板垣退助、後藤象二郎、大山巌らが愛したルイヴィトン
こちらの古びたカバン、板垣退助が洋行した際、パリで購入したルイヴィトンのトランクになります。ITAGAKIの文字が刻印されています。インターネットなどを見ると、日本で最初にヴィトン製品を購入した日本人は、土佐藩の後藤象二郎だと言われています。これは明治16年(1883)1月30日に後藤象二郎が購入したことが、ルイヴィトンの顧客名簿に記録されていることから明らかになりました。後藤象二郎が顧客名簿に名前があるとの話は、ルイヴィトンジャパンの社長で高知県出身であった秦郷次郎氏がルイヴィトン高知店を開店した際にオープニングのスピーチで述べたことから広まりました。後藤象二郎が購入したもののシリアルナンバーは「7908」、板垣退助のトランクは「7720」となります。上掲した板垣退助のトランクは、現在、自由民権記念館に寄贈されています。板垣退助と後藤象二郎は、明治15年(1882)12月に出国し、翌年6月に帰国するまで、ヨーロッパを視察してまわりました。後藤象二郎、板垣退助がルイヴィトンを購入したのはこの頃となります。ルイヴィトンの象徴というべきモノグラムは、日本の家紋をモデルにしてデザインされましたが、1896年に使われるようになります。元々はハードトランクの製造をしていたルイヴィトンは、その品質の高さから人気を博します。後藤、板垣も旅の途中で頑丈で良質のトランクを求め、購入したのではないでしょうか。板垣のトランクは四女である千代子が保有しており、嫁ぎ先であった浅野総一郎の長男泰治郎の邸宅(地下倉庫)に保管されていました。これが幸いし、空襲により邸宅は焼けても地下倉庫は無事で、板垣の曾孫にあたる小山朝和氏により寄贈されました。後藤と板垣の渡欧は、その資金が政敵側から出ているとして、大問題へと発展していきますが2人はこれを強行したのでした。ちなみに先程、日本で最初にルイヴィトンを購入したのは、後藤象二郎と紹介しましたが、実際は明治11年(1878)にフランス公使をしていた鮫島尚信が最初ということです。//////////////鮫島尚信没年:明治13.12.4(1880)生年:弘化2.3.10(1845.4.16)明治初期の外交官。父は薩摩(鹿児島)藩医鮫島淳愿。母は須摩。通称誠蔵。変名野田仲平。17歳で長崎に遊学,何礼之に英学を学ぶ。帰藩後,開成所訓導師。慶応1(1865)年英国に留学,ロンドン大学に入る。同3年に渡米,森有礼と共に宗教家トマス・レーク・ハリスの教団に加わったが,その勧めに従い明治1(1868)年6月帰国した。外国官権判事,東京府大参事を経て,同3年少弁務使としてフランスに在勤。同8年帰国し寺島宗則外務卿のもとで外務大輔を務め,同11年再び駐仏公使となる。在勤中の尚信に外交実務の基本を指導した英国人弁護士マーシャルは,その厳しい勉学態度に驚いたという。激務がたたり執務中に死去,モンパルナスの墓地に埋葬された。<参考文献>犬塚孝明『薩摩藩英国留学生』//////////////また後藤象二郎が購入する前年、明治15年には大山巌が購入しています。//////////////大山巌没年:大正5.12.10(1916)生年:天保13.10.10(1842.11.12)明治期に活躍した陸軍軍人。鹿児島城下の加治屋町に薩摩藩士彦八と競の次男として誕生,西郷家は父の実家であり,西郷隆盛,従道は従兄弟。妻は吉井友実の長女沢子,後妻は薩摩軍が倒した会津藩士族出身の捨松で,ふたりの結婚は話題になった。捨松の兄弟には陸軍少将山川浩,東京帝大総長山川健次郎がいる。西郷隆盛に弟同様に可愛がられ,その強い庇護もあって昇進が早かった。薩英戦争直後,砲術研究のため黒田清隆と共に江戸の江川太郎左衛門の塾に留学,戊辰戦争期には西郷の幕下にあって活躍,ことに砲術面で優れた成績をあげた。明治2(1869)年渡欧,普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリ入城。4年再び渡欧,パリ,スイスに住んでフランス語,砲術を学ぶ。帰国直後33歳で陸軍少将,陸軍少輔兼第1局長となったのは薩長天下の故だが,西郷,山県有朋に特に目をかけられたことが大きかった。西南戦争では新政府に忠節を尽くして田原坂,城山攻防戦での勝利に貢献,山県に次ぐ陸軍での地位を確定的なものとした。13年陸軍卿となり,以後は山県の跡を追う形で参謀本部長,24年陸軍大将と進んだ。陸軍卿時代に陸軍省,参謀本部,監軍本部の鼎立体制を樹立し,また陸軍大学校開校,東京湾砲台建設を実現した。17年3度目の外遊,独仏に学ぶところ多く,帰国後陸軍大臣に就任すると,兵制をフランス式からドイツ式に転換を図る一方,鎮守府と要塞から成るフランス式海岸防備体制を採用した。砲術家として大山は,西欧の各種大砲,装備の購入採用に努めた。日清戦争(1894~95)では山県の第1軍司令官に対する第2軍司令官,日露戦争(1904~05)では参謀総長に対する総司令官を務め,この間31年,山県と共に元帥に列し,40年には山県の侯爵よりも高い公爵の位を与えられ,宮中方面で大山に対する評価が極めて高かったことがうかがわれる。<参考文献>尾野実信編『元帥公爵大山巌』//////////////日本に現在するルイヴィトンのトランクは、リスボン万国郵便開業に出席する小倉久が明治17年(1884)に購入したものであり、購入は板垣退助のトランクより一年遅いですが、製造年は1872年となっており、現在は関西大学年史編纂室 に展示されているようです。http://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/document/detail.php?cd=1//////////////小倉久おぐら-ひさし1852-1906 明治時代の官僚。嘉永(かえい)5年1月15日生まれ。もと上野(こうずけ)(群馬県)沼田藩士。はじめ大学南校にまなび,フランスに留学。帰国後,司法省,太政官,元老院などにつとめた。のち大阪控訴院検事となり,和歌山県,富山県,岐阜県の知事も歴任した。明治39年11月4日死去。55歳。//////////////日本人が大好きなルイヴィトンは、このように幕末維新の英傑からも愛されていたのです。