【幕末志士、近代日本戦没者を祀る】京都霊山護国神社にいってきた
10数年ぶりに京都霊山護国神社にいってきました。京都霊山護国神社http://www.gokoku.or.jp/京都霊山護国神社のご創建は、慶応4年(1868)に、明治天皇から維新を目前にして散った志士たちの御霊を奉祀するため、京都東山の霊山に佳域社を創建せよとの詔が発せられたことに起因します。明治天皇の有り難き御計らいに感激した諸藩は、霊山に志士たちの祠宇を建立したことで霊山官祭招魂社が創建されました。京都霊山護国神社との社名は、昭和14年に付けられたものであり、GHQ占領期においては社名を京都神社と改称したこともありましたが、その後、元の名前に戻しました。現在では坂本龍馬、中岡慎太郎ら志士らとともに、明治以降の戦争で戦死した人々73000柱をご祭神として祀っています。入口には昔の案内文が。「此の上に勤皇志士の墳墓あり」ん~。歴史好きの食指を動かしますね。入口から境内へと続く道を「維新の道」と呼びます。明治維新100周年にあたる昭和43年(1868)、有志によって神社周辺が再整備され、昭和45年に維新と現代を結ぶ精神の道であるとして、「維新の道」と称されるようになりました。こちらの石碑の文字は、パナソニック創業者、松下幸之助の揮毫です。木戸孝允神道碑(勅撰碑)です。///////////木戸孝允きどたかよし(1833―1877)幕末・維新期の政治家。旧長州藩士。大久保利通(おおくぼとしみち)、西郷隆盛(さいごうたかもり)と並ぶ「維新三傑」の一人。天保(てんぽう)4年6月26日、同藩士和田家に出生。7歳で桂(かつら)九郎兵衛家の嗣子(しし)となり、通称を小五郎と称したが、1865年(慶応1)藩主から木戸姓をもらい、貫治、準一郎と改め、松菊と号した。1849年(嘉永2)吉田松陰(よしだしょういん)の門弟となり、その後、江戸に留学、また江川太郎左衛門から洋式砲術を学んだ。1858年(安政5)以降、安政(あんせい)の大獄後の状況のなかで、自藩をはじめ、薩摩(さつま)、水戸、越前(えちぜん)諸藩の尊攘(そんじょう)派の志士と広く交わり、尊王攘夷(じょうい)運動に奔走した。1864年(元治1)禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で薩摩藩などと戦って長州藩が敗走したのち、高杉晋作(たかすぎしんさく)らの長州藩討幕派が同藩の実権を掌握すると帰藩し、諸藩と折衝する過程で、1866年薩長同盟を締結することに成功。以後、討幕派の一代表として活躍した。 幕府倒壊による明治維新の実現後、政府官僚として太政官(だじょうかん)に出仕、参与、総裁局顧問などを務め、由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)らと「五か条の誓文(せいもん)」の起草に参加した。さらに1870年(明治3)には参議に昇進し、版籍奉還、ついで廃藩置県を通じて、統一政権の成立に指導的役割を果たした。また1871年には、特命全権大使岩倉具視(いわくらともみ)が率いる米欧遣外使節団に大久保利通、伊藤博文(いとうひろぶみ)らと加わり、外国の政治、経済、軍事などの諸制度や施設を視察した。1873年帰国後、岩倉、大久保らとともに、西郷隆盛らが主張する征韓論に反対して彼らを退け、下野させた。しかし、この直後に成立した大久保の独裁政権には批判的立場を示し、政府の支配体制の枠内で啓蒙(けいもう)官僚として行動した。1874年の台湾出兵に反対して一時参議を辞任したこともあったが、翌年の大阪会議では大久保らの政府主流派に妥協して、再度、参議に復帰した。その後は地方官会議議長に就任し、また内閣顧問に転任したこともあったが、このころから、病気を得て要職から退き、西南戦争の最中、明治10年5月26日京都で死去した。 明治国家の成立の過程で、最初の絶対主義政権の形態をとった岩倉―大久保体制内部にあって、木戸の意識と行動はその開明的立場を代表する側面を示していたが、状況を展望する政治的資質においては明晰(めいせき)な大久保の能力に劣っていた。//////////////////神道碑とは、国家に功績のあった人物の墓所参道に建立された碑です。明治以降は、明治天皇の命により大久保利通・毛利敬親・大原重徳・岩倉具視・広沢真臣・島津久光・三条実美・木戸孝允らの神道碑が建立されましたが、京都にあるのは木戸孝允の神道碑だけとなります。木戸孝允は明治10年に逝去し、霊山官祭招魂社(現、京都霊山護国神社)に葬られ、二松学舎大学の創立者、三島中州が揮毫しました。東京裁判で連合国側判事でありながら、ただ一人、被告全員無罪を唱えたインドのパール判事の顕彰碑が境内にありました。靖国神社にあるのと同じものだと思われます。右側が学徒出身戦没海軍飛行科予備士官の生存者が設立した「白鴎顕彰之碑」左側が「金鵄勲章歴史と鎮魂の賦」の碑です。金鵄勲章とは明治23年に明治天皇により制定された武功抜群の者に授与された国家最高の勲章でした。大東亜戦争での戦没者の大半は、金鵄勲章の受賞者であるため、彼らの慰霊のために設立された碑となります。「霊山表忠碑」です。この碑は、明治9年に執り行われた祭祀に、明治天皇からお手元金が下賜されたことを記念し、志士たちの忠義を顕彰するため建立された碑となります。駆逐艦長波の碑です。長波はアッツ、キスカの撤収作戦、ラバウル、レイテ沖海戦など転戦しますが、マニラとレイテ島の物資輸送を護衛中、アメリカ空母に搭載された飛行機350余機と交戦し、沈没しました。「満州開拓青年義勇隊碑」です。この碑は京都府から送り出された満州開拓義勇隊2000人の事績を顕彰し、殉難隊員の慰霊のために建立されたものです。14、15歳で親元を離れ、鋤を振るって土地を耕し、銃をとって北辺警護に挺身したものの終戦ととなり、王土満州、楽土満州の夢が潰え、ソ連と中国軍による砲火に怯えながら死の逃避行を実施し、500名の隊員が死亡しました。「軍神乃木大将軍母堂慰霊顕彰碑」です。昭和44年に建立されました。明治29年10月、乃木将軍は台湾総督となりましたが、赴任して間もなく、母親である壽子様が病没してしまいます。その遺言により台北の三板橋の共同墓地に葬られますが、これが日本人移住者の骨を台湾の地に埋葬する最初となりました。大正元年九月、乃木大将夫妻は明治天皇大葬の日に殉死しますが、夫妻の遺髪は台北に送り、母親の墓の側に葬られ、弘法寺に安置されます。昭和35年に中華民国は日本人無縁公墓や乃木家の遺骨、遺髪を中和禅寺に遷しました。昭和43年になり日本の有志らが明治百年の記念事業として乃木家遺骨と遺髪、霊位を日本に奉還し、京都霊山護国神社の境内に合祀することとなり、現在へと至っています。高知県招魂社です。明治2年9月に旧土佐藩により建立されました。ここには坂本龍馬や中岡慎太郎ら100余名の志士が祀られています。吉村寅太郎の墓です。/////////吉村寅太郎よしむらとらたろう[生]天保8(1837).土佐[没]文久3(1863).9.26. 大和,吉野幕末の尊攘派志士。虎太郎とも書く。名は重郷。父太平の跡を継いで庄屋になったが,文久1 (1861) 年武市瑞山の勤王党に加盟,翌年脱藩して国事に奔走,寺田屋騒動で捕われて送還された。同3年さらに京都に出て藤本鉄石,松本奎堂らと天誅組を起して討幕攘夷の挙兵をしたが,鷲家口 (わしかぐち) の戦いに敗れて自刃。/////////「安政の大獄と頼三樹三郎・梅田雲濱ら志士」です。//////////頼三樹三郎らいみきさぶろう(1825―1859)幕末の尊攘(そんじょう)派の志士。名は醇(じゅん)、号は鴨崖(おうがい)。文政(ぶんせい)8年5月26日、頼山陽の子として京都に生まれる。16歳のとき大坂の後藤松陰(しょういん)に師事、かたわら篠崎小竹(しのざきしょうちく)に学ぶ。1843年(天保14)羽倉簡堂(はくらかんどう)に伴われて江戸に行き昌平坂(しょうへいざか)学問所に学ぶ。上野不忍池(しのばずのいけ)の弁天堂の石灯を倒したかどで46年(弘化3)退寮を命じられたといわれる。同年東北漫遊の旅に出、49年(嘉永2)帰京。家塾を守るかたわら梁川星巌(やながわせいがん)ら尊攘の士と交わり、58年(安政5)水戸藩への攘夷勅諚(じょういちょくじよう)降下を運動、大獄が起こると9月に連座して捕らえられ、翌年江戸評定所(ひょうじょうしょ)で訊問(じんもん)ののち、10月7日国家重大の政事向きを論じ天下を擾乱(じょうらん)させたとして死罪となった。大橋訥庵(とつあん)が回向(えこう)院(東京都荒川区)に遺骸(いがい)を葬り、62年(文久2)死罪御免(ごめん)となってのち松陰神社(世田谷(せたがや)区)境内に改葬された。////////////////////梅田雲浜うめだうんぴん(1815―1859)若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩士、名は義質(よしただ)、のち定明(さだあきら)。通称源次郎。雲浜は号。小浜藩士矢部氏の次男に生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いだ。崎門(きもん)学を尊王の学風ある江戸の山口菅山(かんざん)に学んだ。帰藩して大津、ついで京都に赴き、崎門の学塾望楠軒(ぼうなんけん)講主となり、梁川星巌(やながわせいがん)や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら志士と交際を深め、1852年(嘉永5)小浜藩に藩政改革の建言をして士籍を削られた。ペリー来航には、江戸で吉田松陰(しょういん)らと対策を論じ、水戸へも遊説した。また大和(やまと)十津川(とつかわ)の郷士を組織し、大坂湾に現れたロシア軍艦の撃攘(げきじょう)や、京都の守護に郷士を任ずる周旋をした。1856年(安政3)に長州藩に遊説して、同藩と京都、奈良、十津川間の物産交易の仲介をした。戊午(ぼご)の密勅にも彼の働きかけがあったが、密勅降下の際には、あらかじめ水戸藩に内報するなど、つねに尊王攘夷運動の中心に位置した。このために安政(あんせい)の大獄で最初に捕らえられ、江戸で獄死した。[井上勝生]『佐伯仲蔵著『梅田雲浜遺稿並傳』(1929・有朋堂) ▽日本史籍協会編『続日本史籍協会叢書 梅田雲浜関係史料』(1976・東京大学出版会)』////////////////日本陸軍の父、大村益次郎の墓です。靖国神社に立つ銅像で有名です。///////////大村益次郎没年:明治2.11.5(1869.12.7)生年:文政7.5.3(1824.5.30)幕末維新期の政治家。明治陸軍建設の功労者。周防の鋳銭司村字大村(山口市)の医師村田孝益の子。幼名は惣太郎,のち良庵,蔵六。19歳で蘭医梅田幽斎に学び,翌年豊後(大分県)の広瀬淡窓に漢籍を学ぶ。23歳のとき大坂の緒方洪庵の適塾に入り,蘭学,医学を修め,塾長を務めた。この間,長崎を訪れ名医奥山静叔に学ぶ。27歳で父母を養うため帰郷して医を開業したが振るわず,宇和島藩に迎えられて西洋兵書の翻訳,軍艦製造等を指導。安政3(1856)年江戸に出て鳩居堂を開塾し,幕府蕃書調所教授手伝を経て講武所教授に就任。この間ヘボンに英語を学んだ。名声を聞いた長州藩は万延1(1860)年,出仕を命じた。帰藩して兵学を教え,兵制改革に携わる。慶応2(1866)年長州戦争には石見口の総参謀として幕府軍を壊滅させた。同4年1月,戊辰戦争が起こると,討幕軍として上洛した。維新政府の軍防事務局判事加勢を命ぜられ,軍政事務を担当,同年閏4月江戸に出て,上野彰義隊討伐,奥羽・北越の平定作戦に携わった。 総合的な視点で戦局を捉え,軍略は戦う前から必勝の成算をうかがわせるものがあった。西郷隆盛は大村の軍が進まないのをみて,部下将士のすすめるままに兵を率いて東上し戦地平定を申し出た。大村は西郷を諫め西郷の青森到着前に五稜郭が陥落。西郷は,大村の卓見に感服し,「我誤てり面を合はすに恥づ」とそのまま帰郷。同年10月軍務官副知事となり箱館(函館)を鎮定。ここに戊辰戦争は終結し,その戦の功により永世禄1500石を受ける。明治2(1869)年兵部大輔。軍制を徹底的に改革するため,陸軍はフランス,海軍はイギリスにならうこと,藩兵解隊,帯刀禁止,徴兵制度の採用等を建白。このため2年9月4日京阪地方旅行中,反対派士族の8人に襲われ,それがもとで死去した。<参考文献>伝記刊行会編『大村益次郎』,絲屋寿雄『大村益次郎』/////////////坂本龍馬、中岡慎太郎の墓です。左が龍馬、右が中岡慎太郎となります。両名の死に至る過程は、他に記載したので割愛。坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地(近江屋)に行ってきたhttp://ameblo.jp/fist-history/entry-12051518392.html梁川星巌の墓です。////////////梁川星巌没年:安政5.9.2(1858.10.8)生年:寛政1.6.18(1789.7.10)江戸後期の詩人。名は卯のち孟緯,字は伯兎のち公図,通称新十郎,星巌は号。美濃国安八郡曾根村(岐阜県大垣市)に富農の家に生まれる。父は長高。文化4(1807)年江戸に出て山本北山の奚疑塾に入り儒学と詩文を学び,市河寛斎の江湖詩社に参加した。14年帰郷し私塾梨花村舎を開く。星巌は放浪を癖とした。文政3(1820)年詩人紅蘭と結婚。5年9月妻を伴って西遊し九州に至った。天保5(1834)年江戸神田お玉が池に住し玉池吟社を起こし,江戸詩壇の盟主として名声高まった。その間藤田東湖,佐久間象山と交わり時事への関心を深め,弘化2(1845)年玉池吟社を閉じ帰郷し,翌年より京都に定住,ペリー来航後は政治活動に深入りし尊王攘夷を主唱す。安政5(1858)年秋京都に流行したコレラに罹り没し,南禅寺天授庵に葬る。死の直後安政大獄が起こったため,世人は星巌を「詩(死)に上手」と評した。5000首におよぶ作品を残し,詩人としての評価は頼山陽より高い。<著作>『梁川星巌全集』全5巻<参考文献>富士川英郎『江戸後期の詩人たち』/////////////熊本県招魂碑福岡県招魂碑平野国臣の招魂碑です。///////////////平野国臣ひらのくにおみ(1828―1864)幕末の尊攘派(そんじょうは)志士。福岡藩下級武士出身、通称次郎。1858年(安政5)脱藩上京し、安政(あんせい)の大獄の追及を受けた僧月照(げっしょう)を鹿児島へ逃れさせた。1862年(文久2)薩摩(さつま)藩尊攘派、浪士たちと挙兵、攘夷(じょうい)断行を企てたが失敗、福岡藩で投獄された。翌年許され上京し大和行幸(やまとぎょうこう)による討幕計画に参加、また中山忠光(なかやまただみつ)らによる天誅組(てんちゅうぐみ)挙兵に対しては鎮撫(ちんぶ)説得にあたったが失敗。八月十八日の政変(1863)後、七卿落(しちきょうおち)の一人沢宣嘉(さわのぶよし)を奉じ、10月但馬(たじま)生野(いくの)で倒幕の挙兵をしたが、豊岡(とよおか)藩兵に捕らえられ(生野の変)、京都六角の獄に幽閉。1864年(元治1)禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)の騒擾(そうじょう)に際し、幕府大目付らの判断で未決のまま処刑される。彼は国学、和歌、有職故実(ゆうそくこじつ)を学び、王朝の風を慕って総髪とし、太刀(たち)を帯びた。///////////////平野国臣といえば、生野義挙ですが、以前に史跡を訪ねたときにまとめているので、詳細を知りたい方はこちらへ。【倒幕挙兵の先駆け】生野義挙跡にいってきたhttp://ameblo.jp/fist-history/entry-11958076955.html福岡県招魂社殉国勇士表忠碑。左右に日露戦争、支那事変・大東亜戦争の殉国者をお祀りしています。水戸藩招魂碑。明治維新時に国事にたおれた水戸勤皇殉難烈士1,785柱が合祀されています。内訳としては、元治甲子の変(1074柱)、安政の大獄(7柱)、桜田門外の変(21柱)、東禅寺の変(11柱)、坂下門の変(5柱)、越前敦賀の殉難(345柱)、その他(322柱)となっています。右から高杉晋作、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一、有吉熊次郎の招魂碑となっています。高杉晋作の招魂碑だけ少し新しくなっています。/////////高杉晋作たかすぎしんさく(1839―1867)幕末期長州藩における討幕派の中心人物であり、奇兵隊の創設者。名は春風、字(あざな)は暢夫(ちょうふ)、号を東行(とうぎょう)。大組(おおぐみ)(馬廻組(うままわりぐみ))士、家禄(かろく)150石高杉丹治(たんじ)の嫡子として出生。少年期、藩校明倫館(めいりんかん)に入学するが、1857年(安政4)19歳のとき松下村塾(しょうかそんじゅく)に入り、吉田松陰(よしだしょういん)の教育を受ける。やがて久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに「村下の双璧(そうへき)」と称され、将来を嘱望される。1858年江戸へ出て幕府昌平黌(しょうへいこう)に入学。1859年松陰刑死後は遺骸(いがい)引き取りに奔走する。1860年(万延1)帰国後明倫館に勤務するが、やがて世子元徳(もとのり)付きの小姓(こしょう)となる。1862年(文久2)幕府の使節とともに上海(シャンハイ)に渡り、西洋列強国侵略の実情をみる。このため帰国後藩府に対し、公武合体策を放棄し富国強兵策の採用を進言する。しかし藩府が不採用のため亡命し、攘夷(じょうい)運動を推進する。同年末、江戸御殿山(ごてんやま)のイギリス公使館を同志とともに焼打ちする。1863年剃髪(ていはつ)し東行と号して帰国するが、下関(しものせき)戦争が始まり馬関(ばかん)総奉行(そうぶぎょう)手元役に抜擢(ばってき)される。そこで武士隊の敗北を知り、奇兵隊を創設し総監となる。奇兵隊は士農工商を問わず入隊でき、階級差別のない新しい軍隊であった。この後、下関講和交渉の正使となるが、藩府と意見があわず亡命する。1864年(元治1)下関で諸隊を集め、翌1865年(慶応1)内訌(ないこう)戦に勝利し藩府の主導権を握る。1866年第二次長州征伐(四境(しきょう)戦争)では小倉口(こくらぐち)方面の指揮官および全軍の総指揮官となり、勝利するが、慶応(けいおう)3年4月14日肺結核のため下関で死去。29歳であった。////////////////////来島又兵衛きじままたべえ(1817―1864)幕末期長州藩の尊王攘夷派の指導者。喜多村正倫の第二子として生まれ、のち来島政常の養子となる。槍・剣・馬術などの達人で鬼来島と称せられた。一方で藩の経理面の役職を歴任し、文武ともに傑出していた。1863年(文久3)5月下関における外国船砲撃戦で活躍し、6月には狙撃隊を率いて上京。八月十八日の政変の後も京都に潜入していたが、9月に帰藩した。京都における長州藩政治勢力回復のため世子(せいし)毛利元徳が上京するにあたり、10月遊撃隊を編成し、総督となった。強硬な京都進発論を説き、翌年6月、遊撃軍を率いて京都に攻め上った。7月19日の蛤(はまぐり)御門(禁門)の変で薩摩藩兵と戦い戦死した。[三宅紹宣]『三原清堯著『来島又兵衛伝』(1963・来島又兵衛翁顕彰会) ▽瓜生等勝編著『新資料来島又兵衛文書』(1984・西円寺) ▽瓜生等勝編著『続新資料来島又兵衛文書』(1997・西円寺)』//////////////////久坂玄瑞くさかげんずい(1840―1864)幕末の長州藩士。名は通武(みちたけ)、のち義助(よしすけ)。号は江月斎、玄瑞。容貌(ようぼう)から同志に禿頭和尚(とくとうおしょう)ともよばれた。貧禄(ひんろく)の藩医に生まれたが、国事を論ずる吉田松陰(しょういん)に師事して松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、高杉晋作(しんさく)の識、玄瑞の才と並び称され、松陰の妹を妻とした。やがて日米修好通商条約を締結、安政(あんせい)の大獄を引き起こした幕政を批判し、他藩の志士と交わる。長州藩が長井雅楽(ながいうた)の幕府寄りの公武合体政策、航海遠略策を採択したため、これを激しく弾劾し、1862年(文久2)には同志と長井暗殺をも企てた。このころ「尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」と述べ、尊王攘夷(じょうい)の激派の運動の先頭にたち、朝廷に入説した。攘夷督促の勅使東下には自らも江戸へ赴き、イギリス公使館焼打事件を高杉らと起こした。1863年、攘夷実行の下関外国艦隊砲撃事件に参加し、八月十八日の政変による長州藩勢力の京都追放後も京都に潜入して木戸孝允(たかよし)らとともに失地回復に努めた。1864年(元治1)、禁門の変に参加、指導部にあって自重、後続の軍を待つ作戦を主張したが、進発論に押し切られ、一軍を指揮するうちに膝(ひざ)に弾丸を受けて鷹司(たかつかさ)邸内に自刃した。//////////////////////寺島忠三郎没年:元治1.7.19(1864.8.20)生年:天保14(1843)幕末の長州(萩)藩の志士。名は昌昭,字は子大,刀山と号す。長州藩無給通士寺島太次郎の次男として,周防国熊毛郡原村(熊毛町)に生まれる。人となり豪毅,大節あり。吉田松陰に学んで詩文,兵法に優れた。安政5(1858)年,松陰が入獄すると救護,減刑に向けて尽力,その至情は人を感ぜしめた。文久2(1862)年上京して尊王攘夷運動に奔走。翌3年には久坂玄瑞らと連署して,攘夷期限の決定を迫った。元治1(1864)年7月19日禁門の変の際,鷹司邸で諸藩兵に囲まれ玄瑞と共に自刃した。年22。/////////////////////入江九一没年:元治1.7.19(1864.8.20)生年:天保8.4.5(1837.5.9)幕末の長州(萩)藩の尊王攘夷運動の志士。運動の幹部,激派。名は弘毅,字は子遠,通称杉蔵,九一。足軽の家に生まれ,吉田松陰の門下生となり,尊王攘夷の運動に参画した。安政6(1859)年,松陰が門下生から孤立したのちも志を継いで活動し,弟和作と共に藩によって投獄された。文久3(1863)年,尊王攘夷に転じた藩によって終身士雇に登用された。同年,高杉晋作らの下関での奇兵隊設立に加わり,元治1(1864)年,京都禁門の変に上京藩士の幹部として活動,鷹司邸内で戦い,飛弾により重傷を負い,切腹した。////////////////////有吉熊次郎 ありよし-くまじろう1842-1864 幕末の武士。天保(てんぽう)13年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。吉田松陰にまなぶ。文久2年高杉晋作らとイギリス公使館焼き討ちに参加。元治(げんじ)元年脱藩し,京都で禁門の変にくわわり同年7月19日自刃(じじん)した。23歳。名は良明。字(あざな)は子徳。//////////松門四天王の一人、吉田稔麿の招魂碑です。//////////吉田稔麿没年:元治1.6.5(1864.7.8)生年:天保12.閏1.24(1841.3.16)幕末の長州(萩)藩の志士。名は秀実,字は無逸。稔麿は通称で栄太郎とも称す。長州藩士雇吉田清内の子として萩に生まれる。安政3(1856)年,吉田松陰に師事し,高杉晋作,久坂玄瑞,入江九一と共に松門四天王と称された。無逸の名は,王道から逸れて放逸に走ることのないようにと,松陰より与えられたもの。安政5(1858)年,松陰の再獄に当たり免獄に奔走したため,謹慎組預けとなる。万延1(1860)年脱藩して江戸に行き,幕府旗本妻木田宮の用人となって江戸の情勢をうかがった。文久2(1862)年京都に出て,脱藩の罪を謝し許された。その後,幅広い交遊を生かして江戸,京都をはじめ諸藩を往来し,『東西不競密話』を著して政治的建策を行った。同3年,奇兵隊に入隊。7月士籍に列せられ,被差別部落の人々を兵士に登用するよう建策。その実施状況は不詳だが,これはのちの維新団や一新組へと結実していった。元治1(1864)年5月,上京して政治工作に当たる。同年6月5日,池田屋で諸藩の同志と会合中のところを新選組に襲われ,重囲を破って長州藩邸まで帰ったものの傷は重く,門外で自殺。年は24歳だった。<参考文献>来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』//////////山口藩招魂社霊山招魂社木戸孝允と妻、松子のお墓です。志士たちが眠る霊山の一番頂上近くに二人の墓はあります。/////////木戸松子 きど-まつこ1843-1886 幕末-明治時代,木戸孝允(たかよし)の妻。天保(てんぽう)14年生まれ。若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩士の娘。父の死後京都祇園(ぎおん)の芸妓(げいぎ)となる。桂小五郎(のちの木戸孝允)の尊攘(そんじょう)運動をたすけ,のち結婚。明治10年夫が病死すると出家した。明治19年4月10日死去。44歳。京都出身。芸妓名は幾松。法名は翠香院。/////////元治甲子七月十九日戦死者埋骨所、つまり禁門の変(蛤御門の変)での戦没者を埋葬したところとなります。/////////蛤御門の変はまぐりごもんのへん1864年(元治1)7月、京都の長州藩兵と幕府側諸藩兵との戦い。禁門(きんもん)の変ともいう。前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩では、1864年、京都の公武合体派諸侯の連携が破れ、しかも池田屋事件が起こるに及んで、木戸孝允(たかよし)や高杉晋作(しんさく)らの慎重論は、来島又兵衛(くるしままたべえ)らの進発出兵論を抑えられなくなった。福原越後(えちご)、国司信濃(くにししなの)、益田右衛門介(ますだうえもんすけ)の3家老と来島又兵衛、久坂玄瑞(げんずい)、真木和泉(まきいずみ)らは藩兵と諸藩浪士軍らを率いて上京し強訴したが拒絶され、久坂らの自重論も効なく、世子の率いる本隊が到着していないにもかかわらず、7月19日、伏見(ふしみ)、蛤御門、堺(さかい)町御門で戦闘に入った。来島らは蛤御門に迫ったが、会津、桑名、薩摩(さつま)らの藩兵に敗北、来島は戦死、久坂、真木らは自刃した。この戦いで京都は2万軒余の家が焼ける大火(どんどん焼け、鉄砲焼け)となった。またこれを機に幕府は第一次長州征伐の兵を起こし、長州藩兵の将、3家老7参謀は、その後切腹あるいは斬殺(ざんさつ)に処された。///////////桂小五郎はこの戦いで敗れた後、出石へと逃げ延びることになります。桂小五郎の足跡を訪ねて~京都から但馬へ~http://ameblo.jp/fist-history/entry-11886973358.html真ん中にある黒丸の碑が鎮魂碑。これを挟むように左から第百十六師団衛生隊顕彰碑、嵐第六二二七部隊 輜重兵第百十六連隊顕彰碑、工兵第五三聯隊顕彰碑。右側は左から第二十三野線防疫給水部戦没者慰霊碑、独立歩兵第十一大隊 石部隊北支沖縄戦没勇士慰霊碑、歩兵第一〇九聯隊顕彰之碑となっています。特操の碑です。昭和46年に建立されました。昭和18年10月、2500余の若者は学業を投げ打ち、陸軍特別操縦見習士官として立ちあがります。飛行機に乗るため猛訓練をおこない、特攻の主力となって自爆、沖縄、本土の護りに殉じていきました。碑文に言います。平和は血と涙により築かれた。われらは心から祖国を愛し、平和を願う。愛馬の碑です。騎兵第二十聯隊・騎兵第百二十大隊・捜索第十六聯隊・捜索第五十三聯隊の慰霊碑です。この碑は騎兵戦没者のための慰霊碑となります。騎兵二十連隊は明治38年、姫路で編成され、日露戦争に参戦。以後、京都に移設されました。シベリア出兵、満州事変、支那事変と戦い、徐州、南京、武漢の各攻略戦で赫々たる戦果を挙げました。その後、昭和13年に騎兵第百二十大隊(嵐)は中支、大東亜戦争では捜索第十六聨隊フィリピン、昭和18年に捜索第五十三聨隊はビルマへと派兵され、終戦までに900余柱の犠牲者を出しています。特攻勇士の像です。特攻勇士の像とは、特攻隊戦没者慰霊顕彰会が大東亜戦争末期に航空、水中、海上など各特攻隊員として戦死した人々への慰霊のために建立した像となります。靖国神社を始め、全国の護国神社で祀られています。