滋賀県大津市にある湖南塾跡に行きました(長等小学校校門前)
梅田雲濱先生がこの地に私塾を開いており、その碑が建立されています。
※その後、天保14年(1843年)には京都の望楠軒の講主となり、ここを去ります



現在遺るのはこの碑文だけで、湖南塾に関するものは何もありません。

揮毫は内田周平。

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内田周平 うちだ-しゅうへい

1854-1944 明治-昭和時代前期の中国哲学者。
嘉永(かえい)7年11月7日生まれ。学習院講師,五高教授などをへて,明治31年哲学館(現東洋大)教授。儒学,ハルトマン美学をおしえた。昭和19年12月23日死去。91歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。東京大学卒。号は遠湖。著作に「寛政三博士の学勲」「遠湖文髄」など。
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梅田雲浜
うめだうんぴん
(1815―1859)

若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩士、名は義質(よしただ)、のち定明(さだあきら)。通称源次郎。雲浜は号。小浜藩士矢部氏の次男に生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いだ。崎門(きもん)学を尊王の学風ある江戸の山口菅山(かんざん)に学んだ。帰藩して大津、ついで京都に赴き、崎門の学塾望楠軒(ぼうなんけん)講主となり、梁川星巌(やながわせいがん)や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら志士と交際を深め、1852年(嘉永5)小浜藩に藩政改革の建言をして士籍を削られた。ペリー来航には、江戸で吉田松陰(しょういん)らと対策を論じ、水戸へも遊説した。また大和(やまと)十津川(とつかわ)の郷士を組織し、大坂湾に現れたロシア軍艦の撃攘(げきじょう)や、京都の守護に郷士を任ずる周旋をした。1856年(安政3)に長州藩に遊説して、同藩と京都、奈良、十津川間の物産交易の仲介をした。戊午(ぼご)の密勅にも彼の働きかけがあったが、密勅降下の際には、あらかじめ水戸藩に内報するなど、つねに尊王攘夷運動の中心に位置した。このために安政(あんせい)の大獄で最初に捕らえられ、江戸で獄死した。[井上勝生]
『佐伯仲蔵著『梅田雲浜遺稿並傳』(1929・有朋堂) ▽日本史籍協会編『続日本史籍協会叢書 梅田雲浜関係史料』(1976・東京大学出版会)』
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今年は梅田雲濱先生生誕200年ということで、小浜市や京都、東京など各地でイベントが開催されています。

梅田雲濱先生といえば志士の間でも吟じられた、

君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり

という歌がありますが、


妻臥病床児叫飢 
挺身直欲当戎夷
今朝死別与生別 
唯有皇天后土知

妻は病床に臥し児は飢に叫ぶ
身を挺して直ちに戎夷に当たらんとす
今朝死別と生別と
唯だ皇天后土の知る有り

もまた、広く吟じられました。
梅田雲濱先生は当時の志士のカリスマで、吉田松陰の松下村塾の看板を揮毫しております。