長良川と郡上竿の世界

長良川と郡上竿の世界

ディープな世界にようこそ

第2話  「細山長司のミニチュア郡上魚籠」

以前、友人宅で(故)細山長司氏が作った郡上魚籠のミニチュアを見たことがあった。

細山氏は郡上釣りに憧れ、本流釣りを極めるために郡上にも足しげく通ったという。

更には、釣りだけではなく手先も大変器用で、餌箱や郡上魚籠も自ら作っていた。

細山長司作の渓流用エサ入れ

また、郡上魚籠も自分で作って販売をしていた。

90年代の釣り雑誌から

生前の本人の話では、本場の郡上魚籠より丈夫に作ったと言っており、確かに本職ひけをとらない程の見事な出来栄えであった。

マニアが採算を度外視して素晴らしい作品を作るというのはよくある話。

そもそも職人は芸術家ではないので、文字通りの生業(なりわい)として、ある程度妥協して数多く作らなければ生きていけないから、比較すること自体が無意味だろう。

下記画像が、その細山長司作のミニチュア郡上魚籠であるが、さすがに郡上魚籠の要所は押さえた見事な造作である。

(販売価格は1万1000円だった)

形は嶋魚籠を手本にしているようだが、よく見ると縦ヒゴは5本立て(本物の郡上魚籠は7本立てが基本)で、底角は嶋魚籠のような2重作りにはなっていない。

とは言っても、竹の性質上、この大きさを7本立てで編むのは物理的に困難なのかもしれない。

しかし、ここまで表現するのは、さすがである。

この細山氏のミニチュア魚籠を見て、私もこんなモノを作ってみたいとずっと思っていた。

第3話につづく

第1話 「魚籠収集癖と幼少の記憶」

私の竹竿と魚籠の収集癖も末期的になり、家族も私を哀れんだ目で見るようになってきた。

自分でも悩んでいるが、どうしても魚籠への強い執着が消えてくれないのだ。

何か精神的な病気なのだろうと思っている(ホント)

そして、ここ数年は「魚籠を作りたい」という思いまで強くなってきていた。

でも、家庭崩壊しないように、その一線はずっと我慢してきた。

 

思い起こすと・・・

私の魚籠への憧れは幼少の頃からだった。

信州のド田舎で生まれ育った私は、魚と遊んでばかりいた。

小学校に入ると、兄や近所の悪ガキらと溜池のフナ釣りに夢中になり、漫画「釣りキチ三平」で渓流釣りを知り、見よう見まねで近所の渓でイワナを釣り始めた。

竿は、雑貨屋で買った子供騙し程度の竹竿だった。

もちろん、釣れたイワナは熊笹や木の枝をエラに通して持ち帰り、塩焼きになって親父の酒の肴になった。

それから暇さえあれば川に通っていたから、門前小僧のなんとやらで、それなりにイワナが釣れるようになった。

そして、どうしても漫画の三平が腰に提げていた魚籠が欲しくなったのだ。

だが、近所の雑貨屋にはそんな魚籠は置いてはなかった。

当時の私はあきらめきれなかった、三平の魚籠も頑張れば作れると思ったのだ。

そもそも、家の裏山には真竹がたくさん生えていたし、当時の田舎の子供は皆、凧のヒゴや弓矢を作るのは得意だったから、竹を加工する最低限の知識や技術は持っていた。

早速、祖父の山仕事の道具箱から鋸や鉈を持ち出して裏庭の真竹を切って割って削ぎ、苦労して何本もの竹ヒゴを作り出して編むことに挑戦した。

当時はネット検索も見本も無いから、頼るのは漫画に描いてあるイメージだけだった。

結構苦労した記憶があるが、なんとか魚籠っぽい物が完成した。

もちろん、不格好だったが意気揚々と腰のベルトに提げて釣りに行った。

その後も壊れるたびに作りなおして小学校時代に5個ぐらい作った記憶がある。

いくつか作るうちに上達し、丈夫な魚籠をつくるコツをもんだ。

編み重なった竹の美しさも鮮明に憶えている。

幸か不幸か・・・

それが大人になって私を困らせるとは思いもよらず、私の脳裏に深く強く刻まれてしまったのだ。

そんな経験が私の現在の蒐集癖の原点になっているのは間違いないだろう。

第2話につづく

 

地方魚籠の話4 「飛騨魚籠」

有名な郡上魚籠の影でほとんど知られていないが、岐阜県には「飛騨魚籠」というもうひとつの地方魚籠があった。

それは、益田川(飛騨川)の萩原で作られていた。

木曽川の大支流である飛騨川は、乗鞍岳の南から発して美濃加茂で木曽川と合流する延長約229キロメートルの大河川である。

その昔、馬瀬川が合流する飛騨金山が飛騨國と美濃國の境であったため、上流側を益田川(ましたがわ)、下流側を飛騨川と呼んでいた。

益田川流域では温泉がある「下呂」が有名だが、その昔は「萩原」が南飛騨の政治の中心地として栄えていた。

また、古くは飛騨街道の「萩原宿」があった場所である。

そんな飛騨萩原は、郡上と同じように海から遠い内陸部のため、川魚が重要なタンパク源であった。

しかし、その役目を担ったのは意外にも鮎ではなかった。

今でこそ益田川の萩原は大鮎が釣れることで有名だが、実は、ダムが一つも無かった頃でも伊勢湾からの遡上鮎は下流で遮られていた。

理由は、大岩や奇岩が続く景勝地「中山七里」の一部に岩盤で極端に狭められた激流帯があり、清流を自由に泳ぐ鮎でも、その多くが飛び越えることができなかったからであった。

下記は戦前の中山七里の風景

そのため、明治時代には何度も岩盤を削って魚道を作る工事がされ、明治31年にやっと遡上ができるようになったが、その後もあまり効果はなかったという。

(古い資料にも工事の記録が残っている)

当時の状況を伝えるものとして、明治27年の岐阜県の魚種別の漁獲高を記載した資料がある。

その数字では、下流の飛騨川(武儀郡管内)の鮎の漁獲量が2,285貫(約8.5トン)となっているのに対し、

上流側の益田川(益田郡管内)の鮎の漁獲量はわずか262貫(約1トン弱)に過ぎなかった。

ちなみに、同じ年の他河川の鮎の漁獲量は

長良川上流(郡上郡管内)3,343貫(約12.5トン)

長良川中流(武儀郡管内)6,716貫(約25.2トン)

長良川下流(方懸郡管内)5,235貫(約19.6トン)

というから、益田川に遡上できた鮎がどれだけ少なかったのかが分かる。

また、一方で同年の益田川での鯇(アメノウオ=アマゴ)の漁獲高は103貫(386㎏)と記載があり、それは他の河川と比較しても突出しており、この地域で重要な獲物であったことが分かる。

その後、いよいよ大正時代から益田川下流には多くのダムが作られ、伊勢湾から鮎の遡上は完全に断ち切られることになった。

だから、飛騨萩原の大鮎釣りが有名になるのは、昭和に入って琵琶湖産の稚鮎が放流される時代になってからなのである。

萩原地区は鮎こそ少なかったが、幸いにして周辺の益田川本流や支流である山之口川や小坂川などにはアマゴやイワナがいくらでも泳いでいた。

そんな萩原で完成されたのが、この「飛騨魚籠」である。

聞くところによると、昭和の末頃まで飛騨魚籠を作っていたその職人は「黒木」という姓だったというが、今となってはこの魚籠にどのようなルーツがあったのかなどを知る由もない。

「飛騨魚籠」は、幻の魚籠として一部には知られているが、全国的に有名な「郡上魚籠」の陰であまり注目されることなく、いつの間にか消えていった。

そんな中でも、萩原に住み「逆さ毛鉤を使うテンカラの名手・天野勝利氏」は、飛騨魚籠を愛用していた一人である。

その姿は、YouTubeでも見ることができる。

【渓流歴35年】天野勝利の渓流釣り/エサで本流を攻める/大アマゴが数釣り出来る!Mountain Stream Fishing in Katsutoshi Amano. - YouTube

 

【小物は要らない】攻めの本流渓流/天野勝利 vs 野田正美/巨アマゴ釣り/狙って釣る尺アマゴ Offensive main stream mountain stream - YouTube

上記の動画中で天野氏の腰に提げられているのが飛騨魚籠である。

私の手元にもいくつかこの魚籠がある。

これらは忘れ去られて久しく、現存するものも僅かだと思われるので大事に残しておきたい。

地方魚籠の話3「奥多摩魚籠」

これは関東の奥多摩地区で使われていたという「奥多摩魚籠」である。

私はその地に足を運んだことはないが、以前に釣り雑誌でそんな魚籠があることを知り、艶めかしい曲線がずっと脳裏に焼き付いていた。

それが縁あってひとつ手元にある。

調べたところによると、元来この魚籠は、多摩川の支流である日原川の入り口にある栃久保集落で作られていたらしい。

古くは、その集落に住む明治生まれの「近藤喜重」という一人の籠職人が作っていたが、亡くなってからしばらくして、それを惜しんだ釣り人が隣の埼玉県日高市の竹細工職人「石井章助」に復刻版の作成を依頼し、それが平成の初めの頃まで青梅あたりの釣具店などにも並んでいたという。

そもそも奥多摩の日原川は奥が深くヤマメやイワナの魚影が濃い上、多摩川本流との合流点には青梅街道の氷川宿を控えていたので、古くから職漁師が多くいた地域でもあった。

私の手元にあるこの魚籠の持ち主も奥多摩に住んでいたのだが、この世を去って久しい。

持ち主の息子さんから聞いたところによると、生前にこれを腰に提げて多摩川支流の日原川や大丹波川などによく出かけていたという。

当時は1980年代の渓流釣りブームで、郡上魚籠がそうであったように、関東多摩川をホームグラウンドとする釣り人の間では「奥多摩魚籠」は憧れの魚籠であった。

下記写真は当時の書籍から。

詳しく見ると、郡上魚籠とはまったく違う造作が見られる。

奥多摩魚籠は甲州魚籠と同じように肩から提げる仕様であるが、さすが職漁師の使う魚籠だけあって、多くの魚の重さでも魚籠が壊れないよう、吊り金具に掛かる力を分散するための銅線で補強がしてある。

(赤線の箇所に銅線が通っている)

また、横倒しになっても魚が飛び出ないように口に筒状に編んだものをはめて二重にしている。

あらためて手に取ってみると、郡上魚籠に引けを取らないくらい美しい魚籠である。

洗練されたそのフォルムといい、編みの丁寧さといい、魚籠としての完成度は極めて高い。

やはり、川漁の盛んな地域だからこそ、魚籠がこのレベルにまで到達して固有の名が付くまでになったのだろう。

地方魚籠の話2「甲州魚籠」

岐阜と同じように海のない山梨県に伝わるのが「甲州魚籠」である。

またの名を「甲斐魚籠」とも呼ばれていた。

郡上魚籠と同じような腰板がある魚籠というのは全国的にも珍しく、ずっと私は興味があった。

両方を比べてみると、漁具として進化して野趣が強い郡上魚籠に対し、甲州魚籠は趣味の道具として洗練された風情がある。

縦に長い四方型で底に足がある姿は、まるで山伏の背負い籠である「笈(おい)」を小さくしたような形でもある。

郡上魚籠が険しい渓でも使いやすいように腰に結ぶ仕様であるのにくらべ、甲州魚籠は肩紐で掛けるようになっていて、これは甲州の開けた渓を颯爽と釣るのに向いた作りなのであろう。

やはり、特徴的なのは桐板で出来た腰板と天蓋である。

そして、腰板の中心には四つ花びら型に切り抜かれた穴が開いており、これも実用的に通気性を求めてのことかもしれないが、なんともお洒落な意匠である。

更に良く見ると、魚籠の口は蝶番の蓋で閉開できるようになっており、止め金具がついている。

底の網目が粗いのも甲州魚籠の特徴で、腰板や天蓋の無い簡単な造りの甲州魚籠も見たことがあるが、それも同じ造りだった。

手元にあるこれはかなり古い魚籠のようで、本来の魚籠として長い間使われた後は、日の当たらない納屋にずっと置かれていたようで、竹の色は飴色になり風格さえ漂っている。

これが日の当たる屋外だったら、竹が白く脆くなり今日まで残ることは無かっただろう。

そんなことからも、持ち主の愛用のほどが想像できる。

腰板の角についた鼠が齧った痕も、時代を感じさせる愛嬌である。

私が見つけたとき、この古い「甲州魚籠」は誰かに見出されて、本来の漁具の役割を終えて花入れとして使われていた。

それもまた一興である。

魚籠自身としても、用無しとして捨てられるよりずっと幸せだと思う。

果てた長い年月の末、落ち着いた鈍い艶をまとった編み目は、大地のような力強さがあり、野の花がよく似合う。

こんな趣には最近の日本人は見向きもしない一方、日本の古い竹籠などが近年では欧米や中国で人気があり、その多くが海外に流出しているという。

なんとも惜しい気がしてならない。

そもそも、欧米には竹笹の類が自生しないので古い竹製品が珍しいというのは分かるが、それ以上に、他のアジア圏の竹製品とは比較にならないほど昔の日本の竹細工が緻密であり、それが長い時の流れと重合して趣となって人を惹きつけるのだろう。

地方魚籠の話1「はじめに」

暇な鮎釣りのオフシーズン。

コタツに入りながら、また、誰も見向きもしないような古い魚籠の話でもしましょうか(笑)

 

魚籠(びく)は、字の如く釣りや漁の獲物を入れるカゴである。

そもそも、籠の漢字がなぜ竹と龍との組み合わせなのかを調べてみたが、こじつけっぽい説ばかりで納得できなかった。

しかし、私には竹籠の編み目が龍の鱗のように見える・・・

竹製の籠や笊(ザル)などは、いつのまにかプラスチック製品に駆逐されて家庭から消えてしまった。

しかし、プラスチックの大量生産の時代は、たかが戦後の70年ほどであり、それまでは天然素材で道具を編む文化が縄文時代から連々と続いていた。

その材料は、深山では根曲竹やスズ竹、またはヤマブドウの皮やアケビの蔓、平地では真竹や葛(クズ)など様々な植物が使われ、海外も柳やラタンの細い枝で編んだカゴがある。

なかでも笹や竹は日本のどこにでも生えていて、水に強く丈夫で加工も容易だったから、魚籠には最適だった。

※笹は日本の在来種だが、竹類が日本の在来種なのかどうかは所説あり。

そんな魚籠は、単なる入れ物としてだけの機能ではなく、クーラーも氷もない時代の古人の知恵がつまっている。

その網目は魚の体液や水分を切る役目と通気性があり、更には魚籠の表面から蒸発する水分の気化熱により内部の温度を下げるという、中の魚を少しでも痛まないようにする機能を備えていた。

そんな魚籠は、人類の長い歴史の中で生活の道具として欠かせない物であった。

しかし、家庭に冷蔵庫が普及し、屋外でも簡単に氷が入手可能で、釣り用の高性能のクーラーがある現在では、釣り道具の中でも魚籠などは無用の最たる物であろう。

そんな竹魚籠が釣り人から忘れ去られて久しいが、かつては漁の種類や用途に合わせて魚籠も多様に進化していた。

特に閉鎖的な日本の山奥には独特な形状の魚籠があった。

そんな地方色豊かな魚籠としては、奥美濃の「郡上魚籠」が有名であるが、それ以外に私の知るところでは、南飛騨の「飛騨魚籠」や奥三河の「根羽魚籠」、山梨の「甲州魚籠」、関東の「奥多摩魚籠」、福島県会津地方の「桧枝岐魚籠」などの名前が残っている。

それら地域は、どれも海から遠い内陸部であるため、川漁が盛んだったという共通点があることが興味深い。

また、それ以外にも、呼び名も付かないまま人知れずに消えていった地方色豊かな魚籠が日本各地にあったに違いない。

この章では、郡上魚籠以外のそんな地方魚籠をいくつか書き残したい。

生きていました(笑)

9月末から急性の胃炎で釣りどころではなく、ブログも休んでました。

少し痩せてしまいましたが、無事元気になりました。

このまま今年の鮎釣りシーズンが終わってしまうと気持ちの整理ができないので、長良川中央に納竿に行ってきました。

 

10月15日(土)

場所は、長良川中央のお気に入りの場所「寺瀬」。

毎年この場所で納竿することにしている。

川で顔見知りの釣り人に会ったら、最近ブログのUPがないので「絶対に川で流されたんだと思ってた」と言われてしまった。

心配していただきありがとうございます(笑)

 

もう10月の半ば、鮎は残っているだろうか?

・・・まぁ、鮎の顔だけ見られればいいか。

しかし、いきなり不安を吹き飛ばすようなアタリ、しかもまっ黄色い鮎。

それも、トロや平瀬より荒瀬の中の方が反応がいい。

まったくの想定外だった。

慌てて車に戻って、竿も仕掛けもタモも荒瀬仕様にチェンジ。

(タモの網の色が違うのはそのためです)

天気も良くて気温も高かったためか、キレイに泳がせるとしっかり追って掛かってくる。

夕方まで飽きないぐらい掛かった.

終わってみればオトリ抜きで22匹。

この時期にしては出来過ぎの釣果だ。

サイズは25センチが最大。

更には、荒瀬の中で掛けたのに半分以上がメスなのも意外だった。

釣った鮎は全部、この近くに住む友人がどうしても欲しいというので美濃のソウルフード「島屋食堂のとんちゃん」と交換。

そして、夜は仲間が集まって河原で納竿の大宴会。

こんな楽しい時間も、また来年までおあずけ(涙)

 

 

10月16日(日)

今日は午後から用事があって、釣りができるのは昼まで。

太陽が上がってからゆっくり支度して、この日は御神手洗の荒瀬を狙ってみる。

前日釣った鮎は全部あげっちゃったので、また養殖君からスタート。

昨日は荒瀬が良かったから絶対掛かると思ったが、予想に反して反応ゼロ。

どうして?場所か?時間か?水温か?

この時期は鮎の行動が日々変わるのでホント難しい。

荒瀬を二流して、潔く諦める。

9時半からまた昨日の寺瀬へ移動。

納竿の人だらけか?と思ったら・・・

なんと無人。

ん???なぜ?

不安は的中。

寺瀬も、昨日のようなアタリはない。

前日より5センチほど水位が落ちたので鮎が神経質になってしまったのか?

それでも、なんとか鮎のいる場所を探し出す。

追い星のはっきりしたメス。

これもメス。

厳しい状況の中、一匹一匹を惜しむように丁寧に釣っていく。

今シーズン納竿の12時まであと15分。

最後の最後は、釣れても釣れなくても自分らしい釣りで終わりたい。

さて、どこを狙う。

やっぱり絞り込みの最下段の落ち、荒瀬のド芯の大波の下。

この時期のセオリーでは絶対ありえない場所。

さすが、ここに終盤の鮎は居ないだろうが・・・

ダメ元でオトリを差す。

ゴツゴツ、ギューン。

あらら??

もしかして鮎か???

しかも、なかなか浮いてこない。

両手で荒瀬竿を満月に曲げてブチ抜く。

大きい。

測ってみたら27.5センチ。

まだ、こんなヤツが残っていたんだ。

この日は昼12時までに7匹掛けて大満足。

前日は数、そして今日は型。

これで、最高の思い出を胸にオフシーズンを過ごすことができる。

長良川、今年も楽しませてくれて本当にありがとう。

 

オマケ

足元に居た大きなカジカガエル。

(笑)

また、来年カエルょ。

 

釣っても釣っても増えない日

9/11(土)は、久々の長良川中央釣行。

まだ水位は高いが、もう我慢できない。

2週間以上ずっと高水が続いていたから、荒瀬の流心は誰も触っていないはず。

さて、パラダイスになるかどうか?

夜明けの長良川堤防道路を遡る。

川についてみると、案の定、水位は高い。

期待満々で手前から探っていくが・・・・

あれ?

サラ場のはずなのにアタリが出ない。

なぜ? どうして???

あちこち探って、流心でやっと掛かったのはデカイ。

だが単発。

掛かりが遠いから、根掛かりも頻発。

一匹釣っても一匹根掛かりして切るから、全然釣果が増えない(涙)

嫌になって、土手に上がって気分転換。

秋の花「萩」

キレイな虫「ハンミョウ」、別名「道教え」

捕まえるのは鮎より難しいョ(笑)

日中も掛からない。

忘れた頃にポツポツ掛かるだけ。

これは27センチ。

ホント、今年の長良川中央は鮎が薄い。

この日は、私のこのブログを見ているという3人の方から声を掛けられた。

私だとわからない様にひっそりやっているのに、どうしてバレちゃうんだろうか?(笑)

でも、そう言っていただくとちょっと嬉しい。

 

それにしても、今日は根掛かりで切ってばかりだったので釣れた気がしなかった。

こんな日もあるさ。

釣り終わって御神手洗に移動し、オトリ缶を沈めに水際に行ったら白い花束が置いてあった。

そう言えば、数日前に釣り人がここで流されて亡くなったと聞いていた。

命あってこその鮎釣りだから、私も気を付けなくてはいけない。

花束の近くで車中泊・・・(南無阿弥陀仏)

夜は、サプライズの花火が真上に上がった。

 

9/11(日)

今日は掛かるだろうか?

だが、やはり御神手洗の瀬も渋かった。

トロ瀬の竿も曲がらないし、深瀬の芯にも鮎はいない。

鮎はどこにいるんじゃ???

2時間ぐらいあちこち探るがアタリがまったく出ない。

もしかしたらボウズで帰らなくてはいけないのかと焦ったが、意外にもキツイ荒瀬のド芯で良型が連チャン。

しかし、アタリがあって良型を抜いてみると、オトリがついていない。

あまりにも強烈な良型野鮎のアタリに、オトリが鼻環から抜けていったのだ。

そんなことが2回も続く。

その後、この日27センチまでは普通に抜けたが、昼間際に、どうしても抜けないサイズが掛かって、なんとか浅瀬に寄せたが、つまみ糸に触れる直前でクルンと針を外して逃げていった(涙)

更には、25センチクラスの貴重な良型をオトリに付けたときに限って根掛かりする(涙涙)

全体的に渋い感じで、午後になると、朝あれだけ沢山いた釣り人も半分以下になっていた。

結果は良型ばかりだが、如何せん数が・・・・

今年もやっと27センチ超が出たが、消化不良の2日間だった。

まぁ、こんな日もあるさ。

 

引き水時の難しさ

8/27土曜日は、長良川中央の水位も少しずつ下がってギリギリなんとかできるかどうか。

実際に行ってみると、やってできない水位じゃない。

昼頃には更に水位が落ちるだろう。

でも、見渡すかぎり誰もいない、早朝からこんな川に立つのはバカ者だろう。

この日は、朝から肌寒かったのでウェットスーツの上着を着る。

川の水も冷たい。

こんな曇天でも、この時期は朝一の方がよく掛かる。

ずっと高水が続いていて私でも諦める水位だったので、一週間以上は誰も竿を差していないはず。

案の定、朝一から良型がバタバタと掛かり、AM8時にはもう15匹。

ときどき土手の上に車を止めて見ていく釣り人も、水の高さに諦めて去っていく。

長い瀬をやりたい放題。

このまま釣れ続けたら50匹コースか???

しかし、世の中そんなに甘くない。

一通り着き鮎を釣ってしまうと、どこをどう引こうが泳がそうが針先に触ることすら無くなった。

日中はそんな時間が長くて、集中力が続かなくなり土手で休憩。

それでも午後3時近くになるとまた追いが出始め、また良型が掛かり始めた。

これがこの日の最大。(のはずだった)

この日の最後、まだ狙っていない場所があった。

それは、深瀬の肩の最下段。

ガンガンの白泡に落ちる手前のピンスポット。

大波が水中の大岩を覆い、その後ろの白泡の中にわずかにできた緩流帯。

他の誰も狙わない(狙えない)場所。

普通のオトリでは一瞬でもとどまることが不可能だから、今釣ったばかりの今日一番のこの野鮎をオトリにする。

でも、私の方もこれ以上もう一歩も下ることもできない。

鮎が掛かってもポイント直下の白泡に吸い込まれたら終わり。

イチかバチかだ。

掛け針と付け糸をチェックして、いつ掛かっても竿のタメを作れるように上竿でオトリをそこに導く。

一瞬だった。

オトリが落ち着くかどうかの、ほんの数秒後。

暴力的にオトリが下流にひったくられた。

(掛かった!)

荒瀬竿と極太の金属糸を信じて両手で竿をタメる。

(デカい)

直後のことだった。

重心を乗せていた足の下の石が転がって、私も前につんのめった。

竿をかばうのが精一杯で、伸されてしまった竿のテンションはプツンと消えた。

大鮎は、直前に釣ったオトリ鮎もろとも下の淵に吸い込まれていった。

しこたまぶつけて痛む膝をさすりながら土手に上がって数えてみると、なんと29匹。

あぁぁ・・・あの一匹が(笑)

大きなのは25センチ強

そろそろ27センチクラスが出てもいい頃だが。

釣った鮎は、長良川中央で知り合った友人がたまたま通りがかったのでプレゼント。

 

 

8/28日曜日も長良川中央で釣りたかったが、わけあって郡上白鳥へ。

かなりシビアで難しい釣りだったが、荒瀬の中ばかりを拾って午前12時までに25匹。

サイズもまあまあ。

満足して昼で納竿。

釣った鮎は、一緒に釣っていた友人の娘が帰省して食べさせてあげたいとのことでプレゼント。

二日間、瀬荒の中で踏ん張っていたので、あー疲れた。

いつのまにか、秋の始まりを告げるクズの花の甘い香りが河原に広がっていた。

 

 

 

郡上白鳥から八幡へ

今週末もまた増水。

8/20土曜日は、仕方なく郡上白鳥へ。

今年ほど、長良川の上流に逃げて釣ってばかりいる年は記憶にない。

水量の多い本流での立ちこみ釣りが恋しい。

その長良川上流も一部では盆明けから引っ掛け釣りが解禁になり、鮎もかなり神経質になって掛からなくなったと聞いていた。

今日は午後から雨が強くなる予報なので、午前中が勝負だろう。

朝は水温が低いから追いが弱いだろうと思いきや、意外にも、竿出しからいきなりバタバタと掛かる。

しかし、追い気がある鮎を一通り釣り切ると次が遠い。

日中は泳がせて待っていると、忘れた頃にポツポツと掛かる程度。

それでも、荒瀬の中で掛かる鮎は大きい。

段々瀬の中は、引き釣りの人より石裏を立て竿で泳がせて待っている人の方が良く掛けていた。

夕方4時を過ぎると時合が来たのか、急に周りの竿にも掛かり始めた。

「さぁ!これからだ」と思ったとたんに、にわかに空が暗くなり大きな雨粒が落ちてきて土砂降り。

ほうほうのていで退散。

明日の日曜日も釣りたかったが、今晩はかなり強い雨が降るようなので諦めた。

川から上って数えてみると26匹。

サイズはバラバラ。

この鮎は、郡上八幡の知り合いにお届け。

この人も現役の名人だった頃に鮎釣りを教えてくれた人のひとりで、昔は自分で釣った鮎を八幡町内のお世話になった人達に配っていたが、最近は年を取ってほとんど鮎を釣らなくなり、その代わりに私が毎年差し上げた鮎を配っている。

この日も、もう目が悪くなって掛け針が巻けないと言って道具箱を持ち出してきた。

そして、何度も聞かされた遠い昔の自慢話をし始めた。

私も初めて聞いた振りで相槌を打ちながら、縁側で何組か巻いて差し上げた。

掛針は藤本重兵衛トンボ、ハリスは金松葉、ヘソ針は袖型の固定式。

ほんの数組巻けば一年分はあるとのことだが、いつでも釣りに行けるようにストックが無いと不安に思うらしい。

年老いても、郡上八幡の釣り人の性格は変わらないのだ。

そして、帰りに私の好物を詰め合わせたお土産を頂いた。

全部が郡上の産名だが、特に「葉なんばん」(青い唐辛子の実と葉のつくだに)は私の大好物で、温かいご飯にのっけてもオニギリの具にしても最高に美味しいので、郡上に来る機会があれば、ぜひ買って食べてみてほしい。

そういえば、私が郡上八幡に通うようになって、もう何十年が経つのだろうか・・・

気がつけば、あの頃全盛だった名人達が、一人、またひとりと竿を置くようになった。

なんとも淋しいかぎりである。

でも、みんな私に昔話をする時の顔は、あの頃と変わらない。

また遊びに来よう。