岡山にある日本三名園の一つ、後楽園にやってきました。


岡山後楽園
http://www.okayama-korakuen.jp/





美しい庭園です。

後楽園と呼ばれるものは、他にも東京の小石川後楽園があります。

小石川後楽園、岡山後楽園ともに、江戸時代の典型的な大名の回遊式庭園となっており、ともに中国宋代の范文正《岳陽楼記》の〈士当先天下之憂而憂 後天下之楽而楽〉からつけられました。


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岡山後楽園
おかやまこうらくえん

岡山市北区にある大名庭園の代表作。特別名勝。もとは菜園場とか、茶屋屋敷、あるいは後園(こうえん)などと称していた。現在の名称は1871年(明治4)に命名されたものである。1686年(貞享3)池田綱政(つなまさ)によって着工され、その設計は家臣の津田永忠(ながただ)である。1689年(元禄2)第1期工事が完成し、その面積は1万7130坪(5万6529平方メートル)で、これは井田(せいでん)を中心とした周辺である。翌1690年3月、第2期工事にかかり、延養亭(えんようてい)、茂松庵、流店(りゅうてん)などを完成し、このとき5253坪(1万7335平方メートル)ができた。さらに1694年から1696年にかけて第3期の工事をし、340坪(1122平方メートル)増えた。さらに第4期、第5期の工事があり、完成は1702年(元禄15)、総面積は約5万坪(約16.5万平方メートル)に及ぶ。大池泉回遊の様式をとり、築山(つきやま)、流れ、茶亭、石組(いわぐみ)などが美しく構成され、変化の多い大名庭園で、梅林や桜林がつくられているのも江戸初期のこの種の庭の特徴である。
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延養亭です。

藩主の居間で、園内で最も重要な建物でした。

しかし戦災で焼失し、昭和35年に当時第一級の木材と技術で復元されました。

後楽園を一望することができ、藩主はそこからの絶景を楽しむことができました。





能舞台・栄唱の間です。

ここは接待の場としても使われました。

池田綱政は能の名手としても知られており、家臣や領民にも開放して能を観る機会を与えたと言います。

戦災で焼けており、その後、間取りなどが復元されて現在に至ります。





殿様は広い後楽園の中を籠で移動しました。この場所は籠置き場だったと言います。

確かに籠を置くのに丁度いい大きさになっています。





大立石です。

巨大な花崗岩を九十余個に割り、再度これを組みあげたものとなります。

大名庭園としての豪快さと石の加工技術のレベルの高さがわかります。

後楽園のHPにはこの石が紹介文に入っていませんが、現在、世界遺産に暫定登録申請の「近世岡山の文化・土木遺産群ー岡山藩郡代津田永忠の事績」の一つとなっています。

そのうち、有名になる日も近いかも!





茂松庵です。

こちらの戦災で焼失し、昭和27年に再建されたものとなります。

お茶室としての利用であれば、借りることができるといいます。





御舟入場です。

藩主は隣接する岡山城から舟を使って後楽園へと入りました。
その舟を着けるための船着き場跡になります。





こちらが後楽園から眺めた岡山城。





岡山城側から眺めた後楽園です。

ここから出入りできたのは、藩主と藩主の特別な許しを得た者だけでした。






鶴鳴館です。

元々は茅葺きであり、部屋も使用者の格や用途により別れていました。

しかし空襲で焼失し、現在のものは昭和24年に山口県岩国市の吉川邸を移築したものとなります。

武家屋敷のたたずまいを偲ぶことができます。







鶴舎です。

後楽園で飼われている鶴に卵が生まれたときや、鶴が庭に飛来したときなどは、吉兆だと江戸にいる藩主に報告されたほど、愛されていました。

千代やへん 空とぶ鶴のうちむれて 庭におりいる 宿の行末

という池田綱政の歌もあります。

しかし戦争によりタンチョウは途絶えてしまうことになりました。

昭和31年に岡山の旧制第六高等学校で学んだ郭沫若が、後楽園にタンチョウを復興させるべく二羽を寄贈し、これが現在まで続いているのです。

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郭沫若かく-まつじゃく

1892-1978 中国の文学者,歴史学者,政治家。
光緒18年9月27日生まれ。九州帝大卒業後,帰国。国民革命軍にくわわり北伐に参加。昭和2年南昌蜂起に失敗,日本に亡命して中国古代史の研究に専念。日中戦争開始直後,日本から脱出して抗日宣伝活動にしたがう。その間,戯曲「屈原」を執筆。第二次大戦後,政務院副総理,中国科学院院長,中日友好協会名誉会長。親日派として知られた。1978年6月12日死去。87歳。四川省出身。本名は開貞。中国語読みはクオ-モールオ。
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鶴舎の側に立つ郭沫若の詩碑には次のようにあります。


後楽の園はなほあれど
烏城尋ぬ可からず
願はくは丹頂の鶴をもって
作対して梅林に立たしめん

訳は、

留学時代が懐かしい後楽園も、
戦争で城を失った今の眺めは寂しい限り。
せめて鶴を立たせて後楽園の良き伴侶としたい。


郭沫若は千葉県市川市とも関係が深く、記念館が建立されています。


郭沫若記念館、亀井院に行ってきた
http://ameblo.jp/fist-history/entry-11472209242.html






寒翠細響軒です。

寒翠とはさえた緑色、細響とは細かな響きという意味です。

建物の北側には松林が広がり、その名の由来を思わせます。








水源です。

ここの水は園内に流れ、池や滝などの景観となり、旭川へと戻ります。

昔は旭川の上流からひいた後楽園用水を利用していたそうですが、現在は伏流水を使用しているそうです。





観騎亭です。

園内の馬場に面しており、家臣が馬術を藩主前で披露する際、藩主はこの建物からそれを眺めたと言います。





廉池軒です。

これまで記載してきたように、後楽園の建物の大半は空襲により、その大部分を焼失しました。

しかしこちらは戦災を免れた数少ない建物の一つになります。

石橋なども当時のままとなります。

池田綱政がもっとも好んで利用していたといわれております。







唯心山からの眺望です。

後楽園は平地となっていますが、ここに築山したことで庭園は立体的な深みを増します。

後楽園の絶景を見下ろすことができ、その美しさは筆舌し難いものがあります。

写真などでは言い表すことができません。





中の島です。

元々は半島だったといいますが、江戸末期に島として造成されました。

現在、島茶屋がある場所には元々は弁財天堂がありましたが、宝暦4年(1754)に遷座されました。






流店です。

建物の下中央に水路を通し、奇石を配しています。

藩主や賓客などの休憩所として用いられました。こちらも空襲を免れた貴重な建物となっています。





茶祖堂です。

元々は利休堂と呼び、幕末の岡山藩家老の下屋敷を移築し、千利休を祀った茶室になっていました。

しかしこちらも空襲によって焼失してしまいます。

昭和36年に再建し、千利休に加えて岡山出身で臨済宗開祖である栄西禅師を合祀したことで、茶祖堂と改名しました。

栄西禅師は日本に茶を伝えたことでも有名なので、栄西禅師と千利休を合祀して茶祖堂とは良い名だと思いました。





花交の池です。

園内を廻ってきた水はここから旭川へと戻っていきます。





慈眼堂です。

池田綱政が元禄10年(1697)に池田家と領民の繁栄を願って観音像を祀った場所となります。

今は空堂となっていますが、境内には、花崗岩を三十六個に割って組み上げた烏帽子岩などが残っています。





後楽園を設計した「津田永忠顕彰碑」です。

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津田永忠

没年:宝永4.2.5(1707.3.8)
生年:寛永17(1640)
江戸前期の岡山藩士。岡山生まれ。幼名は又六,のち重二郎。通称は佐源太。津田佐源太貞永と安藤伝左衛門の娘寧の3男。承応2(1653)年に藩主池田光政の御側児小性となり,万治3(1660)年新知150石。以後横目役,大横目役,郡代職などを勤める。土木工事に精通し,主家の和意谷墓地の造営,藩校,手習所の設立,閑谷学校の創設などに当たる。光政の次男政言の下では物頭を勤め藩営新田の造成,田原・坂根の用水や倉安川などの用水路を開削した。その他多彩な事業を手がけ,テクノクラートとしての名声は「佐源太造り」「永忠普請」の言葉で語り継がれている。在地の土豪や技術集団と妥協しながらも防衛用の堀を用水路に改修するなど,池田家の支配体制を確立していく際に大きく貢献した。
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津田が創設した閑谷学校には、植樹した椿林が現存します。

【日本最古の庶民学校】閑谷学校にいってきた
http://ameblo.jp/fist-history/entry-11986891469.html

また津田については次のような秘話が伝えられています。

藩主が津田に「洪水などで藩の財政は危機を迎えている。再建する策はないか」と尋ねたとき、津田は次のように答えます。

「今、農民は何の夢もなく生きるのが精いっぱいです。藩の財政は厳しいですが、干拓事業を進め、農民に農地と夢を与えましょう」

財政が苦しいなか、干拓事業には莫大な資金がかかります。周囲は大反対します。

しかし津田は言いました。

「農民に救いを与えられないなら、藩を治める資格はありません。治世とは、民の苦しみを救うことです」

そして津田は干拓事業にかかる費用を捻出するため、自分名義で巨額の借金をつくり回ったのでした。

これが現在も岡山平野に広がる、沖新田の干拓地となります。

現在の岡山平野の耕地は約25,000ヘクタールですが、そのうち約20,000ヘクタールは干拓によって生み出されました。

沖新田の干拓面積は、約2000ヘクタールに及びますが、元禄4年(1691)9月に命じられると翌年7月には完成させるという、前代未聞なスケールで干拓を完成させました。

「苦しいときこそ、民に夢をみせよう」という津田の至誠は、岡山の農民に希望を与えるとともに、岡山藩の財政を救うことになったのです。

津田の師匠は日本を代表する陽明学者、熊沢蕃山となりますが、それは次の機会でご紹介。