載があり、それは他の河川と比較しても突出しており、この地域で重要な獲物であったことが分かる。
その後、いよいよ大正時代から益田川下流には多くのダムが作られ、伊勢湾から鮎の遡上は完全に断ち切られることになった。
だから、飛騨萩原の大鮎釣りが有名になるのは、昭和に入って琵琶湖産の稚鮎が放流される時代になってからなのである。
萩原地区は鮎こそ少なかったが、幸いにして周辺の益田川本流や支流である山之口川や小坂川などにはアマゴやイワナがいくらでも泳いでいた。
そんな萩原で完成されたのが、この「飛騨魚籠」である。

聞くところによると、昭和の末頃まで飛騨魚籠を作っていたその職人は「黒木」という姓だったというが、今となってはこの魚籠にどのようなルーツがあったのかなどを知る由もない。
「飛騨魚籠」は、幻の魚籠として一部には知られているが、全国的に有名な「郡上魚籠」の陰であまり注目されることなく、いつの間にか消えていった。
そんな中でも、萩原に住み「逆さ毛鉤を使うテンカラの名手・天野勝利氏」は、飛騨魚籠を愛用していた一人である。



その姿は、YouTubeでも見ることができる。
【渓流歴35年】天野勝利の渓流釣り/エサで本流を攻める/大アマゴが数釣り出来る!Mountain Stream Fishing in Katsutoshi Amano. - YouTube
【小物は要らない】攻めの本流渓流/天野勝利 vs 野田正美/巨アマゴ釣り/狙って釣る尺アマゴ Offensive main stream mountain stream - YouTube
上記の動画中で天野氏の腰に提げられているのが飛騨魚籠である。
私の手元にもいくつかこの魚籠がある。


これらは忘れ去られて久しく、現存するものも僅かだと思われるので大事に残しておきたい。